Jumping Fish

6

 ちら、とディリータが振り返ると、ミケーラは呑気そうな笑みを浮かべて手を振っていた。
「ジレさんも市に来ていたんですね」
 どこか弾んだような声音で──そう聞こえるのは思い込みかもしれないが──目の前のティータが言う。その声にディリータは視線を彼女に戻し、曖昧に頷いた。
「そ、そう。友……同僚に引っ張り出されて。君は、ひとりで?」
 答は分かっていたが、ディリータはそれでもティータに尋ねた。
「はい」
 ティータの表情に憂いの色はなく、穏やかなものだった。ディリータはそれを奇妙に思ったが、何かを言うことはできなかった。そうか、と一言だけ返し、次の台詞を探す。
 ──諦めているのか。
 言葉を探しながら、ディリータは思った。自分の置かれている境遇を受け入れてもなお、日々を淡々と過ごす。硝子のような何者でもない自分を嘆くこともなく、苦にすることもなく……少なくともそんな様子は見せずに。
 不憫だと思う。怒りすら感じたが、それを表には出せなかった。他者の憐れみを彼女は受け入れないだろう。
「兄に……私には兄がいるんですが、何かプレゼントをと思って」
 会話を繋ごうともがくディリータの心を知ってか知らずか、はにかみながらティータが先回りをして言った。
「兄……。お兄、さん?」
 彼女の言葉に、ディリータは不意打ちを食らった。少なからずの動揺を隠せないながらもなんとか訊き返してみると、ティータは素直に頷いた。
「ええ。しばらくイグーロスを離れていたんですが、先日帰ってきたんです」
「……そうか。それで?」
 彼女は嬉しそうに声を弾ませたが、どう反応すればよいかディリータには分からなかった。ただ相槌を打ち、話を先へと促す。
「とても嬉しくて、でも、何故か緊張してしまって……。たくさん話したいことを用意していたのに、ちっとも話せなかったんです。兄は忙しい人なので、時間があまりなかったのもあるんですけど」
 伏し目がちにティータは言ったが、声はまだ明るかった。無理やりにでも自身を納得させようとしているのだろう、彼女の様子にディリータは思った。
 ──大馬鹿野郎。
 かつての自分をディリータは大声で罵りたかった。周りが何も見えていなかった、違和感に気付いていても流されていた──それだけでも罪なのに。
 あまりにも大切な存在を蔑ろにしていた。自分にも妹にも「明日」があるのは当たり前だと思い込み、安穏としていた。失うなんて思いもしなかった。……とんだ間抜けだ。
「だから……。ジレさん?」
「あ……ああ。すまない」
 過去の所業に歯軋りをしかけたディリータだったが、ティータの呼びかけで我に返った。
「いえ、こちらこそ……すみません。つい、話しすぎました」
 生真面目な顔をしてティータが謝る。そうして、せっかく浮かんでいたかすかな笑顔は次第に「いつもの」顔に変わっていった。
 まるで、仮面をつけたような。「聞き分けのよい少女」を演じているような、そんな顔つきに。
 それは、あの最後の日に彼女が浮かべていた表情とよく似ていた。
「いや……」
「ジレさんもご友人と楽しんでいらしてくださいね。貴重なお時間をいただいてしまい、すみませんでした。……失礼します」
 ティータは礼を取ると、踵を返す。すぐに雑踏に飲まれていく彼女の姿をディリータは何も言えずにその場に立ち尽くした。
 ──追いかけろ。
 そう思うのに、足が動かない。痛む頭が空回りする。そんな己を歯痒く思った矢先──、背を強く叩かれた。
「何してんのー、ジレ。ほら、行け」
 ディリータが振り向くと、どこまで聞いていたのかミケーラが渋い顔をしていた。しっし、と追い払うようにミケーラはそのまま手を振る。
「ミケーラ」
「お前とティータちゃんがうまくいく、俺はそっちに賭けることにした。ボロ儲けさせろよ?」

 ミケーラの的はずれな声援を糧にしたディリータは、やがてティータに追いついた。
「ティータ!」
 何故か早足で進んでいたティータの腕を掴み、振り向かせる。随分と手荒い引き止めに驚いたのだろう、ティータは顔を強張らせていた。
「あ、え、ジレさん?」
「プレゼントを探すのだろう? ティー……君さえよければその手伝いをさせてもらえないか」
 戸惑うティータの様子も半ば無視し、引き止めた勢いのままにディリータは告げた。
 ──これじゃ、下手なナンパ師だ。
 ちらりとそんな考えが頭を掠めもしたが、なりふりは構っていられない。どうにか作った笑みと共に返事を待つ姿勢をディリータが見せると、若干怯えたふうだったティータの表情に安堵の色が広がった。
「あり……がとうございます。でも、ご友人は……?」
「俺を置いて帰ってしまったらしい。だから、大丈夫」
 多少の嘘はこの際いいだろう、とディリータは思いながらティータに説明した。ミケーラにけしかけられた云々と彼女に告げてみても、話は面倒になるだけだ。あらぬ方向に話が飛んでいけば、衛士達の「娯楽」やジレの恋心までもが彼女の知るところとなってしまう。
 自身が賭け事の対象になっているというのは彼女にとって気持ちのいいものではないだろうし、ジレの恋心が知れてしまうという事態は……そういった意味の感情ではないと言い切れる己にとっては状況を困難にさせかねない。甚だ面倒だ。
「それでは……ジレさんさえよろしければ」
 話をどう思ったのか、ティータはディリータをじっとしばらく見つめると、やがて小さく頷いた。


 様々な出店をふたりで覗いていった。

 荷物持ちを務めるつもりでいたディリータだったが、不思議なことにティータは店内をざっと眺めるだけですぐに店を出るのだった。ほんの数呼吸で店を離れることもあって、それでは何が置いてあるのか殆ど分からないのではとディリータは思った。
 だから、市の表路地にある店を眺め尽くす頃になっても手ぶらのままだったのだが──。
「決めていなかったのか?」
 小腹が空いたからと嘘をついて買ったアップルケーキを無理やり腹に収め、ディリータは傍らの少女に訊いた。
「……そうなんです」
 恐縮しながら菓子をかじっていたティータがその問いに顔を上げる。遠いまなざしでどこかを見つめ、それから彼女はその視線をディリータに移した。
「ごちそうさまでした。……ジレさんは、何をもらったら嬉しいですか?」
「俺か? そうだな……」
 反対に問い返され、ディリータは腕を組んで考え込んだ。
 そうして記憶を探る。
 その昔、何かしらの理由をつけて妹は自分にあれこれと贈り物をしてきた。それは、小さな頃は小石だったり野辺に咲く花だったりしたが、年を経るごとに彼女自身の手仕事による品も混ざるようになった。
 ……最後に、彼女から受け取ったものは。
 そこまで思い出して、緩く首を振った。あれは──ペンダントは、彼女が自身の意志で渡したものではない。彼女の形見として己が……。
「……君から受け取ったものなら何でも嬉しいが、それだと答にはならないか?」
 迷宮の奥へ入り込もうとする思考を押さえつけ、ディリータはひとまずの答をティータに返した。
「ならないですね」
 その答は予測済みだったのか、思いのほかの強さでティータがきっぱりと言う。彼女に対して「静か」とか「控えめ」とか「奥ゆかしい」とか、そんな印象ばかりが残っていたディリータにとっては彼女のその口調は新鮮だった。
 ──いや、あのときも。
 ジレになってしまった日の夜を思い出す。あの夜、自分を訪ったティータは会話の中で叱りつけるような口調と共にこちらを睨んできたのだったか。
 流されているように見えて、その実、彼女は「強い」のかもしれない。
 そんな姿を、自分は知らなかった。忘れていた。あるいは、都合よく変えてしまっていた。
「最近では……」
 返しの強さに自身でも気が付いたのか、ティータは誤魔化すように軽く咳払いをした。
「食べ物だったり、日常で使えそうな小物だったりしたんです。お花とかも考えたんですが、「飾っておしまい」になってしまうよりは兄の近くにあるもののほうが嬉しくて」
 話すティータに、ディリータは首肯した。
「それは贈られたほうも同感だろうな。身近に送り主の存在を感じるほうがずっと嬉しい」
「……焦げたクッキーだったり、不格好な手袋だったりしたんですよ? 自己満足の塊です」
「君はそう感じるかもしれないが、相手は存外そんなふうには受け止めないさ。一風変わった風味は異国の味みたいに思えただろうし、手袋は世界じゅうを探し回っても見つけられない一点物だ。それが焦げだろうが、編み目が揃っていなかろうが」
 思うままにディリータは言った。
 確かに、随分と「香り高い」クッキーをもらったことがある。始めたばかりだから、と珍しく言い訳をしながら渡された手袋の模様は編み目がゆがんでいて──、親指の先には微妙な穴も空いていて。
 思い出してみれば懐かしく、そして、愛おしくも切ない過去。
 あの手袋も、どこかに紛れ込んで消えてしまったのだろう。
「兄と同じことをジレさんも言うんですね」
 ディリータの言葉にティータは驚いたようだった。一言一句殆ど同じです、と続けた彼女にディリータは内心で冷や汗をかいた。
「そ、そうか? ……いや、俺にも妹がいて、それで……君の兄さんの気持ちはなんとなく分かるような気がしたんだが……」
「そうなんですか? あまりにも同じなので、少しびっくりしました。もしかして、この前言っていた「大切な人」というのは」
 合点がいったようにティータが問うてきたので、ディリータは腹を括った。
「……ああ、妹のことだ」
 問いに素直に頷き、ディリータは笑みをつくった。「ジレ」より少しばかり背の低いティータを見つめ、言葉を繋ぐ。
「もう、いないが」
「え……」
 ディリータがそう告げると、ティータは表情を硬くした。相手の言葉は想像の埒外だったのだろう。
「あ……私、軽率でした」
「いや、気にしなくていい。もうずっと昔のことだから……さて」
 細々とした声で謝罪したティータの手をとり、ディリータは目を細めた。
「ジレさん?」
「疲れただろうが、まだ何も見つけていない。もう少し探すとするか?」
 難しすぎると思いながらディリータが片目を瞑ってみせると、ティータはややあって頷いた。
「……はい。そうしたら、あのお店に行こうと思います」
 ティータは角の店を指差した。促されてディリータが店先を見ると、様々な色で染まった糸が数多吊るされていた。
「手芸屋か?」
「そうです。ジレさんの言葉に押されたので、やっぱり何か作ろうかなと」
 店に入ってみると、所狭しと商品が並べられていた。いや、無造作に積まれているというのが正しいかもしれない。
 圧倒されながらきょろきょろと狭い店内を見回したディリータに比べて、ティータは慣れた調子で店の奥へと向かった。既に何度かこの店には足を運んでいるのか、混沌ともいえる店内のどこに何があるのか把握しているようだった。
 通路をふさぐように積まれた布地を押し分け、ディリータは彼女を追った。
「……糸?」
 目当てのものを見つけたらしく、ティータが古びた棚の前で立ち止まる。早速引き出しを開け始めた彼女の肩越しからディリータは引き出しの中を眺めた。
「そうです。何本か取って、紐を組むんです」
「ほう」
 様々な色に染められた糸は引き出しごとに整理されている。どの色にも数種類の濃淡があり、いっそ壮観だった。
 真剣な顔をしてティータは何種類かの糸束を取り出した。
「色合わせが難しいんですよね。色を増やせばいいというものでもないらしくて」
「そうなのか?」
「賑やかになってしまうんです。それはちょっと兄には合わないかなと」
 説明するティータが微笑ましくて、ディリータはそっと笑んだ。妹がこんなふうに自分を思ってくれていたことが嬉しいと思った。
「この色にこの色を組み合わせると……少し主張しすぎですし、かといって、こちらの色にしてみるとちぐはぐですよね?」
 急に同意を求められ、ディリータは慌てて首を縦に振った。正直なことを言ってしまえば何がちぐはぐなのか、さっぱり分からなかった。無論、配色の才など持ち合わせているはずもない。
「……これは難問だな」
 ディリータが呟くと、ティータは同意を示すように真顔で溜息をついた。
「蝋引き紐があればいいんですけど……」
 片っ端から開けた引き出しを元に戻して店内を見回す彼女につられて、ディリータも改めて店内を眺めやる。
 すると、天井からぶら下がっている何本もの細紐が目に入った。糸巻きにぐるぐると巻いてあるそれらの紐は、今しがた見た糸よりは幾分地味ではあるがそのぶん使いやすいようにも思えた。
「あれは?」
 ディリータはぶら下がる細紐を指差した。
「はい? あ……!」
 他の品を見ていたティータは、ディリータの声に上を向いた。彼女にしては珍しく──実はそうでもないのかもしれないが──嬉しそうに声を上げ、ぱちんと手を叩いた。
「このお店にもあったんですね、気が付かなかった……。ジレさん、本当はこれを探していたんです!」
 ティータはそう言うと、「蝋引き紐」とやらについて説明してもらおうと思ったディリータを放って、ぶら下がっている紐に手を伸ばした。しかし、あと少しというところで届かずに彼女の手は空を切る。
 ディリータは苦笑すると、背伸びをして紐を取った。元の自分ならばこんなことは造作もないことだが、いかんせん「ジレ」は背が高いとはいえない。
「……ほら」
 ガラガラという音を立てて糸巻きが回る。紐をあまり引き出さないように注意し、ディリータはティータに紐の先を手渡していった。
「ありがとうございます。ジレさんは何色が好きですか?」
 店にある全色の紐を色調別に選り分けながら繰り出されたティータの問いに、ディリータは面食らった。
「……俺に訊いてどうする? プレゼントの相手は君の兄さん、だろう?」
「勿論そうなんですが……。参考にさせていただければと思って」
 視線を上げたティータが期待に満ちたまなざしで見つめてくる。その視線を正面からまともに受けてしまったディリータは、思わず一歩後ずさった。
 ──色々、問題があるな。
 「ジレ」になってからずっと痛む頭が、別の意味で痛くなってきたような気がした。
 ティータは、自分に──「ジレ」に懐いている。よそよそしい他者とは違い、自然に接してくれたことを純粋に嬉しく思っているのだろう。もしかすると、友人ができたと思っているのかもしれない。……恋愛感情は抱いていないはずだ。いや、そう思いたい。
 だが、とディリータは続けて思う。それはそれで危なかっしいことこの上ない。警戒心もすっかり解いてしまって、かなり無防備なのだ。しかも、聞きようによっては期待させるようなことまで言い出してしまっている。
 男は皆、オオカミだというのに。
「ティータ……。少し忠告しておくが」
「ジレさん?」
 唸ったディリータに、ティータは不思議そうに小首を傾げた。その仕草もやはり可愛らしく、ディリータはさらに唸り声を上げることになった。
「私……、また何かしましたか?」
「いや、そうじゃない。落ち着け」
 おどおどと言い出したティータを宥めるべく、ディリータは手を上下させた。落ち着けと彼女には言ってみたものの、落ち着いていないのは自分のほうだとディリータは思う。
「実際は……そうなのかもしれないが、それでも君ひとりのせいじゃない。俺を含めた「男」という生き物が悪いんだ」
「え?」
 どういうことですかとでも言いたげなティータのまなざしを今度はかわし、ディリータは首を振った。なんでもない、と呟き、尻すぼみになってしまった感情をひとまずは放り出す。
 今の流れのすべてを誤魔化すように、ディリータは話を元に戻すことにした。
「好きな色の話だったな?」
「あ、はい。そうでしたが……?」
 まだ不思議そうな顔をしているティータの手から、ディリータは暗茶色の紐を一本取った。
「これかな。この色が俺の……」
「ジレさん……」
 好きな色だ、と言いかけたディリータを遮るようにティータが溜息をつく。どうして、と続けて呟いた彼女の言葉の意味が分からずに、ディリータは眉をひそめた。
「ティータ?」
 自分のほうが何かしでかしたか、と不安にかられて名を呼んだディリータに、ティータはもう一度溜息をついた。そうして、何かを確認するかのように見据えてくる。
 ジレの身で彼女に初めて会ったあの夜と、同じまなざしで。
「兄と同じ色がお好きなんですね。本当に、まったく同じ色が」
 彼女の言葉は、ディリータには死刑宣告にも聞こえた。