その言葉の源を教えて。
願いに繋がっている想いの源を聞かせて。
……答え合わせがしたいから。
§ § §
腕を軽くつつかれ、ディオンは目覚めた。首と肩が少しばかり痛く、その代わりにと言っては何だが妙にあたたかい。なんだろうと考えるよりも早く、「おはよう」と声をかけられる。
見れば、テランスが――勿論、この世界での彼が――苦笑まじりの表情で此方を見つめていた。着いたのかな、と問う彼に寄りかかっていたのだと気付いたディオンは、そっと離れながら頷いた。よく眠れた、と思う。眠れてしまった、というか。
彼の肩越しに見える車窓の風景はもはや見慣れたものだった。
LRTの駅から車でしばらく行ったあたりにルサージュ家の別邸のひとつがある。白ワインの産地として有名なこの地の買収に興味を持った父が形ばかりに買いつけた邸だ。
季節の花々が咲く庭。門の向こうには葡萄畑の畝が広がっている。
「目を覚まされましたか」
確認の声色で訊いてきた無口な運転手にも頷いてみせると、解鍵の音と共に車のドアが開いた。カバンを、とディオンは手を彷徨わせたが、そこには何もない。見れば、先に降りたテランスが二人分のカバンを持っていた。無意識なのか意識してやっているのか、七割の確率で前者だな、と思い、ディオンはテランスに気付かれないようにやはり溜息をついた。
――対等でありたい。……そして。
主従の関係は前世だけでよい。記憶が戻っても、置かれている境遇が少しばかり似ていても、彼が彼であるならば、今度は。今度こそ。
知らずつくっていた拳を緩める。手を伸べてきたテランスに己の手を乗せ、ディオンは車を降りた。
テランスの手は、少し冷たかった。
* *
……時は今朝に遡る。
『どうしても?』
『どうしても、です。そう言いつかっておりますから。お客様をディオン様のお部屋にお通しするな、と』
『何故?』
『それは私の知るところではございません』
この「家」を取り仕切る家政婦ソフィアと押し問答を繰り返すこと数度、朝からディオンは疲労困憊になっていた。この別邸にひとりで越してからこのかた、彼女とは割と良好な関係を築けていると思っていたが、「友人を招くかもしれない」とディオンが言った瞬間からソフィアの態度が硬化した。
ディオンの自室に友人――テランスを入室させてはならない、とそう言うのである。
正当な理由があれば理解の努力をしよう、とディオンが歩み寄っても、彼女はディオンの言葉を跳ね除けた。まるで相手にしてもらえない。
使うのであれば応接室を、と最終的に通告され、登校の時間が迫ったディオンは渋々頷いたのだった。
* *
テランスが視線で訴えている。この状況を説明してよ、と。
その気持ちは大いに分かる。分かるが、今はまだその時ではない。無言のソフィアが茶の準備に取りかかっている間は。
ディオンは三度緩く瞬いた後に僅かばかり斜め上を見やった。つられたテランスは途中で気付いたのか、ディオンに視線を戻した。笑顔で頷く彼にディオンも自然と笑みを溢す。テランスが二人だけの合図のひとつを忘れていなかったことがとても嬉しかった。
あの世界で、あの時代で。「前世」というべきか、ミド曰くのいわゆる「異世界」というべきか。ともあれ、そういった世界で己達はずっと一緒だった。……否、それは適切な表現ではないだろう。テランスは己に寄り添ってくれた。おそらく、自らの意思で。そして、その彼の心を弄んだのが己だった。泣き顔のまま突き放して、彼は己の望みを叶えてくれた。誰がどう考えても勝手極まりない我儘を。
だが、それしか思いつかなかったのだ。贖罪と、彼の救命と。あのときは本当に他の手立てなど考えられなかった。心も、状況も、何処にも余裕などなかった。すべて手放してからでないと、何もできないと思った。
今は? 今は、どうだろう。
いつの間にかソフィアと会話をしているテランスをぼんやり眺める。
意識が潰えた瞬間を憶えている。現世の彼が初めて己の名を呼んだとき、記憶の奔流の最初に現れたのは墜落していくさなかに見た闇空だった。そうして、次には去りゆく彼の背。けして振り返らないと分かっていたから垣間見ただけの、あの夜。歯を食いしばってやり過ごそうとしたのに涙は勝手に転がり落ちた、あの。
封じられていた記憶は短い動画を幾つも幾つも重ねたような具合で、あれから夢の形で繰り返し現れた。ここ数日ですっかり睡眠不足に陥っていた己のことを、彼は気付いていないかもしれないし、気付かないふりをしてくれているのかもしれない。分かるのは、車のなかで彼に寄りかかって眠ったときには夢を見なかったということだけだ。
首と肩がほんの少し痛んだが、あのあたたかさには代え難かった。記憶が戻ったとき、抱きしめられて涙したときもそうだった。
どうぞ、と言う声にディオンは現在に時を戻した。
ソーサーにショコラが添えられたティーカップをソフィアから受け取る。テランスも同様に茶を受け取っていた。……何故か彼のソーサーにはフロランタンも添えられている。どうやら、ソフィアは一定の評価をテランスに与えたようだった。
「何か持ってくればよかったかな、気付かなかった。やっぱり、花かな?」
ソフィアが退室した後、テランスはそう言って苦笑した。そうだな、とディオンも笑った。彼女からの評価をさらに上げるには効果的だっただろう。持っていったところで彼女は自室への入室を許さなかっただろうが、そこには彼女ではない誰かしらの思惑というものがあるのだろう。そして、別に今日でなくともよいと思う。
――ただ、本当は。
一口、茶を飲んでカップを置く。立ち上がったディオンの背に、怪訝そうなテランスの視線が向けられた。その視線を無視して暖炉とは反対側、品の良いチェストの上に置かれた繊細で優雅な佇まいを持つ置き時計にディオンは手を伸ばした。
本当の本当は、誰もいない場所で彼に告げたかった。
前世の謝罪と、現世での懇願。そのいずれもが、これもまた身勝手なものだということは分かっていた。何も生み出しはしない。
時を刻む、時計。一秒ずつ動く針に合わせ、かすかな音が聞こえる。
持ち上げてみると、時計は存外に重かった。どうしたの、そう言うテランスの声音をやはり好ましく聞きながら、ディオンは時計をひっくり返した。台座には何も付いていない。では、と裏を見る。電池式ではない時計には、電池入れの蓋らしきものは見当たらなかった。となると、とディオンが思ったそのとき、己のものではない手が時計に触れた。
「テ……」
「……貸して」
穏やかさを纏っていつの間にか隣に立ったテランスに、ディオンは時計を渡した。瞬間、指先が触れる。それだけでむずむずするような気持ちになるのは少し不思議だったが、己が己で彼が彼ならそういうことなのだろう、と無理やり解釈した。
だが、思い出しもしなかったなら。前世などというものが存在しなかったとしたら。
そう考えてみると、ディオンは背筋がそそけ立った。記憶を取り戻す前は、彼とは何らかの深い縁を感じたことはなかった。少し仲の良い、少し気になる、クラスメイト。仲間。それだけで、今のような感情を抱くまでには至らなかっただろう。もしかするといずれは彼が特別になる未来もあったかもしれない。だが、そうなる前に別の道を歩むことになったのではないだろうか。懐かしくも良き思い出の一ページに彼を封じ、それきりになったと思う。
そう思うと、今の己が彼に強く惹かれてしまうのは、やはり前世の魂に引きずられているためか。過去がそう仕向けているからか。
魂に枷をかけられた「今の己」は、彼の心を解放するのではなく、束縛したいと願ってしまっている。あの頃のように、此方だけを、己だけを見てほしい。その心の唯一として住まわせてほしい。……そうして、次第に訳が分からなくなっていく。
彼の本心が知りたい。知りたくない。己の願いを伝えたい。許されたい。明日と未来を共に、と希いたい。だが、すべてが怖い。そして、それらの心は現世の――今のテランスに告げたいのか。それとも、あの世界のテランスに告げたいのか。あるいは。
「また、ごちゃごちゃ考えているのでしょう?」
いつの間にか敬語に切り替えたテランスが、ディオンを見ないままにそう言った。ディオンが咄嗟に返事をできないままでいると、時計をぺたぺたと触っていたテランスの手がふと止まる。口の端を上げて何か小さく呟いた彼は、そこでようやくディオンに視線を向けた。
「持っていてください」
チェストに置くでもなくディオンに時計を預け、テランスは案内された椅子に戻って自らのカバンを探り始めた。すぐにお目当てのものは見つかったらしく、彼は両手に何やら持ってやって来た。
何、とディオンが問う前にテランスが持ってきたものを掲げる。右手にはモバイル、左手には透明で薄い小箱。二つともチェストの上に置くと、テランスは小箱を開けた。
「……それは?」
「楽器用のスモールドライバーです。偶にですが、フルートを吹くのが好きで」
「フルート……?」
「そう。吹けるのは、簡単な曲だけですがね。……さて、合うでしょうか?」
広がりそうな話題を切り上げ、背面をこちらに向けてください、とテランスは言った。その言葉通りにディオンが時計を抱え直すと、彼は時計の背面を擦った。すると、どういう仕掛けなのだろうか、背面がそのまま外れた。
古そうな背面にスモールドライバーをあてがう。真新しいネジをひとつずつ取り、やがて二枚目の背面も外してしまったテランスが「ありました」と小声で言った。
「……まあ、な。何故分かった?」
「それは、「記憶」から得た勘のようものですね」
しっかりと貼り付けられたボイスレコーダーを丁寧に外して、テランスが手の内に転がした。電源ボタンを押すと、小さな画面が淡く光る。
覗き込もうとして、ディオンは時計が邪魔なことに気付いた。軟弱なつもりはないが、軽くはない時計をいつまでも抱えているのは少し骨だったし、ボイスレコーダーもこうして回収した。時計に用はもうない。
慎重に時計を置く。ボイスレコーダーを見つめたままで考え込むテランスの様子が妙だとディオンは思った。こんなのは、中身をすべて消去して処分してしまうに限る。ボイスレコーダーを奪われたと気付いたソフィアは文句を言うだろうし、己の「実家」へ報告もするだろう。そして、テランスはこの家に立ち入ることはできなくなり――、下手をすると、二人の関係性を疑われる可能性も否定はできなかった。
ほら、とボイスレコーダーを受け取るためにディオンは手を出した。だが、テランスはディオンを見やると、首を緩く横に振った。電源を切り、力を失ったそれを彼は自らのポケットにしまい込んでしまった。
「テランス?」
時計の背面をあっという間にもとに戻したテランスにディオンは呼びかけた。
「これは私が責任を持って処分します。持っているのを見咎められたら、貴方はますます追い詰められてしまうでしょう?」
小首を傾げ、懐かしい「いつもの角度」でテランスがディオンを見下ろす。口調も所作もまるで本当にあの頃に戻ったように接する彼に、肌が粟立った。
何故、と焦燥の感情のままに言いかけてディオンは口を噤んだ。ほんの少し前、昔の合図を送ったときには彼は「今の彼」だったと思う。過去の記憶を少し手繰り寄せて、己の合図を思い出した。そのときの笑顔は、「最後に見た彼の笑顔」とは別のものだった。もっと前、彼が己の従者として仕えるようになるよりも前の、屈託のないそれ。流石にもう少し大人びてはいるが、普通のハイスクールの男子学生が見せる相応の笑顔だった。
それがいつの間にか、あのときの彼に。
「テラ……」
呼びかけたディオンを軽く見やってから小箱にスモールドライバーを戻すと、テランスはモバイルを手にした。画面をいじってカメラをセルフィーモードにしたらしい彼は、「笑ってください」と記憶を深く掘り起こすような声色で囁いてディオンの肩に触れた。
ディオンは息を呑んだ。そのまま、乱気流に巻き込まれたような感覚に襲われる。
唐突に言われたことと、彼の言動の変化と、ほのかに感じる体温、そして抱え込んだ己の願望、それらすべてをひとつの鍋に放り込んで煮込み始めたような具合に足が竦んだ。
何故か、あの夜が脳裏を過ぎる。照明が切れたのか、視界が明暗を繰り返す。情けないと思うこともできなかった。あの夜に己が望んだ断絶を、やはり彼は望むのかもしれない。
己が仕掛けた勝負では確かに勝った。勝利を得たならば望みをひとつ叶えてほしい、とそう言ったが、そうすると選ぶべきなのはやはり――。
「ディオン様? ……ディオン?」
ピコン、と機械音が鳴る。同時に名を二回呼ばれ、肩を抱かれた。その口調が現世のそれに――今の彼に戻ったことで、ディオンの意識は引き戻された。彼は、己は、此処に。
「……テランス」
「うん?」
――此処に。
そうは言わなかった彼に安堵し、抱かれた肩を言い訳にするように僅かに身を寄せる。やはり、あたたかい。そう思い、ディオンは笑んだ。
この熱を感じることができて、よかった。それだけで、この思い出だけで充分だと思った。前世で秘めた望みは、こうして叶ったのだから。
故に、己が選ぶべきは。彼に告げるべき言葉は。望みは。
肩を抱く彼の手を外して身を離し、ディオンはテランスを見上げた。未来は彼が決めることで、束縛などしてはならない。魂を解き放ち、見送ろう。ひとときなりとも邂逅できた、それはとても幸福なことだ。
あの世界では、為し得なかったことを。
ぐ、と拳をつくる。それでもまっすぐに彼を見ていられずに、俯いてしまう。
「テランス、私の願いは――」
「聞けないね」
ディオンの言葉を遮り、テランスが強い口調で言った。深々と溜息をつき、バリバリと自らの髪をかき回す。なんでこうなるかな、とディオンにはよく分からない言葉を吐いた彼は、呆然と顔を上げたディオンを睨んだ。
「ごちゃごちゃと思い悩んで、ひとりで勝手に決めつけて。その意思がいいベクトルに向いたこともあったけれど、あの夜も、今この瞬間も、そんな顔で本心の真逆を願う君の言葉なんてもう聞かない」
いつもの角度で見下ろされる。その角度でディオンが見上げると、険しかったテランスの表情がふと緩んだ。
「それに、もうたくさん聞いたよ?」
「え……?」
我ながら間の抜けた声だ、とディオンは思った。通り抜けたボールが想定とは違う方向に心の内で転がっていく。
「僕らが記憶を取り戻したあの日、泣きながら君は僕に繰り返し『すまない』とそればかり言っていた。……僕は君を再び抱きしめることができて途轍もなく嬉しかったけれど、君の言葉は苦しかった。いっそ、口づけで塞いでしまいたいと思うくらいに」
でも、とテランスは続ける。
「それ、は君が抱えていた思い……感情のひとつなんだと気付いた。そして、僕自身もその言葉に救われたのも事実だった。僕を捨てた君は、僕を顧みなかったわけじゃない。それどころか、こうして激しい感情をぶつけてきて――やっぱり嬉しかった」
「テラ……ンス」
「意地悪をしたことは謝るよ。君がこんなに揺らぐなんて思わなかった」
眉尻を下げて苦笑するテランスを、ぼうっとディオンは見つめた。
「君の本質は変わっていないんだろうね」
「……」
言い当てられた感情の動きに、ディオンは言葉を返せなかった。再び俯きかけた顔に、テランスの手が触れる。
「顔を上げて、僕をちゃんと見て」
「あ……」
テランスの両手がディオンの頬を撫でる。親指の腹で唇を軽く押される。やわらかな笑みを浮かべ、彼はディオンの心の吐露を優しく促した。
この笑みは、間違いなく己だけに向けられたもの。それは、確かなことで。
「ディオン。僕に、どうしてほしい?」
「……」
「ディオン?」
呼びかけられ、ディオンはテランスの意志に屈した。想いが、口から溢れた。
「……っ……今までの、「前世の記憶」が、ないままの、私だったなら……、それほどお前に、執着しなかった、だろう」
言葉を切るごとに、ディオンの唇にテランスの指が触れる。その所作にディオンは目頭が熱くなった。
キスがしたい、ふとそう思う。……思うけれど。
「取り戻したからなのだろうか、心とやらの隙間が、充足した思いがした。そう、初めて満ち足りたが……、次第にこの感情は誰のものなのだろうと思った。お前の心も同様に。この感情を抱くのは、どちらの私なのか。この感情を向けたいと願う相手は、どちらの其方……お前なのか」
「ディオン……それは」
困惑を含ませた声音で言いさしたテランスを片手で制し、ディオンは続けた。ぐちゃぐちゃな感情はすぐによみがえる。それでも、断崖絶壁を落ちるような気はもはや不思議としなかった。
崖を転げ落ちるようなときは、彼の手が己を引き寄せるだろう。強く。――共に堕ちていくときも。
「それでも、願うことは」
テランスの指と手のひらに口づける。突如踏み込んだディオンの行動に驚いたのだろう、テランスの体がぴくりと動いた。
「今度こそ傍にいたい、と。傍にいてほしい、そう望んでしまう」
ディオンはそう言うと、上目遣いでテランスを見つめた。言葉にしてしまうと、あれほど喉につかえていたような感情が昇華されていくような思いになった。このまま石砂になってしまってもよいとすら思う。
テランスが片手を離し、自らの顔を覆った。はああ、と溜息とは少し違う部類の吐息が不思議で、ディオンは首を傾げた。よく見ると、隠しきれていない彼の頬も耳朶も、程よく逞しい首元も朱に染まっている。
……それほどのことを言っただろうか。
離れた手が寂しくて、もう片方の手指にキスをする。あくまで触れるだけだったが、そのたびに愛しいと思う感情ばかりが募った。
「……ディオン」
もう一度深く息を吐いてから、テランスは咳払いをした。そうしてディオンに顔を寄せ、あともう少しで唇が触れ合う距離で問う。
「その願いの源は、どこから来るの?」
「源……?」
心地よい声音で囁いてきたテランスの言葉を、ディオンは一瞬掴み損ねた。問いを繰り返したディオンに、そう、とテランスが吐息で肯定する。
「聞かせて」
優しく落ち着いた声音は、それでも有無を言わせないもので。
――本当は、聞かずとも分かっているのだろう?
そう思いながら、ディオンはとあることに気がついた。かつての己は、どれだけの愛を告げていただろうか。捧げられたぶんの愛を返せていただろうか。
愛を告げられた次の瞬間に逃げられそうになったのを、昨日のことのように思い出す。誰よりも己を知る彼に告げられた言葉は、驚きよりも嬉しさが勝った。必死の思いで引き留めて、押し切って、好きだと告げた。
彼を愛していた。これは真実だ。だが、受け取るばかりだったというのも、真実。別れを告げ、受け取ってくれた最後の最後まで。
「ディオン……そんなに難しく考えないで。傍にいたい、いてほしい。そう思わせる心の源をそのまま僕に伝えて」
唇に触れていたテランスの指が再びディオンの頬を撫でる。それから、額を。
心をそのまま撫でられたような気がした。
「……愛、してる」
「うん」
冬海の色をしたテランスの瞳は、あの彼と同じようで、違うような気もする。違うようで、同じ。同じようで、違う。グラデーションの中で己は――己達は、きっと。
愛の言葉を一言だけ呟いたディオンに、テランスの瞳が潤む。声音はそのままだったが、涙を堪えているようだった。
テランスを少し引き寄せて、ディオンはほんの少しだけ踵を浮かせた。そうして、額を擦り合わせてみると、やはりあたたかくて。
ひととき前よりもまるで異なる幸福が訪れた喜びに、ディオンは笑おうとした。だが、全身の緊張が緩み、少しばかり口の端を上げてみせるだけで精一杯だった。
それでも想いは伝えたい。もう、誰にも怯えずに済む。誰かに誹られても、誰かがあの世界のように己を縛りつけようとしても、彼を愛していく。精一杯に。
「愛している、テランス。あの世界でも、今この時も。……それから、この先も。だから、傍にいたい」
そして、傍にいてほしい――。
そう続けようとしたディオンの言葉は、テランスに吸い取られた。