Jumping Fish

10

 時よ止まれ、と願った。
 自分達だけを時の流れに留め、あとはすべて止まってしまえと。
 そんなふうに。


 青ざめた顔色のままのティータを先に部屋に入れてしまうと、ディリータは素早く辺りを見渡した。幸いなことに、宿の廊下には誰の気配もない。
 そろり、と部屋の中へと後ずさり、ゆっくりと扉を閉める。急ぐあまりに大きな音を立てて宿の主人や宿泊客に不審がられるわけにはいかない。心もとなげなティータの視線を感じながら、ディリータは周囲の様子を窺った。
 聞こえるのは、階下の酒場の喧騒。調子外れのティン・ホイッスルとフィドルが不協和音を高らかに奏で、客が怒鳴るような野次を飛ばしている。
 悲鳴は聞こえなかった。荒々しい足音も。
 どうやら、追手からは無事に逃げおおせたらしい。ディリータは細く息をつくと、立ち尽くすティータを見やった。窓からかろうじて射し込んでいる夕光の残滓は薄く、彼女の姿は闇に沈みかけている。
「怪我は?」
「あ……。大丈夫です」
 ディリータの問いにティータは緩く首を横に振った。そうして、自分を鼓舞するかのようにディリータを見つめる。縋るような視線ではなかった。
 だが。
「嘘をつくんじゃない」
 卓に置かれたランプに火を入れる。窓辺に寄り、賊の姿が外にもないことを確かめると、ディリータは窓の木枠にタペストリを掛けた。それからティータに椅子に座るように促す。彼女は何事かを言いかけたが、結局は何をも言えずにぎこちなく椅子に腰を下ろした。
「腕を出せ」
 破れてしまっている袖を指差し、ディリータはティータに言った。まるで命令だと苦い思いがよぎったが、そんなことに頓着している場合ではない。ティータが無事であるかどうか、それを確かめるほうが先決だった。
 実際、その言葉にティータは躊躇したが、それも一瞬のことだった。見据えるような視線でディリータを見つめ、そうして袖をまくる。
 現れたのは、矢が掠めてできたと思われる傷だった。肘が赤くなっており、血も僅かではあるが滲んでいる。
「痛むか?」
 訊きながらディリータはランプを手元に寄せた。急く心を抑えて傷を検分し、毒矢の類ではなかったことにまずは安堵する。矢尻の破片が入り込んでいないことも確かめ、手持ちの鞄に入れてあった酒を取り出した。
「少し、ぴりぴりします」
「そうか。……しみるぞ」
 前置いて、端切れを酒で濡らす。そこで一旦ティータを見やると、唇を噛んで頷いた彼女と目が合った。
 頷き返し、出来得る限りの慎重さで傷口を端切れで押さえる。瞬間、ピクリとティータは僅かに身を震わせたが、思ったよりは痛まなかったらしい。安堵したように息をついた彼女の様子を窺うと、昔はよく唱えていた古いまじないをディリータは呟いた。
 詠唱に寄り添うように出現した仄かな光がティータの傷口を覆い、癒やしていく。
「え……?」
 やはり驚いたのか、光が傷を吸い込む様子にティータが目を大きく瞠る。自身の傷とディリータの顔を交互に彼女は見やったが、やがてその視線をディリータに据えた。
 いっそ、穿つように。糾弾するように。
「すまなかったな。本当は俺が負う傷だった……そもそもは君を前に乗せておけばよかったんだ」
 直截なティータのまなざしを受け止めきれずにディリータは目を伏せた。彼女の怒りはもっともだと思い、謝罪の言葉を繰り返す。だが、それは自分でも言い訳にしか過ぎないと分かっていた。
「すまない……本当に」
 ディリータは拳を固めた。どこまでも不甲斐ない自分を表すように、ポキリと指が音を立てて鳴る。
 ──前も、そうだった。今度も、結局は。
 危険な目に遭わせたりはしない、必ず護る。この偽りの世界で、ひとり誓った。ぐらぐらと揺らぐ意識と阻む運命に逆らってみせると心に決めたのに。過去を、捻じ曲げると。
 だが、現実はどうだ。過去の道行きをなぞるようにみすみす攫われてしまったことで、ティータは死の恐怖に晒された。幸いにも救い出せはしたが、今度は自分の迂闊さが彼女を傷つけた。運命などではなく。
 ──本当に、自分という人間は度し難い。
 自身を殴打できるならば、まさに今そうしていただろうとディリータは思う。……それで何かが変わるというわけではないけれども、罰は与えられるべきだと思った。
 それなのに。
「謝らないでください」
 怯えた様子も見せずに、凛とした声でティータがディリータの懺悔を遮る。その声色につられて、ディリータは彼女に視線を戻した。
「だが」
 尚も食い下がったディリータに、ティータが微笑む。
「いいえ、謝らないで? ……兄さん」
「──」
 確信に満ちた彼女の言葉と笑みに、ディリータは言葉を失った。
「兄さんでしょう?」
 何も言えないディリータに、ティータが問う。否、それは問いというより確認であり、自身が導き出した答を彼女は疑ってもいないようだった。
「ティー……」
 向けられた彼女の笑みから逃れたい一心でディリータは後ずさりをしたが、すぐに卓にぶつかった。灯火が僅かに揺らぎ、それに合わせて二人の影も揺れる。ランプの芯を焼く音が妙に耳に障った。
「……何故、そう思う?」
 やがて、ディリータは言葉を絞り出した。掠れた声は間が抜けていた。
 驚きに満ちたディリータの問いに、笑みを深めてティータが頷く。
「貴方は……、ジレさんは「私が知っている兄さん」とそっくりだった。貴方が私に語って聞かせた言葉の数々は、兄さんのものとまるで同じだった。それに、「おまじない」の詠唱は兄さんだけが知っている文言で」
 すっかり癒えた腕の傷を見やり、ティータは言った。なかなか鋭い推理でしょう? 得意げに言う彼女を見つめ、ディリータは呻いた。
 ──悟られるつもりは、なかったのに。
 はじめこそ違ったが、次第に「ジレ」として彼女の運命を変えようと思っていた。自分のことなどどうでもいいと思っていた。彼女に、妹に「ジレ」の中身が自分だと悟られた瞬間に何かが壊れるのだと、そんな予感すらあった。
 なのに、彼女は。
「ティータ」
「そして、まなざしも声色も本当に同じ。いえ、声そのものは「ジレさん」なのでしょう。でも、その響きは兄さんのと変わらなかった」
 優しくて。温かくて。少し切なくて。……ただ、違ったのは。
「貴方はどこか苦しそうだった。怯えていた。だから、思ったの。「兄さんだけど、兄さんじゃない」って。でも、「私の大切な兄さん」という推理──、ううん、直感も捨てられなかった」
 そこで言葉を切り、改めてティータはディリータを見つめてきた。
 彼女には似つかわしくない、そう思ってしまうほどの視線からディリータは逃げられなかった。是とも否とも言えないまま、喘ぐように浅く息を吸う。
「貴方は、誰? 何かを……すべてを知っている貴方は、いったい」
 ティータは静かに問うた。勁い視線とは裏腹に、慈しみに満ちた声だった。
 ──神など、もう信じてもいないが。
 ディリータはその声色に思った。むしろ、自分にとっては禍つものだった。もう幻にしか思えない現実でも、夢かもしれないこの世界でも、何度その存在を恨んだことか。
 信じない者を神は逃さない。与え給うた運命を捻じ曲げようとする輩を神は許さない。
 だからこそ、自分は神を捨てた。忌避した。今の今まで。
 ……それなのに、妹の声色は「それ」を連想するもので。
 すべてを許す、天上から降る声。
「……俺は、君……お前の」
 やがて、ディリータは覚悟を決めた。神ではなく、彼女に応えたいと思った。
 だが、そんな自分の意思についていけずに、干上がった喉がそれ以上の言葉を拒む。不規則な鐘の音にも似た例の頭痛が始まり、目の奥で眩い光がチカチカと点滅した。
「ええ」
 ティータの促す声が急速に遠ざかっていく。だが、もう負けてはいられなかった。
 ふらつく足に、つくった拳に、霞んでいく目に、出来得る限りの力を込めた。怖気づく心を揺さぶった。そうして、自分を阻む運命を、神を……そういったすべてのものに抗うために、ディリータはゆっくりと頷いてみせた。
「兄さん……」
 ティータの声が僅かに震える。見る間に浮かぶ自身の涙を拭い、それでも彼女はディリータに頷き返した。
 ──何故、泣く?
 ティータの涙は、ディリータにとって思いもかけないものだった。見知らぬ男の正体が「兄」だと知って、それが彼女の心の何を震わせたのか。驚く、ただそれだけだと思っていた。涙は、彼女が自身の未来を知ったときにこそ必要なはずだった。神に抗う力に変える涙は、そのときにこそ。
「ティータ、どうして」
「……兄さんが、すべてを知っているから。私を、悼むような目で時々見つめていたから。ううん、自分がどんな道行きを辿るかなんて、そんなことはどうでもいいの。どうでもよくて……でも、兄さんが辛そうなのが悲しくて、苦しくて、だから」
 兄さんの前で泣いたことなんか、もうずっとなかったのにね。
 泣き笑いの顔で言い、ティータが手を伸ばす。幼い頃にはよく見せていた仕草が懐かしくて、ディリータは目を細めた。たったひとりになった肉親を求めていた、あの頃。
 遠い、遠い、過去。追憶色の、夢。
「泣いていい……。大丈夫、あとは俺がお前を」
 その手を取るべきか。抱きしめてしまってもいいのか。ディリータが迷いながら最愛の妹に囁いた、そのとき。
 荒々しく扉を打ち叩く音が数度響き──、扉は開かれた。



「ティータ!」
 転がり込むように部屋に入ってきたのは、「自分」だった。この先を知る由もない過去の自分。
「……兄さん!」
 宙に浮いたままになった手はそのままに、ティータが立ち上がる。賊の追手かと思って咄嗟にティータを庇ったディリータだったが、侵入者の正体が分かると、突きつけた剣を下ろした。
 間に合ったか。ディリータは思った。「オゴンに向かう。ジレ」とだけ書いた紙切れを文使いの鳥に託したのは数刻前。偵察のために放ったのだろう、ラムザの飼鳥を見つけられたのはまったくの僥倖だった。
 過去の自分──少年は、自身に向けられた剣の切っ先に目を大きく見開いたが、剣が下ろされた次の瞬間には弾けるように妹のもとへと向かった。前に立ちふさがるディリータ……「ジレ」を押しのけ、妹を抱きしめる。
 無事か。大丈夫か。怪我は。怖い思いをさせた。
 矢継ぎ早に問いを重ねる少年に、ティータがひとつひとつ頷く。
 大丈夫。怖くなかった。ううん、怖かったけど、もう大丈夫。
「本当に?」
 そんなはずはないだろう。少年は妹の答を信じられないようだった。無理がないことだ、どこかぼんやりとしてしまった頭と感情でディリータは思う。まったく、少年は「自分」に似ていた。ティータが言ったように、そっくりだった。
「本当よ。兄……ジレさんが助けてくれたから」
 そう言うと、ティータはディリータを見た。少しばかり困ったような笑顔で見つめてきた彼女に、ディリータは小さく頷く。
「……あんたか」
「言ったはずだ。一生後悔することになる、と」
 その言葉に、少年が複雑な表情でディリータを見やる。感情の大半を安堵に持っていかれてはいるが、指摘通りの後悔も少年の心にはあるのだろう。それから、ほんの僅かな嫉妬心も。
「礼を言うべきなんだろうな……」
「そうだな」
 悔しげに言う少年の肩を叩くと、ディリータは少年に近寄った。ティータには届かないほどの小声で、少年にだけ囁く。
「後は頼んだ」
 唐突な依頼に息を呑んだ少年を、ディリータは突き放した。一旦は鞘に収めた剣を再び抜き、窓辺に寄る。
 酒場の喧騒。調子外れの楽の音。波のような笑い声と野次。それらに混じって、遠くで悲鳴が聞こえた。
「……ジレさん?」
 雰囲気が変わったのをティータは悟ったらしい。タペストリを掛けた窓を素早く見やり、振り返る。聡い子だ、とディリータは思った。聡かったが故に、自身を殺していた少女。
 だが、そんな過去は彼女にはもうどうでもいいことだ。……これからは。
「ティータ、「いい子」はもう止めるんだ」
 できるだけ軽い口調を装ってディリータは言った。無理やりに笑みをつくり、ティータの頭を撫でる。それくらいはいいだろう、そう思った。
「ジレさん」
 縋るようなまなざしでティータが見上げてきたので、ディリータは笑みを苦笑に変えた。
「そんな目で見なくてもいい。きっと、また会える」
 自分が変えてみせた──そう信じている──この世界で、きっと。……そのときには、自分は「ジレ」でも「ディリータ・ハイラル」でもなく、魂の消え失せた躯となっているかもしれないけれども。エイムや、ソートのように。
 それでも。
 ティータから視線を外し、ディリータは少年を見やった。分からないなりに覚悟を決めたのか、少年が緊張した面持ちで頷く。
 それを見届け、ディリータは踵を返した。扉に手をかけ、部屋から出ようとして──、突然の衝撃にたたらを踏んだ。
「ティ……」
「ジレさ……兄さん」
 これを。
 ぶつかってきたティータがスカートの隠しから何かを取り出す。祈りを込めるような仕草で両手で包み込んだそれを、彼女はディリータに握らせた。
「不格好だけど、ゆがんでるかもしれないけど……持っていて」
 いつか聞いた言葉に促されるようにディリータは手を開いた。
 現れたのは──、組紐のブレスレット。
「槍使いだから、「ジレさん」は。だから、これを」
 組紐に付いている槍の飾りを指差し、ティータが言う。
「市で、一緒に歩いてくれたお礼なの。でも、それだけじゃないの。たくさん、たくさん、貴方には……兄さんには」
「ティータ」
 過呼吸になりそうな勢いで必死に言い募るティータを、ディリータは抱きしめた。
 彼女の言葉の先は、もう聞かなくてもよかった。聞かずとも、分かった。
 報われたのだ、とそう思う。消えた現実。ねじれた夢。いびつな願い。いつも抱えていた何かしらの想いは、苦しみは、彼女が寄せてくれた想いが救った。
 それで十分だった。……だから。
「ずっと愛している」
 一言、それだけを告げてディリータは部屋を出た。



 村の目抜き通りは既に騒然としていた。賊の襲来を知って逃げる人々の流れに逆らい、ディリータは歩く。
 視界はゆがんでいた。立つのがやっとだった。
 それでも、心が動じることはなかった。恐怖は感じなかった。
 ただ、願う。──彼女に幸いを。
 
 すべては、そうして暗転した。