彼は、私の名前を呼ぼうとしなかった。
それは少し不思議なことに思えて、そう思う自分も不思議だった。
名で呼ぶ者はそれなりにいる。
揶揄するようなあだ名で呼び捨てる者も、それなりに。
それは、気にならなかった。ただ、彼だけが気になって。
やはり、不思議だと思う。
§ § §
「なんで文章なのさ、こんなの箇条書きの方が分かりやすいってば」
「文章に起こすのもひとつのスキルよ? 将来、学会を……いえ、世界を唸らせるような論文を書くなら必須ね」
「ミドのは、細かいか大雑把かの両極端なんだよ。読んでもらいたいっていう意識に欠けているかな。概要もやり直しだね。そもそも、概要は最後に書くものだよ」
「そうですね……通して読むと勢いだけは感じますが」
とある都市の公立図書館の個別自習室。課題として出されたレポートを片付けてしまおうと集まったハイスクールのクラスメイト達――ミドとジョシュアとヨーテ――に加えてチューターのジルがお喋りに興じているのを(ミドに説教しているともいうのだが)、テランスはノートに向かいながら聞いていた。
彼らの会話は静かではないが、何故か耳に優しく馴染む。賑やかだと思うが、微笑ましくも思う。複数人で利用可能な個別自習室だから、よほどの大声を出さない限り放り出されることもない。その安心感もあるのかもしれなかった。
心地よい、と思う。難解な課題のレポート提出は厄介だが、このひとときはテランスにとって大切な時間だった。何故か、ホッとするのだ。
それに、とテランスは向かいに座る人物をちらりと窺った。
数冊の禁帯出本を時々開いてはノートにメモをし、少し考えた後にノートパソコンに打ち込んでいくのは、昨年冬に転校してきたルサージュだった。ミドが彼の才能をいち早く見抜いて『ヘッドハンティング!』と駆け寄っていったのは記憶にまだ残っている。ミドは一目惚れするタイプだったか?と思ったのも、ジョシュアとヨーテが顔を見合わせて微笑んだのも、ジョシュアの兄の恋人という縁でチューターを買って出ていたジルも少しだけ驚いたような顔をしていたのも、何故か印象深く覚えている。
彼らがルサージュを見て何を感じたかは分からない。特に訊くことでもないなと思ったのだ。彼の家は国のみならず世界的に有名だ。格式を重んじながらも様々な事業を成功させているグローバルな企業がある。彼はその企業の創業者の息子のひとりだった。テランスにとって、ルサージュの情報はそれくらいで充分だと思ったのだった。大学進学への共通試験対策も始まった頃に、偏差値が高いとはいえ公立のスクールに転校してきたのは不思議だったが。
他のクラスメイトに倣って挨拶もした。なんとなく彼の名前を呼ぶのは躊躇われて、ファミリーネームで呼ぶことにした。ルサージュは特に表情を変えることもなく、普通に『よろしく』と言った。
その後、ミド達に巻き込まれたルサージュはいつの間にかこうして共に行動することが多くなった。といっても、彼はとてもマイペースで、話に加わることはあまりなかった。
考えを求められれば話すが、必要以上の話題は自分からは振らない。他者を拒絶しているようではないが、もしかすると転校する前のスクールではそれが当たり前だったのかもしれない。
挨拶をしたときはあまり気にならなかった。だが、少しだけ彼はテランスにとって特別でもあった。――彼だけが、何故か名前で呼べない。
「……何か?」
テランスの視線に気付いたのだろう、ルサージュが怪訝そうな表情で顔を上げた。しまった、とテランスは自らの失態に内心で動揺したが、「君について考え事を少し」などとはとても言えない。なので、ごまかすことに……否、話題をすり替えた。
「ええと……ルサージュ君、君はどの道に進むのかなって思って」
ほら、と慌ててテランスはミドとジョシュアとヨーテの希望進路をそれぞれ答えさせた。ジョシュアが小声で「巻き込まないでくれるかな」と文句を言ってきたが、それでも彼は進路を言ってくれた。彼もまた良家の出だが、周囲の意に反して学びたい学問があるらしかった。期待には応えるが、それは大学で学ばずとも良いということらしい。ミドは大学か高等専門学校かラボに入るか決めかねているがいずれにせよ理工学を選ぶという。ヨーテはといえば体調を崩すこともよくあるジョシュアのサポートをしたいとの思いで看護学を学ぼうとしたが、それはプロに任せたほうが良いと思い直したところだとこの前言っていた。法学か経済学か……と悩むヨーテの姿は真剣そのものだったが、付き合っている様子もないジョシュアに何故そこまで肩入れしているのかはよく分からない。幼馴染とは聞いているが。
ちなみに大学生のジルは「好きだから」というシンプルな理由で数学を専攻している。
「成程?」
ルサージュが興味深げに頷くのを見て、テランスはつられて頷いた。ふとルサージュの表情が緩む。
「君はどうなんだ? テランス」
訊いたからにはまず答えろということなのだろう。持っていたペンをマイクに見立てたルサージュにテランスは気圧されたが、彼の問いは正しかった。考えなしに訊くには少し踏み込んだ質問だったし、戸惑いもするはずだ。失礼な奴だと思われたかもしれない。
――彼にそう思われるのは、嫌だな。
そんな考えが浮かんだが、何故だろうとも思う。いまや、友人達よりルサージュに執着している。彼の細かい所作が、時折気になって――だからこそ名を呼ぶのは危険なような気がした。
自分が崩れそうな気がしたのだ。
「福祉……か、教育学かな。まだどこへ進学するかまでは決めてないけど……。でも、そう考えたらミドと同じくらいに将来に対してのプランがないね」
「あ、ひどいぞ! あたしは万全で選択肢がよりどりみどりで困ってるだけ! どっちかっていうとヨーテが決めてないじゃん!」
後半はおどけて言ったテランスに、ミドは憤慨した様子でヨーテを指差した。え、といきなり話題がやってきたヨーテは一瞬固まったようだったが、すぐに常の平静さでミドを見据えた。
「私は専攻を迷っているだけです。大学自体は、ジョシュア様と同じところに参ります」
きっぱりと言い切ったヨーテだったが、隣に座っていたジョシュアが「それもどうかと思うんだけどね」と苦笑してみせたのでヨーテは視線をうろうろと彷徨わせた。追い打ちをかけるようにジルもまた「普通は、逆だと私も思うのだけれど」と困ったように笑んだ。これはもう相当な回数のやり取りで決まったのだろう。ヨーテは従順に見えて梃子でも動かない部分があるようだ、というのはテランスも流石に気付いていた。
「でも、テランスがそういう分野を目指すのは少し意外かな。他の道を選んでもおかしくないっていうか」
面白い選択だね、とジョシュアは言った。意外、と言う彼の言に、ルサージュ以外の全員が頷く。
意外、という言葉こそテランスにとっては意外だった。積極的に何かに取り組みたい、という思いは確かにないが、様々な情報になんとなく接するうちに心に引っかかりを覚えるような「何か」が生まれたのだ。だが、それは明朗に回答できるものではない。一言でいえば、「直感」のようなものだろうか。
何かを取りこぼしてしまったかのような。その取りこぼしに、深い後悔を覚えたてしまったような。……貧富の差を問わない家族関係の複雑さに巻き込まれてしまった――その多くは親に起因する――「不幸な」子供達とスクールのボランティアで接したときに、自身のなかで何かがはじけたような小さな音がした。それ以降は心の引っかかりは、どんどんとささくれ立っていった。
何でもそれなりにこなせるとは自分でも思う。だが、せっかくの「引っかかり」に従ってみようかという気になった、ただそれだけのことだ。
それだけの、でも、何故か心がざらつくような。
「俺のことはもういいよ。それじゃ、改めて聞いてもいいかな?」
話を元に戻すべく、テランスはルサージュに視線を向けた。この話題自体が逃げでもあったのだが、こうなったらもう自棄だ。進路を聞いて何かが変わるわけでもなし、と思いながら笑みを浮かべてみせる。
「ルサージュ君は、将来――」
「その前に、テランスさん」
気が急いて少し早口になったテランスを遮ったのはヨーテだった。落ち着き払った声色はいつものもの。だが、「いつものもの」は大抵他者を黙らせる雰囲気を持ち合わせている。その例に倣ってはす向かいに座る彼女をテランスは見た。同じように、ルサージュも隣のヨーテを見やっている。視界の端でも彼が少し驚いたような表情でいるのが分かった。
「な、何? ヨーテ?」
「前から不思議に思っていたのですが、どうしてディオンさんを名前で呼ばないのですか?」
――え。
テランスは自分のほぼすべてが固まってしまったような感覚に陥った。
心底不思議そうな様子でヨーテが小首を傾げる。彼女の隣に座るジョシュアと、その向かいに座っているジルが「確かに、そうだよね」「私も気になっていたわ」と頷き合うのがぼやけて聞こえる。隣のミドがつらつらと事実を列挙していた後に「なんか、避けてるように見えるんだよね」と言い放ったところでテランスは我に返った。
「名前……?」
「ええ。クラス全員を観察した結果、何らかの思惑があって「ルサージュ」と宣っているのが若干名いますが、基本的には皆さん「名前」呼びです。テランスさんだけがどこか不自然に感じました」
「不自然」
冷静に分析結果を述べたヨーテの言葉を繰り返したテランスと、話題の矛先であるルサージュを除いた三人も頷く。
「そうかな。そんなに……」
「私は、名前の呼び方ひとつで何かが変わるわけでもないと思っているが?」
助け舟を出してくれたのだろうか、とテランスはルサージュをちらりと見やった。瞬間、目が合う。
「ディオン、君がそんなふうに思っていても、周りは「あれ?」って思うってこと。ノイズは気にしないふうだから、君自身は問題ないと思っているんだろうけれど、将来を考えれば、「異端分子」は把握しておくに越したことはない」
その言いようはまるで自分が「異端分子」だと言わんばかりで、テランスは少し顔をしかめた。
一方で、ジョシュアはルサージュに説き伏せ始めた。数分に及ぶ説教の後に、ふむ、とルサージュが腕を組む。彼は、テランスをしっかりと見据えたうえで微笑んだ。
ざばん、と鼓動が波打つように跳ねる。その波に溺れかけたテランスを掬いあげるようにルサージュは言った。
「……とのことだ。君さえよければ、名で呼んでくれないか」
「いや、その、全然構わないけど……。……じゃあ」
退路を断たれ、ある意味において唯一の味方だったルサージュも「あちら側」に回ってはテランスに逃げるすべは残されていなかった。もっとも、そんな重要なことでもなくて、本当にただ「なんとなく」呼ばなかっただけなのだが――ルサージュを除けば誰も「なんとなく」などとは思っていなかったということになる。
ゴシップ好き、というか、個人に興味本位な仲間達だったか?と内心で首を捻ったテランスだったが、よく分からない覚悟を決めた。ふう、と小さく息をつき、ルサージュに改めて向き直った。
――そうして、彼の名を呼んだ瞬間。
ばちん、と何かがはじける音が頭のなかに響き渡った。