Jumping Fish

7

 さらに数日が流れた。

「あの」
 聞き慣れているようで、その実、少し聞き慣れない声で呼び止められ、ディリータは足を止めた。
 任務も終わり、詰所へと戻るところだった。黙って突っ立っているというのもなかなかに疲れるものだが、次第に慣れてきてしまったなと思い──、そうして苦笑いをしたところで声をかけられた。
 いよいよ来たか、とディリータは思う。
 声がしたほうを意識してゆっくりと向くと、少年が硬い表情でこちらを睨んでいた。その顔つきは妙に懐かしく思えた。
 若く、世間を知らない雛。己の立つ地の脆さを思い知らされる一歩手前の自分が、そこにはいた。
 少年に頷いてみせ、ディリータは歩み寄った。目の前に立ってしまうと、少年は自分……「ジレ」より背が高かった。僅かに見上げる格好になったが、ディリータは頓着せずに口を開いた。
「お前、いや、君とは話をしておいたほうがいいだろうと思っていた」
 何か用か、などと白々しい台詞は吐かなかった。思うよりも穏やかな声色になったのには少しばかり驚いたが、これも「ジレ」で過ごしてきた日々の影響なのかもしれないと思う。
 少年が見据えているのは自分ではない。今まで名も聞いたことがなかっただろう「ジレ」という衛士だ。
 だが、自分が見据えているのは──。
「……それは、こちらの台詞だ」
 少年は一瞬言い淀む素振りを見せたが、やがて掠れが少し残った声でそう言った。
「あんた……あなたが妹に近付いているという噂を耳にした。……最近、やたらと親しげに妹と話していると」
 少年の言葉が問いに変わる前に、ディリータは頷いた。
「ああ。君の妹……ティータとは何度か話をしている。いけないか?」
 腕を組み、首を傾げてみせる。
「それは……」
 ディリータの態度に、少年は返答に詰まったようだった。否定するか、慌てるか……おそらくはそういう展開を予想していたのだろう。落ち着いて返されるとは思っていなかったのかもしれない。
「驚いたのかもしれないが、君に許しを得る必要はないとそう考えた。時間や場所を決めて彼女と落ち合っているわけでもないしな」
 時々世間話をするくらいだとディリータが付け加えると、少年は腑に落ちないというかのように微妙に表情を変えた。
「……逢い引きをしていた、というのは」
「噂話にすぎないな。同僚達が面白おかしく仕立て上げた噂が君の耳にまで届いたのだろう」
 ディリータは少年の言葉をばっさりと切った。
 だが本当は、と内心でそっと呟く。逢い引きのような真似は確かにしていないが、二人でそぞろ歩いたことはある。先日の市でのことだ。
 あの後、傍で見ていたミケーラが周囲に言いふらしている様子は見なかった。エイムやソートも面白がったりはせずに、妙に優しい目で「見守ってやる」と肩を叩いてきたくらいだった。それでも噂に尾ひれは付いて、しまいには「逢い引き」だなんて言葉が出てくるくらいなのだから、市に居合わせた他の同僚が自分達を見かけたか何かしたのだとディリータは推測していた。
 噂はティータも聞き及んだらしい。この前、やはり偶然行きあった回廊でほんの少し話をしたが、彼女は何のてらいもなく笑っていた。
 否定も肯定もせずに受け流すすべを既に身につけているのかもしれない、そんな考えも頭を掠めたが、自分も彼女の笑みにつられて笑った。
 ああやって笑ったのは本当に久々のことだった──。
「それはそれで、妹が」
「本人に聞いてみるといい。彼女の言うことが真実なのかそうでないのか……それを見極めるのは兄である君にしかできないのでは?」
 傷つかないように優しい嘘をついていたのか。
 彼女にとっては真実そのものだったのか。
 ……かつて、己はそれを判じることもしなかった。心配はしていたが、彼女の言葉をただ信じた。
 否、信じたかった。
 平穏な日々がこのまま続くことを。将来、彼女は幸せになるのだということを。
 自分達が置かれている立場がひどく危ういということには見て見ぬ振りをしていた。胸に潜む「違和感」はいつの日か浮上するのだろうが、それはけして悪いものにはならないのだとそんなふうに思い込んでいた。
 あの日々、自分は間違っていた。妹にだけではない、幼馴染に対してもそうだ。そして、すべてに対して。
「そんなことは、言われなくとも」
 揶揄と受け取ったのか、少年は頬を紅潮させた。
「……あなたは思い上がっている。妹をよく知っているとでも言いたげだ」
「いや? 俺は……彼女の行く末を、未来を案じているだけだ」
 少年の言葉を否定し、ディリータは本心を告げた。
 この優しい偽りの夢の中だけでも、彼女は幸せになるべきだった。降り積もる雪に身を埋める、そんな道行きを辿らせたくはなかった。
 そのためには、どうすればいいか。
「そう……幸せを祈るだけだ」
 だが、実はディリータには何の策も打ち出せていなかった。「ジレ」となり、ティータと出会い……時間ばかりが過ぎている。焦りは常に付きまとっているが、何をどうしたらいいのか、どうすれば運命を捻じ曲げられるのか、考えても答は出なかった。
 自分こそが彼女を連れ去って、とりあえず安全な場所に身を置けばいいのか。
 すべてを打ち明け、彼女に選択を任せればいいのか。
 このままで良いわけはなかった。時間は確実に過ぎ去り、過去は自分の記憶どおりに進んでいる。
 過去を、運命を、捻じ曲げなければ。
「だから」
 ディリータは身に宿る焦りを押し隠し、静かに言った。
「君にも協力してほしい。……違うな、君が最も愛する妹を……ティータを守るために俺は協力したい」
「……何を言い出すんだ」
 ディリータの言葉に、少年は怪訝そうに顔をゆがめた。それを無視し、ディリータは続ける。
「任務を放り出せ」
「は?」
 つくっていた拳を無意識に少年は緩めた。話の展開についていけないとその顔には書かれてある。
 雛は何も知らない。だが、真実のいくつかは知らなければならない。
 せめて、この夢の中だけでも。
「骸旅団の殲滅を命じられたはずだ。盗賊の砦に逃げ込んだ残党を狩れ、と」
「なんでそれを知って……」
 何も知らないはずの「ジレ」の言葉は、少年を混乱させたようだった。それはそうだろう、少年達の任務はつい先程ダイスダーグから告げられたばかりのはずだ。そして、任務の内容が衛士などに伝わるわけもない。
「何故、か。そんなことはどうでもいい。……いいか、そんな任務など放っておけ」
 少年に一歩詰め寄り、ディリータは言った。少年の肩を掴み、その身を揺さぶる。
「無視するんだ。任務を放棄すれば厳しい咎めがあるだろうが、それも些細なことだ」
「あんたは、本当に、何を」
 敬称も忘れ、少年は喘ぐように言葉を繰り出す。
「僕……俺の立場も知らないで、いったい何を!」
「一生後悔する。いや、後悔などでは済まない。自身が死ねばよかったと思うだろう」
 少年の怒りを受け流し、ディリータは言い切った。その言葉に、肩を掴んでいる「ジレ」の手を振りほどこうと躍起になっていた少年が固まる。
「……あんた」
 少年をディリータは見据えた。せめて、この想いが伝わるようにと少年の揺れる瞳にディリータは願った。
「そうでないと、彼女は」
「……ディリータ? どこだ?」
 会話を遮るように少し高い声が回廊から聞こえてきたのは、そのときだった。
「ラムザ……」
 顔だけを幼馴染の声がしたほうへ向け、少年は呟いた。夢から覚めたような表情は、どこか「助かった」と安堵の色が広がっていた。
 無理はない。ディリータはそう思ったが、ひどく腹立たしい思いに駆られた。
 ──邪魔が入った。
 少年から手を離し、溜息をつく。痛む頭を軽く振ってやり過ごすと、ディリータは少年を見上げた。
「俺の言ったことを、せめて覚えておけ」
「……ああ」
 少年はディリータを一瞬見つめ、それだけを言って足早に立ち去った。

 ──やはりこうなるのか。
 壁に凭れかかり、回廊の薄暗い天井を見上げる。呼吸をするたびに頭の奥で鐘が鳴り響く。それは、本当に警鐘なのだろう。
 呼吸を溜息にすり替え、ディリータはそのまま目を瞑った。
 こういった展開になるのは初めてではなかった。むしろ、予想どおりだったと言っても過言ではない。
 ティータに真実を打ち明けようとしたとき。悩んだ末に三人組に助力を求めようとしたとき。何の意味も為さないだろうが、ダイスダーグやザルバッグに訴えんと足を向けかけたとき。他にも、様々と。
 そのたびに「何か」が起こるのだった。当たり前のように何らかの邪魔が入り、酷く頭が痛んだ。……反逆者を罰するかのごとく。理を捻じ曲げようとする意思を嘲笑うかのごとく。
 阻むものは何か。敵が施した呪いか。既に定まった運命か。それを司る神か。
 神は、と今では信じてもいない存在を思い、ディリータは笑った。呪がきっかけにせよ、運命という名の神はそれに同調したのかもしれない。己は神によく思われてはいなかったのだろう。
 時間は、知り尽くした物語は、滑稽なほどにそのまま進んでいく。目を逸らすことも許されず、否応に。
 だが──。
「変えて、みせる」
 この優しい偽りの夢の中で、運命を、未来を。たとえ、己を消すことになっても。
 
 ひとり、ディリータは誓った。