2 : Terence side
この風音は、いつか消えてくれるのか。
「やあ、具合はどうだい?」
声をかけられ、テランスは立ち止まって声の主を探した。見れば、カウンター越しに手代のゴーチェがこちらに手を振っている。隣のデシレーも笑顔で会釈した。
テランスは二人に向き直ると、ええ、と返した。誰の、とはゴーチェは言わなかったが、彼が指している人物は勿論自分などではない。分かりきったことなので、問い返しはしなかった。
「おかげさまで、本復の見込みが立ってきました」
故に、そのまま会話を続ける。
「そいつはよかった!」
「本当に。うん、さすがタルヤ先生ね」
嬉しそうに笑う二人の表情には他意は見当たらず、テランスもまた笑む。ベアラーに対して手酷かったザンブレクに思うところはあるはずなのに、隠れ家の人々はその感情を自分達に突きつけようとはしない。それは不思議なことではあったが、構えていた自分を解くには時間はそれほど要さなかった。
屈折していたのは、自分のほうだった。そんなふうに思う。
「ディオン殿下が治ったら飲もうぜって皆言ってるんだ。シドもジョシュアさんも楽しみにしてるって言ってた」
ゴーチェは朗らかに言い、ロズフィールド兄弟の名を出した。
「シドはあちこちまた飛び回ってるし、ジョシュアさんは書庫にこもりっぱなしだけど、都合はどうにでもできるってさ」
先んじてシド――クライヴが、時を置かずしてジョシュアが病室からそれぞれ解放されていた。二人ともやはり瀕死の重傷だったが、クライヴ本人曰くの「打ちどころがよかったんだろう」というよく分からない根拠は案外真実なのかもしれず、「打ちどころが悪かった」ディオンが強制的に眠りの海に叩き落とされていた間にめきめきと回復した。
「ありがとうございます。お伝えしますね」
「おう!」
ゴーチェとデシレーに見送られて階段を上り、医務室に入ろうとしたテランスを今度は別の声が呼び止めた。
「タルヤ先生は外に出ておられますよ。殿下のお薬ですね?」
タルヤの助手のロドリグに問われ、テランスは頷いた。すると、ロドリグは「少しお待ちください」と医務室へと入り、すぐに戻ってきた。
どうやら、既に薬の準備はされていたらしい。小籠に入れた複数の飲み薬と塗り薬を順繰りに指差し、ロドリグはテランスに説明を始めた。
「調合は微妙に異なりますが、効能は前回と同じです。痛み止めのフロスティは頓服で、ブレスールとテタノは薬湯にして夕食後に。デザンフェは朝夕に塗ってください」
あとは、これを。見たことのない瓶だと思ったテランスの考えを読み取ったわけではないのだろうが、ロドリグは最後に茶色をした薬瓶を指した。
「キエルさん特製の薬草酒です。タルヤ先生がこれも渡すようにと」
「酒?」
「ええ。酒精はほとんど抜いていますが、気つけ薬としてはちょうど良い按配だそうです」
「なるほど……。そういえば、キエルは?」
医務室に頻繁に出入りするようになったキエルだったが、そういえば今日は姿を見ていない。タルヤと一緒に外へ出たのだろうか、そう思ってロドリグに訊ねると、彼は首を傾げた。
「うーん……違うと思います。確か、タルヤ先生は出掛けにキエルさんに薬草の在庫確認を依頼していましたから、おそらくは倉庫かと。御用であれば、お呼びしますが?」
「いや、特にこれといった用事はないので」
薬の礼を言って籠を受け取り、一瞬の逡巡の後にテランスは階段を下りた。行き交う人々と挨拶をかわし、今日一日の幸せを願う定型句を繋げる。陽はとうに高いところにあって、もはや昼にも近い刻限。だが、そんな些細なことを気にする者はいない。
サロンに戻り、作戦室に立ち寄る。居合わせたヴィヴィアンから最新のレポートを受け取って、次はラウンジのモリーのところへ。療養食の献立を確認するだけのはずが、モリーは試作品の焼き菓子をテランスの籠に詰めた。太らせろ、と笑う彼女に、苦笑しながらこれにも礼を言う。ハルポクラテス先生から本を数冊借りて、カローンと立ち話を少し。ブラックソーンに得物を見せてみろと声をかけられ、戸口で窺っていたグツが自分も見たいと割り込む。また今度、と二人に約束をして、裏デッキから植物園へ向かった。
階段を下りていくと、緑の匂いが濃くなっていく。少しばかり深く呼吸すると、清浄な空気が肺を満たした。
「ああ、テランスさん」
植物の観察記録を熱心に書きつけていたナイジェルがテランスに気付き、帽子をとった。
「ご依頼のポプリができました。すみません、ご足労いただいて」
「いえ、頼んだのは私ですから。……こちらが?」
テランスの問いにナイジェルは頷くと、棚から陶器のポットを取り出して蓋を開けた。
「どうぞ。あまり目立たない香りだと思いますが、強すぎると逆効果にもなりかねませんからね」
荷物を机に置き、テランスはポプリポットを受け取った。そっと顔を近づけ、枯れた草花の穏やかな香りを確かめる。ナイジェルが言うように、控えめで優しさを感じさせる香りづけだった。
「タルヤ先生もこれくらいが良いだろうと言っていました」
「確かに。いただいても?」
「勿論です。良い眠りが得られますように」
ナイジェルは多くを語らなかった。
彼の心遣いにテランスは礼を言い、ぴっちりと蓋を閉じてから籠へポプリポットを入れた。ロドリグが持たせた籠はいっぱいになり、レポートと本を持ってしまえば両手は完全に塞がった。これ以上は寄り道できないだろう。
「では」
植物園から裏デッキに戻り、先頃拡張された居住区に向かう。隣接する病室に近付くにつれ足取りが自然と重くなっていくのが分かり、テランスは深々と息を吐いた。
自分の内にごうごうと風が吹き荒れている。
テランスがそう感じ始めたのは、隠れ家へ辿り着く少し前、ディオンの目覚める時間が長くなってきた頃だった。
恩人であるという少女を「主命」で保護した直後、黒の塊は現れた。廃墟にも近しかったツインサイドを引きちぎるように空へと浮上した黒の塊――オリジンは人々に多大なる絶望と恐怖を与えたが、ある夜、それは幾多の燐光を撒き散らしながら消えた。
キエルを伴ったテランスは、続けざまの異常な事象に起きた混乱から必死の思いで逃れた。誰しもがそうであったように仔細はテランスにも分からなかったが、やがて流れてきた噂話で彼の名を聞いた。ザンブレクの翼持つ反逆者が死んだらしい、と。
別の噂話も聞いた。黒の塊が消えた瞬間、三つの光が眩しく閃いたのを見た、と。
さらに別の噂話もあった。落ちた光の在処を軍が探しているらしい、と。
ザンブレクの聖竜騎士団を主体としてダルメキアの民兵、そして属領ロザリアの残存兵が加わって捜索部隊が編成されたのだという話を続けて聞いたとき、テランスは足元の崖が崩れるような感覚を覚えた。
絶望という名の崖。それが、あの黒塊のように砕け落ちていくような。
崖の下には、海があった。海は闇色をしていたが、波間は見えた。空に輝く月が、希望という名の海を照らしていたためだった。
テランスは意を決した。キエルにすべての事情を説明し、「任務」を放棄することを告げた。そうして詫びようとしたテランスを、キエルは遮った。――私も会いたい。会って、それから。二人は聖竜騎士団が駐屯しているダルメキア北部へ向かった。
久方ぶりに武装して陣に赴くと、そこはひどく慌ただしかった。己を律することを良しとする騎士達は右往左往し、早口で怒鳴る者もいれば、何処かに駆け出す者もいた。何があったのかと目を瞠った自分に気付いたのだろう、見知った顔の騎士が此方を指差した。――どこに行ってたんですか! ディオン様が、我が君が!
その瞬間、テランスは希望の海に自らが落ちたことを悟った。泳げるはずなのに溺れそうになり、闇雲に手足を動かした。うまく息ができず、ただ泡を吐く。どうにかなりそうだった。
だが、それは心の内のことで。
渡された指揮権には僅かに躊躇したが、即座に頭を切り替えた。状況を把握し、捜索部隊や「シドの協力者」と事実確認の連絡を取るよう命じた。真っ先に返事を寄越したのはボクラドのエルイーズという運び屋の主人で、既にディオン・ルサージュの身柄は「シドの一派」に引き渡したと飛ばし文には書かれていた。
どういうことだと戸惑ったテランスに、ディオンとテランスが不在の間に騎士団を預かっていた次官が説明した。シドとはクライヴ・ロズフィールド、つまり、我々聖竜騎士団をディオン様が預けられたバイロン・ロズフィールド卿の甥御のことだと。それで符丁が合った。ロズフィールド。
いくつかの命を飛ばし、再び指揮権を明け渡した。シドの一派から断続的に送られてくる情報に従い、キエルや騎士団の護衛数名とともにダルメキアを南下する。カンベル近くの廃港に停泊しているという船に向かい、船長だと名乗る少女に身元を明かして乗船を許された。
そうして、再び相まみえた。そのとき、ディオンは投薬による眠りについていて、その様子があまりにも静謐だったから、やはり彼は死んでしまったのだと思った。だらりと腕を下げて立ち尽くし、傍にいた医師らしい女性に心のままをぼんやりと告げたが、医師は『馬鹿なこと言わないでちょうだい』とテランスを一喝した。
そんな騒ぎがディオンの意識を浮上させてしまったらしい。あらら、と医師が溜息をついていたが、テランスはその意味を掴み取れなかった。ただ、目の前の彼がすべてだった。目覚めたディオンは、ゆっくりとまばたきをした。続けて、少しだけ顔を傾けてこちらを見やったのだが、テランスが何か言うよりも早く再び眠りに落ちた。
沈んで、浮かんで。また、沈む。昏睡と覚醒を幾度も繰り返す間、彼の体は少しずつ癒えていった。同様に目覚めの時間も伸びていき、容態はある程度落ち着くところを見せた。頃合いでしょう。医師――タルヤはディオンと彼に付き添う自分にそう言った。――ちょうど薬も切れたし、帰りましょう。もっとも、治療はまだまだ必要だから一緒に来てもらうわ。有無を言わせぬ口調に、背筋が若干凍った。
そんな頃だった。耳元でごうごうと音が聞こえ始めた。それは、風音のようにも聞こえて、無数の声のようにも聞こえた。吹き荒れる暴風、呼応する木々のざわめき、風が呼んだ雷鳴、噂話に興じる人々の囁き声、氷のような声色で告げる冷徹な命令、喪失の慟哭、捧げられた祈り、甲高い嘲笑にも似た風切りの音。風が、風が吹く。
単なる耳鳴りだと判じ、それ以上は深く考えなかった。否、考えないことにした。流石に少し疲れていた頃だったから、そのせいかと思いなした。いつかそのうち治るだろう、そう自分自身に言い聞かせて――、そんなわけだから今現在も誰にもこのことは伝えていない。医師にも、最愛の人にも。
伝えたくなかった。
§ §
籠を左腕にかけ、レポートと本も持ち直す。扉を常の打音でノックすると、中から応えがあった。失礼します、そう言って入室する。
文机に向かって何か書いていた様子のディオンに、テランスは荷物を持ったまま礼をとった。ディオンは一瞬こちらを見やって頷いたが、すぐに視線を書面に戻す。急ぎの文だろうか、そのような書状は届いていなかったが。
訝しんだのが伝わったのだろうか、ディオンはいくつかの単語を書くと、持っていたペンをトレイに戻した。不自由さを増してしまった利き手を振って立ち上がり、そうしてテランスに歩み寄る。
少し、風音が弱まった。
「随分と大荷物だな」
笑いながら籠の中をディオンが覗き込んだので、見やすいように籠を傾ける。
「薬を取りに行っただけではなかったのか?」
「そうですが、他にも用事がありましたので。……あとでご説明しますね」
受け取ろうとしたディオンから籠をひょいと遠ざけ、テランスは備え付けの小さな卓に籠を置いた。本とレポートもあわせて隣に置くと、籠の中身を置く場所はなくなってしまった。
まあ、いいか。テランスはそう考え、文机に視線を走らせた。
「書状……ですか?」
「ああ、これか?」
何事か書かれてある数枚の紙を示して訊いたテランスに、ディオンが問い返す。ええ、とテランスは首肯した。
「何か、火急の報せでも? それとも」
「いや、そうではない。これは……」
ディオンはまっさらな紙をその上に乗せた。隠すような素振りを見せられ、風音が再びにわかに強くなる。
「手紙だ」
「手紙?」
復唱の問いに、ディオンが頷く。誰宛の手紙なのか。訊ねるか否かテランスが迷ったのを見透かすように、「宛先は秘密だ」と彼は言った。
「……そう、ですか」
「テランスを思い煩わせるようなたぐいのものではない。……まあ、それでも気になるのだろうが」
見透かされて、先回りをされて。残酷に微笑むディオンがそれでも愛おしくて、テランスは思わず手を伸ばした。
親指の腹で頬を撫で、額と額を合わせる。高熱に苦しむことも今は少なくなったから、彼から伝わる熱は心地よい。そうしてごく間近で見つめ合って視線を絡ませること数秒、二人は同時に声を出して笑った。
「午後に手合わせを。懊悩を断ち切ってやろう」
テランスの腕を二度軽く叩き、身を離したディオンが言う。挑発的なその声色に、テランスは大袈裟に溜息をついてみせた。
「御身をお労りください、と言っても聞き入れてはくださらないのでしょうね?」
「そうだな。テランスがその口調を止めたなら、考えないでもないが?」
「……善処するよ」
降参、とテランスが両手を挙げると、ディオンは満足そうな表情を見せた。
風音は揺らぎ、次第に不協和音を奏で始める。
「手加減は無用だからな」
「無理難題を言うね?」
見透かされて、先回りをされて、誤魔化されて。
消えぬ風音から意識を背け、テランスもまた軽口を叩いた。