#15 トゥ・コーダ

 これは、迷う。テランスの本能が、直感が、そう告げていた。
 看板の文字が何を指しているのか、分からない。店の名前なのかブランド名なのか、この国ではないはずの単語も踊る街で、モバイル片手に立ち尽くしてしまったのは不可抗力だった。数少ないガイドブックや観光サイトには「迷いようもない街並み」などと謳われていたが、そんなことはない。現に、こうして駅から一歩踏み出した時点で途方に暮れる輩がいるのだから。
 しかも、雪である。生まれ育った街と少し似た雪質のそれは、既に結構積もっていた。幸いにも冬仕様の靴だから、歩くぶんには大丈夫だろうとは思う。普通の靴で行こうと思っていた自分に苦言を呈した小さな仲間達に、テランスは内心で感謝した。

* * *

 ――それは、秋も終わりを告げる頃。
「ねえ、テランス」
 枯れ葉舞い散る窓の外を眺めながら、暖房を入れ始める日をぼんやりと考えていたテランスは、名前を呼ばれて振り返った。
「ん?」
「ここ、分かんない。クロエに聞いたんだけど、早口でわあわあ話すからうるさくて」
 テキストを開いて、まだ幼い指が一点を指す。文章題か、とテランスが呟くと、訊いてきた子供は――少年と呼ぶには少しまだ幼い――「そう」と頷いた。
「クロエはさ、少しできるからってお姉さんぶるからきらい。ぼくのこと、ばかにするし」
 そのまま悪口にも似た不平を言い出した子供に、「こーら」としかめ面をつくる。一方でやり取りは聞こえているのだろう、不自然なまでにそっぽを向いてしまっている女の子にも視線を配った。
「クロエ、ちょっと来て」
 そのままテランスが名を呼ぶと、濃い色の肌を持った彼女はわざとらしく足音を立ててやって来た。なに?とつっけんどんなままで言う彼女が座れるように椅子を引く。すると、視界の端で子供が少し驚いたような顔をしていた。
「同じところをもう一度オリヴィエに説明してくれないかな。僕が見ているから」
 クロエに笑いかけたテランスは、手のひらを子供――オリヴィエ・ルサージュ――に向けた。
「えええ………」
「えー……」
 テランスの言葉がまるで気に入らないといった風情で、二人は同じタイミングで唸った。クロエが面倒極まりないといった具合に対し、オリヴィエは少しばかり落胆した様子だった。大方、無条件で自分に味方してくれると思ったのだろうが、易々と甘い蜜を吸わせるわけにはいかない。
「人にちゃんと説明できたところでパーフェクトなんだよ、クロエ。オリヴィエが分からないって言うのは……まあ、オリヴィエの聞く姿勢にも難ありなのかもしれ」
「何それ」
 憤慨した様子で詰め寄ったオリヴィエを押さえ込み、クロエに向けてテランスは話を続けた。
「分からない人にきちんと伝える、分かってもらえるようにする。君ならできると僕は思ってる」
「……」
 はい、とテランスはクロエにオリヴィエのテキストを渡した。大きな溜息の後に、行くわよ、と威勢よく立ち上がった彼女に続いて椅子から下りたオリヴィエは、ふと思い出したようにテランスに向き直った。
「……。……ねえ、テランス?」
「どうしたの?」
 微妙な声色の変化を感じ取り、テランスもまた改めてオリヴィエに向き直った。そのまま見つめ、彼の言葉をじっと待つ。
 やがて、オリヴィエは問いを呟いた。
「……兄さまは、いつかえってくるのかな」

*  *

 大学を離れ、ディオンとは空港でそのまま別れた。シンクタンクの規則で行先を告げることは禁じられていたから、互いに耐えた。いつ終わりを迎えるか分からない別離。会いたい、という想いを無理やり封じてプロジェクトに入った。
 教育心理の分野でいくつかのプロジェクトをこなし、時間の感覚がよく分からなくなった。彼と再会できる日が分からないのは辛かったから、カレンダーを見るのもやめた。さらにしばらくして新しいプロジェクトが始まった頃、シドが「様子見」にやって来た。『よくやってるな』とわしわしと頭を掻きまわしてきた彼は少し窶れているようにも見えたが、テランスは訊かなかった。『早く楽隠居したいんだが』と笑い、『ここから先は俺にも未知の領域だ』ともシドは言った。それから目を細めて『休みを取れ』と言ってきた。
 無期限の、休み。
 プロジェクトマネージャーには既に話をつけてきたらしいシドの指示のもと、件の貸与モバイルで直近の飛行機のチケットを検索した。震える指先でタップして予約を完了させると、シドがショルダーバッグを差し出した。シンクタンクに入ったときに預けたそれは、もはや懐かしささえ感じた。中には、家族写真と、フルートと、ディオンから貰った宝物、そして指輪を収めた小箱。『大体の連絡先と、写真と、メールなんかは移しておいたからな。ああ、中身は見ていない』という真新しいモバイルを投げてよこしたシドは、『後でガブに預けろ』と貸与モバイルを指し示した。
 そうして、シンクタンクを出た。幽閉されていたわけでもないのに、途方もない解放感が襲った。同時に、同じくらいの不安も感じた。――誰もいなかったら。
 ぎゅっと目を瞑り、開いた。考えても始まらない、と空港に繋がっている地下鉄に飛び乗り、搭乗ゲートを通過し、機上の人となった。
 空と、雲。陽の光。かつて、彼だけが眺めていた光景。
 隣の客に『眩しい』と文句を言われてロールスクリーンを下ろすまで飽かず眺め、夢を見た。
 駆けていく彼。祈りを込めて見守る自分。気高き翼、灰色の肌。別れの、言葉。
 ぼんやりと目を覚ました。不思議と、辛くなかった。


 シドが『オススメだ』と指示した地は、ネットで検索してみてもたいした情報は得られなかった。なんとか読み取った古びた案内板を頼りにしてバスに乗る。もしかして、と車中を見回したが、そううまくはいかない。指図通りに終点ひとつ前で下車すると、海が見えた。これでもか、と降り注ぐ陽光と潮風に晒される。鮮やかで、美しい光景だった。
 砂浜に向かってもいいし、ここで景色をしばらく眺めてもいい。そんなふうに思った。とはいえ、目が焼けてしまう前にはどこか日陰に入ったほうが、と考えたその瞬間。
 反対方向からバスがやって来て、止まった。窓越しに、ひとりの乗客と目が合う。
 ――心臓が、跳ねた。


 その後、テランスはシンクタンクを正式に出た。編入先の大学と大学院で教育心理と文化論の修士号を取得した後、今は地元の教育センターを拠点に研究もどきを続けている。ディオンはというと、シンクタンクには片足を突っ込んだままで研究員として世界中を飛び回っていた。ガブと変わらないね、とテランスが茶化して言うたびに、ディオンは生真面目に「私はあれほど体力おばけではない」と返してくるのがまたおかしかった。
 シンクタンクにいる間にルサージュの騒動は国を揺るがすほどの大事件になり、シルヴェストルもアナベラも逮捕された。ある時点から情報を遮断されていたわけではなかったから、と言ったディオンは過去の新聞をすべて集めていた。ネットだといつの間にか消えてしまう、と寂しそうに笑う彼を抱きしめて、問いを紡いだ。――あの子は?
 訊かれるのを待っていた、彼はそう言った。
 彼と、血を分けた彼の弟が初めて会う場を――そう、二人は初対面なのだった――テランスはセッティングした。メディアが察知し難い場所、と考えて最初に思い至ったのは葡萄畑が見える家だった。かつて、ディオンが暮らしたルサージュ家の別邸。
 緊張しきった二人の様子を隣室で窺った。新品のボイスレコーダーなりカメラなりをとも思ったが、不必要だとすぐに思い直した。たぶん、この面会は二人にとって、そして自分にとっても、また転換点となる。思い起こすのではなく、今を見届けなければと思った。
 状況に理解が追いついていない様子のオリヴィエは、唐突に旅の話を始めた。初めて列車に乗ったこと、流れる景色、はしゃぎすぎて後ろのおじさんに叱られたこと、しゅわしゅわと弾けるジュースの美味しさ、どこまでも続く緑の丘。その話を、ディオンは時折問いを挟んだり、頷いたりしながら聞いていた。ほんの少しだけ、湿った声色で。
 オリヴィエの話に一区切りがついたのは、昼もとっくに回ってしまった頃だった。昼食もソフィアと共に用意はしていたが、彼女は『お茶にしましょう』と言った。好きなものを自由につまめるように大皿に食べやすいサイズの生菓子を並べ、籠にはとっておきを取り寄せたという菓子類を詰めた。その中にはフロランタンやショコラも入っていた。
 少しくらいならいいかしら、とソフィアは別室からもうひとつ籠を持ってきた。やや小ぶりのそれにはジャンクな菓子が入っていて、テランスは驚いた。孫のよ、と彼女は照れ笑いで言った。
 そうした裏方の騒ぎは、ルサージュ家の残された二人にも伝わっていたらしい。興味津々といった風情のオリヴィエと、彼に手を引かれてやって来たディオンは、ソフィアに『めっ』と「お叱り」を受けた後に追いやられた。
 電気ポットのスイッチが切れ、彼女はテランスを見やった。『普段、貴方は何を飲むの?』という彼女の問いに何も考えず『コーヒーです』と答えてから、まさか、と思う。大きな溜息と共に『ディオン様はミルクティーで、オリヴィエ様はホットミルクと考えていたけれど、コーヒーと来ましたか』と見るからに面倒そうな顔をつくった彼女に『私は裏方ですから!』とテランスは言ったが、聞き入れてもらえなかった。
 応接室に入り、兄弟の視線を浴びながらテランスは大皿を卓に置いた。洒落た菓子が入った籠とジャンク籠も配し、取り皿も並べる。ディオンの前に一枚、オリヴィエの前に二枚、そして。
『兄さま、だれか来るの?』
 ディオンの隣、誰も座っていないところに配された皿を見つめてオリヴィエが言った。その言葉に、テランスはディオンを見つめた。ディオンは常とは明らかに違う緊張した面持ちで頷き、僅かに手を持ち上げた。
 その手を握る。指輪をそっと撫でる。想いを、伝える。
 視線をディオンからオリヴィエに移す。きょとんとこちらを眺めるオリヴィエに、あの世界での幼かったディオンを思い起こして、テランスは懐かしさを覚えた。
 ――これからも、思い出すだろう。彼と今を生きながら、それでも。
 ゆっくりと着座する。身を乗り出したオリヴィエが何かを言う前に、テランスは口を開いた。
『はじめまして、オリヴィエ。――僕は』

*  *

 帰ってくるのは年明けらしいよ、と昨日のやり取りを思い出しながらテランスが言うと、オリヴィエの表情はさらに曇った。ソフィアの手による三つ編みを弄りながら頬を膨らませる様子は、分かりやすい。
 意外でもあるような、当然でもあるような。そんな不思議な気持ちに未だになってしまうのだが、継兄であるディオンをオリヴィエはとても慕っている。その延長線上でオリヴィエはテランスにも懐いた。ディオンはというと、「壊れそうで怖い」とかなんとか言いながらもオリヴィエに不器用な愛情を注いでいる。……確かに、傍から見ていると若干の危なっかしさは時折感じはする。揃ってショッピングモールで迷子になるのはいかがなものかとか、年齢差をものともせずに本気の兄弟喧嘩をするのもいかがなものかとか。
 テランスとディオンは相談を重ね、テランスが生まれ育った街でオリヴィエを育てようと決めた。本人の心が最優先なのは勿論で、自分達以外の誰かと生きる道も選択肢として当然入れた。そのときは、遠くからそっと見守りたいとディオンは言った。
 結果、オリヴィエは意を決したディオンが単語を五つほど繰り出した時点で兄に抱きついた。わんわんと大声で号泣する小さな体を抱きしめてディオンも涙を零していたが、彼はやがて顔を上げた。その泣き濡れた頬と額にキスをし、オリヴィエとディオンをテランスはゆるりと囲った。
 今、テランスはルサージュ家の別邸にオリヴィエと暮らしていた。既にメディアも知っているが、話題としてはもはや旬でないことと、某機関が睨みをきかせていることもあって、基本的に穏やかな日々だ。ディオンが不在なのは物凄く寂しいが、彼は遠い異国の空の下にいる。だが、それも「年明け」には終わり、後はこの街にある国際機関に勤めることになっていた。
 その日が待ち遠しい、と思う。――いや、もう待てない。
 待ってばかりは、嫌だった。あの頃も、今も。背中を見続けるのは、もう。
「ちょっと、オリヴィエ! まだなの? 待ちくたびれたんだけど!」
 クロエの喚き声にオリヴィエはちらりと彼女を見やり、テランスに視線を戻した。
「ねえ、オリヴィエ……。エルダーフラワーのコーディアルを半分まで減らした犯人はあなたね?」
「え? 僕の分まで飲んだの!」
 静かな怒りを秘めたキエルの声に、驚きと嘆きに染まったテトゥの声が重なる。オリヴィエは同じように彼らを見たが、ふい、と視線をテランスに寄せた。
 ――まったく。
 テランスは内心で苦笑混じりの溜息をついた。後でお説教が必要だな、と頭で算段を立てる。もっとも、甘やかしている自覚はあるから、そこはソフィアに自分が叱られることになるだろう。ディオンにもきつく言われるのが目に見えるようだった。
 すべては後回しになるけれども。
「テランス」
 まっすぐに見つめてくるオリヴィエは、どこか真剣な面持ちだった。まだ少し曇ったままの表情だが、伏せ目がちのいつもの彼ではなかった。
 何かな?と小首を傾げてみせながら、もしかして、とテランスは思った。ディオンと同じように敏いこの子供は、自分の感情などお見通しなのだろう。
「兄さまに、伝えて。早くかえってきてって。……会いに行くんでしょう?」
 寂しさに泣きそうになっている子供へ、テランスは微笑んだ。

* * *

 開かれたままの門から入り、綺麗に除雪されているところと、そうでもないところを眺めつつ先を進む。予算に差があるのだろうか、と思ったところで内情が分かるわけでもない。ディオンなら知っているかもしれないが、どうだろう。
 幸いにして広めの歩道もあり、テランスは安堵した。スキーはともかく、スケート靴を最後に履いた記憶がない。盛大に滑って転ぶ異国人、という構図は願わくば避けたかった。
 特別研究員として赴任した今回の大学について、ディオンは「中心街なのにとにかく広い」と言っていた。後は、システムもまったく違う、言葉と習慣に難儀する、しかしそこが興味深い、人々は穏やかだが一線を越えると豹変するらしい、自己を崩す必要はないと言われた、固有文化の研究もかじってみたいが時間的に無理そうだ――。
 早く会いたい。最後にそう書き添えて、彼は多くのメールを送ってきた。
 ショートメッセージは時差の関係であまり送れなかった。やり取りは主にメールで、自分もさることながら、ディオンも長文のメールを送ってきた。土曜日に通話アプリでカメラを起動し、互いの近況を延々と語り合いもした。キスがしたいな、触れたい、と切なく思った瞬間にオリヴィエが「兄さま!」と割り込んできたときには項垂れてしまったが、それはさておき。
 モバイルのマップアプリで方向を確認し、道なりに進むことにした。建物は多いが、ディオンが言っていたように「とにかく広い」ため、窮屈には感じない。細い川を渡り、図書館と思われる建物に学生が吸い込まれていく様子を眺めていると、モバイルが震えた。
 ――まだか?
 ショートメッセージに入ったのはそれだけだったが、感情が一気に沸騰するような思いになった。
 彼が、待っている。
 慌てて時計を見ると、待ち合わせの時刻よりも随分早かった。きっと迷うから、と早めに出てきたのに、彼はそれよりも先に着いてしまったらしい。たぶん、待つことに慣れていないからだろう。
 転ばないように注意を払いながら、早足になり、それはすぐに駆け足になった。葉を落とした木々の先、交差する道の脇に建てられた誰かの像の前に、人影があった。気配を感じたのか、滑りかけたのを見てしまったのか、そのひとは――彼は、こちらを見て笑った。
 名を、呼ぶ。
 名を、呼ばれた。
 終わったはずの、止まったはずの時を再び動かした、その音は。


 こころがはじける――、唯一の音。

<終>

あとがき

ClariSの「CLICK」で転生パロ&現パロ…あったら素敵だなあと思いつつも現パロも転生パロもハードルたっかい!と書けないでいたのですが、6月テラディオCPオンリーイベント用の原稿終わったやっほーい!の勢いで書き始めたという本作、モデルはあちらこちらにありますが、すべてはエセでございます。架空です! 実在の人物・組織諸々とは関係ありませんのでご注意ください。

しかしちゃんと書きあがるとは思わなくて、さらに9月のFF16オンリーで発行するなんてさらに思っていなくて、当時の書き方(スマホ+タブレット&キーボード+PC:Nolaというアプリで通勤中および出勤前のスタバで書いてました)は今は無理だと数か月前の時間を省みています。なんと無茶を…。

ネット上では後日談「シンコペーション」を掲載しましたが、本には付いていないので申し訳なく…何かの機会でWebも御覧になられていたらお読みいただけますと嬉しいです! そして(本・Web問わず)お読みいただいた方々に心からの感謝を。ありがとうございました。

2025.09.21 / 2025.11.16