……かつても、今も、彼は守りたいのだろう。
ディオンは言葉少なにジョッキを傾けるテランスをそっと見やった。
学生の行きつけのパブは考査が始まっているのにも関わらず賑わっていて、ディオンとテランスはカウンターの隅に追いやられた。今ではすっかり慣れたが、「作法」を覚えるまではどうしたらよいものかとテランスと二人で右往左往していたな、と思い返してみると少しく懐かしい。
楽しい日々。幸せな日常。終わらないでほしいと心の底から願う、煌めき。
それらはひとりではなし得ないもの。……彼がいてこそ、かけがえのない煌めきは己の前に姿を現す。世界が彩られる。
それは何故か。彼は己に何を齎しているのか、あまりに多すぎて数え上げきれない。
たとえば、込み上げる名状し難い熱量を持つ感情を彼は捕まえてくれる。正負構わず。
故に、曝け出せる。すべてを、と望む彼の束縛はあまりに心地よくて、だからこそ不安の風が僅かばかりではあるが心に吹き込む。
何もできていない。甘えるばかりで、彼の腕のなかでぬくぬくとしているだけで、何も。
その不安さえ彼は掬う。守りたい、とそうして言う。あの世界では、本当に何もできなかったから。悲しそうに、悔しそうに、寂しそうに顔を歪めて。
涙が零れ落ちたこともある。手を伸ばして指先でそれを掬い取った。
そんなことはない、と己のなかの真実を告げても彼の心は救済されない。だが、あの世界で、暴走する瞬間まで心が折れずに済んだのは、彼が己の心を必死で守ってくれていたためだ。彼の想いを己が利用していると知りながら、それでも尽くしてくれた。最後の別れでも嘘を見逃し、そうして己があの世界から消えても、なお。
守られるばかりで、守りきれなかった。彼はそうも言った。彼の心の水底にようやく触れたのは、秋の夕暮れ、マロニエの木の下でキスをしたときから。幸福と、絶望と、悔恨、憎悪、諦念、そうして。今度こそ君のすべてがほしい、そう希う彼の我欲の源泉こそ、己は欲した。囁かれた愛に疑念はないが、彼は嘘を仕立て上げるのがとても上手かったから。心を隠してしまうのも、同様に。故に、荒れ狂った感情のかけらを拾い上げたとき、えもいわれぬ多幸感と充足感を覚えた。
欲張りだ、と互いに言い合い、揃って笑った。空想の海の色がまるで違うと語りもした。
だが、今は。
己がそうであるように、彼も気付いている。「そのとき」はまもなくに訪れる。否、既にその渦中にあった。
今度はなぞらない。あの世界のシナリオは繰り返さない、絶対に。己にとって最も大切な存在に手を伸ばす。迷っていようと、引っ込められようと必ずその手を掴む。
私を、私の心を守ってくれ。彼にそう乞おう。
――お前の心と、ふたりの未来を己が守れるように。
飲みかけのグラスの水滴を見つめ、ディオンは思った。
「飲む気分じゃなかった?」
内心を推し量る声色で訊いたテランスに、首を横に振ってディオンは否定した。積極的に飲みたかったか、と言われれば違う。だが、テランスとふたりで過ごせるのはやはり嬉しいひとときだった。
己はともかく、とディオンは続けて考える。テランスは普段からディオンがアルコールを入れるのをあまり好まない。若干の悪癖がね、とか言って、とにかく彼がいない場での飲酒には目くじらを立てていた。学友には念を押してまわる姿に呆れていたが、ヴィヴィアンに「王子様」から連絡が来たぞと愉快げに笑われたときには、流石に少し険悪な空気になったりもした。そう考えると、今宵は少し珍しい。むしろ、テランス自身がアルコールを欲しているように思えた。
根が生真面目な彼が酒の力を借りなければ言えないような、何か。飲みに誘ってきた朝よりもずっと思い詰めている、理由。それは、何か。彼が抱え込んでいるものは。伝えてほしい、聞きたい、そう願う。
己が伝えるべき事実は、先日語った。気怠くも満たされた朝に、マフィンを齧りながら。
正式に家族から――父から絶縁書を突きつけられたこと。署名のための万年筆を差し出したアナベラが微笑みを見せたこと。署名をし、別れを告げたこと。……返事はなかったこと。
何故、とは父に訊かなかった。いつかこの日が来るだろうと分かっていた。本邸から別邸に追いやられたときには既に決定事項だったのだ。いっそ、遅いくらいだと思いもした。……あの世界とは違って、父に尽くせるものは何も持ち合わせていない。捧げられるものは、何も。無価値の存在だった。
それが酷く悲しいときもあった。記憶を取り戻す前のことだ。すべてがすり抜けていくその現実に打ちのめされ、虚しくもあった。父にとって己が不要なものならば、この世界すべてが父と同じ目で己を見ているのだろうと思い込み、ペンスタンドのカッターに目をやったこともあった。
心にある空虚な穴は完全に埋めるのは難しいだろう。寂しいとも思う。だが、寂しさも虚しさも、今となっては針先にも満たず、縋る思いはなかった。
ファミリーネームでルサージュを名乗ることは許された。もっとも、既に成年を迎えている故に、改姓を父が命じたとしてもその命令に法的効力はない。また、対外的にも「ルサージュとして認知はされている者」を分かりやすく排除するわけにもいかない。過去はともかく、今は清廉な印象を与えたいのだろう。政界とも通じ始めたと聞く。父とアナベラは妥協した結果、ディオンにルサージュの名を許した。
父の会社に関わるすべての行ないを禁じられた。ライバル企業に属し、謀略で陥れるような真似事も同様に。余計なことをすると、と暗黙の脅迫を受けた。
会社は父とアナベラの子であるオリヴィエが継ぐと父が言った。そればかりは反駁したい思いはあった。従業員と、創業時からの支援者に株主、一部の有能な上層部のために。そして、傀儡の道を歩むことになる義弟にも僅かなりとも憐憫の情を抱いた。父の会社は世襲向きのものではない。名や家格はなくとも統率力を持つリーダーを立て、有能なブレインで周りを固めるべきだとディオンは思った。
ルサージュ家そのものの歴史は古いが、会社のほうは起業して四半世紀ほどと浅いことも世襲に懸念せざるを得ない一因だった。グローバル展開しているとはいえ大半が強引なM&Aによるもので、「成り上がり」と揶揄される所以にもなっている。そういった意味でも世襲はリスクが高いと思われた。
だが、ディオンが発言する権利は既になかった。アナベラが見せた勝ち誇った笑みには一瞬不愉快になったが、不思議と「それだけ」だった。あの世界で、神皇宮で、嫣然と笑みを浮かべていた彼女には限りない憎悪を抱いたのに、今はそうではなかった。何故なのだろうと思ったが、敢えて答を探すのならば、既に満たされているからなのかもしれないと思った。
からっぽだった器に、餓えていた心に、澄んだ水を注ぎこんだ彼によって。
そうして思う。父はともかく、経営陣に一度は縋られた己をアナベラは放っておかないだろう。どのような手を使ってくるか想定し、彼女を退ける。絶対に、彼を守る。アナベラは己ではなく、急所と判じたテランスに狙いをつけるだろうと考えた。
戦いが、始まる。
アナベラの悪意に晒され、脅され、その苦悩の末に彼が手を離そうとしても、己はそれを許さない。曝け出した互いの本心は、差し出された想いは、彼の嘘を逃さない。ランデラの夜、幸せを願うすべをあれ以外に思いつかなかった己を許してくれた彼のようにはなれないし、そうはならない。どれほど見苦しくても、あの世界での未練に引きずられすぎだと忠告を受けても。
……ただ、彼は己と他の何かを天秤にかけるだろうか? おそらく、天秤に乗せる前に捨て去ってしまうのではないか。自惚れでもあり、不安でもあるが、それはそれで心配だった。先回りをしすぎるきらいのある彼には、本当の憂いを与えたくはないのだ。
「ディオン」
テランスが思い詰めた声色でディオンを呼んだ。応えの代わりに、少し歩を詰めてテランスに向き直る。何だ、とそうしてディオンが問いかけると、テランスは少しの間の後に予想通りの言葉を震える声音で告げた。
「指輪、外そうと思う」
テランスはディオンの視線に応えないままそう言うと、薬指にはめてある自らの指輪をそっと撫でた。
何故、とは問わずにディオンはテランスを見つめた。カウンターテーブルに、ほたりほたりと幾粒もの雫が落ちていく。そういえば彼は泣き虫で、あの夜にも泣いていた。そうして歯を食いしばって、言葉を呑み込んで、去ってくれた。立ち位置は真逆だなと思い、推し量ることしかできなかった当時の彼の心を知る。
覚悟と、絶望。恐怖と――、指先ほどの安堵。そんな感情に縛られて日々を過ごした。いつだっただろうか、シーツの上で泳いだ後に彼は懺悔の声色で告白した。
いつか、去りゆくのだと分かっていた。そのときがついに訪れたのだ、それだけなのだと。彼が望んだことなのだからと。
その言葉は己を苛んだ。彼を苦しめたという後悔が胸に沁みた。それと同じほどの歓びも感じ、己の業の深さを思い知った。
すべては泡となって消えるのかと思ったのに、さらさらとした砂が天から落ちてくる夢を見た、彼はそう言った。見上げれば、光が降り注いでいて、ああ、と頽れたそんな夢を。
思い出話にするだけのつもりだったのだろうが、彼は失敗した。彼の頬を涙が伝い、シーツに吸い込まれていく。あれ?と呟き、両手で顔を覆ってしまった彼を抱きしめると、嗚咽まじりで彼は己の名を何度も呼んだ――。
卓に肘をつき、テランスがあのときと同じように顔を覆うのを、ディオンは見つめた。
苦しみは何か。彼の苦しみの源は何か。分かりきっている。……そう、思うけれども。
別離を、と望む嘘の裏側に眠るこころを逃さない。彼が、己に誓ったように。言い放ったように。
ディオンはそんな思いで手を伸ばし、彼の背を撫でた。拒むようにびくりと震えたその背を数度撫で擦り、それから肩を抱く。強く揺すると、テランスは子どものようにかぶりを振った。だが、それ以上の拒絶はなかった。
「テランス」
呼びかける。
いつか、彼が虚空に向かってそうしたように。
いつか、無音の世界に彼が佇んだときのように。
あの日、彼の声で音がはじけたときのように。
「テランス、私は」
呼びかける。
そのとき、己は彼を感じられる存在ではなかったけれど。
あの夜、己は望みばかりを彼に押し付けた愚かな存在だったけれど。
……今も、きっとそうなのだろうけれど。
「お前を、愛している」
呼びかける。おぼろにしか覚えていない、あの世界の言葉で。
「離さない。たとえお前が心の根から別れを望んでも、絶対に」
呼びかける。今、この瞬間の想いを。
言葉は圧倒的に無力で、彼に届く前に落ちていく。それでも、響けと願う。
未来を見たいと願った。あの感情を、真実を、ふたりで。
名を呼び、肩を揺する。賑やかさを遠のけ、彼の嗚咽を拾う。泣き濡れた声を探す。
――僕は。君を。
そこで止まる言葉。その先を紡げない彼の代わりに、ディオンは小声で囁く。
「大丈夫だ、テランス。私は、もう壊れない。……たとえ、銃口を、あるいは刃を向けるのがお前であっても」
そして。
「何を迫られた? あれはお前から、私から、私達から何を奪おうとした?」
推測はできる。敵を潰すのに快感さえ覚えるのだろう「彼女」は、こうした迂遠にも思えるような手を使うのだ。苦しむさまを想像して愉悦に浸るのは悪趣味なことこの上ないが、その悪意に晒されるのが彼であってはならない。
「……君を、物言わぬ存在にしろ、と」
ぽつりとテランスが言った。自らの言葉に恐れた彼の頭を引き寄せ、反対の手で彼の手をディオンは撫でた。されるがままの彼に、少し安堵する。
薬指にはめた揃いの指輪を眺めた。
「殺せ、とは……言わないな、あれは」
ディオンの溜息に、テランスが頷く。
「はじめ、は。最初にかかってきた電話は、そうだった。君を殺せ、もしくは自死を選ぶような道行きを辿らせろ、導け、と。さもなくば、僕に関わるすべてを害すると彼女は言って。――でも、そのときの僕の天秤は揺らぎもしなかった」
信じて。
顔を上げ、縋るようなまなざしをテランスはディオンに向けた。潤んだ瞳、涙に濡れた頬、少し赤い鼻、恐怖と哀願に震える口元。
すべてを愛おしく思いながら、ディオンは「疑いなど持ちようがない」と笑んだ。彼が己に寄せる想いは、後ろめたさを感じながらも結局は心も身も浸していく。だが、ともすると溺れさせるほどの愛情が、今は彼を苦しめている。
テランスの肩から腕を撫で、向き直らせる。指輪をはめた彼の手を己の両手で包み込み、小首を傾げて続きを促した。
「……昼過ぎにメールと電話が、また来て」
「電話の相手は、やはり?」
ディオンがそっと問うと、テランスは頷いた。昂った感情を制御しきれないままの彼の瞳が揺れる。
「それで、「物言わぬ存在に」とは?」
重ねた問いに、テランスは即答しなかった。嘘をつくというより、どう伝えてよいか困り果てているふうの彼へ、ディオンは「大丈夫だ、すべて」と繰り返した。
「……この世界では、言うだろう? 病めるときも、健やかなるときも」
「ディオン……」
「お前が私の苦しみに寄り添ってくれるように、私もそうありたい。……苦しみの根源が私にあっても」
包み込んだ両手でテランスの手を撫で、ディオンはいつもの角度で見上げた。
テランスの喉仏が動く。そうして彼は言った。
「籠絡しろ、と」
「とうの昔にされているぞ?」
笑いながら言い返してしまったディオンを見、テランスは不器用に口の端を歪ませた。そっか、と呟いて続ける。
「囲え、と」
「これもとっくに、だな。確かにお前の腕のなかは心地良すぎて、不安になるが」
「ディオン?」
意外、というようなまなざしを向けたテランスに、ディオンは目を細めた。一瞬、そのまなざしから逃れそうになったが、意を込めて彼を見つめる。
「何も与えられない、想いを伝えきれていない、悔しく思いながらも心地良さに揺蕩い、思考が止まりそうになる。けれども、お前が私を何度も呼ぶから」
届かない言葉。届かない想い。それでも、あの世界の自分は幸福だった。彼はそうも語っていた。
受け止めきれなかった言葉、想い。向けられた愛情の色は己のそれとほんの僅かに違い、心苦しかった。――それでも、あの世界の己は幸福だったのだと思う。
彼と出会えて、よかった。今も、否、今はより強くそう思う。
「お前の声が、言葉が、熱が、私を生かす。私が私であるために、と心から思える。次の呼吸を、道行きの一歩を許される」
「……僕が、ディオンを?」
ぼんやりと呟いたテランスの手が動く。その動きに合わせ、ディオンはテランスの指輪に口づけた。
「最愛に、心からの感謝を」
「ディオン、でも」
動揺するテランスに、真実を告げる。
「たとえば、お前が私の意思を封じ込めたとしても――、それこそ、あの世界でのアルテマの役割を果たしたとしても。私はお前を好くだろうし、今度こそお前を忘れないだろう。眠りに就いたままでも、魂魄を抜かれて意思疎通ができなくなっても」
「……そんな未来は、嫌だ」
昏い欲はあったのだろう、逡巡の後に言葉を落としたテランスに、ディオンは微笑んだ。そうだな、と頷き、指輪がはめられているほうの手を差し出した。
テランスがディオンを見つめる。潤んだままのブルーグレーにも似た瞳の色は、薄暗い酒場では透明に見えた。涙を払うために忙しなくぱちぱちと瞬きをしてから、彼はディオンの指輪に口づけた。
何処かから、ひゅう、と指笛が聞こえた。優しい野次と、歓声と、何故か拍手が続く。詳しい事情は分からずとも何やら面白いことが起きていると見られていたのだろう。
「あ」
片隅とはいえ、此処が公衆の面前であることをすっかり意識の外に置いていたらしいテランスがディオンの手をとったままで固まった。そのさまが面白くて、ディオンはテランスの頬にキスをした。すると、テランスはますます硬直した。
愉快な心持ちのままでディオンは周囲を見回した。この場に居合わせた客も店員もそれぞれが笑顔で此方を見ていた。ふたりの関係性をみなが受け入れていることは以前から不思議だったが、素直に嬉しく思った。笑みを見せてからディオンが片目を瞑ると、応えるように指笛が重なり合って、偶然なのか示し合わせたのか、綺麗な和音をつくった。
「ディオン」
指笛の賑やかさにフリーズが解けたテランスは開き直ったらしい。名を呼ばれ、繋いだままの手をテランスに引かれたかと思った次の瞬間、ディオンは彼に抱きしめられていた。
テランスはディオンに何も言わなかった。言えない、のかもしれなかった。だが、この抱擁は何よりも彼の想いをディオンに伝えてきた。早まる鼓動が嬉しい。
そのとき。
「気は済んだか? 随分と待ったのだが」
刺々しく、凄みのある声がディオンとテランスに投げつけられた。聞き覚えがある声の主にディオンはテランスから離れて向き直ろうとしたが、彼はそれを許さなかった。ほんの少しだけ緩められた彼の腕のなかから声の主を見る。
プラチナ色の髪を切り揃えた女性はテランスを、次いでディオンを睨んだ。顔をしかめる彼女に声をかけたのは、彼女の直接の後輩であるテランスだった。
「ベネディクタ? 何か用……」
テランスの問いを一瞥で遮った彼女は、ディオンを見据えた。
もしや、とディオンは思った。テランスのスーパーバイザーであるベネディクタ・ハーマンは「記憶持ち」ではなさそうだ、とテランスは語っていた。しかし、『いつかは戻るかもな』と予言のように指導教官はそう宣ったらしく、『食えない方だ』と後にテランスは彼にしては珍しい表現で渋い顔をしていた。
ベネディクタは片手を腰に当てると、「察しがいいな」と顎をしゃくった。
そうして、転換点となる言葉をふたりに告げる。
「学部長――いや、「騎士長殿」がお呼びだ」