Jumping Fish

9

 そろり、と近付く。
 何気ないふうを装って。少しばかり怯えた表情を見せて。
 懐柔した農夫から預かった粗末な食事を卓に置いた。
 再び、そろり、と近付く。
 男達は気付かない。しかし、彼女は気付いたようだった。
 目配せをした。
 それはまるで、幼き日の遊びにも似ていて。

 そうして、最後の一歩。


「しっかり掴まっていろ!」
「は、はいッ」
 先にティータを騎乗させ、ディリータは同じ鳥に飛び乗った。恐る恐るといった体で伸ばしてきたティータの手を掴み、己の胴にまわす。怯んだ彼女は手を引っ込ませたが、すぐにディリータにしがみついた。
「野郎!」
「逃がすな!」
 背後に賊どもの怒鳴り声を聞きながら、鳥を走らせる。この数日付き合ってきた鳥はディリータの指示をよく聞くようになった。怖気づくこともない。
 骸旅団が仮の根城にしていた農場の柵を飛び越えると、ティータが小さく悲鳴を上げた。それが妙に嬉しくて、ディリータは前を向いたまま笑った。
 頭痛も今は気にならない。おそらく、気が昂ぶっているからだろう。
「あの、ジレさん、いったいどこへ」
 草道から農道に出る。怒声は聞こえなくなったが、まだ油断はできない。見つけた道標を凝視しながら考えを巡らせていたディリータに、ティータが訊いた。
「……できれば、大きな街に出たい。しばらく隠れたいからな」
 北はレナリアの台地へ続く街道。東と西は荒野が広がるのみで道らしき道がない。そして、南は。
「オゴン……その先はガリランドか」
 懐かしい、とディリータはその名に思った。
 ガリランドは勿論のことだが、オゴンの村にもよく行った。士官アカデミーの演習地が近くにあったためで、そのせいかオゴンには活気があったことを憶えている。宿や各種道具屋など士官候補生を相手にした商売を生業にしている者も多く、村の割には潤っていた。それに、街道沿いでもあるから旅人も多い。──紛れ込むのは容易だろう。
 よし、と頷く。行き先は決まった。
「南へ向かう。オゴンで様子を見て、その後はガリランドだ」
 疲れたのだろう、手近な岩に座り込んでいたティータの手を取って立ち上がらせると、ディリータは自分のマントを外した。冬が近い秋空の下、見ているほうが寒くなるような格好のティータに羽織らせる。
「汚れてしまっているが、我慢してくれ」
「これじゃ、ジレさんが風邪を」
「俺のことなら心配ない。そんな格好の君を見ているほうが風邪を引く」
「……分かりました」
 予想通りのやり取りの後、ティータは大人しく従った。

「いつまでも全力疾走を続けていては鳥がへばってしまうし、乗っている人間も疲労困憊になる。乗り慣れていない者ならば尚更だ」
 鳥を適度な速度で操りながら、ディリータはティータに説明した。やはり恐ろしいのか、何度も背後を振り返る彼女の心情を慮ってのことだった。
 ──いや、違うな。
 ディリータは思った。こうして彼女に話しかけることで自分自身の性急さを抑えつけられるような気がしたから、というのが正しいだろう。速度をもっと上げてオゴンの村に早く逃げ込みたいというのが本音だが、たぶんそれは失敗する。加えて、骸旅団が待ち構えている可能性も考えられる。それ故に慎重になる必要があった。
「そうなんですね……」
 すみません、と付け足したティータに、ディリータは頭を振った。
「最初は誰もが慣れないものさ。何度も振り落とされているうちに慣れていく」
 実を言えば、ディリータは鳥に振り落とされたことは殆どなかった。怖いあまりにむやみに鳥を叩いたら落とされたという幼子にはありがちな展開になったくらいで、すぐに乗りこなせた。一方のラムザはといえば、鳥にはやたらと懐かれるのだが、それとこれとは話が別とばかりによく振り落とされていた。本人が首を捻るくらいに。
 遠い過去。もう、戻れはしない。
「……君も、そうやって覚えるといい」
 ふと込み上げてきた思い出をやり過ごし、ディリータは努めて声色を明るくした。
「鳥の操り方だけじゃない。自分にできることを覚えて……そして、本当にやりたいことを見つけるんだ。自分自身の足でこれからを歩めるように」
 君ならできるだろう。そう付け加えたが、それはまるで祈りだった。
 この世界で。偽りと思っていた、この空間で。
 己の辿ってきた道行きでは為し得なかった──彼女に伝えそびれた言葉。取り返しのつかないところに行き着くまで放置していた「違和感」という名の現実。
 それを壊す。壊して、その先には。
「利用なんてされることがないように……なんだか説教くさくなってしまったが」
「ジレさん」
 最後は取り繕うような具合になってしまったと思いながらディリータが言い終えると、ティータの思い詰めた声が後ろから聞こえた。
「何だ?」
「ジレさんは、もしかして……。……いえ、なんでもないです」
 何事かを言いかけたティータだったが、言葉は途中で宙に浮いた。
「ティータ?」
「なんでもないんです」
 訊き返したディリータに、ティータが自らの思いを振り切るかのように言葉を繰り返す。だが、その言葉とは裏腹に彼女はディリータにしがみついた。
 そして、小さな溜息。
「……」
 まただ、とディリータはその溜息に思った。自分が「ジレ」となってから、彼女は何度か溜息をついていた。それから、真実を見抜くようなまなざしで自分を見据えてきたのだったか。
 今、彼女がどんな表情でいるかは分からない。振り返ってしまえば分かるのだろうが、その瞬間に彼女は違う顔を見せるような気がした。
「なんでもない、とそう言う奴は……」
 ディリータは鳥を止めた。振り返りはせずに、しがみつくティータの手を軽く叩く。
 市でミケーラが自分に告げた言葉がよみがえる。
「大概、何かを腹に抱えているんだそうだ。実は、なんでもなくはない」
 ミケーラの笑顔。ソートの大袈裟な心配。エイムの咳払い。
 そんなことを思い出す。ごく短い間のはずだったのに、妙に心に残っている彼らの──「仲間」のことを。
 ディリータは腰につけたエイムの剣を見やった。
「無理に聞き出したいわけじゃない。けれど、時期を逸してしまうことだってある。あのとき話してしまえばよかった、しておけばよかった……そう思うことも」
 臆することなく、彼らに協力を求めれば何か変わったかもしれない。己を押さえつけようとする「運命」とやらをもっと早く捻じ曲げることもできたかもしれない。……彼らを悲劇に導くこともなかったのかも。
 己の中の何かが軋む。
「ジレさんもそんな思いをしたことが……?」
 ティータの問いは、ディリータには確認の響きで聞こえた。もはや隠す必要もない、そう判断して頷く。
「そうだな。何度もある」
 夕暮れの草原。雪の砦。舞う鳥。短剣と花束。炎の先の青空。……他にも。
 鮮明なはずの記憶はどれもがどこかおぼろだった。忘れてはならないと誓っていても、次第に追憶色に彩られていく。それが怖くて、刻みつけるように幾度も思い返した。
 あのとき、もっと違うすべがあったのではないか。
 あのとき、もっと早く自らの想いを伝えておけばよかったのではないか。
 あのとき、狭い世界のなかで息をしていると何故気が付かなかったのか。
 あのとき、こうすれば。
 仮定形での回顧は無意味だと知りつつも、止められなかった。見えぬ仮面の下で過去を振り返り続けて、そうして。
「だから、君には自分に正直に生きてほしいと思う。これからの未来、その時々の判断を悔やむことはあっても、自分を誇れるように」
 それこそが、この世界での己の願い。
「ジレさん……」
「俺でいいなら話を聞こう。きっと、まだ……」
 ティータの手をもう一度叩き、時間はある、とディリータが言いかけたそのときだった。
 ヒュン、という音と共に、鳥の足元に矢が落ちた。