明日への扉

 ここから見る風景を見慣れたものだと思うようになったのは、いつからだったろう。
 玉座に座ったディリータは思った。
 もう思い出せないな、と心の内ですぐに小さく笑う。それくらい時間が過ぎた。
 後の歴史書に記されるのはほんの数行──もしかすると一行すらないのかもしれないが、今を生きる己にとってはそれなりに長い日々だった。
 もっとも、そう感じるようになったのはそれほど前のことではない。
ふと振り返ってみたら相当な時が流れていた。昨日のように、とまではさすがに思わないが、鮮明なはずの記憶はいつの間にか黄昏時の色に朧に染まっていた。そうして、それらの記憶を懐かしいと思えるようになっていた。
 それで、気が付いた。真の意味で「過去」は己の中で「過去」になったのだと。黄昏色の記憶は「思い出」になったのだと。
 思い出になったとはいえど、心が抉られるような思いになることもある。だが、それもだいぶ薄れてやはり懐かしく思うようになっていた。
 いつからだろうと思う。……答は勿論出ず、いつの間にかとしか言いようがないのは分かっているが。
 時は流れた。
 人々の心から戦の記憶は薄れ、大地は緩やかに癒えた。そうして時代は次の舞台へと踊りだそうとしている。
 時代は己をもう必要としない。そう直感した。ここまでだ、と思えた。
 かつての想いの代わりに、己に残った唯一の存在を守って時を過ごす。緩やかに流れ始めた時の中で、小さな波乱を見ながら未来という時を消していく。過去が雪のように降り積もっていく。……確実に減っていくのは己の時間。
 人はけして永続しない。いつかは老い、いつかは死ぬ。それ故に人は自分の中の何かを血という形で残すのだろうが……そのつもりはなかった。
 為すべきことはし終えた、そう思った。己が為せることはもう何もない、そう思った。
 だから、明日への扉を叩こうと思えた。未来へと踏み出そうと、そんなふうに。


 頭上の王冠を取ると、ディリータは一段下がったところで膝をつく青年に向き直った。
 頭を垂れているから青年の表情は見えない。それが少し残念にも思えて、他には聞こえぬほどの小声で囁いた。
「……顔を上げろ。それではお前がどんな顔をしているのか分からない」
 言ってしまってから、己の物言いが随分と高圧的なことにディリータは笑いそうになった。人に命じるようになってもう長いから、するりと自然に言葉に出てしまった。
 これからは気をつけなければならない。特に、この青年に対しては。──手にしている冠を載せてしまえば、彼が王となるのだから。
 ディリータの「命令」を受け、青年は膝をついたままそろりと顔だけを上げた。その面が既に泣き顔になっていたので、ディリータは今度こそ笑ってしまった。
「なんて顔だ」
「ですが、陛下、やっぱり」
 言い訳のように反論しようとした青年を制し、ディリータは手の内の冠を青年の頭上に載せた。あ、と小さく呆けたような声も無視して冠の角度を少し直す。すると、青年の蜂蜜色の髪に冠がきらきらと煌めいた。
「これでいい。……ルークス、錫杖を」
 少し離れたところで控えていた己の側近にディリータが声をかけると、ルークスはゆっくりと辞儀をした。結局は廃せなかった元老院のひとりから錫杖を受け取り、ディリータのもとへと歩み寄る。
 ルークスの目に涙はなく、それが青年とは好対象でディリータにはやはり面白かった。
「礼を言う」
「光栄です、ディリータ様」
 陛下とは言わなかったルークスにかすかに笑み、ディリータは錫杖を手にした。そうして、立つようにと目線だけで青年を促す。
 ディリータの意を受け、青年は覚悟を決めたかのように唇を噛み締めて立ち上がった。目は未だ潤んでいるものの、泣きそうな表情は既に消していた。
 いい顔だ、とディリータは思う。後を任せるに足る者の顔だ、と。
「陛下。……いえ、ディリータ様」
 その青年が錫杖を渡そうとしたディリータを留めた。ちら、と背後に視線をやり、また元に戻す。天窓から降り注ぐ陽の光を受け、冠に埋め込まれた宝石が輝いた。
「どうした? 往生際が悪いぞ、オリナス」
 ディリータの揶揄にオリナスは頭を振った。この瞬間まで自身が頂いた主君をまっすぐに見つめ、口を開く。
「僕……私に錫杖をお授けくださる前に、何かお言葉を。……皆に」
 そう言うと、オリナスは今度はゆっくりと後ろを振り返った。つられてディリータも視線を動かす。
 そこに居並んでいたのは、多くの臣だった。
 突然の退位宣言だったから、諸侯の多くはこの場にいない。それでも、玉座の間を埋めた大勢の者が自分達のやり取りを固唾を呑んで見守っていた。
 その殆どがディリータの知る顔だった。
 古い者。新しい者。直接の臣だけではなく、末端の文官や武官もいる。奥には侍従達や使用人の姿も見えた。
「……オリナス」
「お願いします」
 次代の王に視線を戻すと、ディリータは溜息をついた。それを見越したのだろう、オリナスが睨むように見据えてくる。そのまなざしと言葉には固い意志があった。
 ディリータはもう一度溜息をついた。仕方ない、と誰に向けて言うでもなく呟くと、冠と引き換えに晒した素の表情はそのままに人々を見渡した。
 見えぬ仮面にも、もはや用はなかった。
「私──俺を支えた物好きな者達」
 高みからそう話しかける。これが、王として話す己の最後の言葉だと思いながら。
 衣擦れの音ひとつなく、その空間は静寂に支配されていた。その分、ディリータにはやけにはっきりと己の声が通って聞こえた。
 こんな声色だったか。ディリータは思う。
「そのままの物好きであるように。次の王と国……いや、民をよく支えるように願う」
 そう言うと、ディリータは手にしたままだった錫杖をオリナスに差し出した。オリナスも今度は頷き、両手でそれを受け取る。
 それを見届け、ディリータは玉座を下界へと繋ぐ階段を一段降りた。ずっとその場にいたオリナスの肩をひとつ叩き、「後は好きにやれ」と告げた。
 そうして階段を降りる。一段、また一段。降りるごとに身が軽くなったような感覚になり、しかしディリータはそれを不思議だとは思わなかった。
 ──きっと、そういうものなのだろう。
 階段をすべて降りきり、臣だった者達に見送られながら玉座の間を出ようとして──、しかしディリータはそこで呼び止められた。
 呼び止めたのは、顔こそ見知っているが名も知らぬ使用人だった。頬を上気させ、緊張した面持ちでその使用人はディリータに淡い色合いの花束を差し出した。
「──」
 瞬間、ディリータは息を詰めた。古い記憶──思い出と名をつけたものが脳裏をよぎる。
 散った花びら。放り投げた短刀。白の鈴蘭。消えなかったかつての願い。守れなかった人達。
 ──すべて、己の中にこれからも在り続けるもの。……消さずとも良いもの。
 そう思えるようになった。そう思ってもよいのだと、思えるように。
「……ありがとう」
 ディリータは使用人に笑いかけると、花束を素直に受け取った。
「だが、飾る部屋はもうないな」
「大丈夫です、この花は」
 冗談めかしたディリータに、使用人は笑顔で言う。
「枯れてからが美しいんです。枯れない花はありませんが、それでも工夫をすれば美しく枯れる花もあって、見る者の心を長く和ませるんです。……だから、ディリータ様」
 言葉をそこで区切り、使用人は礼をとった。その所作にディリータは何か言おうとしたが、その前に隣にいた侍従長が使用人の言葉を継いだ。
「この花とともに我々は貴方を待つでしょう。いつでもお帰りになられるように、ずっと」
「……それは」
 ディリータは咄嗟に反駁しようとした。己の頭上に冠はなく、時は移ろった。それなのに、引き止めるというのか。混乱を招くつもりなのか。
 だが、侍従長は分かっているというような素振りで首を振った。そうして使用人と同じ笑顔で続ける。
「何故なら、ここは貴方の家なのですから」



 枯れてからが美しいという花束は、既に用意されていた自室に飾られた。
「用意が良すぎる」
 ディリータは旅装を整え終えると、最後に剣をとった。下賜された剣でもなく、古くから伝わる剣でもないそれは、かつて己自身で手に入れたものだ。
 その剣を佩き、わずかな荷だけで野へ。
 花が枯れていくさまを見ることはない。だが、言われたように美しく枯れたそれを見る機会はおそらくあるのだろう。……それがいつになるかは、今は分からないが。
 次へと時を進めた者達とともに、きっと。
 肩を竦め、ディリータは明日へと続く扉に手をかけた。

あとがき

2021年3月発行の「Timeline until abandon the crown」の再録作品です。退位するディリータのお話でしたが、「次の守り手」となるオリナスに自らの真意を伝えた「Salute」(2005年作)という過去作の続きかつ裏話になります。

ディリータが一命を取り留めて王様業を孤独に続けたとして、最期までずっと王様でいるのかどうなのか?ということを考えた時に、それもディリータっぽいかもだけど何となくそうなってほしくないという願望のもと、元気なうちに引退してもらうことに。「Salute」はディリータ視点ではなかったので、本作で書くことができて嬉しくも楽しかったです。

2021.3.21 / 2023.11.25