Jumping Fish

8

 遠くで雷鳴が聞こえる。生ぬるく不穏な風が平原を渡り、全身を嬲る。雨の匂い。
「はッ」
 急げと叱咤するも、乗騎した鳥は主人の命令を拒んだ。疲れたのだろう、走る速度がみるみるうちに落ちていく。
「……仕方ない、か」
 荒い息を吐く鳥の首筋を撫でてやりながらディリータはひとりごちた。鳥から降り、空を睨む。
 絵画のように濃淡がくっきりとした雲が空には広がっていた。雷鳴が再び轟く。あわせて、風が音を立てて過ぎていった。
 雨が降る。嵐になるかもしれない。
 それでも、急がなければならなかった。凶賊に追いつかなければならなかった。妹を──ティータを攫った奴らに。
 逸る気持ちを抑え込み、鳥を促して岩場まで走った。雨宿りを決め込んでいたクアールをエイムの剣で追い払ってしまうと、ディリータは剣を地面に突き刺した。
 剣に縋り付くようにしながら座り込んだ途端、眩暈が襲ってきた。意識して呼吸を整えることでどうにかやり過ごせたが、それですべてが解決するわけもなかった。疲労が全身を支配し、不規則な調子の頭痛が拍車をかける。
 雨粒を頬に感じ、ディリータは少しばかり張り出した岩に身を潜めた。大きく息を吐き、地に突き刺した剣を見やる。そうして、手の内の鞘を。
 鞘は、既に乾きつつある血で薄汚れていた。
 先般のクアールや自分の血ではない。ディリータは項垂れ、思った。──これは、エイムの血だ。屋敷を襲った骸旅団の刃をまともに受けてしまった、エイムの。
 エイムならば、躱すこともできただろう。それくらいのすべは身につけていたはずだが、彼はそうしなかった。彼の背後には守るべき貴人がいたのだから。
 アルマ。そして……ティータ。
 ディリータもその場には居合わせていた。エイムと共に屋敷の見回りをしている最中に、学校から帰宅した彼女達に会ったのだった。
 回廊の脇に身を寄せ、いつものように礼をとった。そうして、「いつものように」ティータと視線を合わせた。ティータがかすかに微笑み、それをこっそり横目で見ていたエイムが咳払いをし、事情を知らないアルマは他三人のやり取りに気付かなかった。
 やがて、エイムがアルマを部屋まで送ることになった。──そのときだった。
「……くそッ」
 ディリータは地面に拳を叩きつけた。
 分かっていた、分かりきっていた事実だった。何がどうして、どうなるのか。すべて知っていたはずだった。
 それだから、「彼女」の傍をできるだけ離れないようにしていたのに。
 間違いなくやって来る「未来」を捻じ曲げようとしていたのに。
 なのに、みすみすと。
 内通者がいたのだろう、凶賊は屋敷の構造を把握していたらしい。奴らは迷うこともなく屋敷の奥深くまで侵入してきた。荒々しい足音と、剣戟の音。誰かの悲鳴。怒鳴り声。それらの圧は渾然一体の波となって、ディリータをその場に縫い止めた。
 たぶん、ほんの一呼吸の間だったとは思う。……だが、それがすべての分かれ目となった。
 事の詳細を掴みきれずに凍りついてしまったのはエイムも同様のようだった。急速かつ確実に近付いてくる禍事から少女達を、ティータを逃がそうとディリータが我に返った一拍後に、エイムは鬼気迫る顔つきで剣を構えた。
『逃げろ!』
 エイムの言葉を最後まで待たずに、ディリータは少女達の手を掴んだ。強く引き寄せ、次いで突き飛ばすように背を押す。走れ、そう怒鳴ったはずだが、彼女達の耳に届いたかどうかは分からない。
 先に駆け出したのは、気丈なアルマだった。ティータは動揺のまなざしでこちらを見つめ、それからアルマを追った。
 ディリータは彼女達の後を走った。安全だと思われる屋敷の奥を目指して、走った。
 回廊をひた走り、階段を駆け上がり、いくつかの角を曲がったところで、目指す先から男の悲鳴が聞こえてきた。……聞き馴染みのある声。
『……ッ!』
 どうやってここまで辿り着いたのか、複数の男が扉を背にしたソートを追い詰めていた。逃げ場のない──扉の向こうにはダイスダーグ卿がいるはずだったから──ソートが必死に首を振る。迫る死の恐怖に目を限界まで見開きながら、それでも彼は敵に短剣を突きつけていた。
『ソート!』
 衝動的にディリータはソートの名を叫び、同時に少女達を柱の影に押し込んだ。そうして、槍を振り回しながらソートのもとへと駆け寄った。
 ──何を、俺は。
「……」
 稲光のすぐ後に岩をも割るような雷鳴が轟いた。猛烈な勢いで降り始めた雨を彼岸まで押し流すかのように風が吹き荒れる。
 ──優先すべき者を。守るべき者を。……己は、再び間違えたのだ。
 起きてしまったことは仕方ない、冷静な思考は頭のどこかにある。だが、それ以上の圧倒的な質量でもってディリータの全身を後悔と己への憤りが支配していた。
 何か、他にすべはなかったのか。本当に、何もできないままだったのか。
 そもそも、ソートを助けようとしたのは、何故だったのだろう。「ジレ」の感情が自分に乗り移ったからか。ちらりとそんな思いにもなったが、ディリータは首を横に振った。「仲間」を助けたいと思った、本当にただそれだけの感情だった。
 ソートを庇ったディリータに賊達は一様に鼻白んだような顔つきをしたが、それも一瞬のことだった。賊のひとりがディリータが駆けてきた方向を見やる。……正確には、少女達が隠れている柱を。
 誰かが潜む気配に気付いたのか、槍を構えたディリータを無視して賊は柱に近寄った。
 妙な静けさに沈んだ回廊に、小さな慄きが響く。
『これはこれは』
 嬉しそうにそう言った賊は柱の影に手を伸ばすと、隠れていたティータとアルマを乱暴に引きずり出した。
『やめろッ!』
 叫び、駆けようとしたディリータを別の賊が襲う。槍の間合いでは剣にはかなわない。反応が遅れたディリータは、賊の攻撃をまともに食らった。
 ……食らったはずだった。

 何故だろうと思う。
 剣の軌跡はやたらに緩く、それでも動けなかったのは。
 何故だろうと思う。
 彼らが自分を──「ジレ」を助けたのは。

 ──早く、行け。
 血の泡を吐き、ソートは真顔で言った。それにひとつ頷き、ディリータは回廊を駆け戻った。既に骸旅団の数人はこの場を去っていた──ティータとアルマを攫って。
 ただ、走る。苦手な槍は途中で投げ捨てた。
 ようやく現れた北天の騎士とすれ違い、階段を駆け下りる。そうして、先刻の回廊へ。
 回廊には、男が一人倒れていた。
 それが誰なのか、確認する必要はなかった。エイムだ、ディリータは直感した。
『借りるぞ、エイム!』
 エイムの耳には自分の声など届いていないだろう。魂は体を離れてしまっただろう。そう思いながら、しかしディリータはエイムに向かって怒鳴った。エイムの手から剣を取り、身を起こして鞘を抜く。その拍子に目を見開いたまま絶命したと思しきエイムの顔を目にし、ディリータは息を呑んだ。
『あくまで、借りるだけだからな』
 一拍の後、できうる限り丁寧にエイムの亡骸をディリータは床へと置いた。黙祷の代わりに瞑目し、再び走り出す。
 ──ティータ。ティータ!
 エイムやソートの哀しき顔を脳裏から追い払い、ディリータはぐちゃぐちゃになりかけている感情を己の内に引き戻した。呪文のように妹の名を心中で叫ぶ。
 偽りの夢は、優しくはなかった。これまで辿ってきた道行きより、余程酷かった。
 夢なら覚めてくれ。強くそう願う。
 どうせ、このままひた走っても何も変わらない。……そう、何も変わらない。
 過去も、現実も。
 自分のいない未来は変わるかもしれなかった。いや、それも最初から「運命」とやらには織り込み済みだったのかもしれない。
 何も変わらない。
 何も……。
『ジレ!』
 唐突な虚脱感に足を止めかけたディリータの意識を現に戻したのは、ミケーラの切羽詰まった声だった。
『あ……』
『何をボケっとしている! こっちだ!』
 今まで見たこともなかった形相で──今日は誰も彼もがそうだ──ミケーラはディリータの腕を引っ張った。思わずよろけたディリータを気にも留めず、引きずるように走り出す。
 ──お前は無事だったのか。
 ミケーラの背中を追いながら、ディリータは思った。
 ティータが攫われ、エイムやソートは無残な姿に成り果てた。濁流のように自分を押し流そうとする嘆きの正体は、「ジレ」ならば当然浮かばせた想いの欠片達なのだろう。ティータのことはともかく、仲間の死に自分が動揺するなんてことはあり得ないのだから。
 だから、今。
 ミケーラの無事で何かしらの安堵を覚えているのは「ジレ」の心であって、自分のものではない。ディリータは内心で自身にそう言い聞かせた。否、そう思いたかった。
 それでも、今。
『彼奴らは東門に向かって逃走した。閉門は間に合わないだろう、きっと平原まで出てしまう』
 厩舎に入り、ディリータは早口で説明するミケーラの先を行った。ミケーラの予想は常とは違っておそらく当たるだろう。説明のひとつひとつを耳に入れながら、鳥を選った。
『ミケーラ、俺は行く』
 装具を鳥に素早く付け終えると、ディリータはミケーラに振り返った。
『だから、後は頼む。エイムやソートのことを』
『ああ、分かった。……気をつけて行け、「ジレ」に宿る心よ』
 厚く葬ってやってくれ、と続けようとしたディリータをミケーラが遮る。そうして、驚くほど静謐な声でミケーラはディリータに言った。あの日、市で見せた「兄貴分」の笑みと共に。
『ミケーラ』
『俺は……俺達は皆、お前がうまくいくってほうに全部賭けてるんだ。ボロ儲けさせろよ?』

 彼らは気付いていたのだ。……知らなかったのは、己ばかり。

 雨の音が途絶えた。神々しいまでの陽光が雲間から差し込む。
 いつの間にか眠っていたらしい。
 上から落ちてきた雫が鼻先で弾ける。それを乱暴に拭い、ディリータは鳥を伴って岩場を出た。
 穏やかな風が草原を渡る。その風に草は緩やかにうねり、光が遊ぶ。
 いつまでも眺めていたい光景だった。──遠い過去、夕焼けを見ながら草笛を鳴らしたあのときのように。
 これは夢。
 これは過去。
 偽り。
 真実。
 ……そのどちらにでも転びそうな自身の心。
「急ごう」
 佩いた剣を軽く叩き、ディリータは鳥に跨った。