Jumping Fish

3

 打ち付けた頭と叩かれた背中が未だ痛む。
 その痛みに囚われぬように、目の前の剣に集中する。灯火に剣をかざして刃こぼれがないことを最後に確かめると、ディリータは剣を鞘に戻した。
 次の剣を取る。
 食堂での騒ぎを引き起こした当座の罰として、上官は「ジレ」に屋敷中の武具の手入れを命じた。勿論、騎士や衛士の個々人の武器ではなく、訓練用や新兵への支給品が中心だ。だからなのか、扱いが随分と雑なものも多い。
「畏国にその名を轟かせた北天の、その棟梁たるベオルブでもこの有様か」
 ディリータは呟いた。
 この頃──オルダリーアとの戦いが終わりを迎えて束の間の平穏を得た頃には、北天騎士団も相当疲弊し、困窮していたのだろうとそう思っていた。故に、後になって骸旅団のような輩も出てきたのだ、とあの頃は単純に考えていた。
 アカデミーにいた自分は知らなかった。情報だけ得て知ったつもりになっていた。……それは、「今」になってもたいして変わらない。
 下級騎士は衛士を軽んじていた。侮蔑の色すらも混ざった視線で見ていた。
 あれとは比べられないほどの扱いを骸旅団は──、否、骸騎士団をはじめとした多くの義勇兵は受けていたのだと改めて思う。貶められ、すべてを奪われ、何も与えられなかった。人としての価値を見出されず、道具として扱われた。
 骸旅団の女騎士の叫びが耳に木霊する。
 ……だが、それでも。
「ティータを巻き込む理由にはならない」
 ティータ。
 妹の名を口の中で転がし、目を閉じた。
 騎士達との悶着の後、上官に叱責されながらディリータは妹の姿を改めて探したが、妹が座っていた席にはもう誰の姿もなかった。
 無様な姿を見られずに済んだ。焦燥のなかにどこか安堵の気持ちを抱いて嘆息した「ジレ」の背を上官は鞘で強く叩き、ジレであるディリータはその場にもう一度倒れた。
 瞬間、張り詰めていた何かが切れたような音がした。


 それは、心の糸だったのかもしれない。
 剣の手入れに戻り、ディリータは考える。
 ──己に未だ心というものが存在するのであれば、だが。
 気弱なジレには似合わないだろうなと思いながら、ディリータは自嘲の笑みを浮かべた。部屋には誰もいないのだから、取り繕う必要はない。
 そう思ったそのとき、部屋の外に何者かの気配を感じた。
「……?」
 ディリータは手を止めて扉を見た。忍ぶような小さな足音は扉の前で止まる。
 上官ではないだろう、とディリータはその足音に思った。殺気などまるで感じられないから、先程の下級騎士達ではない。足音はひとりのものだったから、あの三人組でもない。
「誰だ」
 扉の向こうで逡巡するような気配にディリータは鋭く問うたが、気配は動かなかった。立ち去りもしなければ、扉を叩こうともしない。
 ただ、そこにいる。
 立ち上がり、扉へと向かう。扉にぴったりと近付き、手にしたままだった剣をディリータは用心深く構えた。
「誰だ。名を」
「……ティータ・ハイラルと申します」
 誰何しかけたディリータの言葉を途中で遮り、扉の向こうの気配が言う。その名を聞き、ディリータは目を瞠った。
 剣が床に落ちる金属音が響いた。落とした剣をそのままにしてディリータは扉を開けようとしたが、急く心で思うように開かない。それでも強引に開けてしまうと、そこにはひとりの少女がいた。
 記憶に封じた妹が、目の前に。
「ティータ……?」
「は、はい」
 茫然と名を呼んだディリータに何を感じたのか、ティータが一歩下がる。それと同時に、彼女が持っている携帯用のランタンがその光を揺らした。
 暗い廊下に、少女の姿がぽうっと浮かび上がる。
「ティータ」
 ディリータは震える声でもう一度名を呼んだ。こくりと彼女は頷き、不思議そうな表情でディリータを見上げた。
「ジレさん、ですよね? 衛士の皆さんからお名前を聞きました」
「──」
 何も知らない少女は「ジレ」であるディリータに柔らかい声でそう話しかけた。──ディリータがもう忘れてしまっていた声色で。
 灯火に照らされる彼女の風貌も、記憶とは少し違っていた。そして、雰囲気も。目の前の彼女は、記憶よりも大人びて見える。
 だが、ディリータにとってはすべてが誤差のようなものだった。
 ──ティータが、失った妹が。
 よく分からない熱い何かが喉をせり上がった。ディリータは歯を食いしばり、それが外に出てしまうのを堪えた。
「……ジレさん?」
 名を呼ばれても頷かないディリータに、ティータが怪訝な顔をする。どこからか風が入り込んでいるのか、ゆらりと灯火が揺れた。
「……あ、ああ。何か?」
 揺れる灯火が視界に入り、ディリータは我に返った。見上げてくる彼女に平静を装ってようやく頷く。
 今の自分はディリータではない、「ジレ」という衛士だ。目の前にいる少女は、ジレとは何の関係もない……そのはずだ。
 だが、それならば。ディリータはティータを見下ろし、未だ落ち着かない頭で考える。彼女は何故、ここに来たのだろう?
 ──まさか。
 浮かんだとある可能性をディリータは即座に打ち消した。自分の知らないところでティータが「誰か」と親しくしている姿など、今まで想像したこともなかった。……「友人」を越えた深い意味のある関係なんて、妹には。
「何、というわけでもないんですが……。気になって」
 ディリータの葛藤を知る由もなく、細い声でティータは言った。
「気になる? ティータ、いや、君が?」
 ええ、と少女はディリータの問いに頷くと、小首を傾げて続けた。
「私を知っているんですか?」
「あ、ああ。……杞憂か」
 ディリータは頷き返し、次いで安堵の気持ちで呟いた。──とりあえず、ジレとティータは初対面ということらしい。
「ジレさん?」
「え? ああ、そう。……知っている」
 ディリータは噛みしめるように答えた。
 きっと、誰よりも深く。誰よりも傍で。……きっと。
 だが、それを彼女は知らない。目の前にいる男の中身が「自分の兄」だなんて、知る訳もない。ましてや、未来の──過去を知る者だなんて。
 説明したところで、彼女は信じるだろうか。
 妹を救うこともできず、愛した女を許すこともできず、そうして残された国だけをただ憂う。すべての代わりに、それだけを。……兄がそんな道ゆきをこの先辿るなんて、彼女は信じるだろうか。
 何より、自身の運命を。
 知ってほしいと願う一方で、知られたくないという想いも浮かんだ。こんな未来は信じてほしくない。
「君は、有名だからね」
 無理やり笑みをつくってディリータは彼女に言った。冗談めいた口調は慣れず、こうした演技はつくづく下手なのだと実感する。
「有名?」
「ああ。いや、有名とは少し違うのかもしれないが……アルマ、様と」
 いつも一緒に居るだろう? だから、目を引くんだ。
 ディリータはそう言いかけたが、自分の言葉に引っかかるものを感じて言葉を止めた。
 ──違う。
 アカデミーに入った自分やラムザとは入れ違いのような形で、修道院から戻ってきたアルマ。だから、彼女と妹が実際はどういった仲だったのかは実はよく知らない。ただ、少ない休暇の際に見た限りでは、アルマは妹を顧みることはあまりなかったように思う。食事の件もそうだ。
 確かに、二人は一緒にいたのかもしれない。だが、それは自分とラムザとの関係とは異なる色をしていたのだと思う。これは推測にしか過ぎないが、もっと明確な主従関係だったのではないだろうか。
 ……あくまで、推測だが。
 妹は、何も言わなかった。いつも笑っていた。
 真相は闇の中に。己の手が届かないところに。
「……アルマ様と学校へ行くときに門をくぐるだろう? あそこから衛士の詰所は近いから、君達の様子はよく見える」
 いつまでも黙り込むわけにもいかず、ディリータは作り話をでっちあげた。
「はあ」
 話の流れが掴めないとティータの顔にはそう書かれていたが、ディリータは構わなかった。胃の腑がきりきりと痛むような想いに駆られながら、嘘を紡ぐ。いや、ディリータではなく「ジレ」にとってはもしかすると事実だったのかもしれないが。
「君がアルマ様に向かって微笑む姿は衛士達の心の潤い、とでも言おうか。荒んだ心が何故か清々しくなる」
「そ、そんな……」
「嘘じゃない。……神に祈るよりも効果的だ」
 動揺したティータがか細い声で否定しようとするのをディリータは制した。
 よく考えてみると、確かにそれは嘘ではなかった。ジレではなく、他の誰でもなく、自分にとっては彼女こそが。
「神に比するなんて畏れ多いことです。ジレさんも他の衛士の皆さんも、そのような考えは改めてください」
 だが、何も知らないティータはそんなディリータを叱るように睨んできた。気丈にも初対面の年長者を見上げてきっぱりと説く妹のそんな姿を、ディリータは彼女の最期まで見たことがなかった。
 ──俺はティータの何を知っていたというのか。
 ディリータはそう思った。
「心が荒むというのなら、神父様にまずご相談を。私には何もできません」
「そんなふうに自分を卑下することはないと思うが……分かった。それで、ここへ来た用向きは?」
 咳払いをし、話の流れをディリータは変えた。気になって、とティータは言っていたが、それだけで見知らぬ者とこうやって話し込むというのは──さらに言えばその相手が男だというのは──、兄としては看過しかねた。
 それに、未だ心の奥はざわついている。「今」が過去だということにも、自分が自分でないことにも慣れてしまったわけがなかったが、それ以上に妹と話しているというこの現実をどう扱ってよいか分からなかった。
 彼女は、雪に埋もれてしまったはずなのに。
「夕方の食堂で、ジレさんが騒ぎに巻き込まれてしまったのを見て……少し落ち着かなかったんです」
 目を伏せてティータが言う。どういうことだ、とディリータが理由を訊く前に彼女は続けた。
「ジレさんは誰かを探していましたよね。押し問答が聞こえてきて、何かしらと思ってなんとなく見たんです。そうしたら、一瞬目が合った」
「……」
「驚いたような顔でジレさんは私を見ていました。だから、ジレさんのほうが私に何か用事があるのかと、探し人は私なのかもしれないと、そんなふうに思って」
 話し終えると、ティータは顔を上げてディリータを見つめた。穏やかだが、芯のあるまなざしだった。
「そう、か」
 彼女の視線から逃れられないまま、ディリータは苦し紛れに相槌を打った。気のせいだと誤魔化すこともできるのだろうが、不思議とそれを告げようとは思えなかった。
 確かに、彼女に用があった。確かに、彼女は探し人だった。
 だが、それはどう伝えたらよいのだろう? 自分は未来から来た兄なのだと説明し、そうした上で懺悔の想いと共に彼女を抱きしめるべきなのだろうか? 起こる「未来」を説明し、彼女をこの場から逃がすべきなのだろうか?
 妹はそれで納得してくれるだろうか。信じてくれるだろうか。この荒唐無稽な事実を。
 ──やはり、無理だろう。
「……よく似ていたんだ、大切な人に。急にそう見えて……だから驚いた」
 ディリータが呟いた言葉は誤魔化しではなかったが、嘘ではあった。目の前の少女は「自分の大切な誰か」に似ているどころではなく、本人なのだ。
「それは……」
 ティータが言いよどむ。いきなりそんなことを言われても、事情を知らない彼女には言葉を返すのは難しいだろう。そんなことはディリータでも容易に想像がついた。
 故に、ディリータは小さく笑った。
「他人の空似というだろう。こうして近くで見てみると、やはり違う」
 世界に三人はいると言われているのだったか、とディリータはおどけるように続けたが、ティータは表情を変えなかった。じっと覗き込むようにジレであるディリータを見つめる。
 まるで、心の奥をも見透かすようなまなざしで。