細工も見事な硝子の酒器に琥珀色の液体が注がれるのを、僕はじっと見つめた。
「ほら」
差し向かいで座る師から酒器を手渡される。手のひらにすっぽりと収まるほどの小ぶりな酒器は少し冷たい。顔を近づけてみると燻されたような木の香りがして、なんだか不思議だった。
「一気に飲むにはまだ早いな。気をつけて」
片目を瞑ってそう言った師は、次の瞬間には酒器に満たされた液体(平たく言えば酒だ)を勢いよくあおった。
珍しい師の姿に僕は少し呆気にとられたが、すぐに気を取り直して自分の酒器へと意識を戻した。いつまでもじっと見つめていても仕方がない、そう思って言われたとおりにまずはぺろりと酒を舐めてみた。
「……!」
びりびりと舌先がしびれ、顔がぽぽぽと熱くなる。思わず咳き込むと、くすくすと師は笑って別の酒器を僕に差し出した。
「ああ、やっぱり早かったか。それは私が飲むから、君はこちらを飲むといい」
「はい……」
早々に白旗を揚げた僕は新しい酒器を受け取り、自分のそれを師に返した。
ふわり。今度は果物のような香りがした。何だろうか。林檎? 梨? それとも? しゅわしゅわと泡が浮かぶ酒器を覗き込んでいると、師はその中身について説明してくれた。
「林檎酒──、シードルだよ。今年のはわりと甘めだと聞いたから、君でも飲みやすいんじゃないか?」
「そうだといいんですけど……」
おそるおそる酒器を傾け、シードルを少しばかり口に含む。さっきみたいに舌がしびれないことを確かめてから飲み込むと、喉の奥から林檎の優しい香りがした。
師の言うとおり、確かに甘くて爽やかで喉越しも良くて美味しい。
「美味しいです。……初めて飲みました。シードルは勿論ですけど、お酒自体も」
「そうか。私にとってそれは光栄なことだな」
僕の告白に師は笑い、目を細めた。そうして自らの器にさっきの酒を注ぐと、その酒器を掲げた。
「では、改めて。誕生日おめでとう」
師の言葉がとても嬉しくて、返礼をしながら僕は眉尻を下げた。
僕は陛下付きの一従卒だ。
陛下──ディリータ様に仕えるようになって一年が経とうとしているけど、まだまだ下っ端で覚えることも失敗も多くて時々自分にうんざりすることもあって……ただ、それでもめげずにやっているということだけは評価しようかな、と最近では思えるようになった。
そんなふうに思えるようになったのは、僕の心の根っこが最初から柔らかかったからというわけではなくて、周囲の皆さんが厳しくも温かく僕のことを見守ってくれているということに気が付いたからだ。怖いくらいに厳しくて、涙目になったことは数知れずだけど、それでもやっぱり皆さん優しい。
その中にはディリータ様も勿論含まれている。ディリータ様の場合は厳しさ八割五分というか、直接がみがみ言う人では決してないのだけれど、失敗したときなんかに静かに白い目で見られると……身が縮む思いになる。ちなみに、残りの一割五分はなんとなく懐に入れてもらっているのかなという希望も含めたあやふやな安心感で構成されている。とりあえずこれまでは追い払われることもなかったのだから、大丈夫だったのかな、と。
ディリータ様は僕にとって本当に特別な存在だ。ディリータ様がいらっしゃらなかったら、今頃僕はどこにいたのだろうか? いったい、どの方角を向いていたのだろう? 普段はできるだけ考えないようにしているけど、時々浮かんでは消えない想いがある。
……語りだすととても長くなるから、それはまた別の機会にでも。
もうひとり、同じくらいに特別な存在がいる。それが、目の前に座る僕の師──、ディリータ様の一の側近、ルークス様だ。
師匠なんて柄じゃないな、ルークス様はそう言ってよく笑う。目指すべきところが違うだろう、とそうして諭す。……でも、僕にとって今の師はルークス様だと思っている。
今のルークス様のように、将来はディリータ様の補佐ができればいいなと思う。自分の意見を進言し(無視されてしまうことも多いけど)、ディリータ様の手足となって動く。そんな人物になれればいいなと。
ルークス様が言うとおり、確かに僕の最終目的は全然別のものだ。けれども、ルークス様を師と仰いで彼や彼の主であるディリータ様の傍に在ることは、未来の僕のためにも大切なことだ。それは間違いない。
いつか訪れるかもしれない……違うな、必ず掴み取る未来のためにも。
ほわほわと自分のなかのどこかが浮いている。その感覚がおかしくて、僕は少し笑った。
「酔ってるな?」
「酔ってません」
苦笑しながら言うルークス様の言葉を僕は即座に否定した。ちょっと愉快な気分になっただけで、あとはいつもどおりだ。目が回ったり、胃の腑が気持ち悪くなったりなんてしていない。
「酔っぱらいは皆そう言うんだ。いいから、それくらいにしなさい」
「……それじゃ、これを空けたらお酒はおしまいにします」
酒器を奪おうと手を伸ばしてきたルークス様に逆らって、横を向く。三杯目のシードルはもうほとんど残っていなかったので、一息に飲み干した。
「くぷ」
「ああ、そんな飲み方をして。知らないぞ、二日酔いになっても」
ルークス様は呆れ声で言うと、ソファに凭れた。一瞬、僕もそれに倣おうかなと思ったけど、さすがに不敬に過ぎた。酒器を卓に置いて、丸まりかけていた背筋を反対に伸ばす。
「大丈夫、だと思います。僕の母は酒豪だったと聞きましたから……それより、ルークス様」
前からずっと訊いてみたいことがあった。不意にそれを思い出した僕は、つまみのナッツをかじるルークス様を見つめた。
「何かな?」
「なんで……ええと。……何故、ディリータ様にお仕えしようと思われたんですか?」
僕の問いに、再び酒器を持とうとしたルークス様の手が止まった。ゆっくりと顔を上げ、僕を見る。驚いたように開かれた瞳は、やがて細められた。
わずかばかりの沈黙が落ちる。
「どうしてだと思う?」
ルークス様は穏やかな声で僕に問い返した。
その問いに僕は首を横に振った。何度か考えたこともあったけれど、しっくりくる答は今まで導き出せなかった。ただ、他の側近の方や侍従の皆さんが僕に教えてくれたような、それぞれの「理由」とは違う何かがあるんじゃないか──そんな直感はあった。
「分かりません」
僕が素直にそう言うと、ルークス様は頷いた。「昔の話になるが」と前置いて、目線を僕から外す。
「……ディリータ様が王となられた頃、私はそのへんにいる普通の近衛騎士だった。家柄はそれなりに良かったし、私は長子だったから、いずれは家を継ぐものだと漠然と思っていた。王に直接仕える身になるとは考えてもいなかった」
けれども。
ルークス様はそう区切ると、少し考えてから続けた。
「その頃のディリータ様にちょっとした事件が起きてね、その件に私は偶然関わっていた。それが縁となって……まあ、人質をとられたのさ」
「え?」
話の流れが読めずに、僕は思わず訊き返した。その頓狂な声が面白かったのか、ルークス様が少し口の端を上げる。
「事件の後に私はディリータ様の監視下に置かれた。家の者にも同様に監視がついた。そちらはすぐに解けたんだが、私自身はわりと長い間そのままだった。そうしてなんやかんやと忙しくしているうちにいつの間にか側近ということになっていた」
「監視……」
呆然と言葉の切れ端を口にした僕を見るルークス様のまなざしは優しかった。まるで、気にしていないというように。
「結局は、成り行きかな。……おっと、事件の詳細については聞かれても答えられないぞ?」
いったい何があったんですか、と訊こうとした僕に先んじてルークス様は言った。守秘義務だからなと笑って続けたけど、その口調は少し硬かった。
──何が、あったんだろう?
人は秘密にされると知りたいと思うらしい。僕もその例に漏れず、ルークス様が口を閉ざした「ちょっとした事件の詳細」が気になった。監視下に置くなんて、ディリータ様はルークス様に対していったい何を危惧されていたのか。何か、不都合なことでもあったのだろうか?
でも、結局は訊けなかった。自分のそれは野次馬根性以外の何物でもないし、第一にルークス様のまなざしが「訊いてくれるな」と語っていたからだ。
「……今はどう思われているんですか?」
僕は話の流れを現在に向けた。すると、ルークス様はほっとしたような表情を見せた。
「難しいところだね」
「難しい、ですか」
再び手にした酒器を揺らし、ルークス様が頷く。その答は意外でもあったし、聞きたくない類の答だったから僕は少し動揺した。
そんな僕にすぐに気付いたのだろう、ルークス様は「違う違う」と付け加えた。
「違う?」
「色々な感情が入り混じっている、という意味さ。微力ではあるがディリータ様の力になれているという自信もあるし、忙しいが充実しているという思いもある。立てた策がうまくいけば嬉しいし、やり甲斐も感じる。でも、それだけではない。君にも分かるだろう?」
「……はい」
ルークス様の言うとおりだった。プラスの感情だけだったら、難しいなんて思うことはない。でも、現実はそうではなくて。
「辛いときもある。怖い、そう感じることもあるな。ああ、ディリータ様が怖いのではなく……いや、怖いけれども。……国がうまく回らないときや、どうでもいい連中がどうでもいいことを適当に喚いていて大切なことが手遅れになってしまったときなどは苦しくなる。毎日がその繰り返しだな」
眠れない夜もある、と結んでルークス様はそれでも笑顔をつくった。
大人だ、とその笑顔に僕は思った。辛い、怖い、苦しい、逃げ出したい……僕もそんな思いに駆られてしまって眠れないときもたくさんあるけど、そんなときは心に余裕なんてない。笑うなんてできない。
僕は未熟者だ。分かっていることだけど、改めて痛感した。
……でも、僕にも言えることがある。
「それだからこそ」
ルークス様を見つめて僕は口を開いた。
「思うとおりに事が運んだり、自分の想いが伝えられたりしたら……とても嬉しいですよね」
僕の言葉にルークス様は少し驚いたようだったけど、すぐに頷いた。
「そうだな」
「ディリータ様も、同じような想いになられるときがあるのでしょうか……。そうだ、どうしてディリータ様は王になられたのかな……」
ぽわん、と浮かんだ疑問を僕はそのまま言葉にした。
ルークス様と同じく、いやそれ以上にディリータ様にも色々な想いがあると思う。そんな想い達……、何かの想いに囚われてしまったときはどうしているんだろうか。
そして。
どんな想いを抱いて、頂を目指したのだろうか。……そういえば、知っているようで僕は知らない……。
次第にぼんやりしてきたのはどうしてだろうと思いながら、僕は目をこすった。
そんな僕を見て、ルークス様が笑む。僕の目にはルークス様がゆらゆら揺れているように見えた。
「……それは自分でディリータ様に訊ねるといい。さて、おひらきだ」
「そう、ですね。ありがとうございました……」
最後の力を振り絞って、僕はルークス様にお礼を言った。成人のお祝いをしてもらって、たくさん話をしてくれて、とても嬉しかった。
「おやすみ、オリナス」
何か暖かいものが掛けられて、頭を優しく撫でられる。それも嬉しくて、僕は幸せな気持ちで微睡み始めた。
……だから、聞き逃してしまった。
ルークス様がどこか苦しそうな声で何かを呟いたのを。
そして、聞き慣れた衛士の声が誰かの来訪を告げたのを。
──あの方が国のことだけを思っていたかというと、それは……。
残りの言葉を噛み殺して溜息をつくと、ルークスは眠りに落ちた弟子を見つめた。自分の足で歩き始めたばかりの雛の幼い寝顔を見ると、心が和む。
彼──オリナスを見ていると、それこそ様々な感情が沸き起こった。数奇な運命で彼はここにいるが、果たしてそれを本当に「運命」という言葉だけで片付けてよいものか、そんなふうに思うことさえある。
オリナスが目指すもの。それを知るが故に。
「まあ、今日はおめでとうだけでいいかな……」
そのとき、王の来訪を告げる衛士の声が外から聞こえた。
オリナスの頭を軽く撫で、ルークスは立ち上がった。まったく、と半ば呆れる思いで戸口に立ち、衛士が扉を開くのを待つ。
「遅うございました。もう寝てしまいましたよ」
やがて現れた己の主に、ルークスは小言を言った。それを珍しいと思ったらしい王は片眉を上げたが、すぐに表情を常のそれに戻す。
「それはよかった」
「ちっともよくありません」
部屋の持ち主の許しも得ずに入室した王の後にルークスは続いた。主に対してなんだか小言をたくさん言いたい気分ではあったが、この主はそう簡単には小言なぞ受け入れてはくれないだろうと思い直す。
王はソファで眠るオリナスを眺めていた。右手には何かを携えている。
ほう、とルークスは思った。
「随分と幸せそうに眠りこけているな」
皮肉にも聞こえる声色で王は呟いたが、付き合いが長くなってしまったルークスにはその声色の奥に潜む別の想いが理解できた。
オリナスに注ぐ王のまなざしは深い。
不思議なものだ、とルークスは思った。あの頃──王と今は亡き王妃が教会跡で倒れているのを見つけたあの当時には、こんな未来があるとはまったく思っていなかった。
散った花びら。放り投げられた血染めの短剣。吐息だけで何かを伝えようとして、事切れた王妃。暖かで、穏やかな春の日。
その少し後に垣間見たのは、平民から王にまで上り詰めた男の暗いまなざし。大切なものを失った者だけが持つ影の色を濃くし、そうして王は走り出した。
自らに鞭打ち、ただひたすらに前を見据えて。国をつくる、それだけをこれからの使命と思い定めて。
けれども、未来がこうなるとは王も予想していなかっただろう。少なくとも、あの頃は。
「お前が渡せ」
ずい、と小箱を突きつけられ、ルークスは一瞬たじろいだ。感慨深く広げていた思考を慌てて畳み、一歩引く。
「嫌です。オリナスの誕生祝いですよね? どうぞご自分でお渡しください」
きっぱりとルークスがそう言うと、王は嫌そうに顔をしかめた。
あの頃に描いた未来。
今、描く未来。
王は、何を描き足すのだろうか。
雛は、何を描き出すのだろうか。
これからもそれを見たいと、王の表情に温かいものを感じながらルークスは思った。
Timeline until abandon the crown