憎しみと侮蔑に塗れた視線を感じた。
自分に向けられたものだ、テランスはそう直感した。故に、敢えてゆっくりとそちらを見やる。ダルメキアの評議会議場に続く門の前に交替を終えたばかりの衛士が立っていた。ダルメキアの兵装ではなく、その者が纏う装備はザンブレクのもの。さらに言えば、聖竜騎士団の紋章入りの軽兵装で槍を手にしている。直立不動のまま、彼は自分を睨んでいた。
名は知っている。当然だ。彼の入団試験の折にも立ち会った。練兵の際に手合わせをし、脚力を褒めたこともある。熱くなる性分だったから、その点を注意したことも。しかし、真面目で、自らの分を弁え、同輩をよく助けていた。得難い人材だ、と評した。
ザンブレクというよりは、と何かの拍子に彼は語っていた。確か、ダルメキア国境付近での「火消し」任務に当たったときだったと思う。ひとまずの成果を得、明日は帰還するというその祝勝の宴で、小声で彼は言った。
――無論、国は、ザンブレクは大事ですが、私にとっては「我が君」を貶める輩に隙を与えたくないのです。だからこそ、跳べる。
小声で、しかも自分を相手にしただけの彼の話は、何故かその場に居合わせた多くの団員の耳に届いた。「私もそうです!」「自分も!」「今更何を言っているんですか! 当たり前でしょう!」……滝のように言葉が降ってきて、誰もが彼を見、次に「我が君」を見つめた。
閉口した「我が君」――ディオンは、苦笑を浮かべて団員達に礼を述べた。そうして、「我々はザンブレクの民と国の安寧のためにある。余に忠誠を誓ってくれるのは有り難いが、己の在り方をゆめ忘れぬように」と言った。
多くの団員が――自分も含めてそうであったように、彼もその言葉に深く感じ入ったようだった。何度も頷いていた、それも覚えている。
その彼が、自分を睨んでいる。当然だ、とテランスは思った。
同時に、この場にディオンが不在でよかった、とも思った。
ディオンは議場の一室でハヴェル卿と会談中だ。「報告書」を提出するついでに少し話をしておきたい、というディオンの希望をハヴェル卿は聞き入れた。ハヴェル卿の使者がそのように伝えてきたときのディオンの安堵の表情が妙に忘れられない。
何を話すのか、それは自分には伝えられなかった。だが、それでいいとテランスは思う。精悍さを取り戻し始めたディオンが思い描く未来。「今」しか見ることのできない人々へ、「明日」を見せたい。誰もが、自分自身を誇れるように。――そのために、ディオンはハヴェル卿に会いに行った。
――ところで、現況はどうするべきか。
不審者に向けるよりも厳しい衛士の目つきに、テランスは思案した。門前にはもうひとり衛士が立っている。此方はダルメキア軍の兵装で、妙な雰囲気になりつつあるのを感じ取ったらしい。彼と自分を見比べて、ダルメキア兵は小声で何かを彼に言った。
ダルメキア兵は「一介の旅人」を睨むザンブレクの騎士を注意したのだろう、とテランスには思われた。それはそれで少し不用心だとも思ったが、事情を知らなければそう考えるのも無理はないかもしれない。
テランスは門前から立ち去る気はなかった。議場にも待機用の部屋はあり、ディオンもハヴェル卿もテランスをその部屋に待機させるつもりでいたのだろうが、テランスは「お許しいただけるのならば、外で待機しております」と断った。その意は許され、そうしてこの場にいるわけだが、かつての部下と対峙することになるとは予想していなかった。
それでも。
衛士がそうしているように、テランスもまた彼を見据えた。ダルメキア兵がまた彼に何かを言う。しかし、彼は次第に苛立ちを露わにした。槍を持ったまま、此方へ向かってくる彼の足取りは荒々しい。聖竜騎士団の駐屯を辛うじて許されているランデラでそれでは駄目だろう、とテランスは思いながらも、彼の到着を待った。
「テランス、貴様!」
敬称も敬意も取り払って彼は怒鳴り、槍の穂先をテランスの首元に突き付けた。
「……私が、何か?」
テランスは一歩だけ引いた。穂先が揺れているのは彼の技量が落ちたためか、それとも。震える手元を見、次いで怒りの色を帯びた彼の目を見た。視線が定まっていない。
「職務を放棄し、今の今まで何をしていた? 我が君の――ディオン様の御心を軽んじ、本意に背いた! 我々をロズフィールドに売り渡し、自らは遁走した!」
彼が言葉を発するたびに槍が揺れる。一歩を引いただけでは危険極まりないので、テランスは仕方なく穂先を左手で掴み、そのまま捻った。ガントレット越しに小さな痛みが走るが、大したことではない。派手に転んだ彼を見下ろす。
「一部誤認があるようだが、誰からも説明はなかったのか?」
「あんなのはすべて嘘だ!」
よろめきながら立ち上がり、彼は叫んだ。傍で状況を掴み損ねていたダルメキア兵が走り去る。おそらくは、別の兵を呼ぶためだろう。
拘束されるのはどちらか。自分か、彼か。
「嘘?」
「違うとは言わせない。貴様はあの局面で騎士団を抜け、己の保身に走った。あの後の我々の動揺と混乱を、屈辱を貴様は知らないだろう! そして、素知らぬ顔で戻ってきたときの我々の憤怒を!」
怒鳴る彼にテランスは黙した。思い込みの激しさはあるが、彼の言葉には真実もあった。そう、確かに自分は何も知らない。まったく別の想いを抱えてしまっていたから、彼らを慮ることなど殆どなかった。
あのときのディオンの言葉を、逸らされた視線を、自らの嗚咽を、突き放した体と心を、そうしてその代わりに下された「任務」ばかりを思って、混乱のなかを無我夢中に生きてきた。走り書きの場所でキエルを見つけ、説得力に乏しい説明で彼女を口説き落とした。避難を拒もうとした彼女を半ば無理矢理にチョコボに乗せて自治領を出た。――オリジンが浮上したその日のことだった。
任務の裏に潜められたディオンの真意など、端から気付いていた。生きよ、と言外の想いをそれこそ拒みたかった。何故、と問い詰めてもよかったのかもしれない。だが、そのときそれはできなくて、後にそうしなかった自分を呪った。――だから、キエルを保護できた際に自分が思ったことは「これで、彼のもとへ」だった。彼女を安全な場所まで送り届けたなら、彼のもとへ馳せ参ずる。実のところ、ディオンが何処へ向かったかは分かっていなかった。だが、騎士団をロズフィールド卿に預けたのなら、そこに何かしらの暗示があるのではと思った。
しかし、結局それすらもできなかった。
黒の塊に向かって飛ぶ翼を見た。あまりにも見慣れすぎた姿だった。妙な色の空に閃光が迸り、それはやがて消えた。
自分は彼の名を、あのとき呼んだだろうか。呼べていた、だろうか。声に出して、心のなかで。分からない。よく覚えていない。――胸にあったのは、彼がすべてを賭して自らの翼を再び羽ばたかせたということと、おそらくは彼はもうこの世から去ったのだということ。騎士団に戻ってきた彼の瞳が時折揺らいでいたのを不意に思い出し、彼の望みの先を思った。彼は、それを叶えてしまったのだ。
絶望、というものはこういうことだろうか、と思った。星月夜、夜明け、青の空、陽の光、すべてが憎かった。虚脱感がいつまでも抜けなかった。このまま、とも思ったが、彼の命令に背きたくはなかった。最後に受け取った走り書きの紙切れを見つめ、その筆跡をなぞった。彼はもう、いない。消えた閃光はそういう意味だと思った。
キエルはそんな自分を叱りつけ、いったいどこから調達してきたのか、乏しいながらも自分に食事を摂らせた。「今までお世話になったから、今度は私がテランスさんを元気になるまで見守るの」と言いながら、「ぼんやりしてるようなら、手伝ってね」とにっこり笑って薬草の仕分けを頼んで寄越した。
そうやって幾月か過ぎた頃、噂話を偶然聞いた。所詮は噂だと聞き流せなかったその中身は、黒塊に消えた光の行く末についてだった。同じように噂話を聞いてきたキエルと頷き合って、そうして。
――そうして、今。
奇跡ではない。運命でもない。「世界」に必要とされたからでもない。消えた「神」に罪を贖えと唆されたからでもない。
あったとすれば、多くの人の祈りと願い。切なる心。そして、心の奥底では生を渇望した彼自身の本当の想い。……そうであってほしいと、望んだ自分の我欲も含まれている。
今、彼はこの世に生きている。自らの内に混沌を抱えながらも、その混沌に目を逸らすことなく一段ずつ階段を上り始めている。その事実こそが、自分を生かしていて。
他はどうでもいい、というのは本音だった。ロズフィールド卿にもそのように語った。
だが、それを許さない者もいるだろう。
「沈黙ということは、弁明する気もないということか? 我が君をあのような境遇に置き、御命を――」
「……望んだのは、ディオン様だ」
「望むわけがなかろう! 国を憂い、御自ら御旗を揚げた! すべては国と民を思ったがための顛末に、故あっての顕現に、民も貴様も勘違いをしている。あれを「罪」だと思い為し、責め苦を負わせ――、挙句の果てに、御体も癒えぬままに黒塊へ飛んだというではないか! 貴様は何をしていた!」
「……本当に、そうだな」
衛士の言葉に、テランスは緩く呟く。自分は、本当に、何を。
「あ?」
テランスの言葉を聞き取れなかったのだろう、衛士が詰め寄ってきた。議場前の広場を行き交う人々がちらちらと此方を見やるのが分かる。我ながら注意力散漫だと思いながら、テランスは場を御す方法を頭の片隅で考え始めた。
どうすれば。そう思う一方で、久方ぶりの虚脱感が全身を襲う。何故だろうか、と少しく思ったが、衛士の言葉が核心を突いていたためと思い至った。何も知らないところから始まる推測は真実となることもありえるのだ、と思った。そう、彼は何も知らないのに。
これがたとえば、彼がディオンを一言でも愚弄したのなら。テランスは思ってしまった。そうしたら、自分は無言で彼を斬るだろう。――ディオンのためにではなく、自分自身の感情の、心の、欲のために。そのためだけに。
衛士が再び槍を突き付ける。「続きは拘置所で聞く」と彼は言い、テランスの腕を引っ張った。瞬間、吊るしていた剣を見咎めたのだろう、「没収だ」と言って常剣とブラックソーンの剣を取り上げようと手を伸ばした。
そのとき、ざわめきが増した。此方へ向いたものではなかった。衛士に槍を突き付けられたままにざわめきの方を見やると、自分で議場の門を開けた人物がいた。
――遅かったか。
テランスはそう思った。門前にいるはずの衛士がいないのを不思議に思ったか、その人物は軽く左右を見まわした。そうして、不自然に人が集まっているのを眺めやりながら門扉を出、正面に視線を置いた。
此処から「彼」までは少し距離があった。それでも、彼が驚くさまはよく分かった。
「え……?」
衛士が呆けた声を出す。そういえば交替するところを見たのだった、とテランスは思い出した。衛士は彼が――ディオンが議場内にいることを知らなかったのだろう。その日の予定が頭に入っていないのも問題だ、と思いつつも、衛士の気が逸れたのを確認したテランスは掴まれたままだった腕を振り払った。
ディオンは駆け寄るでもなく、普段通りの歩みでテランスと衛士の元へとやって来た。表情は少し険しい。何があった、と視線で彼はテランスに訊ねたが、テランスは即答を避けた。
その代わりに、衛士を見やる。衛士はというと、ディオンを凝視していた。その手から槍が落ち、乾いた音が響く。
「ハルムシュタット?」
ディオンが衛士の名を呼んだ。ああ、名を呼んでしまったかとテランスは思ったが、それももう仕方がない。衛士――ハルムシュタットはしばらく固まったままだった。ディオンが苦笑しながら小首を傾げて、そこでようやくハルムシュタットは我に返った。
「ディオン様――、我が君!」
聖竜騎士団の最敬礼をとったハルムシュタットをディオンが片手で止める。首を横に振ったディオンを見て、心底不思議そうな表情になったハルムシュタットの心の内をテランスは分かるような気がした。
「息災で何よりだ。あの災禍をよくぞ生き残った」
「ディオン様こそ、ご健勝で在られたことを知る由もなく、私は……我々は悲嘆に暮れておりました。無事救出は為された、その吉報のみでその後の情報は途絶えましたので……」
ハルムシュタットが声を震わせて言った。滂沱の涙を流し、それでも彼は前を――ディオンを見つめる。そんな彼に、ディオンは「すまないな」と笑んで続けた。
「余が……私がすべての情報を止めさせた。幹部連と一部の団員には知らせているが、其方達に情報が下りないよう命じたのも私だ」
「何故、そのような」
ハルムシュタットの困惑がテランスにまで伝わってくる。動揺しきった彼はディオンに詰め寄ろうとしたが、片手を挙げて制したままのディオンはそれを拒んだ。
「其方達と私の間にはもはや縁はない。其方達の上に私は立たない」
そうしてディオンはきっぱりと言った。ハルムシュタットにとって――彼だけではなく、ほぼすべての聖竜騎士団団員にとって、それは信じ難い通告となるだろう。
「そ、それはどういうことですか? ディオン様は我らの旗頭。私が、我々が忠誠を誓うのは貴方様……聖竜騎士団の多くの者はそうです。国や民のためではなく、今この場に留め置かれているようにヴァリスゼアの治安を維持するためなどではなく、ディオン様の御心に沿うべく我らは」
「違えるな、ハルムシュタットよ」
言い募るハルムシュタットをディオンが遮る。
「私は其方達に告げたはずだ。騎士団は民と国の安寧のためにあると。私個人を崇めるためにある組織ではない、と」
「……ですが!」
「今、ザンブレクという国は存在しない。ダルメキアやウォールード、ロザリア……他国もそうであるように、ヴァリスゼアのすべてが混沌の渦に叩き落されている。騎士団をロズフィールド卿に託した所以は別のところにあるが、その判断が間違っていたとは思っていない。其方達には、国という概念を飛び越えてヴァリスゼアを守り抜いてほしい。……それに異を覚えるならば、別の道を歩め。己の在り方をけして忘れぬように」
涙を拭ってもなお、ハルムシュタットはディオンを見つめていた。呆然と見つめるほかないという様子のハルムシュタットにディオンはひとつ頷き、テランスに視線を移した。
「行くぞ」
「――はい」
自失しかけているハルムシュタットにテランスは背を向けた。幾人かの応援を連れてきたと思しきあのダルメキア兵も固唾を呑んで様子を見守っていたらしい。何か感じるところがあったのだろうか、略礼をしてきたその兵にテランスは視線だけで応じた。
そうして、ディオンの後に続こうとテランスが動いたそのとき、ハルムシュタットが声を荒げた。
「ディオン様!」
喜びでも嘆きでもないその声色は、怒りを帯びたものだった。呼ばれたディオンが歩を止める。振り向きはしたが、向き直るまではしなかった彼に代わり、テランスはハルムシュタットに向き直った。
「テランス、様はよろしいのですか! 聖竜騎士団を裏切った者をお傍に置くと、仰られるのですか!」
「テランスが裏切った、そう申すか」
ふ、とディオンが口の端で笑う。違うのですか、とハルムシュタットは叫び、テランスを殺意に満ちたまなざしで睨んだ。落とした槍を再び手にしていたなら、彼は自分に突進してきただろうとテランスは思う。それほどの視線だったが、恐れるに足るものではなかった。
虚脱感はまだ残っている。だが、恐怖はない。
「テランスが騎士団を裏切ったか否かは関係がない。これは……テランスを傍にと願うのは、そうだな、偏に私の「我儘」だ」
ハルムシュタットに言い返す間も与えず、ディオンは歩き出した。
「騒がしかったが、愉快なことになっていたようだな?」
議場内に戻ったディオンにそう言ったのは、ハヴェル卿だった。テランスを見やり、普段はあまり見せない類の笑みを見せる。
ハヴェル卿がどこまで現況を把握しているのかは掴めないが、騒動を引き起こした責の一端は自分にある。テランスは「失礼をいたしました」とハヴェル卿に謝罪した。
「謝らんでもいい。何がどうなっていたかはよく分からんが、どうしたって不満は出る。緊急時とはいえ、かつての敵国を守るなんてことは思ってもみなかっただろう。うちだって、そうだ。ザンブレクが土足で入り込むなんて思わなかっただろうからな」
気にするな、とハヴェル卿はテランスに言い、今度はディオンを見た。
「そういえば、頼みがあると言っていたな。何だ?」
「ああ、それは」
ハヴェル卿の問いに、ディオンは何故かテランスを見た。頼みとは何だろう、そうテランスが訝しむ前にディオンはまたハヴェル卿に向き直る。
「議場を少し見学したい。よろしいか?」
「別に構わんが? ああ、まだ工事中のところもあるから、そこらへんは気を付けろ」
「承知した」
ディオンとハヴェル卿の間で話は簡単に纏まってしまった。議場に戻ってきたときから、「もしや」と思っていたことが現実になろうとしている。テランスは陰鬱な心持ちになった。ディオンやハヴェル卿の意を拒み、この場を離れておきたかった理由もこれが原因だ。
――此処は。この場所は。
「行くぞ、テランス」
「……承知いたしました」
少しの間を置いて返事をしたテランスに、ディオンはかすかに笑みを浮かべた。心配することは何もない、とでも言いたげに。
ハヴェル卿と別れ、二人は議場内の廊下を歩き始めた。
ダルメキア特有のタイルを用いたモザイク模様が美しい。所々、少し色が浮いたように見えるのは光の加減か、真新しい修復跡か。どちらでもいい、とテランスは思いながらディオンの背を追った。
あのとき、と思う。ランデラに押し寄せたアカシアを辛うじて撃退したあの夜、ディオンは騎士団を率いてこの評議会議場を訪った。議場内は大混乱に陥っており、アカシアにやられた衛兵を踏み越えて奥へと進んだ。救出できる者は残っていないのではないかと思いながら、それでも運よく逃げ延びた数人を助け、最終的にハヴェル卿とロズフィールド卿が立てこもっていた部屋に辿り着いた。其処は、最もアカシアが押し寄せていた場所だった。
ディオンのハルバードがアカシアを薙いだのを皮切りに、団員達がアカシアの群れを打ち倒し、青霧と黒の粒に変えた。人の形をとっていたアカシアもいたが、「敵」に情けはかけられない。あの場は確かに戦場だった。
扉を開き、ハヴェル卿とロズフィールド卿の無事を確かめ、ディオンが自分を呼び――、この場で、別れを告げられたのだった。
今、ディオンが何処に向かっているのかなんて分かり切ったことで考える必要もなかった。あの日、このバルコニーで、彼は、自分は。
「あのときは夜だったが、昼日中の光もよいな。……暑さはやはり厳しいが」
話しかけているのか独り言なのか。ディオンもまた、どう切り出してよいか分からないといったふうにテランスには見えた。バルコニーに出、手すりに手を置いてディオンが言うのをテランスは黙って聞いていた。
「どう思う? ……と訊いても、今のお前には答えられないのだろうけれども」
反動を付けてディオンが手すりから離れる。テランスを見据えるその瞳は柔らかかったが、逃げは許さないと語っていた。向き合い、いつもの角度で彼はテランスを見上げた。
「……私もうまく伝えられるか、自信はない。分からないこと、納得がいかないこと……そういったことがあったなら、教えてくれ。そのままにはせずに」
ディオンの言葉に、テランスは頷いた。あの夜に合うことのなかった視線が、今は交わっている。それだけでも、胸に喜びが去来する。だが、そのためだけにこの場に来たわけではない。あの別れの夜から今までのことに、自分も彼も決着をつけなければならなかった。過去に、区切りを。
「“あれ”を持っているのなら、出してほしい」
「……はい」
皮鎧の釦をひとつ外し、テランスは上着の隠しから「それ」を出した。装備を元通りに整えた後に、ディオンに手渡す。
「ありがとう」
「いえ……」
何も知らぬ者にとってはよれた紙切れにしか過ぎないだろう「それ」を、ディオンはテランスから両手で受け取った。二つ折りにした紙片を慎重に開く彼を、テランスはただ見守る。
「……掠れてしまっているな」
やがて、ディオンが呟いた。自らの筆跡を数度なぞり、ふう、と溜息を零した彼はテランスに問うた。
「ずっと、持っていたのか?」
「……ええ」
「私と再会を遂げても?」
「そうです」
何をどう告げればよいのか。これから話すことは、彼が望むものではないかもしれない。それでも、彼に対して告解をするのならば今よりほかないとテランスは思った。幾度か言葉にはしたが、それでも。
「……どうしても、手放せなかったのです。キエルを保護し、この紙自体の役目は終わりました。彼女を安全な場所に移して、貴方の意をも――それこそ、ハルムシュタットが私に言ったように――軽んじて、貴方のところへ戻ろうとした。……ですが、それは叶わなかった。オリジンへと飛ぶ翼を見ました。眩い光が消えたのを見ました。月夜が戻り、メティアが消えた。夜明けと青の空が戻った。世界が救われた――、いえ、変わったのを感じました。それと、同時に」
あのときの、そして先刻の虚脱感が蘇る。自分でも分かるほどに視線が揺らぎ、彼から顔を背けそうになった。駄目だ、と頭のなかで警告音が響き渡るが、どうにもできない。俯いてしまう癖は彼のものだったのに、うつってしまったのだろうか。
彼は、今此処にいる。自分と共に、あの夜のバルコニーに佇んでいる。本当に、ただそれだけだ。様々な事象を越えて、この場に在るだけなのに。
「話せ、テランス。今、この場で」
ディオンの手がテランスの頬に触れた。
「隙間は埋めなければならない。……私は、聞きたい」
「ディオン」
「それから、私の想いも聞いてほしい」
ゆるりと笑み、先を促すディオンに、テランスは話し始めた。
――世界が変わったのと同時に、内なる光を失ったと感じたこと。
それまでも幾度も眺めていた紙片が遺品となってしまったことに、絶句したこと。
涙で滲まないように堪えていたのに、幾つかの染みをつくってしまったこと。
筆跡をなぞるたびに、体の芯が抜けていくような感覚に陥っていたこと。
そんな日々を過ごしていた、彼から呆れられると思っても、どうにもならなかったこと。
しかし、絶望の日々はいきなり終わりを告げ、自分が見ていた世界は再び変わったこと。喜びを感じられるようになったこと。――それでも、これは手放せなくて。
「自分でも、何故なのか分かりません。お守りみたいなものかもしれない。あのときの思いを忘れぬように自戒を込めているのかもしれません。……本当は、もう手放してもよいはずなのに」
「そうだな。……私もそう思う」
ディオンはそう言うと、テランスから一歩を引いた。そうして、「テランス」とかつて騎士団の高みに在ったときの声色で呼ばわった彼に、テランスは反射的に敬礼した。
「お前の――其方の任を解く。薬売りの少女を保護せよと命じた任を」
「ディオン様」
「これは余が預かる。其方が、この紙切れを持つ必要はもはやなく、そして」
よれた紙片を振り、ディオンが微笑む。
「これにて、お前は自由の身となった」
笑みを深めたディオンの表情に、自分が不安になる要素はない。しかし、テランスは咄嗟に声を上げた。
「ディオン、その先は僕が……私が」
「口調が迷子になっているぞ、テランス? 申し訳ないが、私から先に言わせてもらう」
ディオンは紙片を隠しに収めると、テランスの両肩を掴んだ。ほんの少し背伸びをして完全に視線を合わせたディオンは、あのときの自分と彼の真逆だとテランスは思った。
「私と共に在ってほしい。離さない、そう誓う」
誓いの言葉と共に琥珀色の瞳で射抜いたディオンに、テランスは息を呑んだ。彼の放った言葉を咀嚼し終えるまで数拍を要したが、ディオンは返答を急かさなかった。
「それは僕の望みで、願いで」
やがて、焦ったようなテランスの物言いが面白かったのか、ディオンが可笑しそうに笑った。そうして、「お前の想いは」と彼は言葉を繋げる。
「……積年の想いは随分と昔にも聞いたし、今の想いも知っている。だが、幾度聞いてもよいと思う。お前も、誓うか?」
ディオンの言葉に否やはなかった。テランスは、自分の両肩を掴んだままだったディオンの手を取り、指先に口づけた。
「共に未来を見ると、必ず傍に在ると、貴方に誓います」
見つめたままテランスがそう言うと、ディオンが「記憶の上書きだ」と言って目を閉じる。促されるままに誓いの口づけをし、テランスは彼を抱きしめた。
よれた紙切れはもう必要がなくなった。過去は、終わった。
あのとき、この場所で。そして、今このときから、未来へ。
彼だけではなく、自分も。自らの意思で、未来を見る。
そのときが来たのだ、テランスはそう思った。