彼は、少しだけ顔をしかめた。それは、遠い昔に見せた表情で。
きっと、自らの失敗を彼は認めない。失敗だけじゃない。彼は、彼の信条だけを認める。そして、それに共感する者だけを集める。輪をつくっていく。
わたしは、その輪からはずれた。彼は、わたしに手を差し伸べなかった。拾ってくれたときのような笑みひとつ、見せないままに去った。
それを思い出す。そればかりを思い出した。
聞き取りにくい命令も、風の音も、叫びも、浴びた血も、弄られる感覚も、甲高い笑い声も、すべてはどうでもいい。彼が何を大事に思っていたか、そんなこともどうでもいい。
彼はわたしを捨てた。それは何故? そして、今、わたしを見ている。それは何故?
なぜ、わたしはここに。なぜ、かれはわたしを。
勝手に体が動く。怒りは後からやってきてわたしを覆った。部屋を見渡し、彼を殺せそうな凶器を探す。なんでもよかった。
彼が、わたしを殺す前に、わたしを消す前に、わたしという存在を心から追い出してしまう前に、殺さなければ。わたしのこころのために。
遠い昔の、あの世界の、わたしのために。
細く、長い溜息を聞いた。殺意のかたまりを前にして、凪いだ目で彼はわたしを見た。
その目が弧を描く。遠い、あの世界で、わたしを見つけたときのように。
彼はわたしの名を呼んだ。彼だけが呼んでくれた、あの名を。
こころのなか、雷鳴がとどろく。それでも、そのささやきは福音だった。