#11 晴れた空に降る雨

「そろそろ休まないと。もう夜更けだよ?」
 入室するなりそう言ってきたテランスに、ディオンは目線を机に向けたまま「先に休んでいてくれ」と言った。
「あと少しで書き終える。そうしたら、休むさ」
「「旅の報告」ならば、首の賢人……オリフレム公へ伝えればいいんじゃないの?」
 食い下がるテランスは少し珍しいかもしれない。そう思い、ディオンは羽根ペンを操るのを一旦止めた。ペンをトレイに置き、指先でテランスを手招く。
「オリフレム公やイサベル殿への書状もそうだが、手帳を書いてしまいたい」
「ああ、なるほど……。……結構、書いたね」
 旅の前にジョシュアから贈られた手帳の一頁を開き、ディオンはテランスに見せた。彼が読むぶんには差し障りのないことを書いている――彼自身は赤面するところもあるかもしれないが――ために、今こうして見せたとしてもディオンにとってはまったく構わないのだった。
「その日起きたこと。見聞で感じたこと。未来や過去への思い。そして……。……できるだけ詰めて書いていたが、どうやら旅が終わるのに合わせて手帳も書ききってしまうだろうな」
 喜怒哀楽、不安や恐怖、絶望と希望、望みや願いも書き連ねた。時を経て立ち止まることがあったなら、読み返そうと思う。
 机に置いた「お守り」のストラスの頭を撫でるディオンに、テランスが溜息をつく。「……おやすみ」と名残惜しげに言うテランスと口づけ、ディオンは彼の後頭部を撫でた。
「ご両親にも就寝のご挨拶をするのだぞ?」
「……子供じゃないんだから」
 ディオンがそう言うと、テランスががっくりと肩を落とした。それを見て、ディオンは笑った。



 旅の最後の訪問地として選んだのは、ザンブレクのノースリーチだった。
 ウォールードからザンブレクに戻り、ディオンとテランスはしばらくザンブレク国内を回っていたが、オリフレムから旧クリスタル自治領・ツインサイドへ遷都してから時間が経っていることもあり、都市や街ではかつての栄華は感じられなかった。それでも、人が生活できる環境が残っているのは幸いだったと思う。
 ヴァリスゼアの各地で比較すると、やはりそこには地域格差があった。再建に最も苦難を強いられるのはウォールードだろう。内乱が起きそうな気配に、人心の荒廃。……ザンブレクも似たようなものだ。ウォールードと違って、人や物資には若干の余裕があるが、「心」に余裕がない。富裕層や中流階級の者が多かったから、困難な生活に慣れていないのだ。
 他方、ダルメキアは土地柄がそれぞれはっきりしており、街や村として機能している箇所も多い。ハヴェル卿といった「有名人」がいるというのも、安心材料だろう。貧富の差はザンブレク並だが、活気があった。
 ロザリアは、緩やかに回復していくだろうと思う。どのような国になるかはバイロン・ロズフィールド卿や、クライヴとジョシュアがどう出るのかにもよる。ロザリスに人が戻ってきているという話も聞いたし、訪れた街や村には「困難を乗り越えてみせる」という気概を感じた。それほどまでに追い詰められていた――追い詰めたのは己もだが――国が蘇る姿を見たいと思う。
 カンベルは、商業と学問の都市として早々に再出発するだろう。クリスタル自治領は、あのままなのだろうか。遠い未来、ゼメキスと同じ扱いになるのかもしれない。黒の一帯はどうなるのか。北部や鉄王国は。
 そのようなことをテランスと語り合いながら、ザンブレクを改めて見て回った。幾つかの都市の長にも極秘裏に会い、状況を訊ねたりもした。「もしかして……ディオン殿下?」と民に気付かれそうになったこともある。フードを慌てて被ったこともしばしばで、「だから言ったでしょう?」とテランスには白い目で見られた。
 ノースリーチに向かう前に、ディオンとテランスはテランスの兄が治める領に滞在していた。中流貴族の出であるテランスだが、オリフレムから遠方ではあるが領を与えられているのは、幾代か前の領主の功績によるものだそうだ。
 オリフレムからツインサイドへ遷都するにあたって、出世よりも自領を選んだのは当時の領主であったテランスの父だった。だが、変わりゆく世界を目の当たりにしたことと、我が子――テランスだ――が行方不明になったことで心身の不調を抱えることになった。そういった経緯で長兄が領を継いだわけだが、混沌の中でも青空が戻り、後にテランスの無事も分かったことで、父は復調した。領はそのまま長兄が受け継ぐことになり、テランスの両親は楽隠居という形で領内の別邸に移った。今、ディオンとテランスが滞在している邸だ。
 再会のやり取りを思い出し、ディオンは苦笑した。テランスの両親は、短いとは言い難い時を経て息子と再会したにも関わらず、見事に彼を放って己のほうへと駆け寄ったのだった。別段、礼を尽くすためではなく(それも少しは含まれてはいたのだろうが)、「よくぞご無事でいらっしゃいました!」と叫ぶなり己の両手を握った父君と、それを押しのけて「ご無礼を」と断りを入れてから両のかいなで抱きしめてくれた母君とに囲まれて、ディオンは困惑した。母君を抱きしめ返すべきかどうしようか、父君にテランスのことを何と詫びようかと考えているうちに、テランスが「ディオン様が困っていらっしゃいますよ」と助け舟を出してくれた。呆れ顔に笑みを含ませて。
 少年時代に至るまでに数度テランスの邸を訪ったことがあった。オリフレムの別邸ではなく、領の本邸だ。典型的なマナーハウスのその邸は、庭に咲き乱れる花々が見事だった。庭師はベアラーだったが、彼の裁量でこの庭ができあがっているのだとテランスの母君が嬉しそうに語っていたのを覚えている。庭には立派な林檎の木があって、春に訪ったときは白い花と新緑の葉の対比の美しさに見とれた。同じ年の秋、収穫した林檎を母君がスパイスを振りかけて焼いてくれた。城で供された菓子より、たいそう美味だったのも懐かしい思い出だ。
 此処は別邸だが、やはり庭は見事だった。今宵は新月、残念ながら真夜中の散策には向かないし、そもそもテランスを既に休ませてしまった。明日の朝に二人で庭を見ようか。ディオンはそう考え、軽く伸びをした。
 オリフレム公と、夜のとばりの女主人に宛てた書状をそれぞれ読み返し、封をする。手帳もここ数日の分を読み返してから、閉じた。携帯用のインク壺の蓋をきっちりと閉め、ペン入れに羽根ペンをしまう。手帳を書くときの「善き友」であるストラスのぬいぐるみも革鞄にしまい込んだ。
 明日は、此処を発つ。そして、ノースリーチへ。

§ §

 時は動いている。いくら風が凪いでいても、波は引いては寄せを繰り返す。同じ形の波はひとつもなく、それは生けるものすべてに言えることだった。
 目の前に座る男もそうだった。首の賢人――オリフレム公をディオンは観察した。厳格で冷静な人物とかつては解釈していたが、そう高くは評価していなかった。元老院の五賢人のいずれもがそうであったように、彼もまた日和見なところがあったと記憶している。己が父、神皇に意見することもあったようだが、それが通ったことはない。そのことに主だった不服は見せず、従う姿勢を表向きは見せていた。とはいえ、あの毒婦が意のままに「暴れ出した」頃には自らの地位の危うさに思い至ったのか、焦った様子で此方に寄ってきたが。「なんとかしろ」と焚きつけるような表情だった。
 今のオリフレム公は、以前の堅い雰囲気はそのままに、穏やかさを感じさせた。心に余裕を持っているのだろう。それについては、例によってクライヴも一枚噛んだらしいと聞いたことがある。なんでも――。
「……殿下、とお呼びすべきでしょうか」
 一通りの挨拶を終えた後にそう言ったオリフレム公に、ディオンは現実に思考を移した。
「そのように呼ぶ必要もあるまい。ザンブレクという国は亡いのだから」
 隠れ家の一部の面子を除き、「殿下」と呼んでくる人間はほぼいない。名を呼ぶ者も限られている。大方の人間は「ルサージュ卿」で通してくるというのが実情だ。
「……それは」
 口籠ってしまったオリフレム公に笑み、ディオンは「好きに呼んでくれて構わない」と言った。
「今でも其方はオリフレム公であり、元老院の議長でもある。国は亡いから形ばかりではあるが。しかし、その一方で私はすべてが「元」だ。皇子でもなければ、ドミナントとしての力も消え、騎士団の高みからは下りた。もとより、死ぬはずだった身。……最近では、ディオン・ルサージュの霊を見かけたという話が出るほどだ」
「笑い話にもなりませぬ」
「私は冗談を言うのが下手だとよく言われる。……そう気色ばむ必要はない。つまり、今の私は只人だということを言いたかっただけだ、オリフレム公」
「……申し訳ございません。しかし、私にとっては、貴方を「ルサージュ卿」とお呼びすることはできかねます。同輩、あるいは格下として扱うことは心情的に無理なのです。慣れ親しんだ「ディオン殿下」のままで通させていただくことをお許しください」
 それに……、とオリフレム公は続けようとしたが、途中で口を噤んだ。目線を一瞬泳がせ、再びディオンを見る。
「本題に入りましょう。……ザンブレクという国の再興は、なりましょうか。各地の現況を知悉しているのは、クライヴ・ロズフィールドを除けば、今では殿下だけです。その現況を鑑み、お考えをお聞かせいただきたく存じます」
「……どうであろうな」
 オリフレム公の問いに、ディオンは即答しなかった。理由は幾つかある。
 ひとつは、ザンブレクの民が――自治領に移住して生き残った者も含め――、国の再興を望んでいるのかが不透明だということ。強く望む者もいれば、生きていければ国なぞどうでもよいという者もいる。さらに、ザンブレク憎しという者も「国内」には多い。なかでも自治領に移住し、幸いにも生き残った者達はそういった意識でいる者が大半を占めている。強いられて移住せざるを得なかった者は勿論、商機だったり出世だったりといった欲に目が眩んで自ら移住した者も然り。
 当事者である民が望まない国は、何の益にもならない。害でしかないとディオンは思う。ザンブレクという国を成立させるために、民を利用するなどということはあってはならない。民あっての国。……かつて、そのように諭されたことを思い出す。形ばかりだったかもしれないが、その言葉は己の柱のひとつだった。
 旅の最後にノースリーチを訪い、その考えはより強くなった。閉ざされていた街だったノースリーチ。「内」と「外」に分かれていたこの街の今を見ると、人同士の分断の意識が薄いことが分かる。街を二分するような諍いがあったが、共通の敵――アカシアという脅威に対して立ち向かった際にそれぞれの想いが明らかになったのだという。そして、争っている場合ではない、と一喝した存在もあった。「国」という名を用いて民を利用しようとしていたオリフレム公でもなく、「民」という名を用いて自尊心を満足させようとしていた公の息女でもない。街の行く末を真に案じ、揺れ動く人々の心を奮い立たせたのは、ノースリーチの誰もが親しみを込めて「マダム」と呼ぶひとりの女性だった。……彼女とは、これから会うことになっている。先代シドの頃からの「協力者」であったことを考えると、因縁の相手ということになるのかもしれないが。
 祖国の多くの街や都市で冷えてしまっている「熱」が、ノースリーチにはあるように思えた。混沌の世界、変わってしまった理のなかで彼らは懸命に生きている。この地に辿り着いたとき、その生命力にディオンは聊か圧倒された。人々の表情が違う。それぞれの立場で、未来を、明日を信じている。ときに議論に白熱し、ときに冗談を言い合って笑う。当たり前のようでいて、実は奇跡のような熱量を持ち合わせている、それが今のノースリーチだった。……オリフレム公もこの街とマダムの心に感化されたのだろう、そう思う。
 民が、望んでこその国。民あっての、国。
 一方で、風の三志士の考えも分かるのだ。縁。誼。絆。心の拠り処として大切なものだ、と彼らは――特にロズフィールド卿は――語った。その形の最たるものが「国」なのだと。根の部分はマダムやオリフレム公、そして己の考えとそう変わりはしない。民が――人が、自らの足場を保つためには「国」という形はときに必要だ。そして、ひとりではどうにもならない難事に出くわしたときにおいても、このような「枠組み」を備えておけば、難事から救い出すことが可能になるかもしれない。
 だが、国というものは厄介な存在でもある。ノースリーチでの融和を「国」という単位で再現できるか否かと問われれば、現状の答は「否」だ。少しずつ落ち着きつつあるこの混乱をどう見るか。混乱が続いたほうが「国づくり」は容易かったかもしれない。同じ方向を見て動くことができるからだ。だが、そうして作った――作り直した――国の行く先は何処へ向かうのか。この場合、国と国との争いは再び起きるだろう。新たに生まれ変わった世界の理を呑み込めずに無視した結果は、過去に起きた幾多の争いを繰り返すだけになるのは必定。舵をうまくとらなければ、アルテマの思惑とは別の次元でヴァリスゼアは更地になる。志士達の願いや想い、そして彼らに託した者達の希みも潰える。
 ザンブレクは、そして、各国は。果たして、そのままでよいのか。国だけではなく、「人」としての在り方も問われるこのときに。
 分からない、と思いながらもディオンの頭のなかにはひとつの構想が眠っていた。旅に出る前、ジョシュアと少し話をしたなかで出てきた考えなのだが、それをオリフレム公に伝えてみるのはどうなのだろう、という迷いはあった。
「其方は、やはり国の再興を望むか?」
 ディオンは、試しにオリフレム公にそう訊ねた。即座に頷くかと思ったのだが、意外なことにオリフレム公は迷っている様子を見せた。
「先日、カンタン卿と話をしました。彼の言に、我が心が揺れたのは事実です」
「どのような話を?」
 先を促したディオンに、オリフレム公が口を開く。
「『国なんぞは後回しで構わん。コミュニティさえあればいいだろう、後はどうにかなる』と。大枠ではなく、より身近な寄る辺こそ必要なのだとカンタン卿は語りました。……私は、遅ればせながらノースリーチの件はその延長線上にある、そう思ったのです。国は無くとも、人は寄り添えば生きていける。世界とは、実はそういうものなのだと」
 確かに、とディオンは思った。カンタン卿ならば、そういう考え方をするだろう。風の志士として多忙な傍らで、彼はロストウィングを再興させつつあった。ベアラーであった者達と力を合わせ、上質なワインとして名高いゴールトンルージュの復活を目指している。一度は完全に村は滅び、カンタン卿の悲願は虚しさのなかで完結した――そういった状況からでも這い上がってきたのは、彼もまた「独りではなかった」が故だ。彼を慕い、村を愛する者達がいたからこそ、復活劇は現在進行形で描かれている。ロズフィールド卿やハヴェル卿が「人心の把握」をカンタン卿に割り振っているのも頷ける。
 他もそうだ。混乱に沈む街、野盗が幅を利かせる村、すべて死に絶えた里、そういった場所も多くあったが、「次」に目を向ける者達も多くいた。その多くは、人々が協力し合って暮らす――、即ちコミュニティが存在している場所だった。イーストプールもそうだった、とディオンは回想した。
「カンタン卿の言葉は、的を射る。それぞれの村や街、都市、人の住まうそれぞれの地で助け合うための組織があれば、今は事足りる。国をどうする、といった話はそれからでよい。……ただ」
 言葉を切ったディオンを見、オリフレム公が首を傾げた。「ただ?」と繰り返した彼にディオンは笑んでみせた。
「いずれ、コミュニティは大きなものになるであろう。無秩序に、無計画にできあがってしまったなら、「改修」には時間と困難を要する。それを防ぐためにはある程度「見守る」必要がある。「国」という存在が背負うべき役割は、民の安寧を守り、民の暴走を止める。それくらいだが、調整役という重要な役割でもある。みなが落とし穴に落ちぬように網を張るのは、存外難しい」
「……確かに」
「そして……これは私個人の考えではあるが、国の在り方は今少し緩やかであってもよいと思う」
 失われた祖国を懐かしむ想いはある。敵、と思い為した国への複雑な想いも。だが、ヴァリスゼアを旅しているうちに、そうした哀愁にも似た感情を上回る「夢」が生まれた。
「戦や混乱のさなか、国に縛られ、国に捨てられた者が多くいたであろう。彷徨い続けた難民もそうだし、故郷すら持ちようがないベアラーも多い。そうした者達を受け入れる制度――度量が国にはあるべきだ。無論、このような考えは一国では成り立たない。しかし、各国が緩やかにでも手を取り合うことができるのならば、少しく状況は変わってくる」
「殿下」
 目を見開いたオリフレム公に、ディオンは頷いた。
「夢物語だと、思うか?」
 腕を組み、ディオンは肩を竦めた。己の考えを彼に直接伝えたのは、これが初めてだった。そういう間柄ではなかったから、当然ではあったが。
 そうして、己自身がこのような考えを持つようになるとは思ってもみなかった。民と国と敬愛する父のために戦に明け暮れていた頃、贖罪ばかりを願っていた頃、そういったときには思い至らなかった考え。
 未来を夢見る、とはこういうことなのだろうか。
「……なんと申しましょうか。いいえ、とも、はい、ともお答えしかねます……」
「無論、承知の上だ」
 オリフレム公の動揺に満ちた言葉に、ディオンは笑った。此処で話に飛びつくような男ではない。そして、こういった人材も今のヴァリスゼアには必要だと思う。
 テランスの話を思い出す。ミドがテランスに言ったらしい言葉。「「分かっている者」のみが前に進み、「分からない者」は置いていかれる。「分かっている者」が引きずろうとしても、「分からない者」は立ち竦んでしまい、混乱に陥るのみ。それでは駄目だ。最悪だ」とミドはテランスに言ったのだという。この場合、「分かっている者」とは、未来に夢を置く者。今に至るまでの成り立ちを知る者。「分からない者」とは、それ以外の大多数の者。ミドは、自分が「分からない者」だと言い、テランスも自分の仲間だと言ったらしい。そうして、彼女は続けた。
 ――分かっている連中を、分からない側へ寄せろ。
「ですが、興味深くはあります。いずれ、詳しくお聞かせください」
 オリフレム公はそう言うと、小さく溜息をついた。何を思ったのか、遠くのものを見るようなまなざしでディオンを見、やがて目を伏せた。
「お聞き及びでしょうが、私は娘と争いました。ザンブレクの今後を憂い、しかし、混乱に乗じて自らの意思や野望を押し通そうとした」
「聞いてはいる。壮大な親子喧嘩だったと」
 ディオンの言葉に、オリフレム公はかすかに苦笑した。そうして、再度ディオンを見やる。弧を描いた瞳には、僅かな悔恨が込められていた。
「殿下にも、「親子喧嘩」を存分にしていただけるような環境を、我々は用意すべきでした。……我々は保身に走りすぎ、殿下は従順にすぎた。もしも、とは思うのです」
「それは……」
 オリフレム公の意外な告白だった。ディオンは思わず彼の言を遮り、首を横に振った。
「言葉だけ受け取っておこう。過去は変えられぬ」
「……殿下」
「そのような世界線もあったのかもしれぬな。だが、それを夢想しても始まらない。そして、これは受け売りなのだが」
 ディオンは微笑んだ。思い出すのは、やはりテランスの言葉だ。
「すべてがあって、今がある。……苦しみも、喜びも、様々なことを経た末に今という場に在る。その事実を、真実を、私は大事にしたいとそう思う」
 ディオンの微笑みにつられたのか、言葉を受け入れたのか。オリフレム公が安堵の笑みを浮かべる。そうして、確認の響きで彼はディオンに言った。
「殿下は、ようやく「人」としての幸せを掴まれたのですね」

§ §

 書状の返事をマダム・イサベルから受け取ったのは、オリフレム公との話し合いが終わった当日の夕刻だった。時候の挨拶と書状への礼、そして「会談」の日時と場所が流麗な筆致で記されてあった。
 日時は、明日の早朝。具体的な時刻の記載はなく、「陽が昇りきるまでに」と書かれてあった。
 そして、場所は――。
「練兵場……?」
 書状を数度読み返し、ディオンは呟いた。その声を拾ったテランスが「え?」と訊き返す。「どういうことでしょう?」と言うテランスにディオンは「分からぬ」としか答えられなかった。本当に、どういうことだろう。
 まさか、誰かと打ち合うことになるのだろうか。フィリップとかいったか、マダムが信を置く者として「ノースリーチの騎士」と呼ばれている者がいるという。その者と――、いや、そのようなことをして何か益となるものがあるのか。そもそも、何のために?
「……ああ、そういうことかな」
 同じように自身の考えを巡らせていたテランスは、ディオンよりも先に答を見出したらしかった。ディオンはその答を聞こうと彼に視線を送ったが、テランスは笑みを浮かべ、首を横に振ってしまった。教えるつもりはないらしい。
「何故、隠す?」
「これは私の……僕の推測にしか過ぎないから。当たっているかもしれないし、まったくの的外れかもしれない。君は君なりの答を導き出さないといけない」
 テランスの正論に、ディオンは黙した。書状を眺め、マダムの意図を探る。場所、日時。……何度考えても、よく分からない。
「でも」
 すい、とテランスがディオンから書状を奪う。書状を封筒にしまって文机に置くと、テランスはディオンに大股で歩み寄った。
「テランス?」
 一気に距離を詰められ、ディオンはたじろいだ。思わず一歩を引こうとするも、テランスが素早くディオンの腰を抱く。引き寄せられ、腕のなかに閉じ込められ、――そうして。
 テランスの熱を感じ取り、ディオンは顔を上げた。突然の彼の変貌ぶりに、どうした、と問おうとしてそれも塞がれる。その間際、瞳が彼の意思を告げた。
 少し長めの口づけの後に、テランスがディオンの唇を食む。優しく、しかし、性急に。時折、ゆっくりとまばたきをしながら、縫い留めるように見つめてくる。先を促すその仕草に、彼が見せた欲に、ディオンは流されそうになった。
 ――だが。
「少し、待て!」
 手をテランスの肩に置き、ディオンは僅かに身を離した。半ば無理矢理気味の行ないだったが、テランスは失望した様子もなく、欲を隠す様子もなかった。だが、それよりも彼の瞳に浮かぶ色が、溢れる想いが先に伝わってきた。いとしい、と叫ぶようなまなざし。
「……陽が昇りきるまでに、というのなら」
 ディオンが問う前に、テランスが囁く。掠れ気味の声色に、ディオンの肌が粟立った。
「月が沈むそのときまで、君がほしい」
「……陽が昇ろうと、月が沈もうと、その反対でも、私はお前の」
 ディオンの反論を再びテランスが塞ぐ。
「君は君、僕は僕。君は僕の唯一で。でも、その逆は成り立たない」
 テランスの笑みにささやかな寂寥が混ざる。月が沈むまでは。おそらく、それまではディオンの心を占める唯一でありたいとテランスは願っているのだろう。――陽が昇れば、何かがまた変わる。……詳しくは掴めないが、変化の予感はディオンにも感じられた。
「確かに、成り立たないかもしれない。だが、テランス」
 肩を押さえていた手をテランスの背に回し、撫でる。背骨沿いに指で辿ると、面白いくらいにテランスの体が揺れた。隙が生まれたところで、彼の首筋をディオンは吸い上げた。
「お前は私の止まり木。私が私であるために、なくてはならない居場所。最も愛する存在」
「ディオン」
 額に、頬に、鼻先に、顎に、そして唇に口づけが落とされる。襟元の釦をひとつ外してきたテランスに、ディオンは笑んでみせた。
「覚えておけ。けして忘れるな」
「命尽きるまで、いや、尽きたとしても忘れない」
 君も、とテランスが言いさす前に、ディオンは彼に深く口づけた。

§ §

 陽が昇る。空に雲は少なく、今日はよく晴れそうだった。
 何処からどう聞きつけたのか、練兵場は多くの人で溢れていた。
 ディオンが現れるなり、人々がどよめく。その声色も、発する言葉の中身も様々で、しかし、それらの声は不思議とはっきりディオンの耳に届いた。まなざしも、同じく。
 かつては、今までは、茫漠としていたものが、――今は。
 数ではなく、個々の声として。固まりではなく、個々のまなざしとして。
 声は、どこか雨粒のようにも聞こえた。降り始めの、ひとつひとつの、それ。
 晴れた空に降る、雨。
 中央に、腕を組んで此方を見据える女性がいた。彼女がマダム・イサベルだろう。そして、少し離れたところにはオリフレム公。
 己の背には、テランスが。
「ルサージュ卿、はじめまして」
 マダム・イサベルが言う。彼女に略礼をとり、ディオンも挨拶を述べた。
 いつしか、静寂が広がる。笑みを浮かべたマダムは集った人々をゆったりと見回し、ひとつ頷いた。ディオンにも向き直って同じように頷く。
 そして、と彼女は続けた。

「ようこそ、――私達の新しい世界へ」