#02 二人分の足音

 立ち上がったのは、同時だった。椅子が転がる派手な音がどこか遠くに聞こえた。
 彼は、秀麗な顔を驚愕の色に染めていた。琥珀と黄昏色を混ぜ込んだような瞳が大きく見開かれた。
 跳ねまわる鼓動がうるさい。……うるさい!
 彼が何か言おうとしている。自分も、同じように何かを。
 けれど、ああ――。

§ § §

 複数人の司書の怒鳴り声を背後に聞きながら、ディオンはテランスと共に図書館をまろび出た。最後の自動ドアが開くや否や、テランスが一歩先に歩を踏み出す。後ろ手に差し伸べられた彼の手に、ディオンは自分――己のそれを重ねた。
 雷撃を受けるとこんな感覚になるのだろうか。びりり、と静電気どころではない痺れが走る。
 それはテランスも同じようだった。はっと振り返り、それでも彼はディオンの手を離さなかった。繋いだままで再び走り出した彼に続き、ディオンも全力で走る。石畳に革靴は全力疾走には不向きだったが、そんなことはどうでもよかった。転んでも、もう独りではないのだから。
 図書館の門扉まで続く通路脇の花々が妙に鮮やかだった。緑がやけに鮮明に映る。初夏から夏に差し掛かる頃合いの陽射しを受け、二人で走る。開かれたままの門扉には警備員が立っていて、いきなり走り込んできた少年達に目を丸くした。だが、テランスが学生証を見せて「学校に、忘れ物をしたので」と言うと、納得したのか通してくれた。
 ――忘れ物。まさに、それは私達のことだ。
 テランスの言葉に、ディオンは繋いだ彼の手を強く握った。すぐに握り返される。
 図書館と市役所を挟んで、大聖堂とハイスクールが建っている。テランスと同じタイミングでディオンは学校へと走り出した。テランスの機転もあるが、聖堂ですべてを詳らかにしたいとは思わなかった。
 それより。それよりも。
 学校の門にも顔なじみの警備員が二人。テランスの手を離し、今度はディオンが学生証を見せた。テランスと同じ理由を使って通してもらう。「あと小一時間で閉めるからな」という言葉を背に、また走る。
「何処へ!」
「こっち!」
 校舎は既に閉まっているだろうと判断したらしいテランスが、左に逸れる。刈り込みを疎かにしているために若干鬱蒼としている「学校の森」の奥まったところに在る作業小屋を認めたとき、ディオンはテランスが目指す先を知った。ファシリティもこの時間だとおそらくもういない。
 息が切れる。このようなことは「前」はなかったのに。
 獣道のような具合の道を走り、作業小屋へ飛び込んだ。テランスが先に入り、ディオンもそれに続いた。扉を閉めた瞬間、視線が交錯する。どうしてよいか分からない感情がディオンの身を貫いた。
 互いに肩で荒い息をする。無言のままそうすること十数秒、二人は同時に口を開いた。
「テランス?」
「ディオン?」
 名前を呼び、呼ばれて、ディオンはその甘美な響きを思い出した。膝をつきそうになったが、なんとか堪える。
 勘違いかもしれない。己だけの空想、否、妄想かもしれない。だが、この洪水は、嵐は。そして、彼の瞳が語るものは。
 ――独りではない、とそう言っていて。
「ヴァリスゼア」
 おそるおそる、ディオンは単語を口にした。脳内を焼き始める、「世界」を表す言葉。破壊の一端を己が担ったあの世界。はたして、「あの後」どうなったのだろうか。それは分からないけれども。
「ザンブレク」
 ひとつ頷き、テランスが答える。頽れそうなディオンの肩を彼の手が掴んだ。……あのとき、あの夜と同じだ、とディオンは思う。だが、違うのは、テランスのまなざしがディオンのそれを逃がそうとはしなかったことだ。
「グエリゴール」
「ウォールード。ベレヌス戦役。ロザリア」
「神皇の名は」
「シルヴェストル様……そして、後にオリヴィエ様が。……薬売りの少女の名は?」
「キエル」
 問い、答えていく。その積み重ねが実感を生んだ。己は、彼と私は。
「私は、私という存在は……」
「……ディオン・ルサージュ」
 再びテランスが名を紡いだ。確信に満ちた声音に迷いはない。そして、その声音を己は確かに覚えていた。
「光の召喚獣「バハムート」のドミナントだなんてそんなことはどうでもよくて、君は「僕」が生涯愛したたったひとりの人だ……!」
 どうして今まで忘れていたのだろう。どうして。
 打ち付けるようなテランスの激白だった。
「テランス……、そういうところは変わっていないのだな」
 涙声で告白したテランスに、ディオンは笑う。だが、遠くで聞こえる己の声もどこか湿り気を帯びていた。そうして、一気に視界がぼやける。
 がくり、と今度こそ力が抜けた。瞬時に察したテランスに抱き止められ、ディオンはそのあたたかさも思い出した。
 は、と息を吐く。ぎゅうと抱きしめるテランスの肩口に顔を伏せながら座り込んでしまうと、涙が溢れて止まらなくなった。童でもないのに、声をあげて泣きたい気分だった。
 この腕のなかで。
 あの夜、けしてそうはできなかったかわりに。
「ディオン、顔を上げて?」
 分かっているのか、そうでないのか、テランスがディオンに囁いた。ディオンが首を横に振ると、駄目だよ、とテランスが追撃する。
「あのとき、僕が見なかった泣き顔を見せて。振り向けなかった僕に、聞こえないふりをした僕に、すべてを晒して」
「テラ……」
 僅かにディオンが顔を上げると、テランスがその間隙を縫って口づけてきた。押し当てるだけの、遠い日のキス。
 別れのときには、かわさなかったキス。
 すべて、すべて、今というときに、結びついた。巡りあった。
 少し塩辛いのは、どちらの涙なのだろう。頭の片隅に浮かんだ問いは、すぐさま圧倒的な感情に覆いつくされていく。あの、まだらの空よりもマーブル模様をした具合の感情に。
 ――もう、隠さなくてもいい。
 テランスの鼓動が、吐息がディオンを肯定する。その肯定に縋るように、ディオンは声をあげて泣いた。