#09 真実の名のもとに

「……やはり、コール殿達に随伴していただいたほうがよかったでしょうか」
「かもしれぬな」
 疲労を感じさせるテランスの声音に、ディオンは苦笑で応えた。
 右手に見えた廃村と思しき建物群に入りかけたディオンとテランス、二人の前に旋風が突如巻き起こったのだった。咄嗟に身構えた二人の前に現れたのは、風翼を持つ異形。その姿と特徴に、ディオンはある人物を思い起こした。ウォールードの密偵部隊の長にして、召喚獣ガルーダのドミナントだったベネディクタ・ハーマン。死亡が確認されている彼女がまさか、とも思ったが、それはあり得ないと己の考えをすぐに打ち消した。
 召喚獣はこの世にもはや存在しない。ドミナントも只人となった。己がそうであるように。そして、ベネディクタは既に死んでいる。この異形の魔物は、力を失い損ねた風の眷属なのかもしれなかった。
 空中戦を仕掛けてきた魔物相手に剣では分が悪い。ストーンヒルのときと同様にテランスから短槍を投げ渡され、ディオンは跳んだ。跳躍力も武器の扱いも、往時よりすべてにおいて劣る己が恨めしかったが、そのように考えている場合ではない。襲い来る激風を味方につけ、滞空時間を延ばす。魔物の片翼を抉って地に落とすと、待ち構えていたテランスが剣を魔物に突き刺した。胸を一突きし、それから首に刃を入れる。苦悶の絶叫が響き渡り、やがて魔物は息絶えた。
 この世に生きるものとして骸を残したそれを、二人は息を整える間に眺めていた。嵐めいていた風が穏やかになり、干しっぱなしになっている薄汚れた敷布がその風にはためく。無人の廃村でこの敷布を使う者はもういないだろう、そう見越したらしいテランスが敷布を一枚拝借し、魔物の骸に掛けた。
「クライヴもこの地を訪ったと聞いたが、このような魔物が出たとは聞かなんだ」
「我々を待ち構えていたようにも見えましたが……」
 考え込む様子のテランスを置いて、ディオンは村へ入った。人の気配は見事になく、殆どの建屋は鍵がかかっている。一軒だけ扉が飛んでいる家があったので、「失礼」と呟いてから入り込んだ。
「ディオン、もう少し警戒心という言葉を覚え……」
「背後にお前がいるのだから、前のみ気にしておけば問題なかろう」
 少し焦ったように追いかけてきたテランスにディオンはそう言うと、部屋を見まわした。
 壁を埋め尽くす書棚。机にも数冊の本が広げられている。何かの学術書と見受けられたが、そうするとこの家は学者が住んでいたのかもしれなかった。……そういえば、恩師とヴィヴィアン、そしてクライヴが「ガルニックで」と話し込んでいたのを聞くともなしに眺めていたことがあった。
「……モグーリって何だろうね?」
「何?」
 ディオンに苦言を呈するのを諦めたらしいテランスが、一冊の本を指して言った。
「モーグリではなく? ネクタールのような」
「関連はあるようだけど……変な本ですね」
 他に目を惹くようなものはない、と判じ、ディオンは外に出ようとした。しかし、その肩をテランスが掴む。
 ――紛うことなき、人の気配。
 息を潜めて気配を消した二人だったが、一歩遅かったらしい。外から「出てこい」と低い声が聞こえてきた。
「魔物の次は、野盗か?」
 かぶりを振り、ディオンはテランスにそう言ってみせた。どうでしょうね、とテランスも諦めた様子で肩を竦める。
 そうして二人が外に出ると、覆面の男が複数人待ち受けていた。
 男達はしばらく値踏みするような視線をディオンとテランスに向けていたが、やがて顔を見合わせて首を横に振った。何がどうなっているのか不明だが、彼らの目的の対象ではないということだろう。ディオンはそう解釈した。
 彼らは、ディオンが知り得るいずれの国とも違う服装をしていた。長格だろう男は大きなメダルを首から下げている。何かの玉ではなく、よく磨かれた鏡のようなメダルが陽射しを跳ね返した。
「此処で何をしていた」
 低い声音は平坦で、特段の害意はないようにも思えた。通り一遍、ひとまずは訊いておこうといったようだった。
「建物が見えたので、誰か住まう者がいるのかと見に来た。……既に無人のようだがな」
 ディオンが答えると、長格はさらに問いを投げかけた。
「この地を訪れるのは――ウォールードは初めてか? 旅人だとでも?」
「そうだ」
「このご時世に随分と気紛れな旅人だな。……断末魔のような叫びを聞いたが、あれは?」
「村に入った途端、魔物が出た。おそらくは、それが風に乗って届いたのであろう」
 事も無げに言ったディオンに、長格が顔を顰めた。
「アレを倒した……だと?」
 さっと男達に緊張感が走るのをディオンは感じた。テランスも同じ気配を勿論察知したのだろう、ディオンの半歩前に出る。
「此方からも問いたいが」
「……構わん」
 ディオンの言葉に、長格が右手を挙げて男達を制した。顎をしゃくり、問いを待つ。
「其方達は何故、此処に?」
 長格の問いをディオンがそのまま返すと、覆面から出た長格の目が眇められた。
「気紛れな旅人であれば、知らないほうがよい」
「見たところ、訪うのは初めてではないな。何か、此処に重要なものでも?」
「……何か知っているのか?」
 どうであろうな、とディオンは答えた。実質、ガルニックのことは何も知らない。あの三人が話し込んでいるのを眺めていただけだ。あのとき、己は違うことを考えていて――、否、考えることも既に終えていて、ただ時を消すのみだった。すべての力を出し尽くす、その瞬間を待つのみだった。
 それなのに、今。
「其方達が恐れている、あるいは期待している答を、私は持ち合わせていない。只の旅人が何か知っているとでも思うたか?」
「その落ち着き払った受け答えが気になる。逃げる素振りもない。それに」
 長格はディオンの半歩前で牽制するテランスに目をやった。
「お前達は主従と見た。言葉遣いからもそれなりの地位にあるとも思われる。――であれば、この「異変」について何らかの答を持っているだろう」
 青空を仰ぎ見た長格は、視線をディオンに戻した。
「異変とは?」
「しらを切る気か? この、何もかもが変わった世界の只中で、混沌を見ていないわけでもあるまい? 「歴史」が変わりゆく瞬間に立ち会っていないとでも言うのか?」
 長格の脅しにも似た問いに、ディオンは首を横に振った。まさか、と告げ、長格を見据える。
「遥か未来から見れば、「今」は歴史の転換点となるのであろうな。……無論、未来があれば、だが。「執行者」よ、その未来を其方達はどのように掴む?」
「我らを知っているとは……やはりお前達は」
 僅かに動揺する様子を見せた長格に、ディオンは問いを重ねた。
「答えよ。「未来」をどのように捉えるのか。そして、「今」をどのように滅ぼすのか」



 ディオンの問いに、「執行者」は答えなかった。ふ、と息をついて身を翻した長格とその仲間達を見送り、ディオンとテランスもガルニックを離れた。
 平原を渡り、レーベンウィットの城塞を偽の通行手形ですり抜ける。少し離れた場所に「岩鼠」のモスィが言っていた「連絡所」があると聞いていたので、二人は関門を出たあたりで横道に逸れた。
 陽がやや傾きかけていた。付近での野営も考えたが、使えるものは使ったほうがよい。少しでも休息を得られるのならば、と思って先を進むと、建物群が見えてきた。一見してやはり廃村のようにも見えるが、細くたなびく煙がそれを否定している。夕餉の準備でもしているのだろうか。
 さらに近付くと、建物群の入り口にはイーストプールと同様に見張り役が立っていた。男女がひとりずつ両脇に立っており、不審者としか思えないだろう此方を両者とも見据える。「何者だ」と女が剣の柄に手をかけて言ったので、ディオンは両手を挙げた。テランスもそれに倣う。
「私達は風の大陸から流れてきた旅の者。煙が見えたので村でもあるのかと思ってやって来た。厩の軒先でもよい、一夜休ませてもらえると有難いのだが」
「……応じられないな。此処はよそ者を受け入れる場所ではない」
 男が首を横に振る。さもありなん、とディオンは思った。煙が見えたことを考えると、村としては存在を隠していないのだろう。だが、此処が「連絡所」であることまでは知られてはいなさそうだった。勿論、不断の努力をもってして秘匿されているに違いない。
「「ネズミの巣」だからか?」
「……もしや」
 見張り役の男女は顔を見合わせた。男がひとつ頷き、ディオンに名を問うた。
「ディオン・ルサージュ。モスィから此処を紹介された」
「……そういうことか。連絡は来ていますが、「証」を見せていただきたい」
 口調を改めた女の言葉に、ディオンは隠しを探った。モスィから譲られた「鼠」のブローチを見せると、見張り役の二人はその場を退いてディオンとテランスを招き入れた。
「お連れのチョコボを入れてしまえば厩はいっぱいになってしまいます。村の長に伺いを立ててまいりますね」
 駆けていった女を見送り、男はディオンを見やった。「恐れ入りますが」と丁寧な言葉遣いで言った彼は、武器を預かりたいと二人に言った。
「護身用のものはそのままで結構です。ご気分を害するかもしれませんが、念を入れておきたく存じます」
「承知した」
 ディオンが剣を、テランスが常剣とブラックソーンの剣を男に手渡す。「お発ちの際には必ずお返しします」と男が言った頃合いで女が戻ってきた。
「長から許しが出ました。倉庫にしている空き家でよければ、とのことです。屋根裏をお使いください。草藁が積まれているので、その上に布を掛けてしまえば休めるでしょう」
「有難い」
 その後、ディオンとテランスは長に礼を言いに行き、倉庫家へと向かった。案内役の男から敷布と掛布を借り受け、食糧と武器が積まれた部屋を横目に梯子を上る。
「旧ウォールードとヴェルダーマルクがよく此処を見逃していますね」
「わざと泳がせているのかもしれないな。あるいは、弱小と見做しているか」
 ディオンが外套を脱いでいる間に、テランスが天窓を開けた。涼やかな風が入り込み、積んであった草藁を騒がせる。二人は慌てて布を被せ、草藁の飛散を防いだ。
「……言ってみてもよいか、テランス」
「? なんなりと」
 今日は階下に降りることもないだろう、と判じてディオンはブーツを脱いだ。素足で即席の寝台に寝転がってふとディオンが問いかけると、荷を片付けていたテランスがきょとんとした顔つきでディオンを見た。
「憧れていたものを、またひとつ手に入れたような気がする」
「憧れ……ですか?」
 繰り返したテランスに、ディオンは頷いた。天窓から見える空は未だ青い。
「そう。……覚えていないか? 幼いとき、秘密の居場所を探していた。いわゆる、「秘密基地」だな」
 まだルサージュ家が「単なる」大貴族であった頃、ディオンは己の居場所に違和感を覚えていた。「此処」ではない、と感じていた。ごく偶に父が顔を見に――確認しに――来訪してくれたときは安堵と歓喜で胸がいっぱいになったが、ひとりになってしまうと再び違和感が押し寄せてきたのだった。それは、身の内に存在していたバハムートの溜息だったのかもしれない。地を這うような生き物に閉じ込められていたのだから、「此処」ではないと思っていてもおかしくはなかった。
 何処かに、己が安らげる場所はあるだろうか。己を肯定できるような居場所は。
 修道院の付属学校に通いはじめ、何気なく足を運んだ図書室でヴァリスゼアの地図を記した本を眺めた。見開きでヴァリスゼアの全貌が描かれており、各国の――特にザンブレクの地理に明るい本だった。自由時間が過ぎ、消灯の鐘が鳴り終えてもディオンはその本を眺め続けた。魔法で光を灯し、ぼうっと眺めるだけで、実際の思考は「此処ではない何処か」に向かっていた。心配して探しにやって来たテランスに見つかるまで、ずっとそうしていた。
 あのとき、テランスは泣きそうな顔だった。『どうしたの……ですか?』と慣れない敬語で訊ねてきた彼に無理矢理笑ってみせ、内緒の話をした。誰かに話したのは、初めてだった。
 その後も、秘密の居場所は見つからなかった。もしや、と少し思えるのは、バハムートに顕現して空を自由に飛ぶときくらいだった。そのようなものは己には存在しないのだ、とそう思い為した頃には戦場に立っていた。
 空を飛び、光を放つ。敵を薙ぎ払い、民を、国を守る。前後左右、敵味方問わずにすべてが知り尽くされている身に、「秘密」などあってよいはずがない。多少息苦しさを感じても、それは仕方がないことだと思った。その息苦しさは、敵を屠るために薙いでしまった味方の魂が己を揺さぶっているがためとさえ思っていた。
 不思議なことに、己に「秘密」が存在しないことを、誰もが知らないのだった。――秘匿とされた「公然の」ものはあったが、それを口にするにはあまりに危険がつきまとう。
 高みから己を見下ろすようになった父から、空を翔けよと命じられた。皇国の繫栄のために、と殺戮を命じる言葉を聞いたそのときから、空も己の居場所ではなくなった。
 城も、戦場も、空からも離れたい。とある乱戦のさなか、一瞬、そう考えてしまった。思考は体から切り離され、無意識に槍を操って人を屠る。煌めく銀の光を見る前に、敵兵の命を奪う。繰り返される一連の流れを縁遠く感じ始めたとき、強く腕を引かれた。
『ディオン様、お気を確かに』
 テランスだった。血走った目で此方を見、引いた腕を彼は揺さぶってきた。
 そういえば、彼にだけは内緒の話をしたのだったか。少しばかり覚醒した頭で、何故かそのようなことを思い出した。と同時に、テランスの背後で剣を振り降ろさんとする敵兵卒が目に入った。
 手にしていた槍を投げ、テランスを突き飛ばした。……そうして。
「居場所は既にあるが」
 脳裏に浮かんだ回想を打ち切り、ディオンは笑った。近寄ってきたテランスの腕を引くと、此方の意を悟ったか、彼も笑んだ。
「地図の何処にもない場所を探していましたね」
「確かに、地図には載っていなかったな」
 虚ろな想いを抱え込まずに済むようになったのは、居場所を得たからだ。居場所といっても、何処か固定の地ではない。――唯一の存在が今も己を生かしている。
 テランスの目が緩やかな弧を描いていた。再びその腕を引いたディオンの額に、テランスは軽く口づけを落とす。
「もはや秘密でもありませんが、居場所ならば此処に」
「……ああ」
 触れ合うだけの口づけの後に、ディオンは起き上がった。遠くで烏が鳴いている。陽もだいぶ陰ったようだった。
 草藁に燃え移る可能性があるから、火は使うなと案内役が言っていたことを思い出す。
「陽が沈む前に食べてしまいましょう。後は寝るだけにして」
 携行食を分け合い、陽が完全に沈むまでは明日からの旅程を話し合った。頭の中に入れてあるウォールードの地図を思い起こし、確認する。「影の海岸」と呼ばれているらしい場所までエンタープライズを回す、とストーンヒルでの別れ際にコールが言っていたから、此方もあまりのんびりはしていられない。
 それでも、立ち寄りたい場所はあった。……迷いはあったが、今ならば、と思う。
「窓を閉めますね」
 テランスが窓を閉めると、天窓越しの星も見えなくなった。二人してかりそめの寝台に仰向けで寝転び、片方の肩だけを触れ合わせる。眠いな、とディオンが呟くと、僕も、とテランスが答えた。
 鳥の鳴き声は梟に変わっていた。



 短い夢を見た。
 ざわめきが満ち溢れるなか、表情のない子供が人形の首を弄んでいた。
 ねえ、とその子が己を見る。

 ――あなたのなかにあるそれは、たしかなものなの?

§ §

 翌早朝、一夜の宿を借りた礼を言い、得物を返してもらって「連絡所」を後にした。
 地図を改めて確認し、進路を東へと取る。鉱山地帯ということもあって、すぐ間近に山が迫っている。というより、山々の合間を縫ってどうにか通れる道を鉱夫達が作ったのだろう。狭い道だったが、多くの人々がアカシアとなって消滅した今となっては、誰かとすれ違うこともなかった。時折、人骨と思しき骨片が目に入ったが、それだけだった。
「何かの拍子に岩が転げ落ちてくるかもしれんな」
 岩壁を見上げてディオンは言った。面白い冗談とは言い難いが、可能性としては大いにあり得る。チョコボを慎重に進ませようとしたディオンに、テランスが声をかけた。
「ディオン」
「……どうした?」
 テランスの声音の硬さに、ディオンは振り返った。同じようにチョコボを進ませていたはずのテランスは少し離れたところで留まっている。
「それは僕の台詞。……よく眠れなかった?」
 チョコボから降り、テランスが近付いてきた。彼の言葉の意味がよく分からずにディオンは眉根を寄せたが、テランスはチョコボに乗ったままのディオンを見上げて言った。
「顔色がよくない。何処か体の不調でも」
「特に不調など抱えていないが……?」
 そう言ってみたものの、テランスは手を伸ばしてディオンの頬に触れた。額を指し示したので、ディオンはチョコボから降りた。テランスは自身の額とディオンの額を両手で確かめ、「熱はなさそうだね」と言った。
「過保護すぎるのも考えものだぞ?」
 笑ったディオンに、テランスが真顔でかぶりを振る。
「妙だな、と思ったから。こういうときの僕の勘は結構当たるんだ」
 本当に何も問題ないんだね?とテランスが念を押してきたので、ディオンは軽く溜息をついた。
「体調は問題ない。眠れなかったわけでもない。大して疲れもない……ただ」
「やっぱり……何か?」
 テランスに視線を合わせ、ディオンは笑みをつくった。どうということもない、と前置きをしてから、「夢を見た」と告げた。
「ごく短い夢だ。かつてはよく見たような気がするが」
 夢に出てきたあの子供は、人ではなかったあの存在は。ふと思い出す。
 アルテマなぞの傀儡にならずに済んだのであれば――「只人」であれば、彼はどのように育っていったのだろうか。……おそらく、それでも「家族」という形にはならなかっただろうし、何かしらの言葉をかけあう仲にもならなかっただろう。アルテマの他にも「闇」が故国には色濃く存在していたのだから。
 人形遊びをしていた子の口が動く夢を、かつてよく見た。何を言っているのかまでは聞こえなかったが、目覚めの前に見る夢としてはあまり良いものではなかった。右腕の痛みも増したような気がし、起き抜けの気分は最悪だった。朝の支度を手伝いにやって来たテランスに八つ当たりしそうになったこともよくあった。……隠しおおせたことはほんの幾度かで、見破られることのほうが多かったが。
 子供の声が聞こえたのは、初めてだった。
 ――あなたのなかにあるそれは、たしかなものなの?
 その問いかけは、何に対してなのだろうか。「それ」とは何か。
 はじめに連想したのは、己の抱えている「想い」だったが、それならば答は「是」だ。特に、最愛への想いは。一時はおぼろにもなった彼への感情は、伝え方に悩むことはあっても、くっきりとした輪郭を保っている。――それ以外の感情についても時折揺れ動くことはあるが、今までのような歪みは徐々に減っていくだろう。そう思っているし、信じている。己自身を。
 違うのでは、と目覚めたときにディオンは思ったのだった。「それ」が指す意味は、別のものではないか。
「……良くない夢?」
「いや、そのようなことはない。少し不思議に思っただけだ」
 考えるまでもなく、頭の片隅にこびりついてしまっていたのだろうとディオンは思う。それにテランスは感づいたに違いない。
「昨日今日で色々とあったからな。「執行者」に出くわし、「岩鼠」に接触した」
 そう、「執行者」とのやり取りで彼らは言ったのだ。「変わりゆく」のだと。
 世界は変わった。理も、在り方も。時の流れだけが変わらずに過ぎる。すべてのものを乗せて、無慈悲にも。過去を、今へ。今を……何処かへ。人が目指す「未来」へ進ませられるのなら、それは己にとって無上の喜びになる。だが、その未来に到達できるとは限らない。未来などもう無理だ、首を横に振る者もいる。返して、元に戻して、そう叫ぶ者も。
 滅ぶ道行きへ進むほうが、ずっと近いのかもしれない。だが、抗うと決めた。犯した罪の贖いのためではなく、己の意思によって。そう――。
「……ああ、そういうことか」
「ディオン?」
 独り言を聞き咎めたテランスに、ディオンは改めて向き直った。
 己の内にある、それは。……問われれば、未だ少しく迷う、それは。
「すまない、テランス。今は先を急いでもよいだろうか」
「構わないけど……ディオンが問題ないのなら」
 最後にディオンをじっと見つめ、テランスは自らのチョコボに戻っていった。ディオンも騎乗し、再び山道を進んだ。



 晴れ渡った空の下、薄紫色の花が微風に揺れていた。
「先生の花瓶が空だったのを知っていたか?」
「え?」
 話を突然振られたテランスの困惑を背に、ディオンはチョコボから降りた。湿地ということもあって、ぬかるみのある地面に注意しながら群生する花へと近付く。
「……あのとき、私は先生の想いを受け取らなかった」
 あのとき、とテランスが繰り返す。その響きすら懐かしく思えて、ディオンは笑んだ。
 決戦前。ただ、その時を待った。時を、消していた。
 おそらくは最後の戦いになるだろう、最初にそう言ったのは誰だったのか。「最後」とはどのような意味か。すべて終わらせて、その先は。未来はあるのか。無になるのか。
 ヴァリスゼア全土が浮き足立っているようだ、とクライヴが呟いていた。ほうぼうから寄せられる難題のために彼は駆け回り――、「最後」の次に続く頁を捲る準備をしていたのだろう。この世界を只の「おしまい」にはしない、そのために。
 その「難題」には、恩師から寄せられた手紙も含まれていたらしい。その願いを聞き届け、クライヴはこの地を訪れた。彼が摘んだ花――薄紫の飛竜草を、恩師は己に差し出した。罪という名の呪縛を解き、生還を願う象徴として。
 ……受け取ることなどできなかった。だが、その想いは心というものに沁みた。同時に、様々な事柄が絵巻のように思い起こされた。永遠のようで、一瞬でもあったあの日、あのとき。心残りなどもうないのに、と思いながら、恩師のまなざしを背に浴びながら書庫を立ち去ったのを覚えている。
 ――心残りはない。迷いは晴れた。
 クライヴへの感謝の手紙にそう書き、己の心にもそう言い聞かせた。
「受け取らなかったあの飛竜草は、どうなったのであろうな。……枯れてしまった、その後は」
 眼前の飛竜草を見下ろして呟いたディオンの肩をテランスが抱いた。
「その答は知っているよ。……花瓶が空だったのは気付かなかったけれど」
「知っている、だと?」
 ディオンの問いに、テランスは頷いた。
「いつだったかな、タルヤ先生が言っていた。希少価値が高い野生の飛竜草をそのままにしておくわけにはいかないって書庫まで走っていったらしい。君が受け取らなかった……先生のぶんまで「回収」して、研究材料にしたのだって」
 野生のものと、人の手によって改められたもの。美しい花の陰に潜むものに違いはあるのだろうか。あった、のだろうか。
「……そうか。それなら、よかった」
 風に花々が揺れる。父と己を唯一繋いでいた――縛っていた――一輪の白い花ではなく、無数の薄紫。
「問いかけには……完全な答は与えられないが」
 少しばかりテランスに身を寄せ、ディオンは呟いた。テランスはその呟きの意味を問わなかった。自身に向けられた言葉ではないと悟ったのだろう。
「「あのとき」とは違い、迷いは常にある。……心残りも」
 世界は変わった。理も、在り方も。時の流れだけが変わらずに過ぎていく。そのなかで、己は生きていく。滅びがあるというのならば、抗う。未来へと、夢へと、手を伸ばす。
 迷い、立ち止まることも、疲れ果ててしまうこともあるだろう。
 ――それでも、否、だからこそ。
「この想いは……願いは、確かに私のもの。真実、私の覚悟」
 花々から目をゆっくりと離し、ディオンは傍らのテランスを見上げた。彼が己の孤独を妨げてくれる限り、想いの根本が揺らぐことはない。諦めることも、投げ出すことも。
「……だから、私の「止まり木」よ。どうか傍に」
「君のその願いのままに、僕の心のままに」
 テランスが微笑む。でも、とそうして彼は言葉を繋げた。
「昔のように、見守るだけじゃない。……君の誤りを僕は逃さない」
「テランス」
 目を瞠るディオンに、テランスは頷いた。
「守るだけだった。眺めているだけだった。君の苦しみを見逃した。見て見ぬふりをして、畢竟、問題を先送りにした。これは、君以外の、僕らの罪。僕の罪」
「そんな、そのようなことは――」
 テランスに抱きしめられ、ディオンは言葉を切った。ぎゅう、と込められた力が彼の想いの強さを感じさせた。
「その罪を贖う。贖い続ける。これが僕の覚悟……だけど、願いに近いかな」
 ずっと傍にいる、大丈夫。
 耳元で囁かれた言葉に心が慰撫される。は、と詰めていた息を吐いたディオンは、己の頬に何かが転げ落ちていくのを感じた。
「……許せ」
「僕しかいない。誰も見ていない。そういうときこそ、君の心に触れさせて」
 喉が震える。干上がったようになったそれを見越したかのように、テランスがディオンに口づけた。
 確かな、もの。――未来への想い。願い。そして、己の心。込み上げるこの感情。
 それを真実と捉えて、そう名付けて。
 抱きしめ返し、唇を啄む。ディオンの答に、テランスが笑った。だが、その瞳にも光るものがあって、ディオンは背伸びをして彼の想いを吸い取った。

 花に、心の内を殺められることは二度とない。そう思いながら、過去を閉じた。