違う道を選んでも。
望んだ未来が重ならなくても。
心だけは。消えそうで消えなかったこの想いだけは。
ずっと、共に。
§ § §
LRTから見える風景が落ち着きを見せ出した頃、隣で手すりにつかまっていたディオンが「あと二駅だ」と言ってきたので、テランスは頷いた。
と同時に、どうして、とも思う。何故、いきなりディオンは自分のことを自宅に招いたのか。
確かに、フェンシングで勝者になったディオンの「願い事」を聞くという流れにはなった。けれども、単に招くだけならこんな大がかりなことはしないのではないかとも思う。今の彼はあまり目立ちたがり屋ではない。「あの時代」でも本質はそうだったけれども。だが、頼み事――願いならいつだって聞くのに。……受け入れ難いものであれば、考えを改めてもらうかもしれないけれど。
たとえば、あの別れの夜を繰り返すのならば、この世界でも彼がそれを(どんな事情があるにせよ)望んでしまうのであれば、どうあっても聞き入れることはできない。今度こそ、彼の人生に最後まで巻き込まれたい。
それを「主体性がない」と批判する向きもあるだろう。似たようなところではヨーテがそうだ。だが、彼女は彼女なりの模索を続けている。「今」における彼女の心の内を聞くことも、ひょっとするとこれからあるかもしれない。だが、「前世」の彼女はタルヤやキエル達と共に忙しい日々を送っていた。――主人だったジョシュアの死を静かに認め、その上で託された言葉を遂行していた。放り出すことも、抗うこともせずに彼女は自身の意思でその道を選んだ。余談だが、年に一度の「世界の生誕祭」でニンジンジュースを隠れ家の人々に振る舞っていたのは彼女だった。
ちょうど居合わせ、何度か相伴に与った。それ以外の年は……。
「……」
「テランス? 酔ったか?」
「え? いや、そんなことは……」
懐に潜り込むようにして覗き込んできたディオンに、テランスは動揺した。距離が近すぎる。更衣室のシャワー備え付けの石鹸の香りがふわりと漂った。
「だが、顔色が」
心配そうに追及してくるディオンに向けてテランスはにこりと笑みを浮かべてみせた。
「なんでも……」
「其方……お前はそう言ってすぐにごまかす。聞いていてあまり気分の良いものではない」
テランスのつくり笑顔をあっさりと看破し、ディオンが唇を尖らせる。「記憶」が戻ってまだほんの数日だが、得体の知れない……というか底の知れない優等生は、いまやごく僅かな者にだけではあるが、元来の雰囲気でもって接した。「現世」でも無意識のうちに付けていた仮面を思い切って外したのかもしれない。
勿論というべきか、その筆頭はテランスだった。それはテランスにとって限りない幸せを齎した。この日に至るまでのすべての善きことを集めてもなお、彼の笑顔には替え難い。
とはいえ、だ。テランスは閑散としている車内を見渡した。帰宅ラッシュには少し早いのか、車内は閑散としていた。
「ディオン、怒らないで聞いてくれる?」
「……事と次第によるが」
テランスの言葉に緩みを察したのだろう、ディオンも真剣に怒りを覚えているわけではないようだった。それでも少し機嫌が悪い彼に苦笑すると、テランスは再度周囲を見渡した。先の駅で客はさらに降り、今は前にバゲットを三本ほど抱えたおばあさんがひとり乗っているだけだ。
手すりを握ったままのディオンの手に自分の手を重ねる。絶句して固まってしまった彼の手の甲を数度さすり、最後にポンとごく軽く叩いた。瞬時に耳朶まで朱に染まった彼を眺め見、テランスはひとり感動した。
――なんか、可愛さが倍増してないか?
まさか、自身も同じようなことをディオンに思われているとはつゆ知らずにテランスは緩む口元をなんとか抑える。何もしない何もしない、と念じてからほんの少しディオンとの距離を詰めた。
詰めたぶんだけディオンが退けようとするのを、触れたままの手で彼の手を掴む。
「な……っ、テランス?」
「こんなふうに」
何もしない何もしない。呪文を唱える。少なくとも、公共の場では何もしない。
ただ、親指の腹で彼の親指の付け根をなぞるだけ。密やかに彼へ「説教」をするだけだ。
「貴方……君がいきなり近づくと、僕の心臓と忍耐と理性が持たない」
中身は前世の二十代後半が――最期にはもっと歳を重ねていたが「心」は彼と生きた頃を選んだ――入り込んでも、現世で生きてきた記憶も重ね持ち、しかも肉体は十代。その昔は鉄壁と言われた理性も、さて今では?
「……離れろと?」
顔を赤らめたままで神妙にディオンが言う。誤解させそうだったので、テランスは手指を絡めた。これくらいは、いいだろう。
「そうは言ってないよ。ただ、いきなりはまだダメ。……少なくともTPOを考えて?」
きゅ、と手に力を少しばかり入れると、同じくらいの強さで握り返される。その強さと、見つめ返してきたディオンの前世と変わらぬ琥珀色の瞳が、テランスに多幸を齎した。
「TPOならばお前のほうがっ」
――ポーン。
駅まであと少しと知らせる無機質な明るい音がディオンの言葉を遮った。
テランスはつんのめったディオンに思わず笑い、小首を傾げた。「降りるんだよね?」と問うと、ディオンはぶっきらぼうに頷いた。
そうして、はたして――。
LRTを降りると、ディオンを待っていたと思われる上等な車が駐車場からするするとロータリーに入り、二人の前で止まった。流石にそこまでは、というのだろうか、運転手は乗り込んだままでドアを開けた。ディオンが運転手に「友人」の来訪を告げる。既に伝えてあったのだろう、何も問われることなくテランスは車中の人となった。……半ばディオンに押し込まれるような形になりはしたが。
「訊きたいことだらけ、か?」
「……少し、いや、かなり」
あっという間に車は高級住宅街に入る。そういえばディオンの「家」がどこにあるかなんて考えが及ばなかった。――一人暮らしは流石に難しいのではと思う一方で「家族」と住む彼も申し訳ないと思いながらも少し想像ができない。そこまで考え、テランスは思い直した。もしかして現世では家族の仲は良いのかもしれない。
それならば少しは――。
「……気を遣わずとも、「家族」は首都住まいだ」
「まだ何も言ってないよ?」
ディオンの言葉に、テランスは不思議な思いになった。前を見たままのディオンの瞳も表情も落ち着いている。苛立ちの色はそこにはなかった。
「訊かれるのをずっと待っていたのに」
ふ、と僅かに笑みさえ浮かばせ、ディオンは背もたれに身を預けた。テランスをちらりと見やり、目を瞑ってしまう。少し寝る、と呟くと、彼は本当にそのまま眠ってしまったのだった。