Jumping Fish

5

 白い月が浮かんでいる。
 同僚達のうるさい鼾を耳にしながら、ディリータは窓辺で空を眺め続けていた。
 夜半というのに眠気はついぞ訪れようともしない。休まなければと思う気にもなれず、ただ月を見上げて時を潰した。
 眠れなかった。眠りたくなかった。……これが夢だとしたら、覚めるのが怖かったから。
 ──怖い? それは何故。
 もう何度も胸の内で繰り返した問いを、そうして再び紡いだ。
 この世界が偽物だということは分かっていた。おそらくは何者かが施した呪なのだろう。それがどこの誰なのかは知るすべはないが、元々敵が多いことは確かだった。唾棄するような顔で王を見る輩ばかりで、味方を指折り数えたほうが早いくらいだ。
 誰かが、紛い物の世界に己を突き落とした。
 こびりついて離れない問いには目を背け、ディリータは自身の心に言い聞かせた。
 過去のようで、過去ではない。優しい、偽の世界。……そう、心の片隅にでも潜んでいたのかもしれない、悔恨の世界。
 夢。
 覚めるのだろうかと思う。こんなのは早く覚めてほしいと願う。一方で、覚めないでくれという望みもまた生まれ始めていて。
 もしも、過去を変えられるのなら。そんな願望が胸を突く。
 偽だとしても、否、己にとっては既に真たる世界なのかもしれない。
 そもそも、過去へ舞い戻る定めだったのかもしれない。あの場に、世界に、時代に……「英雄王ディリータ・ハイラル」という存在はこれ以上の未来には許されなかったのかも。
 だから、こうして──。
 ディリータは頭を緩く振った。

 夢は──過去の世界は、正確に時を進めていた。
 帰還した少年達は将軍の甘言に唆されてドーターへと向かった。そのため、ベオルブ邸に流れる空気は再び日常のそれとなった。
 概ね平穏で、代わり映えのない日々。
 だが、ディリータはそれを甘受できなかった。誘われるカードゲームも断り続け、食事もひとりで取るようになった。三人組や同僚達と関わる余裕も気力もなかったから。
 焦燥ばかりが募り始めていた。
 鈍く痛み続ける頭をなんとか回転させながら、「これから」を思う。この先に待ち受けている「未来」をどうすればいいのか。
 変えてしまいたい、とディリータは思った。変えなければ、とも思った。せめて妹だけは助けたい、そう願うようになっていた。
 おそらく、ここから先の「未来」は何も変わらない。過去の自分は、雪を見る前に気付いていた。いとも簡単に揺らいでしまう「己」を、利用され続けてしまう身をなんとかしたいとそう思っていた。
 妹の死は、引き金などではなかった。彼女はまったくの無駄死にだったのだ……。
「……レ。おーい、聞いてるのか?」
 誰かが呼んでいる。
 その声がミケーラのものだということは一拍置いて気付いたが、ディリータは応じなかった。聞こえないふりをして、両肘をついた卓に浮かぶ木目をなんとはなしに追った。
 周囲を巻き込むようにして浮かぶのは、ゆがんだ渦。見続けると、目が回ってしまうような心持ちになる。
 まるで、自分の心そのもののようだった。
「ジーレ、俺の話をー聞けー」
 酔っぱらいの口調でミケーラが繰り返してくる。卓越しに肩を叩かれ、仕方なくディリータは顔を上げた。
「……何だ」
「お前、ほんとに人が変わったのな。弱っちくて臆病で賑やかで純情だったジレ君はどこへ行っちゃったの」
 そう言うと、向かいに座るミケーラはディリータをじっと見つめてきた。
「……」
「ひとりで塞ぎ込んでばかりだなんて、今までそんなことなかっただろ。頭を打ったのが響いてるらしいってソートからは聞いたが……どうしたんだ?」
「……どうしたも、こうしたも」
 向けられた視線を返せずに、ディリータは目を逸らす。
「別になんでもない。放っておいてくれ」
「その相談には応じかねるね。なんでもない、放っておけ、そんなことを言う奴は大概何か抱えているのさ」
 おにーさんに話してみな。ミケーラは軽く言うと、今度はディリータの額を指で弾いた。
「……心配なのか?」
「心配まではいかないが、気にはなるな。こうやって引きずり出してもやっぱり浮かない顔だなんて、ジレらしくない。市、好きだったろ」
 ミケーラの言葉に、ディリータは辺りに目をやる。ここに座ったときより往来を行き交う者はずっと増え、騒がしいほどの活気に満ちあふれていた。なるほど、「ジレ」ならばこういった場は好きなのかもしれない。
 事の起こりは、ディリータであるジレが非番だと知ったミケーラがやって来たことにあった。ミケーラは殆ど強引にディリータを連れ出すと、巡回と称して市に出ている屋台を次々に冷やかしていった。チーズ屋で片っ端から味見をし、果物屋の看板娘を口説き、べらぼうな値をつけている古物商に喧嘩を売り、隣の花屋の水桶を蹴飛ばした。背に怒鳴り声を浴びながら逃げ、そうして市の端にある酒場でようやく一息ついたのだが。
「……そうかもしれないな」
 兄貴分を気取る同僚を怒る気にもなれず、ディリータはぼんやりと呟いた。
 頭が、痛む。
「そのとおり、俺には抱えているものがある。それで精一杯で、他のことは手に付かないのが本当のところだ」
「それは?」
「……話したくない。話す必要があるとは思えない」
 のろのろとディリータが言うと、ミケーラは大きな溜息をついてきた。この喧騒のなかにあっても、ディリータの耳にまではっきりと届くほどだった。
「うーん……」
 そのまま低く唸り、ミケーラが天を仰ぐ。
「どうにも重症だな。まあ、誰だって太平楽に過ごしている訳でもないから、分かる気はするんだが。……となると、流すか」
「流す?」
 最後は独り言みたいなミケーラの言葉にディリータが首を傾げると、ミケーラは慌てて両手を振った。
「いや、なんでも。ジレには関係ないことさ」
「なんでもないと言う輩は何か抱えている、そう言ったのはお前だぞ。また賭け事か?」
「う……。そ、それは」
 図星か、とディリータは本気で呆れた。「ジレのはまるで効果がない」と言われているらしい目つきでそれでもディリータが睨んでみると、しおしおとミケーラは背を丸める。
「趣味がいいとは言えないな」
「はじめはジレの悩みは何だろうなって話してただけなんだが、いつの間にか賭けになって……本当にすまん」
 平身低頭のミケーラを眺め、ディリータは溜息をついた。ミケーラは嘘を言っていない。ソートやエイムと同様にお調子者で軽いところがあるが、そのぶん裏もないのは長所だといえた。だからこそ、ジレも彼らとつるんでいたのだろう。
 自分とは真逆だった。
「もういい。……それで?」
「え?」
 賭けの中身を暗にディリータは問うたのだが、ミケーラはきょとんとした。先程の兄貴面はどこへ消えた、と内心で苦笑してもう一度言い直す。
「お前は何に賭けたんだ? 一番人気は?」
 少し興味が出てきたのは事実だった。賭けにまでなったのだから、ジレにはある種の人望があるのかもしれない。……その点もやはり自分とは真逆だ。
「えー? 本人に言うのかよ。なんかそれでジレの人生変わりそうで怖いんだけど」
「別に構わないさ。頭を打ったときにもう変わってしまったんだろうから」
 ディリータが素っ気なく言うと、ミケーラは眉尻を下げた。
「そんなこと言うなって。じゃあ、まあ、教えるけどさ」
「ああ」
 ディリータは頷いた。なんとなく予想はついたが、大人しくミケーラの言葉を待つ。
「一番人気はぶっちぎりだったな。ティータちゃんのことだ」
「……やはり、か」
「そりゃそうだろ」
 ディリータがついた溜息にミケーラが反応する。そうして彼は肩を竦めて続けた。
「今までほんっとうに遠くで眺めるくらいが精一杯で、声をかけるどころか目だって合わせられなかった。……ま、合わせるチャンスすら作れなかったもんな。それがどうだ」
「……」
 次第に早口になっていくミケーラへ口を挟むこともできず、ディリータは黙した。色々言いたいことはあるが、もう少し聞いてみるかと考え直す。
「この前、一緒にいたんだって? 中庭でティータちゃんと親しげに話してたってエイムから聞いたぞ。ティータちゃん楽しそうに笑ってたって」
 ずい、とミケーラが卓越しに顔を寄せてきたので、ディリータはその分だけ身を引いた。
「中庭……。ああ、あのときか」
 ディリータは記憶を辿った。とはいっても、そう昔の話ではない。己がジレになってからの話だった。
 任務からの帰り、中庭で本を読む少女の姿を見つけたことがあった。彼女がいつもひとりでいることを不思議に思っていた頃だった。……彼女の孤独を知らなかった頃だ。
 気がつけば声をかけていた。
 驚いた彼女に、さりげないふうを装って挨拶をした。それから、世間話を少し。話の流れで「古語で少し分からないところがあるんです」と開いていた本を指して彼女が言ったから、アカデミー時代のおぼろな記憶を総動員してにわか教師を務めた。
 そのどこかで彼女は笑ったのだろう。正直なところ、相当緊張していたからよく覚えてはいない。
 ……それに、彼女がかつて己に語った言葉の嘘を知ったから。あの笑顔の裏にあったものを今更ながらに知ってしまったから。
「どこか問題でも?」
 開き直ることにして、ディリータは平然と訊いた。
「協定の言い出しっぺがこれだもんな……。本当は問題だらけなんだが」
「だが? ……言っておくが、俺は彼女の」
 彼女の幸せを願うだけだ、と続けようとしたディリータをミケーラが遮る。ちちち、と舌打ちをしながら指を振ってみせると、ミケーラは勝手に納得したような顔をした。
「みなまで言うなよ、ジレ」
「何を」
「お前がティータちゃんと深い意味でねんごろになりたーいなんて言い出さないのは分かってる……ていうか、そこまで性格変わっちまったら別人だ。だから」
 別人なのは本当だ、とディリータは内心で思ったが、話がややこしくなりそうだったので黙って先を促した。
「問題はあるにしても、結構な人数が悔し涙を呑んだとしても、お前がジレであるかぎりは皆で見守っててやるよ」
 そう言うと、ミケーラは目を細めた。
「……そうか」
 ミケーラの言葉に、視線に、ディリータは居心地の悪いものを感じた。こんなふうに誰かに気にかけてもらうことなど、ついぞなかったことだった。内乱のさなか、幼馴染と別れたときが最後かもしれない。
 勿論、三人組の言葉が向けられている対象は己ではなくジレだ。それは分かりきっているが、それでも悪い感情は湧き上がらなかった。
「礼を言うべきなんだろうな」
 そっと視線を逸らし、ディリータはぼそりと呟いた。
「ああ。どーんと言いたまえよ、ジレ君。でもって、うまくいくにせよ、大失恋に終わるにせよ俺達に……あ」
 何かに気付いたのか、ミケーラが途中で言葉を切った。ジレ、と急に声を潜めて呼ばわってきたので、ディリータは逸らしたばかりの視線を戻した。
 ミケーラが親指で何かを指し示す。不思議に思いながらその先をディリータが追うと、とある店の前に見覚えのある姿が佇んでいた。
 ──ティータ。
 ディリータは思わず立ち上がった。