11
闇は、まだらに明るさを増す。
それを、見た。
光は、小さな泡となって浮かび上がる。
ただ、それを眺めた。
光の泡は弾けて、そして──。
耳鳴り。雪の音。
体中の血が急激に冷えていく。
眩暈。唐突な光。
未知なる力が己を持ち上げ、体が浮く。
膨張。圧縮。
放り投げる音がすぐ間近で聞こえる。
空気が、動く……。
硬質な音が響き、それはディリータの意識を「現実」に戻した。
「な……、そんな馬鹿なッ!」
次に聞こえたのは、動揺という言葉以外の表現が当てはまらない声。ディリータはその声をどこかで聞いたような気がした。
近い記憶ではない。だが、遠い記憶でもないような気がする。
そして、耳障りだと常日頃から思っていたような……。
そこまで考えを巡らせ、ディリータは我に返った。眇めた目で視線を彷徨わせた末に見えたのは、複雑な紋様が配された木組の床。滲むように伸びる自分の影。
その場が薄暗がりなのは、暗転で意識が途切れる前と変わらなかった。陽も沈んだ晩秋の夕闇、自分は賊の追手を待ち受けていた──そのはずだった。
記憶と呼ぶには生々しいそれを思い起こす。今の今まで、自分はオゴンの村にいた。ティータを救うために。運命を捻じ曲げるために。
だが、「ここ」は違う。確実に。ディリータは直感した。
邪魔にならぬ程度に奏でられているのは、夜会に相応しき円舞曲。
──まさか。
「戻ってきた……?」
ディリータは思わず呟いた。瞬間、ぐらりと身が傾ぐ。
膝をつきかけ、咄嗟に堪える。今、何かに屈するわけにはいかないとそう思った。
体の感覚がおかしかった。ほんの少しだけ体が重い。そう、まるで「あの男ではない」ように。重心も違った。
今の、自分は。
「おかしい、そんなはずはない……私の術は確かなのです! 夢の狭間に落ちてしまえば二度とは……!」
金切り声で女が捲し立てる。ディリータが目線を上げれば、そこには慌てふためく男と、その男に取り縋る女がいた。
男のほうには覚えがあった。名は、ミランジュという。元老院に名を連ねている者のひとりで──叛意ありとして、極秘裏に探っていた者。
女には見覚えがない。だが、目の前で繰り広げられている言い争いの中身から、大方のことは察せられた。
このインチキ魔女め! ミランジュが怒鳴り、女の手を振り払う。
私は嫌だったのに旦那様が! 怯みつつも女が言い返す。
──なるほど。
ディリータは考えを巡らせた。女の言葉が正しければ、ミランジュは何らかの幻術を自分に仕掛けようとしたのだろう。だが、魔道士たる女の幻夢は完璧ではなかった……そんなところか。
「……説明、ご苦労。幻術より閨の方が良かったかもしれんな?」
殊更ゆっくりとした口調を装いながら割れたグラスを踏みにじり、ディリータは二人に笑いかけた。
小悪党の逃げ足は速いというが、この二人もその例には漏れないようだった。言い争いながらも後ずさりしていた彼らを、ディリータはその笑みでもって縫い留める。
ひぇ、とミランジュが間抜けな悲鳴を上げた。時を同じくして、曲が止まる。
「陛下、ご無事ですか!」
変事をようやく察して駆けつけた側近達に、ディリータは何も言わずに顎をしゃくった。王の意を受け、側近の一人がミランジュと女を捕縛するよう近衛騎士に命じる。
「侍医を呼びます。御身にかけられた術は未だ解けきったとは」
「無用だ。……ああ、侯爵夫人」
別の側近の進言を遮り、ディリータは人だかりの中から現れた婦人に声をかけた。
「ただいまの騒ぎ、今宵の夜会を主催したわたくしの落ち度ですわ……。何とぞご寛恕を賜りますよう」
「貴女だけのせいではない。こちらとてこの場を利用させてもらったのだから」
珍しく悄然とした面持ちで謝罪する社交界の首領に、ディリータは素っ気なく肩を竦めた。
──そう、利用した。
ミランジュは元老院の中でも「声高な者」だった。有力者というわけではないが、とにかくかしましい。権を持つ者にはおべんちゃらで擦り寄り、その一方で貴族達の覇権争いに首を突っ込んでは持ち前の口車でかき回す。権謀術数にも長け、故に警戒する必要があった。こういった夜会ではミランジュのような「魑魅魍魎」の類には水を得た魚のようになる。
だから、罠を仕掛けた。餌はこの国の最高権力者。すなわち、国王である自分。
相対する機会をつくり、隙を見せる。「口車」に乗ったふりをして、こちらが甘言を弄する。それに奴が食いついたのなら、後はうまく釣り上げるだけだ。
周囲は自分の案に勿論反対したが(しかしこれはいつものことだ)、押し切った。そうして、今宵の夜会を迎えたわけなのだが。
──想定外ではあったな。
実力行使でくるとは思いもしなかった。まったく油断したといえるだろう。
あのような夢に叩き込まれるとは、本当に思いもしなかった。
「今宵はおひらきといたします。陛下におかれましては、どうぞご帰城を。側近殿の言葉通り、御身をお厭いくださいませ」
「……そうさせてもらおう」
侯爵夫人の言にディリータは頷くと、連行されていく愚か者達の背中を眺めやった。
心配が過ぎる侍医や侍従、側近をすべて下がらせ、暖炉の前に座り込んだ。
言い表しようのない感情が渦巻いて消えない。嵐の只中にあって息苦しさを覚えるのと同じように、呼吸がうまくできない。落ち着け、そう言い聞かせてみるが、まるで逆効果だった。
髪を乱暴にかき回す。床に拳を何度も打ち付ける。
「……くそッ」
ディリータは悪態をついた。そうでもしなければ、別の感情が自身を襲いそうな気がした。
片手で顔を覆い、切れそうなほどに唇を噛みしめる。
──結局は、夢の世界だった。
魔道士の術が見せたのは、確かに偽りの世界だった。夢の始めで己がそう願ったように、「現実」ではなかった。
ならば、安堵すべきなのだろう。喜ぶべきなのだろう。この世界に無事に戻ってこれたことに。幻に囚われなかったことに。
だが、そんな気分には到底なれなかった。
あまりにも、長い夢だったのだ。ディリータは思う。そう、あれは夢だった。
拳をそっと開く。手の大きさは「あの男」とは違っていた。当然だ、あれは夢なのだから。
懐からペンダントを取り出す。妹の形見は当たり前のように存在していた。当然だ、あの日々は夢だったのだから。
彼女を失った、それが真。
彼女を救った、それは偽。
過去を、運命を捻じ曲げるなど、できるわけもなかった。あの足掻きは、意味をなさなかった。
妹の笑顔。見据えるようなまなざし。溜息。伸ばされた手。
仲間達のからかい。他愛もない賭け事。応援。借りた剣。
信じかけていたものは、すべて幻だった。己にだけ都合の良い夢だった。
「……」
どれほどの時間をそうしていただろうか、やがてディリータはよろよろと立ち上がった。自らを嬲って止まない感情に疲れ、何もかも忘れて眠りたいと思った。いっそ、死んだように眠れたらいいと。
──だが、それは叶わない。
ふらつく己を叱咤し、自嘲の笑みを浮かべながら寝室に入る。灯されている蝋燭を吹き消そうか一瞬迷ったが、結局はそのままにした。
真暗闇の中、再び夢に堕ちるのが怖かった。きっと、己はまた夢を見るだろう。
妹が、仲間達が己を恨むような夢ならばいい。それは夢ではないのだから。
怖いのは、幻夢の続きを見ることだった。妹は助かり、運命が変わる……そんな偽りの夢に己は耐えられない。今度こそ夢の狭間に迷い込み、そうして。
……そうして。
「終焉には相応かもしれんな……」
呟き、寝台に倒れ込む。そのとき、脇腹の辺りに硬い感触を感じた。
「……?」
不思議に思い、上着の隠しにディリータは手を差し入れた。何か入れた記憶はないが、そう思いつつも探ってみれば指先に紐のようなものが絡まる。
まさか、と思った。
血の気が引いていく感覚はそのままに、「それ」を取り出す。だが、すぐさま確かめるのは怖くて、ディリータは目を固く瞑った。
怖かった。己の考えているものと「それ」が違うものだったならと思うと。……おそらくはそのとおりで、己の希望は裏切られるのだろうが。
きっと、洗濯女が何か入れっぱなしにしたに違いない。それだけだ、ディリータは思った。奇跡を期待する余地などどこにもない。
それでも大きく息を吐きだす。要らぬ覚悟を決め、目を開けた。
「──」
それには見覚えがあった。否、ありすぎた。……何故なら。
それは、槍の飾りが付いた組紐のブレスレットだったから。
あの世界で、偽の世界で、彼女から最後に受け取ったブレスレットが、手の内に。
「……どういう、ことだ」
蝋引き紐の色は、暗茶色。二人で市を歩いたときに、彼女に問われて好きな色──その実は彼女の髪の色だった──を告げた。そのままの色をした蝋引き紐でブレスレットは組まれている。
少しゆがんでいて、見る者によっては不格好な形をしていて。つまり、それは。
──あれは、夢ではなかった……?
ひとり呟こうとしても、声は出なかった。何故。信じられない。そんな想いが心に新たに入り込み、渦巻くまだら色の感情に鮮烈な光を与える。
無意識に胸元を押さえると、首からかけたペンダントが指に触れた。
手の内のブレスレットを見つめ、槍の飾りを指先で転がす。「それ」が「ここ」にあることを確かめるために。現実だと己の心に叩き込むために。
そして、思う。
雪の砦。物言わぬ彼女の躯。……きっと、それは本当で。
逃避行。彼女の微笑みと涙。……もしかすると、それも本当なのかもしれなくて。
「ティー……タ」
壊さぬようにブレスレットを押し戴き、ディリータは彼女の名を呟いた。