#09 練習曲

「おや、姫君はご機嫌斜めのご様子」
「……誰が姫君ですか」
 ノックを三回鳴らして入室したディオンは、部屋の主の物言いに呆れ口調で返した。またか、と思いながらも、己はそんなに感情が前に出る方だっただろうかという思いにもなる。カフェテリアでの朝食中も、講義の際も、合間に同級生と次のレポートについて話し合っているときも、何かにつけて「今日は鬼気迫るものがあるな」と言われたのだった。
 個別指導があるから、とごまかすと、学友らは顔を見合わせて「そういうことにしといてやるよ」と背を叩いてきた。何がそういうことなのか、ということについては今では慣れた。おしなべて「「彼」絡み」だと思っているのだろう。専攻は違うが同じコレッジ、出身のリセも一緒。居室は別だが、なにより距離が近すぎる(バグっている、というらしい)となれば妙に目立つとかで、入学当初には視線が四方八方から飛びに飛んできた。視線の多さに一歩を引いた己に彼――テランスが苦笑して『普通にしていようよ』と背を支えてくれたのでなんとか平静を装ったが、何故か今となっては「学内公認の仲」ということになっている……らしい。いったい誰が公認したのかは知らないが。
 さておき、今回の件にテランスは絡んでいない。否、絡ませていない。話し合いを重ねて、ふたりでそう決めた。心配だというショートメッセージは、それでも相当受け取ったが、お前のその心さえあればそれでよい、必ず戻ると彼にはそう返した。それでも時々は通話アプリで話をしたりもしながら、大学を二週間ほど離れていた。
 そうして、何をしていたかというと――。
「……」
 ディオンは緩く首を振った。考え事は後に回す。
 個別指導の時間は限られているから、主の許可を得る前に椅子に座る。ついでに数枚の紙を机に置き、ペンを手にした。
「今週と不在分のレポートはメールで送りましたが」
「ああ、読ませてもらったよ。休み中もサボらないところは実に君らしいな」
 部屋の主たる指導講師は捉えどころのない笑みを浮かべ、ディオンを見た。
 さて、とディオンは構えた。この講師は一癖も二癖もある。……ありすぎてどこぞのリセ――ハイスクールに「亡命」していたくらいだ。聞けば、新設の大学の不正を暴こうとして、大学側から命すら脅かされていたらしい。講師の名前を告げると、クライヴが『そんなところまで似なくてもいいのに』と呆れ顔で言っていたが、彼女が「記憶持ち」かどうかは今のところ判然としていない。
 彼女はディオンに『この大学で学んでみないか』と話を持ちかけた。偶然か否か、「記憶」が戻ってすぐのことだ。家族が――父が望む進路とは同じようで違う分野である「地政学」を体系的に学びたいと進路指導に相談した結果、彼女にも話が回ってきたのだろう。『私が母校へ戻るのは少し先のことになるが、それまではしっかりと研鑽を積みたまえよ』と言って不敵に笑った彼女は、ヴィヴィアン・ナインテールズと名乗っていた。
「今週のレポートは、君のいつもの切れ味に戻っている。合格点だ」
 ついでに、と机上の世界地図にチェスの駒をいくつか配して、彼女はディオンに問いを投げた。とある国の三十年前から現況に至るまでの変遷を経済の視点で見解を述べよ、と問う彼女に頷いてみせ、ディオンは磨かれた小石を地図に置いた。
 俯瞰というある種「神の視点」にも近い見方で考える一方、個々人に焦点を合わせ、物事を捉えることも必要となる。政権の施策に歴史や時事、その土地や周辺が抱える背景、人々の感情が齎す世論、先に彼女が言った経済的事情も重要だ。他にも大小様々なファクターが絡みあって「今」という時がある。記憶が戻るよりも前から妙に興味がある分野だった。……神そのものになりたいとはまるで思わないが。
 知り得る範囲の知識を動員して私見も交えながら端的に答えるディオンに、ヴィヴィアンは問いを重ねていく。訊かれたことにも己の答にもペンをメモに走らせながらディオンもまたヴィヴィアンに見解を求めた。臨時の休暇試問はそうしてしばらく続いた。
「そういえば、姫君」
 休暇中に提出したレポートには「及第点だな、まあ良いだろう」と告げたヴィヴィアンは、マグカップを二つ用意すると電気ポットの電源を付けた。グラグラゴボゴボと派手な音が響くなか、彼女は慣れた手つきで青のティーバッグをカップに入れる。その間にディオンは砂糖壺とミルクポーションが入ったペンスタンドを戸棚から取り出した。次いで、「「帰国」祝いにショートブレッドも進ぜよう」とわざとらしく恭しい言葉と共に彼女が放り投げた個包装の菓子をキャッチして机に置くと、ティーバッグを入れたままのカップをディオンは受け取った。
 大雑把ではあるが、このひとときがディオンは結構好きだった。時間はまだ少しあるから「及第点」で終わってしまったレポートの分析を話題にしようと思い、いい加減なミルクティーを飲んでから口を開いた。否、開きかけた。
「醜聞には方が付いたのかい?」
「……。……まあ、それなりに」
 しかし先手を打って遠慮なく切り込んできたヴィヴィアンに、歯切れ悪くディオンは答えた。事の仔細を伝えるのはテランスに次ぎ二人目になるが、この講師は個人としてのディオンを案じるよりも世間を騒がす大企業のお家騒動に興味を持っているようだった。
 彼女は、真実を悪用はしないだろう。得た情報を自らの専門分野に組み込んで昇華させるのが「好物」なのだと最近理解し始めたディオンは、口を開いた。

* * *

 ディオンの父は、多種多様な事業を扱う企業のCEOだ。世界各地のエリア別に支社を持ち、それぞれがしのぎを削っている。経営の指針も財務状況も緩やかに右肩上がりで、株主とも一定の距離を置きつつもやはり良好、先行きは上昇傾向と言われてきた。私生活に関する黒い噂が幾つかあるにはあるが、財界に身を置く者は清濁あわせ持つもの、と周囲は彼をそう評していた。もっとも、黒い噂のひとつは己の出自によるものだと知っている。……幼い頃にまるで関係のない人物(と当時は思っていたが、実際は父を蹴落とそうとする他企業の差し金だった)に聞いて、驚きで熱を出して寝込んだ。「母」は見舞いにも看病にも来なかったし、父が己を省みることもなかった。寂しいという感情はなかった。その点で、あの世界よりも己は余程冷めていて、親子とはそのようなものなのだなと思っていた。諦めという感情さえ知らなかった。エコール・マテルナルには行かなかったから、他の子供が両親とどう接しているのかも分からなかった。何かが違うらしい、と思ったのは年齢が上がってエコール・エレモンテールに通い始めてからだ。
 求められずに生まれた子とは理解していた。「母」が無言の中に忌々しさと虚無感を押し隠した視線で己を見下ろしていたことも、時を置かずして病床の人となった末にあっという間に亡くなった日のことも、どちらもしっかりと覚えている。しかしそれも「仕方がない」ことだと思い、心の隅に追いやった。一方で、事業拡大を急速に進める父のこれ以上の汚点にはならぬようにと、勉強にスポーツに、そして慈善を中心とした課外活動に力を入れた。……己の魂はやはり父の愛を欲するらしい。
 だが、ここまで同じ道筋をなぞることには思わなかった、とディオンはテランスに苦笑してみせたのだったが――。

*  *

 いつだったか、寝物語を装って一連の話を打ち明けたとき、テランスは真顔だった。抱き寄せられて、寝乱れた金の髪を梳かれた。素肌のあたたかさが心地よかったが、テランスは無言で感情をやり過ごしているようで、鼓動が少しばかり早かった。
 やがて、思い詰めたような低い声で彼は言った。僕がもっと早く君に出会えていたのなら、そうしたら。君が、虚しさの海に溺れるよりも前に、引き上げられたのなら。そう、たとえ記憶があろうとなかろうと――きっと。
『何も変わらない、おそらく』
 ディオンは起き上がってテランスの体に寝そべった。やはりあたたかい、と思う。本当に心地よくて、このひとときを再び得られたことに感謝せずには――誰に対しての感謝なのか分からないが――いられなかった。
『変わらない、だなんて』
 テランスは不服そうだった。唇を噛み締める彼に、ディオンはキスをした。
『記憶が戻らなかったら、この切なる想いは得られなかっただろう。きっと、このように愛し、愛されることもなかった。惹かれても、勘違いと思い為して終わったかもしれない。寂しいことだがな。だが、結論から言えば記憶はよみがえった。そうして……あの世界でも、今も、お前からの想いは何も変わらずに届いている。いや、より強く得ている……』
 ――直裁な愛を共有している。あの世界では一線を引いていた彼の本心と欲を感じるのが、想いの行き着く先を知るのが、とても嬉しく、何処までも幸せだと思った。
 だからこそ、恐怖を感じる。仮定のさらなる幸せを否定したくなる。もし、邂逅を遂げなかったら。遂げたとしても、引き離されるさだめにあったとしたのなら。
『……あまりにも早い記憶の表出は不自然にも映るだろう。そうすれば、隠すすべもないままに引き離されてしまうのが関の山で、私にはその後の孤独のほうが耐え難い』
『……』
 汗がひいたテランスの鎖骨を舐めると、少し塩辛かった。かりそめではない幸福が今この瞬間にある。
『あの世界と違う――、否、変えるとしたら、私は、私達は共に在り続けるということだ。……そのための道を探し出す。「あの夜」がもう来ないように』
 突き放し、突き放されたあの夜は、二度と。
 決意を込めてディオンはテランスに告げた。長い沈黙の後に、テランスが瞬く。またそうやって、と彼は何故か強い口調で言い、ディオンの肩甲骨をゆっくりと幾度も撫でた。
『僕も、探す。……だから、ひとりで何もかも抱え込まないで。あの世界よりも先の未来を、ふたりで見よう?』
 テランスの指が蠢く。つ、と背骨の弱いところを数度押され、ディオンはテランスに抱きついて吐息を溢しながら、幾度も頷いた。
 鳥の囀りが聞こえる。分厚いカーテンの隙間から朝を感じる。
 それでも、絡んだ視線に誘われるままに深まっていく口づけを交わし、互いの体に触れて心地よさを与え合う。ちらりと時計を見やってから、もう一回、と言うテランスの欲にディオンが頷くと、彼はディオンの首筋を舐めてからきつめに吸った。仕返しとばかりにディオンもテランスの顎下にキスを贈る。はあ、と熱っぽい吐息と共に、テランスはディオンを組み敷いた。
 そうして、ふたりだけの夜はもうしばらく続いたのだった。

*  *

 彼も己も、その仮定はもしかすると意味をなさないのかもしれないと知りながら「未来」を考えている。前世とは別の道を歩む、と誓うように願っているが、現実は――何故こうも揺らがないのか。
 時を経て、父は後妻を得た。振り返れば、何もかもが同じ。いっそ、父も「彼女」も記憶持ちだと分かれば、彼らの悲願は形こそ違えど限りなく叶うことになる。だが、どうもその線は薄かった。父・シルヴェストルも、義母であるアナベラも(彼女はやはりロズフィールド兄弟の母親だった。彼らを捨て、彼女は父の元へ走ったのだ)、やがて生まれた義弟であるオリヴィエも、前世の記憶は持ち得ないままにそれぞれの欲望に忠実だった。……つまり、このたぐいの人間は何処にでもいるということなのだろう。
 オリヴィエは愚鈍ではないが怠惰を好むのだと噂に聞いた。アナベラが己との接触を酷く嫌がるために、一度も話らしい話はしたことがなかった。
 元来抱いていた「居心地の悪さ」は日毎に増し、一方でひそかに欲していた「愛情」を得るすべは失われていった。父は己と僅かな時間を共有することさえ拒んだ。そして、「居場所」そのものも突然失った。
 ある日、不在時に自室の所有物の大半が処分された。本邸から近郊の別邸へ住まいを変えるように指示を受けたと家令に言われ、そこで己の心とやらの糸がふつりと切れた。夜、別邸の客室に通されて、床にぺたりと座り込んだ。秋を含んだ夜気は冷たくて、誰も使っていない部屋は生活感のかけらもなく――、そう、誰もいなかった。それからどれくらい放心していたかは分からない。数分だったかもしれないし、数時間にも及んだかもしれない。時計を見ることさえも忘れていた。
 誰かにこの事実だけでも伝えたかった。吐き出したかった。下手な慰めは要らない、光がほしかった。だが、月もない闇夜、現実にも心にもそればかりが目の前に広がっていた。制服のジャケットに入れっぱなしのモバイルを取り出して、また愕然とする。いったい、こんなことを誰に話せるだろう。命が惜しければ、己のことなど捨て置くだろう。そういう潮目なのだから仕方がない。手を伸ばしても、誰も掴んでくれはしない。
 ……だったら、このやりようのない感情は、何処へ? 何を己は間違えた? 父は、彼女は何故己を生かす? 「なかったこと」にしたいのなら、葬り去ればよいだけのことだ。それこそ、「母達」と同じように。珍しくもないが結局は私生児の身である己には、何の価値もないのに。程よい塩梅で捨てて、そこからは狂うのを待っているのだろうか。
 だが、結局は狂えなかった。次の登校日には何事もなかったようにふるまった。気にかけてくれる友人もいなかったから、騙す必要もなかった。スクールには住所の変更と休学を申請し、父の側近が寄越したやる気に乏しい家庭教師に勉学を教わった。
 そうした日常。箱庭の住人、あるいは籠の中の鳥。窓越しに見る霞んだ空。遠のいていく世界。比例して虚ろになっていく己のこころ。……不要になったモバイルを久々に充電した際に、ジョシュアからのショートメッセージが入っていたことに気付くまでは。
 ――だったら、こっちにおいでよ。「気分転換」にいいと思うよ?
 名案、とばかりに明るく言ったジョシュアの策に「なんとなく」乗った。――そうして、はじける音と共に、時計は再び動き始めた。
 テランスと共に記憶を取り戻し、それまで無彩色に近しかった世界は鮮やかに彩られた。激情を知った。現世での今までの歩みも、前世で止まった時計も、もう彼に隠す必要はなかった。身に余るほどの幸福を一気に得た。
 だが、と思う。二度と手放せないこの幸福は、何処まで続くだろうか。彼を、死守できるだろうか。
 アナベラは、狡猾な野心家だ。そういえば、父は彼女のことを何処まで知っているのだろう。今も、そして、前世においても。
 いずれにせよ、アナベラは本性を悟られないままに会社の中枢に入り込み、自らの息がかかったコンサルタントを置いた。そのコンサルタントも露骨に売り込むことはせずに、元来のコンサルタント会社の意を汲み、なおかつその顔を立て、求められれば意見を付け添えていった。星詠みを懐柔したのと、状況は似ている。雇ったコンサルタントに彼女が支払った額は相当なものだろう。そして、その資金の出どころも怪しさがあった。
 やがて迎えた役員総会において、思い切った――というより、無謀な――舵取りを提案したコンサルタントと、末席で控えめに微笑んだアナベラに、数人を除いてその場は凍り付いた。ネットの向こうで参加している海外支社のトップ達も同様の具合だった。
 しかし、父は『アナベラの案は大いに検討の価値がある』と彼女を称えた。専門のチームを作り、早急に計画書の提出を指示しようとした矢先、彼女は『既に用意してございます』と微笑みを深めたという。
 そういう経緯のもと、はじめにディオンにコンタクトを取ったのは、アナベラをようやく危険視するようになった現経営陣だった。こういう時ばかり担ぎ上げるのかとディオンは内心毒づき、頭が春色に染まっていた彼らの怠慢ではないかとも思った。アナベラの策は巧妙ではあったが、これまでも彼方此方に兆候はあったのだ。それをすべて「まさか」でやり過ごしていた彼らにも責はある。五賢人と同じだ。平時ではそれなりに能吏だが、こういう局面にはひたすら弱い。世界情勢も大きく動いている今、彼らの地位はそう遠くない未来に失われると思われた。
 故に、ディオンは彼らの懇願を退けた。学生の身分であることを盾にし、父の意向を見守るつもりだとチャットで伝えた。
 すると、経営陣はおざなりに礼をとり、次々とチャットルームを退出していった。最後に残った一人が、『この選択を悔やむことがありませんように』と言いながら睨めつけてきたが、ディオンは笑みを貼り付けて退出ボタンをクリックした。
 アプリの履歴を削除し、ノートパソコンをシャットダウンする。ヘッドセットを外してディオンは伸びをすると、首を左右に動かしながら自室を出た。
 重要な話をするからとルームメイトには部屋を出てもらっていたかわりに、シェアリビングのソファにはテランスが座っていた。学会のレジュメ集を手にしていたが逆さまになっている。愉快になって揶揄おうかとも思ったが、実際にディオンがしたことといえばテランスの隣に座って、何も言わないでいる彼に曖昧な笑みを見せるばかりだった。
 あまり良くない手だとは分かりながら、どうしてもそれ以上のことができなかった。

* * *

 今期のレポートはこれでおしまいだ、というヴィヴィアンにディオンは目を見開いた。他の連中の面倒を見なければと眉根を寄せ、彼女はミルクティーを一気飲みした。つられてディオンも残っていた分を飲み干す。ティーバッグを入れっぱなしにしていために渋かったが、これにも慣れた。
「そう、これは前から考えていたし、確信もしているのだが」
 マイルールがあるという本だらけの机にカップを置き、ヴィヴィアンは腕組みをした。ディオンを見上げ、そうしてニヤリと笑う。
「残るつもりなのだろう?」
 この楽園に。
「……ええ」
 できれば、とは言わなかった。言えなかった。その弱さが螺旋階段を下る羽目になった原因のひとつだった。結局は何もできないまま闇空を堕ちた、あのときの。
 望みは、己から掴みにいかなければと思う。行動に移せることは少ない。むしろ、殆ど何もできていない。それでも、心には常に据え置いている。
「それならば私の荷は少し軽くなるな。君なら良いスーパーバイザーになるだろうし」
「その言葉で油断させるつもりでしょう? ……失礼します」
 ヴィヴィアンがククク、と笑うのを聞き流し、ディオンは講師室を出た。