大瀑布から聞こえる流水の轟音は、この市場全体を包み込んでいるようだった。
目の当たりにすると、この滝が多くの人々を魅了してきたのが分かる。ただ見ているだけでもそうだが、いにしえより伝わる説話を研究する者にとっては、その魅力に没入するのではないかと思ってしまう。実際、滝を見ながら何やら熱心に書き留めている者も数名いた。首から画板をかけて自らの絵に落とし込もうとする者も。
青空の下、陽の光を受けてゼメキスの滝は美しく輝いていた。
滝を眺め、ディオンとテランスは市場へと向かった。
ボクラドはクリスタルロードの交通の要衝ということもあって、少し前までは栄えていたと聞く。ダルメキア側からクリスタル自治領への関所があるのもこの市場だ。自治領が壊滅した今、関所はごく限られた者しか出入りできない。己も例外ではないだろう、とディオンは考えていた。
難民と思しき人々の横を足早に通り過ぎ、市場へと入る。かつてダリミルという宿場街で見た市場とは違って、ボクラドの市場は日用品が多く売られていた。家具や陶器、日持ちするような食料品。少しく不思議な品揃えではあったが、自治領近辺に住むことを決めた人々が買い求めていたのかもしれないと考えると、符丁が合うような気がした。
立ち並ぶ露店の中に古書店を見つけ、ディオンは足を止めた。
「御覧になられますか?」
「ああ」
察したテランスに頷き、ディオンは店に入った。本に積もった埃や砂を払っていた主人らしき男が「おや?」と少し驚いたような顔で見てきたので、ディオンは軽く挨拶をした。「見てもよいだろうか」と訊ねると、店主は「勿論ですとも」と首肯した。
都市部であっても、これだけの本を扱う店は早々ないのではないか、とディオンは思いながら店内を眺めた。隠れ家の書庫には負けるが、なかなかの品揃えだ。
本の多くは、やはりゼメキスの滝にまつわるものだった。学術書もあれば、冒険譚もある。子供向けなのだろう、絵本のような装丁のものもあったが、この情勢で売れるだろうかと考えてみると、少し疑問はあった。……早く、この本が誰かの小さな手によって開かれる日が来るようにと願う。
奥へと進むと、雰囲気はまた少し変わってきた。ゼメキス以外の専門書が多い。兵法書もあったが、あまり興味はそそられなかった。大抵の知識は既に身についているし、将来にわたって軍事方面に携わることはもはやない。周囲の考えと己の意思が合致した結果だった。
気が付けば、何冊かの書を手にしていた。恩師が好みそうな書や、隠れ家の勉強熱心な者達が読み耽りそうな図録と物語の写本、そして。
背表紙に草花の絵が描かれている本を見つけたディオンは、書棚からその本を引き抜いた。ずっしりとした重みのある本は何かの図鑑か解説書らしい。中を確認するために、手にしていた書物は一旦テランスに預け、ディオンはその本を開いた。
頁を捲ると、精緻な描写で草葉が描かれていた。その隣には、その草の名前があり、続いて主な効能や群生地、処理方法や注意すべき点等が事細かに縷々記されてあった。
薬草の専門書と知ったディオンはキエルを思い起こした。こういった本に彼女は多大な興味を持つだろう。未だ文字の読み書きには少々苦労しているようだが、努力家の彼女のことだ、すぐに読破できるようになるに違いない。
ただ、と思う。ディオンは店主に声をかけた。どうされましたか、と寄ってきた店主に、薬草の専門書を見せる。
「私はこうした専門書には詳しくないのだが、この書の情報は正確か? 著者は?」
「ああ、これですか。少し古いですが、確かな本ですよ。著者はカンベルの教授で、医学書も書かれていた方です」
掘り出し物ですよ、と店主は片目を瞑ってみせた。
その仕草に笑み、ディオンはその専門書も買い求めることにした。後は……とも思ったが、これ以上見ているときりがないことに気が付いた。テランスに持たせたままだった書も結構な冊数になっている。そういえば、此処で買い求めたところでどうやって持っていけばよいのか。旅の荷は少なく、が原則であるのに、何故か箍が外れてしまったらしい。
とはいうものの、どの書も魅力に溢れている。キエルへ贈る薬草の専門書は無論のこと、他の書も手放し難い。
「気前よく選びすぎましたね?」
「困ったな……」
からかいの響きで笑うテランスに、ディオンは肩を竦めた。さて、本当にどうしようか。
「お客様」
声をかけてきた店主に目線をやると、此方の意を酌んだのだろう、「そういうお客様もこの店には多いのですよ」と彼は言った。そうして、続ける。
「多少値が張るのですが……お客様ならば問題ないと思われますので、お教えいたします。このボクラドには幾つかの隊商がございまして、彼らに相談してみてはいかがかと」
「成程……。店主、其方の勧めは?」
ディオンが訊ねると、店主はその隊商の名を告げた。ゼメキスがよく見える場所に店を構えているというその隊商の名には、覚えがあった。――旅の前に、「協力者」として記されていた名を一覧で見た。
「承知した。「赤の商隊」だな?」
「はい」
手際よく店主が提示した金額をテランスが支払い、「またのお越しをお待ちしております」という言葉を背に、二人は店を出た。
赤の商隊。ボクラドの荷運び屋のなかで最も信用がおけるというその隊商は、同時に相当な高値で取引を仕掛けてきた。限りなく重要な――物資に限らない――ものを運ぶには、それだけの覚悟が必要で、対価は当然支払ってもらうのだと店の主は落ち着いた声色で言った。
「承知した。貴女の言い値で運んでもらおう」
「……滅多にこういったことにはならないんだけど。大抵は値切ってくるものだから」
知的な印象を与える彼女の戸惑いに、ディオンは苦笑した。己の金銭感覚は他者から言わせれば「狂っている」らしいのだが、この隊商もなかなかなものだった。
だが、出せない金額ではない。また、店主である彼女の言葉を知れば、納得もできた。
「値切るには相応しくない。……それに、私が望む送付先へ運ぶことができるのは、此処だけだ」
そう言ったディオンに、彼女が首を傾げる。疑問符の浮かんだ表情に、ディオンは彼女の名を呼んだ。
「エルイーズ殿、「隠れ家」へこれらの書を送ってもらいたい」
「……? 何故、私の名前を? それに、隠れ家って……」
はっきりと不審を明らかにした彼女だったが、ディオンを観察しているうちに何かに気が付いたらしい。その「何か」に思い当たり、ディオンは外套の留め具を外した。
「これでお分かりいただけるだろうか?」
「……つまり、貴方がディオン・ルサージュ、ということでいいのかしら?」
声を潜めて慎重な口調で言った彼女に、ディオンは頷いた。そういうこと、と納得した様子の彼女は腕を組んで微笑んだ。
「シド――クライヴから連絡は来ているわ。初めまして、ルサージュ卿。ご賢察の通り、私はエルイーズ。この「赤の商隊」の主よ」
「ディオン・ルサージュだ」
互いに名乗った後に、エルイーズはディオンへ椅子を勧めた。背後のテランスにも目線を投げたが、彼がどのような役回りなのかは見抜いたらしい。特段何も言わずに、彼女は数枚の書類を卓へ置くと、自らも座った。
「伝票、なんだけど……普通は送り先と送付人の情報を書いてもらうのよね。でも、そういうわけにもいかないし」
送り先はともかく、と言ったエルイーズに「隠れ家へは何か送ることも?」とディオンは問うた。
ええ、とエルイーズは頷く。
「ボクラド近郊にしかない、というものもあるのよ。……それと、悪徳商人から買い取ったベアラー……、今だと「元ベアラー」ね。彼らを隠れ家へ運んだりもしたわ。今は違う土地へ移住をさせているから、その数はだいぶ減ったけどね」
「……そうか」
隠れ家にて健気に生きる者達を思い出す。刻印を顔に持つ者達のあのなかにもこの隊商によって運ばれた者がいるのだ。
「隠れ家へは運べるわ、大丈夫。後は、送付人なんだけど……やっぱり貴方の名前を書くのは止めておいたほうがいいわね」
「では、「ザンブレクのテランス」と書いてくれ」
溜息をついたエルイーズにディオンは言った。後ろに控えているテランスを仰いで頷き、そうして視線を彼女に戻す。
「テランス? 後ろの彼の名前かしら?」
「はい」
エルイーズの問いにテランスが答える。彼の「私は生存していることになっています。何も問題はありません」という言葉にエルイーズは「分かったわ」と笑った。
「ルサージュ卿、署名をお願い。「テランス」と書いてくれればそれでいいから」
「承知した」
羽根ペンを渡され、ディオンは恋人の名を書いた。面映ゆい気もしたが、気取られぬように素知らぬ顔でエルイーズに紙を渡した。
「こちらが控え。届いたっていう確認ができるまでは持っていて頂戴。質問は?」
「いや、特には。よろしく頼む」
「了解したわ」
料金は手形でもいいわ、と言った彼女に甘えることにして、手続きを済ませる。
「では」
「ご利用有難うございました、またのお越しを」
古書店の店主と同じようなことをもったいぶるように言ったエルイーズに笑みをつくり、ディオンは席を立った。テランスが先んじて店の扉を開ける。
そのとき、視界の端で何かが光った。
光の正体が気になり、ディオンは目線をそちらへ向けた。部屋の隅に一振りの剣が置かれている。鞘はない。すると、入り込んだ外の光を受けて刀身が光ったのだろう。
「ルサージュ卿?」
「……いや、なんでもない。それでは、失礼する」
護身用に置いてあるのだろう、そう思ってディオンはテランスと共に店を出た。
室内の暗さと外の明るさのコントラストに、目が一瞬眩む。やはりダルメキアは陽射しが強い。ザンブレクともロザリアとも違う陽射しの強さは、此処が乾いた土地であるが所以かもしれない。そう思いながら、ディオンは向けられていた視線の源を追った。
「あ、出てきた」
木の陰に隠れているつもりなのか、顔だけひょっこりと出していた少年が後ろを向いて、何かを合図した。何だろう、とディオンが見ていると、一緒にいたらしい二人の少年少女が顔を見合わせ、それから全員が此方を見てくる。
いや、少し違う。ディオンはそう思い、少年達を見やった。彼らは己の後ろに立つテランスを見つめているようだった。
「……何でしょう?」
流石にテランスも気が付いたのか、不思議そうな顔でディオンを見た。さてな、とディオンは言うと、少年達に歩み寄った。げ、と呻いて逃げようとした最初の少年を視線で抑え、他の二人にも牽制をかける。
「私達に何か?」
「え、いや、な、何でもないよ」
あわあわと答える少年の横で、少女がテランスを凝視していた。もうひとりの少年はといえば、「赤の商隊」の建物を見、そうして少女と同じようにテランスを見上げる。
「お客さんだって思っただけなんだ、ここらへんじゃ見かけない雰囲気だったから気になって。それだけだよ、本当」
焦る少年は明らかに何かを隠しているようだった。嘘はついていないだろうが、すべてが本当というわけでもないだろう。
「確かに、私達は客としてエルイーズ殿に荷を託したが、それが?」
「いや、それは……別に」
ディオンと会話を続ける少年の服の裾を少女が引っ張った。ねえ、と声をかけられ、少年が少女に顔を向けた。少年の耳元で何かを囁く少女の横で、別の少年はまだテランスを見ていた。
――どうしたというのか。
「やっぱり、違うよ。似てないよ」
「そうだよな……」
「この人よりテオ兄ちゃんのほうが百倍男前だよ、ホンザ」
密談の如く少年少女達は木の陰で話し込んでいたが、それはディオン達に丸聞こえだった。いったい何の話か、とディオンとテランスも顔を見合わせる。テランスは訳が分からないといった風情で肩を竦めたが、ディオンは内心が騒めくのを感じた。「テランスより男前」とは何事だ。テランスほどできた人物はいないというのに。そのテオという名を持つ者は何者か。
ディオンの睨みに気が付いたのか、ホンザと呼ばれた少年がディオン達のもとへやって来て、ぺこりと頭を下げた。
「ごめん、人違いだった」
短くそれだけを言って、ホンザは他の二人に目をやった。行こうか、と力なく言ったホンザに頷き、二人もまた頭を下げる。何をどう間違えたのかよく分からないが、意気消沈のままに去ろうとした少年達にディオンは声をかけた。
「どういうことだ? よければ、話してみないか?」
少年達は互いに様子を探るような感じで顔を見合わせた。どうする?と言い合う彼らが話を纏めるまで、ディオンはテランスを横目で眺めた。テランスも視線を投げてきたが、やはり分からないと首を横に振った。
「……じゃ、じゃあ少しだけ。……ここじゃ話しにくいから市場へ行こうぜ」
店をちらりと眺めてそう言ったホンザの案をディオンは了承した。
§ §
「テオドール?」
市場にある屋台に併設された卓を囲んでの会話で、その名前は出てきた。
繰り返したディオンにホンザが頷く。屋台の主人が「いつも手伝ってくれるから、今日は特別な」と奢ってくれた檸檬水を飲み、はあ、とホンザは溜息をついた。
その溜息に、自腹で購入した香辛茶の器を弄びながらディオンは記憶を探る。テオドール。覚えはあっただろうか。
「どういった方なのですか?」
訊いてしまったほうが早いと考えたのだろう、テランスが少女に訊ねた。ホンザに訊ねなかったのは、彼がぐったりと卓に突っ伏してしまったからだ。
「テオ兄ちゃんは、エル姉ちゃん……エルイーズお姉ちゃんの弟さん」
器の水滴を掬い、少女は言った。寂しそうな声色だった。
「商売上手なエル姉ちゃんと、腕っぷしが強くて誰にでも慕われてたテオ兄ちゃんで「赤の商隊」は回ってたんだ。……不良な俺らにも時々奢ってくれたり、説教したり、励ましてくれたり、色々目をかけてくれて……嬉しかった」
卓から顔だけ上げてホンザが説明を加える。
「……過去形、か」
ディオンが言うと、三人組のもうひとりの少年が頷く。
「カシロクってところで騒ぎがあって、アカシアが湧いて……テオ兄ちゃんがやっつけに行ったんだ。皆、心配した。シドがすぐにやって来て、テオ兄ちゃんを助けに行ったんだけど……」
言葉を切った少年の背を叩き、ホンザが起き上がった。ぶんぶん、と首を横に振り、ばしん、と自らの頬も叩く。
「エル姉ちゃんも心配して行ったんだけど、結局、テオ兄ちゃんだけ帰ってこなかった。大人達は何も話してくれなかった。死んだのか、どこか遠くに行ったのか、それとも? 全然話してくれなくて、落ち込んでるエル姉ちゃんには訊けなくて……。そのうち、やっぱりテオ兄ちゃんは死んじゃったって知ったんだけど」
ディオンは黙してホンザの話を聞いた。テオドールのことは情報として入っていなかったが、そのような話は数えきれないほどにあるのだろう。そして、そのひとつひとつに底なしの悲しみがあることも。
そういえば、と思い出す。店の片隅に鞘のない剣が置かれてあった。あれはテオドールの剣なのかもしれない。
すると、少女がディオンの考えを肯定するように続けた。
「お墓もないの。あるのは、エル姉ちゃんが大切にしているテオ兄ちゃんの剣だけ」
「……そうか」
ディオンの相槌に、ホンザが告白する。
「本当の兄ちゃんみたいだった。俺も、大きくなったらあんなふうになれるかなって……まあ、これは色々あった後にシドに説教されてから思ったんだけど。テオ兄ちゃんのように誰かを守れるようになれたら、かっこいいなって思ってたんだ。あこがれだった」
うん、と少年が頷き、テランスを見た。
「……お兄さんの背格好が、後ろから見たらほんのちょっとテオ兄ちゃんのようで、それで皆で集まったんだ。もしかして帰ってきたのかなって思っちゃって。……でも違った」
泣きそうな笑みで言った少年に、テランスは何も言わなかった。何も言えないだろう、とディオンは思う。己だって、彼らにかけられる言葉を持ち得ていない。
「怖いの」
少女が言った。
「だんだんテオ兄ちゃんのこと、忘れてくような気がしちゃうの。どんな声だったか、わたし、もう思い出せないよ。もらった言葉とか、笑顔とか、そういうのはまだ覚えてるけど、でもいつか忘れちゃうかもしれない」
「俺は……まだ大丈夫だけど、いつかそうなるかもしれない。俺達はいいんだ、それでも」
泣き出しそうな少女の頭を撫で、ホンザが言う。
「エル姉ちゃんが、いつかテオ兄ちゃんのことを思い出せなくなったら……そんな日は来ないって思うけど、もしも、そうなったら。嫌だなって、怖いなって思う。つらい」
「……そうですね。確かに、それはとても苦しいことでしょう」
ほんの一瞬だけディオンを垣間見た後、テランスは三人に語りかけた。
「エルイーズ殿がどのように思っているか、感じているか。それは彼女自身にしか分からないことです。……君達が感じている苦しさや辛さ、悲しさもまた、君達にしか分からない。ひとりひとりの感じ方が違うから、それはどうしても起きてしまう」
ですが、とテランスは続けた。
「君達が思っている忘却……忘れてしまうことの恐ろしさは、おそらくエルイーズ殿も持ち合わせているでしょう。きっと、多くの人が持ち合わせている恐怖です」
「お兄さんも?」
訥々と語るテランスに、少年が訊ねる。テランスはその問いに、少しばかり間を置いて「ええ」と頷いた。
「……どうやって乗り越えたの?」
身を乗り出して問うてきた少女にはテランスは曖昧に笑んだ。それを見たホンザが「秘密?」と助け船のように問いかけてきたので、テランスは再度頷いた。
――もし。
やり取りを見ながらディオンは思った。己の死を知った後、虚脱感に囚われていたという絶望のなか、テランスであればどうしたのだろうか。己の出したあの命令に縋り、自死を選ぶことはなかっただろう。だが、相当苦しんだに違いない。
そういった意味では、生き延びられてよかったと心底思う。と同時に、彼の記憶から己が少しずつ薄れていくことを考えるのは――、言葉に言い表せない思いになる。
残される者と、去りゆく者。その双方にとって、多くの場合、「忘却」は恐怖となる。
声。姿。表情。感触。熱。共有した、数多の思い出。……それらは砂のように消えていく。懸命に脳裏で繰り返しても、いつしか風化してしまう。
「忘れたくないか?」
ディオンは三人に問いを投げかけた。テランスにも、同じように。
一呼吸を置いて、全員が頷いた。
§ §
「数字なら書いたことあるけどさ……」
「テオ兄ちゃんを描くんでしょう? お手紙、じゃなくて」
ホンザのぼやきに少女が言う。どうやって持てばいいんだ?と炭片を手にして唸る少年を、隣のテランスが指導している。
――絵にしてみては、どうか。
ディオンの提案に頷いた面々だったが、絵画の心得は無論のこと、そもそも紙もなければ画材もない。我ながら名案だとは思ったのだが、先刻の古書店での買い込みのように思い付きだけの提案だったので、テランスを含めた四人には少し失望させてしまった。
しかし。
そういえば、とディオンは思い出したのだった。ゼメキスの滝の前で絵を描いていた者がいたことを。あの者に訊けば、何かしらの収穫が得られるかもしれない、そう思い、テランスだけを伴ってその場に走った。
結果から言えば、絵描きは「あんまりいい紙じゃないけど」と言いながら紙を五枚と、素描に使う炭片を幾つか譲ってくれた。金なんて別にいいよ、と太っ腹な様子で言う彼に数枚の銀貨を握らせて礼を言い、急ぎ戻った。
「紙の端ではなく、真ん中にできるだけ大きく描きましょうね」
芸術方面を割と達者にこなすテランスの指導を受けながら、少年少女は空中で手を動かしている。どうやら、頭の中で下書きをしているようだった。いきなり描き出したりしないあたり、思ったより彼らは慎重派らしい。
「エル姉ちゃんも一緒にしよう」
「剣構えてるところ描きたいけど、そうしたら紙は縦にしたほうがいいか?」
「チョコボと一緒のところ……テオ兄ちゃんじゃなくてチョコボ難しい」
それぞれ思い悩んでいる様子はどこか微笑ましく、ディオンはこっそり笑んだ。そこに、テランスの注意が飛ぶ。
「ディオン、君もだよ」
「私は、ほら、あまり絵を描くのが得意では」
三人とテランスと同様に、何故かディオンの目の前にも紙はあった。炭片は三人が使っているので持ち合わせていないが、元々ペンとインクは所持しているので描くことはできる。……そう、できはするのだが。
「お兄さんも何か描けばいいのに」
テランスの言葉が聞こえたのか、少女が笑顔で言った。ですよね、とテランスが同意し、にっこりとディオンに向かって笑みを浮かべる。その笑みが結構怖くて、ディオンは思わず顔をひきつらせた。
「……いずれ、描く。必ず」
「いずれ、は来ないかもしんないぜ?」
今度はホンザだ。確かにその通りで、ディオンはますます追い詰められた。もうひとりの少年も、「絵は心だよ! 俺は今そう思った!」などと言い出すものだから、逃げ場はもはやないに等しくなった。
ほら、と炭片を半分にして渡してくれた少年に礼を言い、ディオンは紙に向き直った。同じくテランスもホンザから炭片をもらい、何やら描き始めている。
「お前さん方、そろそろ」
いつまでも卓を占拠している迷惑な客に、屋台の店主が声をかけてきた。
「店主、檸檬水を五つ頼む」
紙に目をやったまま、ディオンはそう言った。
§ §
夕刻、これから「赤の商隊」に行くと言った少年少女と別れ、ディオンはテランスと二人でゼメキスの滝の前にいた。
「……持ち歩くにはちょうどよい大きさですね」
「それは誉め言葉と受け取ってよいのか?」
若干不貞腐れ気味に聞こえただろうディオンの言葉に、テランスが大きく頷く。ディオンが描いた自身を見つめ、そうして彼はディオン本人に目を向けた。
「あの走り書きではなく、これからは貴方が描いたこの絵が「お守り」です」
「……私も、お前が描いた絵を大切にする」
紙の隅に描いてしまったディオンとは異なり、テランスは紙いっぱいに描いていた。
彼が描いたのは、ディオンとテランス。二人が笑顔でいる姿だった。
「自分で自分を描くのは、難しいというか、恥ずかしいというか」
ぼそぼそと言うテランスに笑み、ディオンは首を横に振った。
「私もそのように描けばよかったな。二人が共に在るところを」
己の画力はさておき、と付け添えると、テランスが「では」と内緒話のようにディオンの耳元に口を寄せた。
「一緒に描きましょう。私がディオンを描くから、君は私を」
同じ紙に、二人で。
テランスの言葉に、ディオンは笑んだ。
これまで積み上げてきた沢山の思い出を彩るように、後にその絵も加わるだろう。そして、「よき思い出」として語る日がいつか来る。忘れてしまっていたものも思い出すかもしれない。
「……そうしよう」
そのままテランスに身を預け、ディオンは「いつか巡る日」を想像した。