#14 共鳴の協奏曲

 学生寮の一室の前に立ち、ビジネスバッグを持ったディオンはインターホンを押し、名を告げた。近頃は物騒になってしまった、インターホンの設置は学生の自由な交流を妨げる、とそう嘆いた教授も過去にはいたそうだが、ディオンはその言葉には同意しかねた。ラウンジは変わらずあるのだし、男女問わない寮生活には「安全」は必要不可欠だ。……同性同士の事件を防ぐには心許ないが、ないよりは良いと思う。
 しかし、今。そんな日々は終わりを告げる。インターホンも、熱を帯びた討論を交わしたラウンジも、きっと懐かしく思う日が来るのだろう。
 バタバタと部屋の中から足音が聞こえてくる。それほど広くもない部屋だ、ドアが開くまで一呼吸分もないとディオンが予測し終えるのと同時に内向きにドアが開いた。
「ディオン」
 笑顔全開のテランスに、ディオンは心が浮き立つのを感じた。自然と笑みがこぼれる。やはり愛しい、と思った。
「準備は終わったか?」
「うん。後はそこのに挨拶をすれば」
 テランスの肩越しに部屋を覗くと、部屋は綺麗に片付けられていた。なんでも、テランスのルームメイトもこれを機会に別室に移るのだという。人の温もりを失った部屋は寒々しくも思えたが、すぐに他の学生がやってきて盛大に散らかすだろう。
「そこのにって扱いがやっぱ雑だな。姫君、この王子様に何か言ってやれよ。人付き合いが得意そうに見えて適当なんだぞ、こいつ」
「知っている。だが、テランスは懐に入れた人間には心を許す。結果、甘えが生じることになったようだが、これからは正すようにと言おう。なあ、テランス?」
 いつもの角度でテランスを見上げてディオンが言うと、テランスはぽりぽりと頬を掻いた。若干泳いだ視線は、それでもやがてゆるりとディオンに固定された。
 ルームメイトの文句や、「姫君」「王子様」といったユーモアが込められたあだ名ともお別れだ。それにしても、と眼前の光景に口元が緩んでしまうのを抑えきれない。
「我が君の心のままに」
 などとテランスまでが芝居に興じ、礼をとる。軽く手を胸元でクロスさせてパチリとウインクすると、彼はディオンに向かって手を差し伸べた。
 それだけで、多幸感が押し寄せる。伸べられたテランスの手にディオンが手を乗せると、指輪に口づけられた。心の表れを示すためにディオンも彼の掌から指輪にキスをした。
「あー、あー、準備万端、残り時間あと二十分」
 テランスのルームメイトがモバイルに向かって誰かと話している。聞こえよがしのその声と内容に、ディオンはテランスと顔を見合わせた。微笑む彼も何か知っているようで、ティオンは少しばかり面白くない心持ちになりかけたが、蜂の巣をひっくり返すような騒々しさに目を丸くすることになった。
「何やってんの、タイムキーパー! 時間足りない!」
「面白いから、ヴェールは絶対テランスにかけて!」
「牧師役は? 先生迎えに行ったの誰?」
「礼拝堂予約してたっけ?」
「できなかった! カフェテリアに行くよ!」
 ショルダーバッグを肩にかけたテランスに手を引かれ、ディオンは大学寮を出た。何処へ、と疑念を抱く間もなく、すぐ横のカフェテリアに入る。ほわん、と謎の野菜煮込みの匂いがした。
 ほら、とヴェールを手渡してきたのは、ディオンのスーパーバイザーだった。あなたに教えることなんて何もない、と担当になった当初は尖った声で言っていた彼女が目を潤ませているのを見て、ディオンは時の流れに思いを馳せた。
 短かった、箱庭の自由。楽園でのひととき。それでも、得たものは尽きない。
「さて」
 古時計の横の壁に凭れていた「牧師役」がパン、と手を叩いた。瞬間、雑然としていたその場の空気が変わる。人が随分増えたね、と直前に囁き声で苦笑したテランスの言葉の意味に、滑稽だと己自身で思うほどにディオンは動揺していた。
 まさか、許されるのだろうか。これは、認められるのだろうか。
「今更何を怯える必要がある? 聡慧ある君らしくもない」
 皮肉にもとれる言葉をディオンに投げかけてきた彼女は、次いでテランスを見て「怯えさせるような言動は慎むべきだな」と自らに与えられた役に相応しく「説教」した。
 その説教に気押された格好になってしまったテランスがうっかり頷いてしまう前に、ディオンはテランスの服の裾を引っ張った。
 そうして、この日に至るまでのことを思い出す。

* * *

 チェールアルコで互いに誓い合った夜。それは、人生の岐路に立った夜でもあった。
 ――意識の範疇外にあった思いの濁流に飲まれ、昏倒してしまったのだろう。
 咄嗟にテランスを支えたディオンに手を貸しながら、そのようなことを淡々とクライヴが言った。ソファに積み重なっている本を不承不承といった具合でベネディクタが退ける。ヴィヴィアンとは違うシドの散らかしぶりに個性が出るなと思いながら、ディオンはクライヴと共にソファにテランスを寝かせた。
『膝枕でもしてやるのか?』
 ドン、とシドの机の上に遠慮なく本やらなんやらを置いたベネディクタが、嘲りの声色で言った。
 現世ではテランスのスーパーバイザーということもあって、彼女と顔を合わせることもあった。記憶持ちのシドにディオンが何かしらの相談をしに行くと、大抵この部屋か学生室に彼女はいたのだった。記憶はない、とシドは件のなんとも感情の読み取りにくい面持ちで言い切っていたが、それは間違いないのだろうと思った。一方で、いつの日か記憶持ちになるだろうとテランスと話したこともある。
 あの世界でのベネディクタ・ハーマン自身の情報は、実はそれほど握っていない。握りそびれた。密偵部隊の長で、バルナバスの命を受けて動いていた女性。風のドミナントである彼女までもがベレヌスに現れたのなら、と考えると背筋が凍るような思いにもなったが、ウォールード――バルナバスの思惑は別にあった。自国の勝利などどうでもよかった彼は、別の命令を彼女に与え、そうして。
 シドやクライヴからヴァリスゼアで起きていたことのあらましを何度も聞いたが、点であったものを繋げて線と為し、それらを結ってできた何枚かの面を組み上げてできたあの世界は、出来事は、己の矮小さを突き付けるのに十二分だった。否、それでも足らないのだろう。テランスは無論、ジョシュア達も示し合わせたように己に語っていないこともある。それは、最終決戦前、まだらの空を見上げていた己をひとりきりにしてくれたあのときと同じ――寂しくも慕わしい優しさを、感じる。
『無論だが?』
 眠っているだけだとクライヴが判じたテランスの頭を持ち上げ、ディオンはソファの端に座った。ゆっくり彼の頭を己の太腿に乗せ、寄った眉間の皺を、頬を撫でる。迷いの森に佇む彼が、少しでも早く戻ってくるようにと、そんな願いを込めて。
『……なんでこんな甘ちゃんが』
 バハムートなんだよ。
 そう言って舌打ちをしたベネディクタに、ディオンは苦笑するしかなかった。何故、と言われても、そう生まれついたのだから仕方がない。もっとも、バハムートであったことを、ドミナントとして生きたことを、そしてその先で為した事柄を認められるようになったのは、ごく最近のことだ。……あの世界で犯した大罪を、呑み込めるようになったのは。
 己が抱え続ける罪咎。ふとした瞬間に思い出しては、暴れるこころ。
 そして、彼が探し続けた光。現実と幻想が混ざり合い、迷うこころ。
 涙で振り払った。言葉で、体で、互いの想いを繋いだ。寄り添うだけで幸せは募り、それでも呪縛から逃れようと足搔き続けて、一方で逃れられないのなら共に、とも思った。
 今この瞬間も、己の意思に揺るぎはない。彼も、そうであってほしいと願う。
『話を進めるか。ディオン、テランスにはお前さんから話してやってくれ』
 様子を窺っていたらしいシドが口を挟んできたので、ディオンは頷いた。

 シドの話は主にこうだった。
 己とテランスは、それぞれ正式に大学を中退すること。――有耶無耶のうちに籍を抜くわけではないこと。
 周囲と断絶する期間があること。今生の別れではないが、覚悟はしておくこと。
 機密についての扱い。プロジェクトのなかには国家を揺るがすレベルの機密事項がごろごろと転がっているものもあるが故に、今までの私用モバイルやパソコン、それに類するものはおしなべて没収、ないしは預けること。貸与するモバイルやパソコンは私用でも用いること。それらはすべて記録されること。
 研究員として契約を結ぶが、その期間に定めはないこと。「案件」に区切りがつき、身の安全が保証できた後は「自由」だということ。このまま残ってもいいし、市井にもどってもいい。だが、得た情報は秘匿とすること。

『そして、まあ、これは耐えろとしか言いようがないんだが』
『……断絶は、テランスとも、ということか?』
 珍しく言葉を濁したシドに、ディオンが応える。そういうことだ、と認めた彼から眠るテランスに視線を移し、ディオンは急速にせりあがる感情を逃そうと息を吐いた。
 傍にいたい、いてほしい。そう願った。共に未来を、そう誓った。
 愛という名の想いを抱きしめたのは、つい先刻のことなのに。
 あの夜は繰り返されるのだろうか。繰り返した先に、彼は待ってくれるだろうか。己は戻れるだろうか。彼の手を再び掴めるだろうか。突き放し、突き放された――断絶の意味に納得できたとしても――その果ての流浪は、終わる日が本当に来るのだろうか。
 己にとって。そして、彼にとって。
『泣くな。……そんなふうに、泣かないでいい』
 肩に重みを感じ、落ち着いた声が言った。知った声色で紡がれた言葉と視界のぼやけ方に、ディオンは己が泣く一歩手前だったのだと気付いた。慌てて涙を拭い、顔を上げる。すると、クライヴは目を細めてディオンを見やり、次いでシドを見やった。
『シド、説明が不十分だと思うんだが』
『補足する前に、奴さんが勝手に盛り上がって勝手に泣いただけだろう』
 そう言ったシドに向けて溜息をつくと、クライヴはディオンに向けて説明を始めた。
『今は「外」に出ているからここには来れないが、もうひとり「記憶持ち」がいる。あの世界で、貴方も……君も会ったことがあるはずだ。そいつが「ストラス」になってくれる。手紙とか、ボイスレコーダーとか、そういった形のあるものは駄目だが』
『……ガブか?』
 記憶を思い起こして訊ねたディオンに、クライヴは首肯した。
『奴は世界中を飛び回っている。個人に直接会うこともあるから、そうしたときに託せばいい。タイムラグは発生するがこの世界でも結局はこれが確実だし、ガブはその道のプロだ。だから――』
 ――まったくの孤独は訪れない。微笑みと共にクライヴがそう付け足した、そのとき。
 誰かのモバイルからコール音と思しきアルペジオが鳴った。


 コール音は、クライヴ宛だった。少し待て、とモバイルを一旦切ると、クライヴは断りを入れてシドのノートパソコンを借りた。大学の回線を使うのかと思ったが、彼がパソコンに取り付けた機器を見るに、セキュリティを懸念したのだろう。それから、ディオンも普段使用している通話アプリにログインしたのと同時に、コール音がまた鳴り響いた。
『この忙しなさは、もしや……?』
『少し前に入れたショートメッセージに気付いたんだろうな。シドが君達を「保護」すると決めたと伝えたんだが――、ジョシュア、聞こえるか?』
 クライヴがアプリのカメラとマイクをオンにする。スピーカーの音量は聞こえるか否かといった程度に調節した。すると、それにも関わらず「元気な」声が聞こえてきた。元気すぎて音が割れ気味になっているが、通話の相手はそれほど声高いほうではないとディオンは思っていたため、若干の驚きと共に様子を窺った。
『聞こえるよ、勿論。お願いだから既読スルーも、行方不明状態もやめてほしいな。こっちがどれだけ心配したか分かってる? 久々にジルも一緒にごはんでもどうかって思っていたのに。あ、久しぶりだね、ディオン。君からも言ってよね。兄さんが動いたのは君達のためだけど、シドと兄さんが一緒につるむと面倒事が起きやすいんだ。煽りタイプと天然ボケはきっと「様子を見ていた」なんて言うかもしれないけれど、自由に動けるしいつでも説明なんてできたのに今の今まで放っておいたんだから』
 画面の向こうでジョシュアは愚痴と説教と皮肉を混ぜ込んで一気に喋り、画面の端に映っているらしいディオンに対してもその口調は変わらなかった。『それは』と思わずディオンが言いかけるのを、ジョシュアがつくり笑顔で留めた。
『青春ってヤツを謳歌してもらいたかっただけなんだがな。ジョシュア、お前さんにも時間をやっただろう? あれは、お前さんからのオーダーじゃなかったが』
 モバイルからチャットルームに入室したシドは、暗喩めいた言葉をジョシュアに投げた。どういうことだ、とディオンも思ったその瞬間、画面越しにでも分かるほどに狼狽えているジョシュアが映った。『僕のことはどうでもいいから。今考えるべきなのは、ディオン達のことだよ』と早口で言い、彼は次いで首を傾げた。
『あれ、テランスは?』
『彼は……』
 少し休んでいるとテランスについてディオンが言おうとしたとき、太腿がすっと軽くなったのを覚えた。起き上がったテランスは、ソファに足を投げ出したまま数拍ほどぼんやりとしていたが、ディオンを見、シドを見、クライヴとベネディクタを見、テーブルに置かれたノートパソコンに映っているジョシュアを見、そうしてディオンを再び見つめた。それで事態の異様さに思い至ったようだった。
『ディ、ディオン?』
 膝枕をされていたことに真っ先に気付いたのだろう。瞬時に赤みがさしたテランスの頬に、ディオンはキスをした。ひゅう、だの、はあ、だの、いいねえ、だの、舌打ちだのといった外部の反応は遮断し、ソファから足を下ろしたテランスに状況をざっと説明する。今しがたディオンが受けたやるせない衝撃をできうる限り排し、手を繋いで彼に言葉を尽くした。
 それでも。
『ディオンと、離れるのは……離れてしまうのは』
 嫌だ、と唇の動きだけで言ったテランスをディオンは抱きしめた。己もまったく同じ心持ちだったが故に。
 あの夜を繰り返すのが怖い。泣き顔で体を押し、振り返らずに去った彼。そうさせた己。正当な理由があって、それが最善かつ最良の策なのだとしても、再度の別離は辛く、そして苦しい。
 違う道を歩む、ということは。
『……僕が言えた義理じゃないんだけどね』
 打って変わって優しい声色で、ジョシュアがディオンとテランスに話しかけた。ふたり揃ってパソコンを見ると、片肘を机についた姿勢で彼は目を眇めて微笑んでいた。
『別れ、は辛い。自分から去っても、去られても。頭では、理性では分かっていても、何故という思いは募る。……僕も、兄さんにそう思い知らされた。昔、ね』
 すごくすごく長い説教だったよ、とジョシュアは軽い口調で言ったが、ディオンはそれは事実なのだろうと思った。いつだったか、クライヴがジョシュアの死を乗り越えたとテランスは言っていたが、それでも心の傷は癒えなかったのではないか。テランスが未だ悪夢を見るように、彼もまた。
『別れが必要だ、なんて軽々しくは言えない。君達も大きなトラウマを抱えたままこうして苦しんでる。……けれど』
『乗り越えてほしい』
 ジョシュアの言葉の先を引き取ったのは、彼の兄であるクライヴだった。

* * *

 ディオンはカフェテリアの外に追い出された。これから空港までの長距離バスに乗るためにラフな格好をしていたのを、「……どうする?」とこれまた見知った学友達が取り囲んで考え込む。まあいいわとディオンのスーパーバイザーが件のヴェールをディオンの頭に乗せた。固定するためなのか、ヘアピンらしきものがぐさぐさと刺される。頭を貫通しないか、若干怯えもしたが杞憂に終わった。
 純白のヴェールには見事なレースが縫い付けられていた。そっと手にとると、意匠は花のようだった。――記憶の底に確かにある、あの。
 ふ、と笑む。その笑みをどう受け取ったのか、「満更じゃなさそうだな」とテランスのルームメイトが言った。そうして青い小花が束ねられたブーケを渡してくる。
「ブルースター。花言葉は……」
 解説を加えようとした同じゼミの下級生をスーパーバイザーが遮った。
「そういうのは後でテランスに聞いて、ディオン。あれもこれもダメってごねたんだから」
「残り、十三分か。バス乗り場まで十分だから……」
 「式」に費やせる時間を計算して唸る仲間達に、ディオンは愉快な心持ちになった。本当に己は恵まれたのだと思う。テランスだけではない。ジョシュア達だけでもない。あの世界で、ついぞ感じることのなかった感情を彼らは齎してくれた。
「走れば、五分だな」
「その自信はいったいどこから来るんだよ……」
 ぼやく学生に向けて微笑み、ディオンは周囲を見渡した。「ありがとう」と一人ひとりの目を見ながら謝意と別れを告げると、それぞれが笑顔でディオンに頷き返した。


 全力でバス乗り場まで走り、発車時刻の二分前に乗り込んだ。
 ひそひそと、「結婚式」のあれやこれやを語り合った。ブーケにテランスが選んだというブルースターについても花言葉を聞いた。花言葉に見合った、信じ合う心を大切にしていきたいと思う。
 今までのことも、少し。これからのことは、語らなかった。
 そうしているうちに、ここ数週間の疲れが眠りをいざなう。短くはない別離を前にして眠りたくはなかったが、テランスが「眠っていいよ」と囁いたので、緩く手を繋いだまま優しい夢の広がる眠りに滑り落ちていった。いつかのように。
「おやすみ、僕の愛しいひと」
 この言葉も、しばらくは聞けない。寂しかったが、悲しくはなかった。


 ――そうして、別れの地。

 ハグをして、額を触れ合わせて、一瞬のキス。外してもらった指輪を小箱にしまって。
 互いに肩を押して、笑顔で背を向けた。