Jumping Fish

2

 記憶が正しければ、自分はこの国の王として君臨しているはず。
 だが、それは本当のことだろうか?
 幻だったのではないだろうか?
 夢、では?
 ……どちらが?
 心が揺らぐ。記憶がゆがむ。

 分からない……。


 食堂の雑然とした雰囲気に馴染めず、ディリータは黙々と匙を動かす。
 否、それは言い訳にしか過ぎなかった。本当の理由は別にある。
 混乱、していた。
 状況を整理しようと思っても、感情が邪魔をする。ぼんやりと霞がかってしまっている頭も常には感じぬ不安を降り積もらせている。
 だが、ディリータは心の内にある僅かな理性でもってそれらを排除しようと努力した。そうして昼間の記憶を追う。
 ひとつ。ここは「今」は既に失われたベオルブの屋敷。
 ふたつ。自分は「別の誰か」になっている。ジレという名前らしいが、その名に記憶はない。小柄な金髪碧眼で、槍使い。屋敷の警備にあたる衛士を務めている。
 みっつ。自分の記憶には確かにないのに、「同僚」の名はすらすらと出てきた。あまり扱ったことのない槍にも抵抗がなかった。まるで、これまでがそうであったように。
 そして……。
「今日のスープ、さすがに塩入れ過ぎだろ」
「あー、確かに。厨房がやらかしたんじゃないのか?」
 ささやかな夕餉を共にしていた同僚が口々に言い始めたが、ディリータは会話に参加しなかった。焦燥感が頭を支配しているような状態で何か話そうとは思えなかった。
 だが。
「あれ。お前、好み変わったか?」
「……え?」
 唐突に問われ、ディリータは顔を上げた。見ると、卓に肘をついてエール入りのジョッキを傾けていたミケーラが「自分」を不思議そうな顔で見ていた。
「野菜も塩辛いのも、駄目だったろ」
「ん? あらら、ジレにしては珍しく完食だ。ついに偏食家から脱却か?」
「ほほう。良いことだな」
 例の三人がそれぞれに言い募り、そうしてこちらを凝視する。その勢いに気圧され、ディリータは内心で慌てた。
「そ、そうだったか……?」
 未だ聞き慣れない自分の声をとりあえずは無視し、ディリータが恐る恐るといった体で答えると、三人組は大きく頷いた。
「ああ。ま、これで背も伸びるかもな」
 にやりと笑うエイムに返す言葉もなく、ディリータは匙を置く。スープ皿は既に空だった。
「今からか? 遅いだろ?」
「ソート、お前よりも案外伸びたりして?」
「それは嫌なこった」
 ソートが大袈裟に頭を抱え、残る二人が笑う。ディリータはそれをぼんやりと眺めた。
「頭打った拍子にどこかおかしくなったとかだったらアレだが。これから忙しくなるだろうから、あんまり呆けているなよ?」
 ひとしきり笑った後にミケーラはディリータに向き直ると、そう言った。
「忙しくなる? 何故……」
 ミケーラの言葉をディリータは繰り返しながら、ジレの記憶をひっくり返した。三人組の名前を覚えているなら、ジレの持つ記憶は他にもあるはずだった。それを急いで探す。
 だが、その前にあっさりとミケーラは呆れ顔も隠さずに答を寄越した。
「本当に大丈夫か? ラムザ様が帰ってくるだろ。ガリランドの掃討戦の戦果をダイスダーグ様に報告しに」
「──!」
 その言葉にディリータは絶句した。同時に、ぼんやりと霞んでいた思考が新たな情報を得て目まぐるしく動き出す。
 今が、「いつ」なのか。
 そして、これから「何が」起きるのか。
 ジレではない「己」の記憶が呼び出すまでもなく脳裏に舞い込む。忘れることなどできないあの日々がよみがえる。
 抱えていた違和感。
 直面した現実。
 ……そして、別れ。自分は、敷かれていた道とは違う、別の道を選んだ。
 まるで死の間際に見るという走馬灯のようだと思ったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
 今が「あの頃」ならば、ティータは。あの子は。
 ──まだ、無事で。
 ディリータは丸椅子を蹴飛ばして立ち上がった。どうした、というソートの声を無視し、使用人達でごった返す食堂を見渡す。
 昔、自分達はこの食堂で夕餉を摂っていた。自分は時々ラムザに呼ばれることもあったが、そんなときはあの妹はひとりで食事をしていたはずだ。アルマは妹を呼びはしなかったようだから。
 もしかするとこの場に居るかもしれない。願うように思い、目を凝らして見渡した。
 ほつれた髪もそのままに、くたびれた、と大声でぼやく洗濯女達。
 イカサマだ、と興じていたカードを投げて喚く庭師。
 自分──ジレのような衛士よりも立派な出で立ちをしているのは、北天騎士団の下級騎士達。席を求めて食堂を眺め回す彼らに視界を遮られたディリータは、思わず舌打ちをした。
 どうやら、それは騎士達の耳にも届いてしまったらしい。
「何だ、お前」
 不機嫌な声色も隠さず、騎士のひとりがすかさず凄んでくる。高慢そうな表情で見下ろしてくる男に詰め寄られ、ジレの本能なのかディリータの足が竦んだ。思わず、一歩下がる。
 ジレという男は小心者だったのかもしれない。ディリータは内心で苦々しく思ったが、そんなことにかまけている場合ではなかった。
 何故なら、記憶のなかに沈む妹の姿が視界の端に入ったから。
 ──ティータ。
「退いてくれ!」
 一気に干上がった口内をそのままにして叫び、ディリータは目の前の騎士を押しのけようとしたが、屈強な騎士はぴくりともしなかった。それどころか、騎士に胸ぐらを掴まれる。
「そんな態度はないだろう? 我ら北天の騎士に向かって、衛士ごときが」
 臭い吐息もかかりそうなほどの間近な距離で、騎士は吐き捨てるようにディリータに言った。その物言いにも視線にも、侮蔑の色が込められている。
「やめろって、ジレ……」
 おろおろとしたエイムの声が背後から聞こえた。
「殊勝なお仲間だが、もう遅い。お前は、我らの心を害したのだから……そうだな、這いつくばって謝罪すれば許してやらんこともないがな」
 にやりと笑む騎士の言葉に、他の騎士達が高笑いをした。
 そんな男達をディリータは睨み返した。そうして、なおも竦み上がってしまっているジレの心を押しやり、精一杯声を上げた。
「退け! お前達に用は……ッ!」
 ディリータの言葉は最後まで続かなかった。強く突き飛ばされ、卓や椅子が倒れる派手な音と共に床に転がる。
 女達の悲鳴。男達の野次。それらはどこか期待を込めた色を帯びていた。
 だが、興味津々な声も数多注がれる視線もディリータにはすべて遠く感じられた。騎士の嘲りもやはり遠い。もしかすると、また頭を打ってしまってのびかけているのかもしれなかった。
 ジレが弱いのか。それとも、迷いや不安で身動きがとれない己が弱いのか。
「おんやぁ? 威勢の良さは一瞬か?」
「拍子抜けだなあ?」
 騎士の仲間達がゲラゲラと笑った。対峙する騎士もまた笑い、卓に置いてあるジョッキを手にとる。そうして、未だ起き上がれないディリータに騎士はその中身をぶちまけた。
「く、はッ」
「勿体ない、せっかくのエールが。もっと別のものにすればよかったか? 例えば……ああ、ここは食堂だったな」
 酒で沁みる目を誤魔化しながらようやく睨み返したディリータに、騎士は下卑た笑みを浮かべると唾を吐いた。
「何をしている!」
 声とともに複数人の足音が聞こえてくる。この騒ぎを聞きつけたのだろうか、それは「ジレには」聞き慣れた上官の声だった。
「己の幸運を言祝ぐんだな」
 舌打ちをしてそう言うと、最後に騎士はディリータを踏みつけた。