#13 終曲の序章

 別れの言葉と、告白と。恐怖と、覚悟と。
 それらを乗り越えて、未来のための今を奏でるときが来た。
 ……けれど、その前に響いたのは。

§ § §

「中退なんてさ、考えれば考えるほど、すげえもったいないな」
 退去のための片付けを手伝ってくれているルームメイトの文句のような言葉を拾い、テランスは苦笑した。同じようなことを周囲から何度も何度も言われて辟易としてきた、と言っていたディオンを思い出す。
「まあ、いつか戻る日が来るかもしれないし、先のことは分からないさ。君の後輩になるのは少し悔しいけれど、それこそ分からないけどね?」
「なんだよ、それ。まるで俺が留年するみたいじゃんか」
「そう言ってるんだよ」
「ひでえ」
 一応は洗濯したリネン類を彼に束ねてもらい、テランスは書棚で腕組みをした。
 ペーパーレスの時代とはいえ、やはりレポートや資料、ノートといった紙類の処分は迷いがある。本当は捨てずにどこかへ保管しておきたいのだが、シュレッダーにかけるしかなかった。購入せずに借りていたテキストは学生課に返すとして、後は私物の処分にかかる。といっても、ディオン絡みのものと、数枚の家族写真のほかはどうでもよくて、それだってショルダーバッグに余裕で収まった。少し悩んで、フルートも入れた。
 できるだけ身軽にな、と「彼」は言ったのだから。

* * *

 ――何もしでかさなきゃ、見逃したんだが。

 道々で何かしらの悪態をついていたベネディクタに先導されたテランスがディオンと共に向かったのは、慣れ親しんだ教育学部棟だった。四階まで上り、やはり行き慣れている学生室を通過して指導教官の講師室でベネディクタが足を止める。今までの彼女のノックの仕方とはまるで違う拍子で荒々しくノックした彼女は、何をきっかけにしたのか「記憶持ち」になったのだとテランスはディオンと視線で確認し合った。
 応えの前にベネディクタはドアを開けた。中にはこの部屋の主であり、自分の指導教官であり、学部長でもあるシドルファス・テラモーンがいた。テランスは、彼には肩書きが多いな、といつもながらに思う。初代シド、通称【大悪党シド】にして、その前はウォールードの騎士団長。肩書きではないだろうが、ミドの義理の父親。そして、あの世界ではベネディクタとも浅からぬ縁があったという。
 そんな彼の横には、何故かクライヴが腕組みをして渋面をつくっていた。一瞬、妙な感慨が襲う。二人の【シド】が揃っているところを見ることになるとは思ってもみなかった。それぞれに会うことはあっても、並び立つところを見るのは――。
『私は?』
 そんなテランスの考えをよそに、いつも通りに紙タバコに火をつけようとしたシドからタバコを奪ってベネディクタが言う。立ち会ってもそうでなくてもどちらでもいい、とも聞こえるが、おそらくは違うのだろう。シドは、肩を竦めると『いてくれたほうが話が早い』と笑った。
『さて、お前さん達』
 シドはディオンに視線をやり、次いでテランスを見た。一瞬ベネディクタに視線を置き、最後にクライヴに向けて合図を送る。それを受け、クライヴは机に置いてあった紙をディオンとテランスに渡した。
 そこには、「退学届」と書いてあった。
『……ラムウ、イフリート。これは?』
 シドが記憶持ちだと知ってから何度か顔を合わせているディオンが、怪訝と怒りを理性で捻じ伏せたような声色で言った。
『お前さんは、少しばかりあの世界から離れたほうがいい、ディオン・ルサージュ。……と言っても無理な話かもしれんが。テランス、そこはうまくやるのが恋人の役目ってヤツじゃないのか? 煽ってどうする』
 もう慣れっこだが、まったく。呆れた口調のシドだったが、面白がっているようにも見える。不思議で、やはり食えない御仁だとテランスは思った。
 そうして、どうしてもシドやクライヴのことを名で呼べないらしいディオンの内心も分かるような気がした。あの世界でジョシュアとは親交があったし(少し妬ましく思いもしたが)、現世でも彼はディオンを救ってくれた。ジルはというと、言い間違えることは多くとも、それほど名を呼ぶのは難しいことではないらしい。もしかすると、これからベネディクタのことを呼ぶのに苦労するかもしれないが……どうだろうか。
 離れたほうがいい、という言葉はクライヴからも聞いた。記憶が戻ったときから度々同じことを彼は諭し、そのたびにディオンもジョシュアも、それから自分も複雑な思いになった。――「やり直したい」という思いをなかなか分かってくれずに、ジョシュアは兄と険悪な雰囲気になったこともあるという。
 未練があるか否か、という違いなのかもしれなかった。
 あの世界そのものに未練はないかもしれないが、ディオンを探し続けた日々は思い返すのが酷く苦痛で、彼が傍にいるのに今でも時折夢に見る。は、とぼやけた視界と共に目覚めた瞬間に『大丈夫、大丈夫だ』と抱きしめてくれるディオンも、彼があの世界で犯したと思い為している罪に苦しみ続けている。傷の舐め合いと言われれば確かにそうだが、呪縛から逃れる策を探すためにも必要なのだと暗黙の内にそう言い聞かせて、けれども見つからない策に焦りを覚えながら、それでも先送りにしていた。
 そうして、今がある。
『私は、あの世界と同じ顛末を歩みたくない。……ただそれだけだ』
 紙切れに視線を落とし、ディオンが絞り出すように言った。そうして続ける。
『箱庭の自由は、終わりか』
 ややもすれば投げやり気味にも聞こえるディオンの言葉に、シドが何かを言いかけた。おそらく、皮肉を交えて肯定するのだろうが――彼の攻撃パターンを少しは分かるようになってきた――、そんな言葉をぶつければディオンは不必要に苦しむだけだろう。
 テランスはそう思い、ディオンの半歩前に出た。後ろ手にディオンの手を掴み、握る。そうして、一足飛びの質問をシドに投げた。
『シド、そしてクライヴ。退学後の僕……私達に何を期待しているのですか』
 ディオンに注がれていたすべての視線を受け、それでもテランスの心は揺らがなかった。
 何か意図があってのことだと思った。あの世界で暗躍していたシドのことだ、現世でも考えがあるのだろう。表に出さないだけで、口にしないだけで。……彼とて「囚われの身」なのだから。
 シドは一際勁いまなざしでテランスを見据え、すぐ傍まで歩み寄った。テランスの肩を強く叩き、くつりと笑った彼は『囮になってもらう、というのは冗談だが』とまるでそうとは聞こえない言葉を、すぐ後ろに立つディオンに投げた。
『ミド式に言えばヘッドハンティングだが、ジョシュアやクライヴ式で言えば、やはり「保護」になる。何もなければ、それこそ自由に生きてほしかったが、なかなかそうもいかん。少なくとも、敵さんの手に落ちるのは避けたいし、できることなら奴らが「記憶持ち」になる前にケリをつけてしまいたい。そのためにも、足手纏いは減らしたい』
『敵……』
 ディオンの呼応に、シドが頷く。
『この世界にはアルテマのような存在はいなさそうで、ごまんといる。そして、それは俺達がどうこうできる問題じゃない。……残念ながらな』
『……』
 分断と対立。理性を易々と飛び越える感情。持てる者、持たざる者。破断された領域。人の連なりは、こころは、円環とならず、螺旋をも描かない。大きな波は小さな小舟を飲み込み、その涙はどこへ。浜辺に流れ着いた残骸は蹴られ、存在をも認められない。個では融和を願っても、枠がそれを許さない。超越した力を信じる者も、そうでない者もどこかで囚われている。
 一方で、そうした世界で益を望む者もいる。……それは。
『だが、どうにかできそうな「芽」もある。そうした芽だけでも摘んでしまうのが「人」としてのせめてもの抵抗さ』
 テランスはディオンを振り返った。苦渋の表情で彼はシドを見ていた。勿論、シドの暗喩した「芽」の正体なぞテランスにも分かりきっていた。そして、ディオンにはその芽を内包した世界がさらにくっきりと見えているのだろう。世界を広く、そして深く知りたいと望み、彼は今の道を選んだ。
 だが、何もできないでいた。臍を噛み、苦悩しながら、あの世界と同じ道を歩んでいることに恐怖した。それは、自分自身もそうだ。テランスは思う。
『ディオン。お前さんの「元家族」はそうした「芽」だ。お前さんが憎むアナベラだけじゃなく、判断を誤っている親父さん――シルヴェストルも同じく』
 つらつらと悪事をシドは列挙していく。大小さまざまなそれらの裏に、いったいどれだけの苦しみがあったのか。どれだけの闇がのさばったのか。知らないふりなどしてはならなかった。……それもあの世界と同じだった。
『シド、それくらいで』
『手ぬるい。世間知らずの坊やには思い知らせてやる必要がある』
 慮るクライヴの制止をベネディクタが遮る。芝居がかった物言いはこれまでと同じだったが、風切り音のような鋭さがあった。
『……私は、既に彼らと縁を切った。彼らは私を捨てた。目を塞ぎ、耳を覆う必要はもはやない』
 シドに視線を向けたままベネディクタにそう応えたディオンが、テランスの手を握り返した。俯くこともなく目を逸らさない彼は、あの世界の彼とは同じようで違う。そうして、みなに安寧が齎されるようにとかつてと同じようなことを願っても、それを凌駕する望みがあるのだと彼は笑って言っていた。少しばかり湿った掌に、その意を感じる。
『其方の誘いは、おそらく私の望みに繋がる。……何も策を打ち出せないまま、できないままに犯した過ちはけして繰り返さない。そう願いながらも、足搔き続けていた私達に手を差し伸べてくれたことに礼を言う』
 複数形でディオンは言い、テランスを見た。そうだろう?と問いかける彼のまなざしに、テランスは力強く頷く。こんな状況なのに、笑みが零れた。彼が自分を巻きこんでいることがとても嬉しく、誇らしい。
『惚気は他所でやってくれと言いたいところだが、まあいい。――そうだ、テランス』
 座れ、と無造作に置かれっぱなしの丸椅子を示され、テランスはディオンと共に座った。何故か、耳鳴りがする。長い夜になりそうだと思ったテランスは、コーヒーでも淹れるべきだろうかと思った矢先にシドに声をかけられた。
『さっきの問いだが』
『……退学した私達の行く末ですか?』
 テランスの問いに、シドは『ご明察』と言って指を振る。相変わらずオーバーリアクションな指導教官をぼんやりとした思いで眺め、テランスはシドの次の言葉を待った。
『お前さん達には、とあるシンクタンクに入ってもらう。中退の理由は引き抜かれた、とでも書いておけ。実際、あの連中は手ぐすね引いて待っているからな』
 俺のコネクションのひとつだ、とシドが笑いながら告げたシンクタンクの名前は、政府や国際機関に強い影響力を持っていることで有名だった。
 元来の聡明さをヴィヴィアンによってさらに鍛えられたディオンの知見は、重んじられるだろうと思う。彼の出自などどうでもいい、誰もがすぐにそう思うはずだ。
 ――けれど、自分は? シドは一括りにしたが。
 ふと、思った。ディオンと共にここまで来た。ここまでは来れた。だが、その先は?
 きっと、何者にもなれない。「自分」というものがまるでない人間は、何者にも。考えるまでもなく、テランスは感じ取った。
 その瞬間、キン、と鋭い耳鳴りがした。
 あやふやな感覚に一気に包まれる。ぐにゃりと世界が歪む。繋がっているはずの糸が切れる音。咆哮と、煌めきと、月。指笛、告白、嘘と真実。
『テランス?』
 大事な人の声が遠くに聞こえる。何故だろう。
 この名は誰、呼ぶのは誰。大切だと思うのは――、何故?


 そう。

 すぐに、何も聞こえなくなる。分かっていた。繰り返しの夢。
 そう、これは夢。祈りが見せた、優しくも冷たいまやかし。

 時間も、空間も、すべてが曖昧に溶けていく無音の世界。
 尽きることのない休符と闇の世界。

 現実にひどく安堵した。
 眠ろう、と思った。疲れた、と蹲った。呼ぶ声は、叫びは、どこにも届かない。
 願いは、望みは、音を奏でない。……二度と。