世界が眩しい。
深い闇を感じるばかりの色の薄い世界だったのに、あの瞬間から世界は鮮やかに映り始めた。
ただひとつを除いて、それまでは特に何も変わったことはなかった。
欲した愛が得られなかったが故の諦念も。
追われるように出た、家も。そして、それに伴う環境の変化も。
利を求める「親」の身勝手さを知りながら、疎まれていると知りながら、一縷の望みに縋る己も。
何も変わらなかったのに。
ただひとつだけ。そう、たったひとつだけ。
そのひとつは、とても大切で。どうして忘れていたのだろうと己を呪うような心持ちにもなった。同時に、あの世界でついぞ齎されなかった福音を与えられたような気にもなった。
彼、も同じような具合だった。ひとしきり泣き喚いた私を抱きしめたままで、押し殺した声で何度も私の名を呼んでいた。
呼ばれるたびに、心が騒ぐ。あの夜から封じ込めた感情が暴れ出す。
泣き濡れた己の顔を手の甲で拭い、私は彼の頬をそっと撫でた。くしゃくしゃに歪んだ表情に少しだけ笑み、頬の涙を辿る。
額を合わせて、「ただいま」と呟いた。
§ § §
警備員から告げられた「小一時間」はとっくに過ぎていた。座り込んだままでポケットに入れっぱなしのモバイルで時刻を確かめると、テランスは眉根を寄せた。陽の残光は未だあるが、午後八時というのは帰宅していてもおかしくない時刻である。優等生ぶってと言われることもあるが、すべきことは――たとえば直近のレポートとか――山ほどあるのだ。睡眠時間を削って遊び歩き、あとで慌てるというような芸当は自分には向いていないと思う。おそらくは、彼もあまり向いてはいない。
泣きながらそのまま眠りに落ちたディオンの背をあやすようにごく軽く叩く。あの時代とまるで同じとはいかないが、それでも彼は彼だった。試しに肩甲骨をぐるりと撫でさすると、気持ちよさそうにすり寄ってくる。かつてのように。
――これ以上は、流石によくない。
手にしたモバイルを床に置き、テランスは片手で自分の顔を覆った。驚きと嬉しさと喜びの中に、記憶の底に眠っていた絶望を数滴垂らした具合が今の心境だった。なんとも形容し難い感情が全身を巡り続けている。あの絶望が覆らなかった遠い遠い過去は――この世界とは別のものかもしれない――記憶が戻った今において、毒針となるのだろうか。それとも。
情欲が芽生える前に、とテランスは改めてディオンを抱きしめた。その体温があまりに心地よくて、涙がまた溢れる。思えば、ディオンがあれほど激しく泣いたことは記憶の限りなかった。怒りに任せることはあっても、基本的に感情をねじ伏せる人だった。……哀しい人だった。
時を経て、異空間といっても過言ではないこの世で、たとえいっときの激情がそうせしめたのだとしても、この涙は彼のこころそのものだとテランスは思う。
愛しい。なんでもない付き合いにしか過ぎなかったのに、少し気になっていたくらいだったのに、彼が「彼」なのだと思うと、もう誰にも渡したくないという想いが強まる。それが正しいことなのかはよく分からない。現実逃避で夢を見ているだけなのかも。
それでも、彼と自分のこの涙は本物で。
モバイルが震えた。ディオンの眠りを妨げないようにモバイルを取り、ロック画面を見る。メッセージの通知がひとつ入っていた。送信者はジョシュア。
『今どこ? もうすぐ図書館閉まるよ。ミドとヨーテはジルが送っていった』
ふう、とひとつ溜息をつくと、テランスは「森の作業小屋」と打ち込んだ。
* *
三日後――。
「なんだあ、そういう「趣味」だったの? 残念ね」
「……趣味ではない。性的な指向でも」
何人目だろうか、数えるのも億劫になりつつあるが、「返答」を訊きにきた相手にディオンは律儀に対応している。窓際でぼんやり見ていたテランスには会話の仔細は把握できない。だが、彼女はあっけらかんと笑って去っていったのを見る限り、今回の「返答」はうまくいったらしかった。
さて、次は誰が来るだろう。もう両手両足の指の数は軽く超えている。
いずれもが、ディオンに「告白」していた者だった。家柄や財産といった、ディオンとは預かり知らぬところに惹かれた者。容姿や佇まいに心ときめかせた者。中には彼の将来性にベットしてみようかと思った野心家もいるようだった。何故それが恋愛対象として見ることになるのかは意味不明だったが――世の中には色々な人間がいるという証左なのかもしれない。
どこからどう広まったのか(あんなふうに図書館内を一緒に爆走すれば何らかの噂は立つでしょう、と冷静に言ってのけたのはヨーテだったが)あの一件が起きたのは金曜日で、翌週(つまり今日のことだ)にはスクープとして学校中を駆け巡っていた。学年や性別を問わずに彼を狙っていた手合はテランスの想像以上に多かったのだが、今までは自分達が牽制していたのだと手の内を明かしたのはジョシュアだった。
宵闇の森から出るときにジョシュアはテランスに言った。
『ミドがヘッドハンティングしに行ったのを覚えているかい? あれは本当に狩りに行ったんだよ。どこかの誰かに掻っ攫われて変に覚醒する前に「保護」する必要があった。以下同文で君のことも僕がそう判断した。君を確保するのが先だったけれどね』
『何故、ですか?』
あれから眠りに落ちたままのディオンを背負い、テランスはジョシュアに問うた。あの世界で自分はジョシュアと一瞬の面識しか得ていない。ディオンとジョシュアの関係性とはまた別個のものだ。
『敬語は止めてくれないかな。……そうだね、なんていうか』
校門まであともう少し。言葉を切って黙りこんでしまったジョシュアから、テランスは警備員がしびれを切らしているだろう校門を見やった。先程の警備員の他に誰かがいる。警備員達と話し込んでいるふうのその男にジョシュアが手を振った。ジョシュアが以前紹介してくれたから、男は顔見知りだった。今なら、別の意味でも分かる。その姿は二代目シド――クライヴ。こちらに気付いたのか、腕組みをしたまま大きく頷いた。
あの世界でも――ヴァリスゼアでも随分世話になった。ディオンを失ったと最期の最期まで認めたくなかった自分と、長い時間をかけて弟の死を受け入れた彼。その違いは、とあるとき聞いた。実際に目の当たりにしたからな、と答えた彼の瞳は澄んでいた。ふと、そんなことを思い出す。
森に遮られていた空の残光も、もはや力を失っていた。校門の照明でクライヴの表情は分かったが、芳しいものとはいえない。顰め面で『図書館から伝言だ。次に同じことをしでかしたら出禁だと』と告げると、テランスとディオン二人分のカバンを掲げた。
『あ……ありがとうございます、クライヴ様』
ディオンを背負っているからテランスは手が塞がっていた。ひとまず礼を述べると、クライヴは『……ジョシュアからメッセージは届いたが、まさか同時に戻るとはな』と言い、『今まで通りでいい』とテランスが選んだ「様付け」を否定した。
『「クライヴさん」で「ジルさん」でいい。俺達は「あの世界」と「この世界」をある程度切り離して考えて過ごすべきだ。……始終囚われているとあっという間に疲れ果ててしまう』
そう言うと、クライヴはジョシュアを睨んだ。兄(この世界でもそうなのだろうか?)から睨まれても、本件に積極的に関与していると思しきジョシュアはどこ吹く風で笑う。
『これくらいでいいんだよ、前にも言ったでしょう?』
『だが……』
『ディオンの内心を一番に推し量れるのはテランス、君だけれど、本心を――隠した願いをそのままにする無意味さを知っているのは僕だけだ。「ああ、もっとあんなふうに生きたかった」ってね。たとえば……まあ、僕のことは置いておくとして』
『置くのか?』
『簡単には口に出したくないからね、兄さんにも』
そんなわけで、とジョシュアが言った。
『くれぐれも僕のかつての友達兼恩人兼義弟を泣かさないようにね』
ひくり、と右頬が引き攣るのを感じながらテランスはジョシュアの言葉に頷いた。義弟と言われれば確かにそうなのだが、色々な肩書きを持ったジョシュアにいびられ続けるのは確定の未来となった。
『はい』
それでもきっぱりとテランスは頷いたのだったが――。
次の授業は第二講堂で行なわれるので、テランスはディオンと共にクラスルームを出た。この時間は科目ごとに複数のクラスが合同でひとつの授業を受ける。二人の選択はまったくの偶然で国史だった。悉く「なんとなく面白そうだと思った」自分に比べて、「講師の論文の数々に興味を覚えた」というディオンの違いにめげそうになったテランスだったが、『ディオンのほうがちょっと異常。ミドもだけど、のめり込みすぎ』というジョシュアの言葉に慰められることにした。
廊下を進むと、視線がほうぼうから飛んできた。勿論、ディオンに向けられたもので、ある意味これには慣れている。前からこうだったからだ。
違うのは、憧れの視線から好奇のまなざしに移ったことだろうか。ひそめた声も聞こえてくる。
それはディオンも感じ取っていたのだろう、講堂への階段を上りながら彼はテランスに問うた。
「嫌か?」
「何が?」
ディオンの言わんとするところは分かっていたが、テランスは空惚けることにした。彼の悩みや本心や卑屈にも思えるような感情、それから「前」には自分にも触らせなかった心情のすべてを手に入れたかったからだ。
一気に強欲になったな、と内心で自分自身に笑う。
「その……、私とこうして一緒に歩いていることが」
「前から一緒に授業を受けに行っていたじゃないですか」
先週も。その前も。それこそ、「なんとなく」だったが二人でいたのだ。
記憶が戻ったからといって、何かが変わるというわけではない。いや、何も変わらない――変えられないかもしれないというほうがテランスには不安だった。作業小屋で二人揃って泣いたのも、衝撃で感情が突き動かされただけだと言われたならどうしよう、と思ってしまう。あの涙は、自分だけに向けられたものなのだろうか。それとも、ヴァリスゼアに向けられたものか。そんなふうにも思ってしまって仕方がない。
「だが、口調に距離を感じる」
「口調? ああ……これは」
ディオンの指摘に、テランスは苦く笑った。確かに、その通りだった。ディオンに対して「です・ます」で話すことが増えたし、一人称もうっかりすると「俺」から「僕」や「私」になる。ミドやヨーテはそのままで構わないのだろうし、ディオンもジョシュアも同じようなものだろうが、「君は苦労するだろうね」とジョシュアは笑っていた。ちなみに、それで言うとクライヴもなかなかに苦労したのらしい。
「まだ少し混乱しているから……もう少ししたら、落ち着くと思い……違った、思う」
「そうか。……分かった」
開きっぱなしの扉をそのままにして講堂に入った。ディオンは階段を下りて前から三列目の中央横あたりに座った。テランスもいつもの位置に座る。どちらかというと後ろ寄りで、さらに後ろには常日頃「世話をしていたりされていたり」という仲の連中が陣取っていた。
「なあ、テランス。頼まれてくれたら感謝感激なんだが」
「レポートなら、自分でやりなよ?」
テキストとノート、タブレットを長机に配してテランスは後ろに座る同級生達を見やった。本当なら、ディオンのことも牽制したいくらいだが、今はぐっと我慢する。――「今を生きる彼」にはキスを一度押し付けただけで、まだどうにもなっていないのだから。
「ちげぇよ。フェンシングの助っ人、頼む。怪我人が出ちまって、来週の地区予選怪しいんだわ」
勉学優先のこのスクールにおいて数少ないサークル活動のひとつが、フェンシング部だった。テランスも例によって「なんとなく」所属していた時期があったが、ミドやジョシュアに「そろそろ受験勉強に力入れなよ」と言われて「それもそうか」とあっさり抜けたのだ。……思えば、ディオンが転校してきた頃だった。
なんとなく、が本当に多いなと振り返りながらテランスは思った。……さて、これからはどうだろうか。
「考えておく」
「明日朝にまた訊きにくる。吉報をよこしてくれ」
じゃ、と同級生はテランスの肩を叩いた。同時に、講堂の前扉が開く。講師は教壇に立つと、常日頃の舌鋒で独自の見解を交えた国史を説いていった。
「では、今日はここまで」
え、とテランスは思った。タブレットに表示されてある時刻を見やると、授業終了までまだ十分ほど時間が残っていた。いつもならば授業が終わる(と書いて「授業になんとか喰らいついて駆け抜ける」と読む)頃には疲労困憊になるのに、今日はそれがまだマシだった。講堂全体が騒めくなか、講師は不遜な笑みを浮かべた。
「私とて、諸君の疲労度を見ながら授業を展開させているのだよ。聞くところによると、難解なレポートに苦しめられている者も多いのだとか?」
テランスはじめ、その場にいる多くの生徒がややあって小さく頷いた。一方で、ディオンは端然と座るさまを崩さなかった。
「区切りも良いし、ここまでとしよう。だが、時間はある。――エディータ」
「は、はい?」
講師が呼んだのは、一番前に座っている別のクラスの女子生徒だった。テランスは彼女の名前を知らなかったが、ディオンが少しだけ身を動かしたのが気にかかった。何故だろう、と思ったが、その前に講師が彼女を手招く。ぼそぼそ、と講師は何か耳打ちをし、エディータという名の生徒は挙動不審なほどに狼狽えた。
「え、先生。国史……に関係ありますか?」
「さあ、どうかな? 私の興味は多岐にわたる。その片鱗を君達に紹介したいと思ったのさ。……最近、エディータが図書室で見つけた『いにしえの詩吟』だ」
講師は教壇をエディータに譲り、窓際で腕を組んだ。エディータはしばらく考え込んでいたが、一度自分の席に戻りノートを持ってきた。どうぞ、と言わんばかりに講師が顎をしゃくったのがテランスの印象に妙に残った。
あ、あ、と教壇のマイクをエディータはテストした。結構な広さの講堂だから、当然マイクは設置されてある。……この授業の講師はただの一度も使ったことがないが。
「詩吟ですが、楽譜はなかったし、私は音痴なので読むだけです。……結構長いですが、お付き合いください」
腹を括ったのだろう、彼女は涼やかな声音で詩を詠み始めた。