空港まで迎えに行ったテランスは、二週間ぶりにディオンの姿を認めるなり顏をしかめた。だが、すぐに気を取り直して意識して肩の力を抜く。そうして、少し硬い表情のままで出てくる彼に声をかけた。
――心の内に現れた天秤は、必ず彼に傾く。何があっても。
それだけは譲れない想いであり、真実だから。
§ § §
朝のカフェテリアはいつも通り賑わっていた。毎週提出が必須のレポート三昧の日々もまもなく区切りがつき、考査が終われば休暇となる。早くもその休暇の計画を立てている者もいれば、やばいまずいと自らの現況をぶつぶつ呟きながら未だテキストに齧り付く者もいる。燃え尽きた感のある者もいたが、勿論平常運転の者も多かった。
平常運転のひとりであるテランスは、朝食をあれこれとピックアップした後に辺りを見渡した。カフェテリアの隅の方で数人の人だかりができている。笑顔で何かを言っている彼らはいずれもが顔見知りだったから、テランスはそちらへ向かった。姿は隠れて見えないが、ディオンはその場にいるに違いないとそう思った。
「お、テランス」
テランスが近づくと、ディオンの学友達は振り返った。彼らに軽く挨拶し、「元気?」といつものやりとりを続ける。すると、学生の一人が「俺達はまあ普通だが、「姫君」が超怖い」とふざけた口調で言った。
彼らが左右に退くと、テランスの予想通りにディオンが着座していた。冷光を放つような雰囲気は、人によっては確かにおそろしくも見えるだろうとテランスは苦笑する。転じれば、普段の彼は気やすくも見えて――、いや、いつの間にかそう見えるようになっていて、ある意味そちらのほうがテランスは気を揉む羽目になっていた。
しかし、あの世界でもこの世界でも孤独だった彼が、こうして友人に囲まれている。彼のひそかな望みのひとつだったから、それは本当に喜ばしいことだ。
……とはいえ、やはり少しばかりの悋気は許してほしいと思う。けして彼は「もの」などではないが、現世の自分はどこまでも独占欲の塊なのだ。いつもの「姫君」呼ばわりは百歩譲ることにするが、忙しない朝の時間でもできるだけ彼と過ごしたかった。
「おはよ、ディオン」
「……おはよう」
肘をついたままのディオンが緩くつくった拳を上げたので、テランスもまた拳をつくってディオンのそれと軽くぶつけた。外向きのいつもの挨拶に笑み、次いで、その場で様子を「見守っていた」ディオンの学友には別種の笑みを浮かべた。
それだけで彼らは口の端を上げて「「王子様」もなかなか怖いな。――ディオン、また後で」と言ってひらひらと手を振り、トレイを持って去っていった。
彼らから視線を外し、テランスはディオンと向かい合わせに座った。そうして、ディオンのトレイを見やる。ピクルスのサンドイッチ一切れ、スクランブルエッグがティースプーン半分程度、コーヒー。食べかけの様子でもないから、ディオンが自身で判断した食欲はこの位なのだろう。
食事のバランス云々は専門家ではないが、単純に少ない。特に今は学期末で多忙になるし、頭を使うには適切な栄養が必要だ。そうでなくとも彼には懸案事項がある。――それは自分もそうなのだが、ひとまず今すべきことは彼にもう少し食事を摂らせることだった。
野菜煮込み(ラタトゥイユと書いてあるのだが、いつも謎の味付けだ)を彼の皿によそい、焼きこげの度合いがマシなベーコンを二切れ、幅が揃っていないオレンジのスライスも置いていく。「おい……」という彼の声は無視して、テランスは彼のコーヒーと自分のカフェオレを取り替え、キャロットポタージュが入ったスープカップを最後に置いた。この作業はなにやら既視感があるな、と感じつつも今に始まったことでもないかと思い直す。
「こんなに食べきれないぞ。それに眠くなる」
「全部とは言わないよ、少しでも食べて」
テランスの言葉に、ディオンは不承不承といった具合でスープスプーンを手にした。
「それに、ちょっと心配で」
「何が」
短く返すディオンの機嫌は、分かりやすく降下したままだ。敢えてそうしている部分もあるのだろうが、指摘はしないでおく。心の内を隠され、封じ込められるよりは余程いい。
彼のすべてを、と思う内なる自分がそう告げる。
「うーん……」
謎の野菜煮込みを乗せたトーストを齧り、テランスは少し答に詰まった。というより、どう転がせばディオンは負のループから脱却できるだろうかと考え、その末に正直にそのまま伝えることにした。
一応、何があってもいいようにトーストはさっさと腹に収めてしまう。
「だいぶ軽くなってたし、腰回りも細く――」
「……テランス!」
笑みを浮かべて囁いたテランスを睨みつけ、ディオンが勢いよく立ち上がった。その秀麗な顔がみるみるうちに朱に染まっていく。首元まできっちりボタンを留めたシャツから覗く素肌には、よくよく見れば気がつく位置に付けたいくつかの跡がある。このままからかい続ければそれらもさらに色濃くなるだろう。
「はい、ここに。声、少し潜めてね。皆がこっち見てるから」
「……お前が、いきなりそんなことを言うのが悪いっ」
ぐ、と歯噛みした後に座り、律儀にも小声で文句を言ってきたディオンはやはり愛しくて、テランスは自らが抱えている憂慮事項と彼を天秤にかける必然性を感じなかった。
* * *
一昨日、ディオンを抱いた。
空港から大学までは三時間ほど車を走らせる必要がある。「帰省先」から帰ってきた彼は、何も言わずに助手席で変わり映えのしない夕暮れ時の風景を眺めていた。
気まずいようで、そうでもない、妙な沈黙が転がっていた。共同名義の中古車を運転するテランスも何も言わなかった。訊かなかった。
自分の今の選択は、少し間違っているのだろう。そう思いながら、今このときではないと心は囁いていた。
彼が帰省して三日ほど経った頃だったろうか、某所から電話がかかってきた。電話番号がモバイルの連絡帳に入っていたことと、画面に表示された連絡先の文字列から判じて電話に出た。彼に何かあったのか、それとも彼自身からか。疑念はあったが、通話ボタンをタップした。
はい、とだけ告げると、耳元に息を吹きかけるような音が僅かにした。聞きようによっては少し艶めいたそれ。テランスは通話の相手が誰なのかを瞬時に悟り、息を呑んだ。
――はじめまして、ごきげんよう?
語尾を上げて挨拶をしてきた「彼女」に、慎重に返事をする。即座に電話を切らなかったのは、彼の無事を確かめたかったのと、彼女が持つ無数のカードをどのように切ってくるかを知る必要があると思ったためだった。
――そのように警戒せずともよくてよ。
強張った声音を愉快に感じたのだろうか、ふふ、と彼女は笑った。強者が持ちうる余裕が電話越しでも伝わる。それだけで彼女が自分を屈服させようとしているのを感じ、テランスは空いた片手で拳をつくった。モバイルを少し離し、深呼吸をする。
再びモバイルを耳に当て、ご用件は?とテランスは言った。
そのとき彼女が自分に告げた内容を、彼に打ち明けなければと頭では分かっていた。自分が彼を唯一無二の存在として手に入れたいと願うのとほぼ同じ方角で、彼もそういった側面を持ち合わせている。その熱量にはやはり少し差があるのだろうが、誤差の範囲にも等しい。傍にいたい、いてほしい、共に未来を――、そう言い合える「今」を少しでも守るためには、早く話さなければとテランスは思っていた。
そう、思ってはいるのだ。だが、それをどう伝えてよいか迷う。彼の話を聞いてからにするべきか、それとも。
そもそも、話の聞き手になることは多かったが、自分から「相談事」を持ちかけたことはそれほどなかったと思い返す。あの世界での悩みや憂いは、彼の苦難をどう退けるかといったたぐいのものだったから、裏で手を回すことのほうが多かった。彼の傍に少しでも長く、彼の命の灯火が少しでも長く、あるいは、彼自身がその灯火に砂をかけてしまわないようにと願う日々。彼の心の根が自分に向いてはいないと分かっていても、そんなことは些事だった。些事、と言い聞かせていた。
今は、と思う。記憶が戻って共に涙した日。彼が知らないあの世界での諸々の出来事や、抱え込みすぎていた感情、そういったものをぶつけた日。それだけではなくて、「今」の話もして、未来を一緒に見るようになった。彼は、自分にその手を伸ばした。その手に、言葉に、どれほど救われたか分からない。彼の涙が、想いが、自分の心を潤わせた。
同じことを彼も言っていた。それもやはり嬉しくて。
……けれど。
『テランス』
次のラウンダバウトを通過してしばらく車を走らせば、すっかり住み慣れた「家」に着く。しかしどうしようかとテランスが迷っているところに、ディオンが声を発した。
『何?』
『次を曲がってくれないか』
前を見たままテランスが短く訊き返すと、ディオンもまた短く言った。彼が母語を使ったので、テランスもこの国の言葉からそちらに切り替える。
『右? 左?』
テランスの問いに、ディオンは手振りで方向を指し示した。それを横目で見、軽く頷く。
半周と少し回って、街を出る手前のスーパーマーケットで車を停めた。偶に行く「目的地」に予約を入れ、ルームメイトにも今夜は帰らないとショートメッセージで伝え、それからディオンを伴ってスーパーに入る。目的地には何も用意されていないから、簡単に食べられそうなものを買い込んでおく必要があった。
テランスはディオンにスーパーのカゴを持たせた。普段は自分が持つのだが、今のディオンは積極的に買い物をしなさそうなので役割を交替することにしたのだった。
大学に近いから、買い出しには時々来る。そのため、何処に何があるかは概ね頭に入っていた。今夜はゆっくり食べている暇はないだろうと思い、朝に回せそうなマフィンをまずは二つ入れた。ついでに、その横にあるカップ入りのクランブルも入れる。デリに移動し、フィグとローストビーフのオニオンサラダを大カップで注文し、それもカゴへ。あとは、ふたりで揃って好んでいるチーズ、有料の木製フォークを二本、炭酸入りと炭酸なしのミネラルウォーター、オレンジジュース。
こんなものかな、とディオンが持つカゴの中身を確認し、テランスは目線を上げた。呆れ顔で此方を見ているディオンに苦笑し、答は分かり切っている問いを一応投げておく。
『今日、何か食べた?』
『……』
『ディオン?』
『……。……昨夜、チーズとワインを、少し』
視線を泳がせ、俯いてからディオンは言った。
予想通り、否、それより悪いディオンの回答にテランスは仰向いた。うーん、と唸ってしまうのは仕方がない。よりによってアルコールを入れたか、と舌打ちもしたくなったが、寸でのところで思い留まった。素知らぬふりでレジへ向かおうとしたディオンの腕を掴み、視界に入ったヨーグルトと有料スプーンを入れてから移動する。
携帯食のコーナーでクランベリーとナッツが入ったシリアルバーをカゴに放り込むと、テランスはディオンからカゴを取り上げてレジへ行った。
駐車場でディオンにシリアルバーとヨーグルトを食べさせた。もういい、と返してきたヨーグルトのカップとスプーンを受け取り、二口で食べきる。車に常備しているビニル袋にゴミを入れてからダストボックスへ。それからテランスは車をそろりと走らせた。
『……お前は、まったく』
愚痴か不平らしきものをもごもごと口中で呟くディオンは愛らしかったが、その内心はかなり複雑で気鬱が渦巻いているのだろうとテランスは感じていた。この二週間で何があったのか、何もなさすぎたのか。自分には、それを知る権利がある。そして、あの電話の仔細を彼に伝えるという義務も、同時に。
目的地である旅行者向けのモーテルには、十分ほどで着いた。敷地内にそのまま入り、あらかじめ伝えられていた番号の建物に車を停める。ディオンのスーツケースは「そのままでいい」と本人が言うのでそのまま車内に置き、貴重品とこれも常備している衣類が入ったバッグを持って出た。スーパーで買い込んだあれやこれやを入れたエコバッグはディオンに持ってもらう。
モバイルをドアのパネルに翳すと、解錠音がした。はじめのうちは慣れなかったし、あの世界とのギャップに目眩がする思いだった。ミドが知ればどう思うだろうな、とそのときのテランスは一瞬思ったが、そういえば彼女は現世においても既に幾つもの特許を取っている。勿論、こんな技術は把握しているだろうし、何なら彼女も関わっているかもしれない。記憶持ちの大先輩は、大海原を自由に泳ぐ魚のようにこの世界を生きている。
中に入ると、センサーが感知して照明がついた。シンプルながら落ち着いた風合いの部屋は中央にベッドが一台据えられている。あとは小さめのダイニングテーブルと椅子が二脚、その横のチェストの上に電気ポットとティーカップ。先程のスーパー同様、このモーテルも既に馴染みがあるから、勝手知ったるという具合でテランスもディオンも動いた。
手洗いうがいをし、ワンドアの冷蔵庫に食料品を突っ込む。最後のオレンジジュースを渡してきたディオンの手を掴み、テランスは彼をシャワーブースへと押し込んだ。
『旅の疲れをまずは癒して。それから――』
『ひとりで?』
テランスの言葉を遮ってディオンが言った。いつもの角度で見上げてくる彼の誘いに、テランスは深々と息を吐いて琥珀の瞳をじっと見つめた。そうして、彼の心を見極める。憂いが色濃くあるが、不屈の煌めきもある。諦念に覆われてはいないが、はたして弱音を紡ぎ、本心を曝け出す気力は残っているだろうか。このまま進むべきか、彼の意を退けるべきか。彼への欲は常に持ち合わせているから、誘いには素直に応じたいのだが。
『テランス』
美しい色の瞳を眇め、ディオンがテランスの頬を撫でた。そのままキスを仕掛けてきた彼に結局従うことにしたテランスは、自分の頬を撫でる彼の手に片手で触れた。舌先で唇をなぞられ、そのまま下から上へ舐められる。心地よいその感覚に応じながらも彼の好きなようにさせ、触れた手で指を一本ずつ優しく擦る。
指が終われば、掌と甲へ。所々で少しばかり押すと、んぅ、と鼻にかかった甘い声が聞こえたので、テランスは気を良くした。最後にすべての指を絡めて握り、そして離す。もう片手のほうも同じようにしながら主導権を奪っていく。次いで、幾度か角度を変えて唇と舌先を舐った後に、揺れる彼を緩く抱きしめて『おかえり』と囁いた。
心底安堵したような笑みをようやく浮かべ、ディオンが体を擦りつけてくる。彼と自分の熱を感じ、テランスは狭いシャワーブースの扉を閉じてコックを捻った。
* * *
なんとか朝食をやっつけて溜息をついたディオンに「お疲れ様」と笑み、テランスも自身の食事を終えた。壁にかけられた時計で時間を確認すると、講義室にそろそろ移動しなければならない頃合いだった。
今日の予定は考査直前の最終講義が二コマと、スーパーバイザーに提出済みレポートの添削と解説がメインだ。レポートのほうは解説というより説教にも似ていて、やたらに厳しいがぐうの音も出ないほどにそちらに理があるスーパーバイザーをどう攻略するか対策をする必要がある。彼女は何故かテランスのみを集中攻撃してくるのだが、学部長も兼務する指導教官に相談してみても『放置プレイよりはマシだな』とニヤリと笑うだけで取り付くしまもない。彼はこちらの素性も事情も知っているから、かもしれないが。
しかし、そんなことよりも。
「ディオン」
「……どうした?」
立ち上がったディオンをテランスは呼び止めた。ルサージュの名前だけは持つが、血縁関係は絶たれてしまった愛する人を。
「今夜、「チェールアルコ」で少しだけ飲まない?」
唐突に聞こえただろうテランスの誘いを分析するかのように、ディオンは疑問符を表情に出しながらテランスを見つめた。そうして、小首を傾げてから首肯する。
「別に構わないが、明日は?」
「考査が二教科。一杯だけひっかけて……」
すぐに帰るよ、とは確約できずに言葉を濁したテランスにディオンがふっと微笑んだ。
「分かった。……お前の悩みはそこで聞こう」