#08 灰色の都

 灰色の都だ、とストーンヒルの城壁を見上げ、テランスは思った。
 やはりウォールードも国としての形を失っている。統治者は消え、アカシアと化した人民の多くもオリジンと共に消滅した。数少ない生き残った民はといえば、生まれ育った地にしがみついて祈りをひたすらに捧げる者と、安全と安寧を求めて都に避難してくる者に分かれているのだという。
 しかし、王都ストーンヒルに辿り着いたからといって何があるわけでもない。上の不在で統制がとれなくなった軍隊くずれに脅された挙句に組み込まれるか、前身のヴェルダーマルク王国の残党に捕らわれるか、抵抗組織に連なるかといったふうに三分される。あるいは、それらに悉く利用されるか。そこに、自由はなかった。
 間もなく雨を呼ぶだろう分厚い雲もまた、この都を濃い灰色に染め上げていた。
「以前、乗り込んだ際は……」
 同じように城壁を見上げ、腕組みをしてディオンが言い淀んだ。以前。その言葉をテランスは口の中で繰り返す。


 以前、というのはマザークリスタル・ドレイクスパインを破壊すべくクライヴ達がこの地に向かったときのことだ。ようようではあるが接岸できる「影の海岸」から陸路でストーンヒルを目指した彼らだったが、その旅路は困難を極めたらしい。襲い来るアカシア達を屠り、バルナバスとは死闘を演じた末にクライヴは「使命」とやらを押し付けられた。もっとも、それらのことは伝聞でしかないのだが、一方で残された者――ジル達は彼らを援護するためにミドと共にエンタープライズの帆先をストーンヒルに向けた。
 ディオンもまた、その船に乗った。――半ば、無理矢理に。
『皆、そりゃびっくりしたさ。話はバイロンから聞いてたけど、え、まさかほんとに?って。おかげですっごく助かったけどね』
 そのときのことを何も知らないテランスに、思い出を語るように話してくれたのはミドだった。
 何処かから取り寄せたらしい部品をダンジョンまで運ぶのを手伝ったら、まあ世間話でもしてきなよ、と座らされた。彼女がわざとらしく咳払いをすると、年上の助手達は肩を竦めてダンジョンを出ていった。
 誰も話さないだろうね、と人払いの後にミドは言った。話したくないかもしれないし、話すのを忘れてるだけかもしれない。あんたのディオンだけじゃない、クライヴも、ジョシュアも、ジルも、他の皆もそう。色々あって大変だったーってまとめて一括りにしてそのうちすっかり頭の隅っこに追いやるんだ。
 猫のように目を細めて続ける彼女の言葉を、テランスはただ聞いた。
 ――それはそれで、アリなんだよ。本当のことは過去にしかないけど、そればかり見つめてもいられない。そんな余裕なんてない。望んでも望まなくても、未来は――明日はやってくる、太陽は昇る。たぶんね。望まないんだったら分からないけど、少しでも自分の未来がほしいって思うんなら、持ってる力は「前」に使わなきゃならない。少なくとも、ここの皆はそうやって生きてきた。だけど、いや、だからかな、本当は大切なことをぽろぽろ落っことしてるフシがある。
 それじゃダメなんだ、とミド。
 ――なんにも変わらない。ううん、もっと悪い。「分かってるヤツ」しか進めない。「分からないヤツ」は「分かってるヤツ」に引きずられて、それでもなんとか前に進もうとするけど、いつか立ち止まってしまう。クリアできない。それを「分かってるヤツ」は分からない。……バイロン達、つまり風のおじさん達はなんでか分かってるようだけど、他はどうかな?
 探るような視線を向けてきた彼女を、テランスは真正面から見据えた。彼女のあけすけな物言いとは裏腹に、その言葉は真実だった。そう、自分は「クリアできていない」。
 ――それでも。
『……「分からない側」が努力するのが必定でしょう』
『それ、本気で言ってる? なんでそんなムダなことするわけ?』
 テランスの形ばかりの答を彼女は切り捨てた。
『あたしは父さんに自分が分からないこと、聞いたよ? 手紙もたくさん書いた。父さんは全部を教えてくれたわけじゃないだろうし、あたしだって全部聞けたわけじゃない。反発したり、逃げたりしたこともある。でも、父さんはあたしが「分からない」ことを理解してた。ああそうだったのかもなって気付いたのは最近だけどね。だから、「分からないヤツ」でも自分なりに道を切り拓けるんだって、そう思えたんだ』
『……』
 黙したテランスに、ミドが笑いかける。
『あんたとあたしはたぶん同類。「分からない」立場。でも、それは全然悪いコトじゃないと思うよ。言葉なり態度なり、まあなんでも使ってさ、「分かってる」連中を引きずり倒しちまえ。こっち側に寄せろ』
 そこまで言って、『あ』とミドはテランスを凝視した。唐突ではあるが彼女なりの励まし方に心持ちが明るくなったような気がしたテランスだったが、彼女の視線に妙な緊張感を覚えた。
『あー、いつも押し倒してはいるか?』
『ミド殿……』
 覗き込むように此方を見上げて下世話なことを言い出したミドに、テランスは仰向いた。はあ、と溜息をついて呼吸を整え、まばたきを数度。それから、なんとか笑みをつくってミドと相対した。
『では、お聞きします。我が君は……ディオン様は、皆さんにどのようなご助力を?』
『お、やっと乗ってきたな。知りたい?』
 ニシシ、とミドが笑う。その悪魔のような笑みに、ええ、とテランスは頷いた。


「『ばーんと跳んで、ぐるぐるーっと槍を振り回して残ってたアカシア達を一網打尽。撤退するときは皆が船に乗り込むまで最後まで踏み止まって、それでもって、びゅーんって跳び乗ってきた』だそうですが、合っていますか?」
「……テランス?」
 予想する余地もなかったのだろう、自分の言葉を聞いたディオンの表情は豆鉄砲を食らってしまった鳩のような風情だった。初めて見たその表情はおそらく一生忘れられないものになる、とテランスは確信した。
 ――これまで随分と長いこと、傍に在ったが。
 烏滸がましいことだが、彼のことをだいぶ知り尽くしている――なんなら、この現世で一番といってもよいだろう――自分だったが、それでもこうして「初めて」があるわけで、不思議かつ愉快でもあった。
 名を呼び、どういった意味だと目線で訊いてきたディオンに、テランスは小首を傾げる。なんでしょう、とそうしてテランスが素知らぬ顔で訊き返すと、ディオンは視線をうろうろと彷徨わせた。
「いや、その、言葉選びが妙だと思ったのだが」
 逡巡した後に、窺うように此方を見ながらディオンが言う。どうやら、ミドはディオンに何も言わなかったようだった。
 テランスはにっこり笑った。種明かしをしてもよいだろう、とそう判断する。
「ミド殿が教えてくれました。ストーンヒルでの貴方のことを」
「……ミドが?」
 ええ、とテランスは答え、ミドの口ぶりを真似して続けた。
「『テランスは知らないだろうから』と。そして、『お節介かもだけど、知っておいたほうがいい』とも言っていました」
 「物語」の最後に改めてそう結んだミドを思い出す。確かに、彼女の言う通りだった。
「あの日のことを?」
「あの日を含めた、私が知らない日々の話です」
 テランスはきっぱりと言った。
 知らないのだ。話の流れで伝え聞くことばかりで、これまでは「あのとき、彼がどうしていたか」ということを積極的に聞きに行ったりはしなかった。無意識に忌避していたのかもしれない。
 彼がどうしていたか。かの地――隠れ家で何を思い、誰と話していたか。翼を授けた経緯は。そして、その先の顛末は。
 今、こうして目の前に彼がいる。それはとても大切な事実だが、偶然で得られたものではない。彼が望み、自分が願い、多くの者が力を尽くしてくれた、それ故に。そして、それらの尽力についても、聞きたいと思った。――否、ようやく聞けるようになったと思う。彼からも、彼以外の人々にも。
「私は知らないですから……貴方が『びゅーんって跳んだ』ときのことを』
「テランス」
 テランスの言葉に、ディオンがほんの僅かに俯く。彼なりに思うものも多くあるのだろうが、その視線を放っておくことはテランスにはもはやできなかった。
 いつぞやのように彼の肩に手を置き、此方を向かせる。軽くこわばったその身を本当は抱きしめたかったが、元敵国の往来ですることではない。それでも、と思い、彼が自ら視線を合わせてくるのを待った。
「お前が知らない私の話、か。……確かにそうだな」
 ディオンは呟くと、顔を上げた。微笑んで頷く彼の姿にほっとした思いになり、テランスもまた笑んだ。
「だが、それは今このときではない」
「ええ」
 雨の気配を含んだぬるい風が吹き抜ける。
 城壁の隙間をこじ開けるようにつくられた歩行者用の城門を二人は見やった。人の出入りは多くはないが、疎らというわけでもない。当然、城門の両脇には抜かりなく衛兵が立っていて、行き交う人々を眼光鋭く見張っている。人波に紛れ込んで、とはいかないようだった。
「行くぞ」
 外套のフードを被って先を行ったディオンに続き、テランスは隠しを探った。通行の許しを得るべく、城門の小窓越しに係官に通行手形――勿論、偽造のものだ――を見せる。係官は手形を一瞥すると、すぐにそれを返して寄越した。しかし、二人を簡単には通す気はないらしく、係官は手のひらを突き出した。
 ――何処も同じようなものだな。
 まなざしでそう言ったディオンにまばたきで応じ、テランスは数枚の銀貨を係官の手に乗せた。ウォールードで造られたそれは、空と同じ鈍色をしている。
「通れ」
 受け取った銀貨を数えると、係官は二人に顎をしゃくった。不審そうな様子を見せなかったことから察するに、テランスが渡した賄賂は「相場」だったらしい。
 城門を潜って通りを少し歩くと、広場に出た。
 さて、と呟き、テランスは首をぐるりと回してから背伸びをした。少し疲れましたね、などとディオンに話しかけながら周囲を素早く見渡す。そうだな、と返したディオンも同様の演技をした。
 すると、広場の隅で話し込んでいた男女と目が合った。男は女に頷いてみせると、此方へ近寄ってくる。やあ、と右手を挙げて「再会」を演じる彼に、テランスとディオンも手を挙げて応じた。
「ご無礼を」
 小声で囁いてから、男は笑みを深める。まずはディオンと手を打ち鳴らし、次いでテランスとも同じように手を打ち鳴らした。
「出迎え、痛み入る。……其方が来るとは、思わなかったが」
「本当は隊長も志願していたんですが、流石に二人とも空けるわけにはいかなかったので、僭越ながら私が」
 礼を言ったディオンに、男は声を潜めて答える。そうして、大仰に「久しぶりだな!」と言って二人の肩をばんばんと力強く叩いた。
「ち、力加減を頼みます……コール殿」
「すみません。半分は演技で、半分は本心です」
 男――「石の剣」の副隊長コールはテランスにそう言うと、二人を広場の隅へと促した。そこでは先程の女が待っていて、ほっとしたような顔つきで会釈をした。
「「種火」のトリュンメルと申します。名が長くて自分でも舌を噛むので、どうかメルとお呼びください」
 そう名乗ったトリュンメルことメルに、二人は頷いた。それを見届けたコールが「ご案内します」と歩き出す。
 コールもメルも武人とは思えないほど雰囲気に溶け込んでいた。相応に砕けているが、街全体が持つ陰鬱さに支配されているふうも感じさせる。見事なものだ、というディオンの呟きにテランスはまったく同感だった。
 彼らはウォールードにおける二人の護衛役として「派遣」されてきた。特に、このストーンヒル近辺では随伴することになっている。
 風の大陸では護衛はごく最小限に抑えた。――殆ど二人旅だったといってよい。だが、謎多きウォールードでは何が起こるか分からない。また、この地を陸路で旅をしたクライヴやジョシュア以上に、ディオン・ルサージュという存在は「敵国ザンブレクの象徴」として知られすぎている。生存も公然の秘密である今となっては、あまりに危険だと周囲は散々止めたが、ディオンはそれを聞かなかった。
 なんとか説得してくれ、という視線をほうぼうから受けたテランスもまた、彼らの言葉を聞き流した。止められるものなら止めているし、そもそも、止めるつもりもなかった。ディオンからは当然のように真っ先に打ち明けられていたが故に。
「「蟹」には遭遇しましたか? 面倒な連中ですが、旨そうですよね」
 勾配のある通りを進み、適当な世間話をコールが提供する。そのなかで出てきた妙な単語にディオンとテランスは「蟹?」「旨そう……?」と訊き返した。
 蟹、とはあれだろうか。メガロクラブ種だろうか。
 二人の戸惑いに応じたのはメルだった。
「はい。「お兄さん達」の故郷では食べませんか、「蟹」。茹でれば結構美味しいですよ」
 弾力があって、少し塩気があって。毒を抜くのが難儀ですけど。語ったメルに続けてコールが「そうそう」と返す。
「もう少し南下すれば出くわすかもしれませんね。そのときはぜひ茹でたてを味わってください。専用のカトラリー、お渡ししますか?」
「……考えておこう」
 もはや演技ではない雰囲気で畳み掛けてきたコールにディオンが苦笑する。だが、と少し考えてディオンは続けた。
「私はラプトルのほうが好みだな」
「ディ……いえ、旦那様……」
 愉快な会話に乗ったディオンの返しを斜め後ろで聞きながら、テランスは浮いた心を鎮めるように溜息をついた。

§ §

 次の日。
 コールにもメルにも特に何も言われずに、ごく当たり前のように宿の同室を用意された二人は、同刻に目覚めた。いや、少しだけディオンのほうが早かっただろうか。
 おはよう、とごく間近でディオンの掠れ声を聞き、テランスの意識は一気に浮上した。目を開けるのと同時に上半身をがばりと起こし、置かれた状況を把握するのに一拍を要した。ふふ、とどこか嬉しそうに笑う彼を見つめ、おはようございますと返事をして、異変がないことを確かめて――、そうしてテランスは自らの頭を抱えた。
「なんたる失態……」
 主従の関係ではなくなったにせよ、自分にとってディオンはどこまでも「守るべき存在」だ。何度もその関係性はひっくり返ってしまったが、それだからこそこれからは守りたいと思っている。身も、心も。
 それなのに、かつての敵国で呑気に寝坊するとは。
「まだそのようなことを言う」
 呆れを含めた声色でディオンがわざとらしく溜息をつく。テランスとは正反対にゆっくりと身を起こした彼は、ふわ、と小さく欠伸をした。
「余程疲れていたのだろう? 私のぶんまで警戒を怠らずに気を張っていたのがほんの僅かに緩んだだけだ。特に何があったというわけでもなし……なさすぎたといっても過言では」
 暗に「何もなかった」昨晩のことを指したディオンの言葉を、「当たり前です」とテランスはぴしゃりと封じた。
「仮にも此処はウォールード、貴方の存在そのものが元々から疎ましかった国です。警戒はどれほどしても足りません。ですから……ああ、もう、だから!」
 説教じみた物言いが気に入らなかったのか、それらの言葉を無視して抱きついてきたディオンにテランスは声を荒げた。とはいえ、彼を無下に扱うなどということはできるわけもなく、また、そうしたいとも思わないのが真情だ。
 ――仕方ない。
 テランスは自分自身にそう言い訳をし、まなざしで催促するディオンに口づけた。



 雨は夜半には上がったらしい。未だ厚い雲の切れ間から覗く陽はやはり弱々しかったが、通りの石畳は乾いていた。
 コールが先導を務め、続いたディオンの斜め後ろをテランスは歩く。メルは別の任務があるとのことで、この「散歩」には同行していない。
「念のため、なのですが」
 街を案内するといったふうを装いながらコールはディオンに言った。外套の留め具を指して続ける。
「それは外しておいてください。何らかの情報が旧ウォールード正規軍に入っている可能性もあります」
「成程?」
 コールの意図するところを理解したのだろう、ディオンが留め具を外した。
 旅のさなか、この留め具は思ってもみなかった重要な役割を果たしてきた。オルタンス達の「なんとなく」の思いつきに、ハルポクラテスが自らの願いを込めた知恵を寄せ、クライヴが「信頼の証」として認めた留め具――ブローチ。それは、行く先々の「シドの協力者」達にディオンの為人を担保する証拠として度々扱われ、結果として彼は多くの知己を得ることができた。
 しかし、此処ではその効果は期待できない。それどころか、真逆の意味合いで扱われるだろうことを考えると、コールの忠告はもっともだった。
「ありがとうございます。では、行きましょうか」
 やはり勾配がある表通りを歩く。石造りの建物が通りの両脇に建ち並び、幾つかの店舗は既に開けているようだった。なんとなく看板を見上げたテランスだったが、その先にある峻厳な王城を認めた途端に自らの表情が険しくなるのを感じた。
 主なき王城。将来、この国はどう変わっていくのだろうか。テランスは思う。亡き王の遺志――バルナバスからすればそんなものはどこにもないのだろうが――をでっち上げた末に継ぎ、誰かがその玉座に収まるのかもしれない。一方で、前身のヴェルダーマルク王国の残党組織が国権を奪い返すさまも容易に想像できた。
 他方、地下に潜伏し、活動をしているという抵抗組織はどうだろうか。「情報が少ないのです」とメルは昨夜言っていたが、諜報員による調査書には組織の名前や概略、主張に活動内容、首謀者、構成員、推定される根城の場所が記されていた。
 それによると、組織の名は「岩鼠」といった。首謀者はモスィという男で、その名は「ネズミ」という意味合いを持つ。当然、偽名でしょうねとコールは言った。
『密偵部隊の生き残りが中心になっている、と?』
 読み終わった調査書をテランスに渡し、コールとメルにディオンが訊ねた。ええ、とその問いにメルが答える。
『隊長であったベネディクタ・ハーマンの死後、密偵部隊は再編されずにそのまま消失しました。当時、彼女に随行していた者達は全員死亡しましたが、他の地で任務にあたっていた者やウォールード国内で待機していた者も勿論いたのです。彼らの多くは口封じのために処分されましたが、自死を選ぶ者もいました。そうしたなかで辛くも逃げおおせた者達が中心となってつくられたのが岩鼠です』
 彼らの主張はありきたりだった。「我らに自由を」。響きのよい言葉を掲げてウォールードやヴェルダーマルクに対抗しているようだが、混沌の世に在って具体的に何をどうしたいのかは伝わってこないのだ、とメルの横にいた諜報員が説明した。
 ただ、と続けてコールが発言する。
『岩鼠は、隠密行動はやはりお手のものです。ウォールードにヴェルダーマルク、どちらも上層部が既に何人かやられています。放った「草」も有能で、双方の勢力の情報も岩鼠には筒抜けですね』
 説明を聞き終え、ディオンが喉の奥で唸ったのをテランスは聞いた。
 ウォールードの三勢力。ヴァリスゼア全体の混乱を収めるために風の大陸側が手を握るのは、どの勢力が最適解か。もしくは、静観を決め込んで三者が共倒れになるのを待つか。
 ディオンはどう考えるのだろうか。最後の選択肢は選ばないだろう、とテランスは思った。共倒れを待っていれば、その前に灰の大陸全体が更地になってしまう。また、争乱の音が長く響き渡れば、風の大陸側にも悪影響が出かねない。そうなる前に、いずれかの勢力が政権を奪取してくれたほうが此方側としては都合がよかった。まっとうな思想の持ち主ならば、尚良いが。
 木戸の隙間から入り込む風で蝋燭の火が揺れたのを合図としたか、ディオンが腕組みを解いた。そうして彼から告げられた提案に、その場にいた者は我が耳を疑ったのだが――。
「そう怖い顔をするな、テランス」
 ちらりと此方を振り向いてそう言ってきたディオンの声は、どこか不満げだった。
「私達は気ままに「散歩」を楽しんでいるだけだ。それなのに、お前ときたら渋面ばかりで私に声もかけない」
 コールの演技が移ったか、大袈裟に肩を竦めてディオンがテランスを見る。睨んでいるようにも見えるが、どこか愉快そうなのは間違いようがない。此方がどう出るか、面白がって待っているのだろう。
「……旦那様」
 だが。
 ディオン、と言いかけて止めたテランスを、今度ははっきりとディオンは睨んだ。
「昨日も言っていたな。その呼び方はなしだ」
「御名を此処でお呼びするわけにはいかないでしょう? 「我が君」も同様に難しい」
 テランスがそう返すと、ディオンは「そうではなく」とますます機嫌を降下させていく。
「お前は、時々、本当に鈍いな。声もかけず、名も呼ばず、口調は前と変わらない」
 ついに足を止め、ディオンがテランスに向き直った。「いつもの角度」で見上げてくるのかとテランスは思ったが、ディオンはそうはしなかった。常より二歩を詰め、殆ど吐息が触れるような距離で此方を見据える。
「……時と場所と場合によります」
「それだ。うまく利用しろ」
 答に窮し、ようやくそれだけを返したテランスにディオンが言い捨てる。そうして再び前を向くと、生暖かい目で様子を眺めていたコールよりも先に歩き出してしまった。
「ちょっと待って、ディオ……ディー!」
 ――まったく、自分達は何をやっているのだか。
 そんなふうにも思うが、今朝のやり取りと同じように彼の感情の発露に触れるのは、純粋に嬉しかった。
 急いでディオンに近寄り、雑に振られた手をとる。テランスがそのまま手指を絡めてしまうと、少し意外そうな顔をしてディオンは恋人を見上げた。
「……ここまでやれとは言っていないが」
「確かに言われてないね。けれど、君がああも言うのだし、此処はある意味では僕達のことは誰も知らない。そう思えば、これくらいは」
 指先に軽く力を込め、テランスはディオンの頬に口づけた。
 一瞬遅れて「テランス!」と小声で咎めてきた彼に笑んでみせ、コールに声をかける。
「お待たせしました。そろそろ行きましょうか」
 テランスの台詞に、コールは苦笑いで返した。
「本音を言えば、此処からはお二人だけでどうぞって感じで、私はすみやかに離れたいですね。護衛ですから、そんなことはできませんが」
 くれぐれもお気をつけくださいね、と釘を刺してから歩き出したコールに続いて二人も歩き出す。
「有事の際は手を振り解け」
「手はね」
 繋いだ手のまま、さらに先へと進む。通りすがった幾人かは此方を振り向いたが、それだけだった。肯定されるかどうかは不明だが、罵るような風潮はないことに内心でテランスは安堵した。
 何気ない風情を装って道を選ぶ。王城へ続く道から逸れ、やがて三人は大広場に出た。
「この先に、あれが?」
「ああ」
 固く閉ざされた門の前に立ち、ディオンがテランスの問いに答えた。峻峰の如く聳えていたというドレイクスパインは失われ、見上げてみても空があるばかりだった。
「正確にはもうひとつ先の門にそれはあった。……だが、クライヴ達はアカシアの集団にてこずっていて危うかった」
「そこに『ばーんと跳んで、ぐるぐるーっと槍を振り回した』わけですか」
 ついぞ抜けぬ口調の癖は放っておき、テランスはミドの言葉を繰り返した。
 そうだな、とディオンは少し笑む。
「間に合ってよかった、と思ったな。だが……」
 横目で岸壁を見やったディオンの視線をテランスは追った。
 事故でも起きたのか、岸壁は見事に破壊されていた。数箇所には修復を試みた形跡があるが、殆ど放置状態の有様はいったいどうしたことだろうか。やはり内乱状態の世にあっては、こうしたところに割く余力はないのかもしれないが。
「派手に壊れていますね?」
 コールも不思議に思ったらしい。何らかの天災かと彼は思ったようだったが、「その割に街全体は整っているな」と首を捻った。
「ミドの仕業だ」
 呟いたのはディオンだった。え、と固まったテランスとコールの二人に、彼は続ける。
「じゃじゃ馬殿は殆ど減速もせずに船を突っ込ませた。ミスリル機関というのだったか、その推進力の反動で岸壁を破壊してしまったらしい。……そのため、私やジル殿といった面々はともかく、グツを下船させるのには少なからずの苦労があったが」
「……それで、『ばーんと跳んだ』と」
「窮地を救うにはそのほうが手っ取り早かったからな」
 頷いたディオンを見て、テランスはようやく納得した思いになった。ミドの言葉をすべて疑っていたわけではないが、随分と派手な立ち回りをしたのだなとは思っていたのだ。
「成程……それは凄い」
 色々と想像したのだろう、自分と同じように唖然とした様子のコールに、ディオンは「凄いのは船だ」とそっけなく返した。
「そもそも、あの速度で突っ込めば、止まれずに激突したはずだ。それなのに、岸壁を破壊した「だけ」で、ミドの舵取りに従って船は急停止した。あのように自在に操れる船はそうはないだろう。強いていえば――」
「ディオン」
 続けようとしたディオンをテランスは制した。未だ繋いだままだった手を解き、彼を自分の背に隠す。目配せをすると、コールがテランスよりも一歩前に出た。
 此方の動きを感じ取ったか、殺気が急激に膨らんだ。広場へと入り込む幾筋かの通りのうちの二方向から武装した集団が走ってくる。どちらも「散歩」のはじめから感じ取っていた気配だ。どうやら、「餌」に食いつく算段を立てたらしい。
「ほう?」
 背後で愉快げな声を上げたディオンに、テランスは口の端を上げた。
「ウォールードとヴェルダーマルクは結託したか」
「そのようですね」
 ブラックソーンの剣を鞘から抜くと、テランスは刀身を軽く振った。ヒュン、と鋭い音の後に剣が分離する。
「いけますか」
 現れた短槍を後ろ手でディオンに渡す。確認の響きでテランスが問うと、「無論」と短い返事があった。
「――突破します!」
 コールの合図と共に三人は走り出した。はじめに襲いかかってきたのはウォールードの国章を付けた集団だった。それぞれの手には多様な武器が握られていたが、槍を持つ者はいない。とすれば、上空からの危害の可能性は低いだろう。砲筒使いがいないのも幸いだった。
 そうとなれば。
 その場に居合わせてしまった民達の悲鳴を聞き流し、うまく逃げてくれとテランスは頭の片隅で祈った。片手斧を振りかざしてきた覆面兵の一撃を剣で弾き飛ばし、よろめいた隙に腹を蹴ってその場に転がす。太腿を狙って剣を振るうと、血肉を断ち切る鈍い衝撃が手に伝わった。潰れた絶叫に背を向け、また走る。
 行く手を阻むウォールードの兵達が次々と襲い来る。ぶつぶつと呪詛のような言葉を吐きながら向かってくる彼らは、消え去ったはずのアカシアのようにも思えた。
 双剣士の肩を剣で砕き、ディオンに向かって投げられたと思しき短刀を振り向きざまに打ち払う。そうして全員が幾人とも切り結んでいる間に、ヴェルダーマルクが乱入してきた。まっすぐに此方に向かってくる剣士達とは別に、弓矢を持った者達が広場を囲む建物へと走っていく。高台から狙うつもりだろう。
 テランス、と背中合わせで立ったディオンが息も切らさずに名を呼ぶ。此処に、とテランスが応じると、ディオンは「跳ぶ」とだけ告げた。
「ご武運を」
「ああ!」
 背後のディオンが高く跳躍すると同時に、テランスはその場に落ちていた石塊を拾った。複数の兵に囲まれて難儀しているコールの退路を確保すべく、手にした石を狙い定めて敵に勢いよく投げる。投石を見事に頭にくらって昏倒した敵をコールが踏みつけ、テランスのほうへと走り寄った。
「コール殿、伏せろ!」
 視界の端で感じた煌めきと空の高みから聞こえてきた急降下音に、テランスはコールに向かって叫んだ。追い縋るヴェルダーマルクの脇腹を薙ぎ、自らもその場に伏せる。本当は顔を上げてディオンが繰り出す技を見届けたかったが、命は惜しかった。
 コールが瞬時に伏せたのと同時に、眩い光と衝撃波が襲った。轟音が鳴り響き、複数の断末魔がそれに続く。やがて訪れた奇妙な静寂にテランス達は顔を上げたが、腰が抜けたのか、ウォールードもヴェルダーマルクも、多くの兵が仲良く倒れ込んでいた。
 ディオンの姿を探すと、壊れた屋根の上に彼は立っていた。瀕死の弓兵をそのままにして屋根を飛び降りた彼のもとに駆け寄る。
「ご無事ですか」
「それは私の台詞だ。退くぞ」
 高揚の笑みを浮かべてそう指示したディオンに、テランスは頷いた。否、頷きかけた。
 その、刹那。
「バハムート!」
 耳に届いた若い声に、テランスは声の主を探した。腰を抜かして動けなくなっていたはずのヴェルダーマルク兵が一声叫び、何かを投げつける。まずい、と判じるよりも先にテランスはディオンの前に躍り出たが、敵兵が投げた「何か」を退けることまではできなかった。
 左肩に鋭い痛みが走る。そういったお約束事は要らないのに、と思いながら歯を食いしばったテランスの背後、ディオンが「テランス!」と怒鳴るように叫んだ。
「私は大丈夫です、問題ありません……ッ!」
 口早にそう返し、右手で剣を握ろうとしたテランスだったが、剣は手から離れ落ちてしまった。全身から力が抜けていく。片膝をつき、不規則な呼吸のままに石畳を睨む。視界が歪んだ。
 おかしい。どうして。傷を負ったのは左肩のはずだ。
「コール、テランスを!」
 異変を察したディオンの命令を受け、コールがテランスを庇う。そんなふうに命じたディオンも、命令に従ったコールも許せなくて、テランスはもがいた。
 ――このままでは、また。また、繰り返す。
「バハムート!」
 呪いの叫びが撓んで聞こえる。次いで、誰かが舌打ちをする音。そして、風切り音と絶叫。
 からん、と何かが落ちる音。
「ルサージュ卿、テランス殿は私が! 走って!」
 コールの怒鳴り声が耳に遠い。駄目だ、それでは。左肩から流れ込む得体のしれない冷ややかな感覚に気を取られながら、テランスはコールを突き飛ばした。
「テランス!」
 目を見開いて此方を凝視したディオンに、テランスは笑ってみせた。
「大丈夫、です。だから」
「走れるか」
「ええ」
 嘘は許さないというような彼のまなざしに嘘で返し、辺りを見回す。広場へと入る通りは幾筋もあるのに、退路となりそうな道はひとつしかなかった。
「引きずってでも連れて行く。離さん」
「勿論」
 ちかちか、と視界が明暗に眩む。落とした剣を両手で拾い、無理矢理に鞘へと戻した。
 倒れるわけにはいかない。彼を守り抜くためには、こんなところで。
 ――共に歩むと決めた。二度と離れないと誓った。だから。
「走れ!」
 ディオンの掛け声で駆け出す。コールの後にテランス、そして最後尾はディオンに変わった。それすらも忌々しくて、テランスは自分を呪った。そうこうする間にも体が冷え込んでいくのを感じる。――何かが流れ込み、何かが流れ出ていく感覚。
 広場を出、通りに入る。変事を察知した住民達によって建物は軒並み閉ざされており、逃げ込む余地はなさそうだった。
 左右を見やり、コールが手を挙げて先へと合図する。「休まないで!」と彼が怒鳴るのを遮り、まったくの別方向から「おい!」と声が上がった。
「こっちへ来い」
「皆さん! 急いで!」
 知らない男の声と、メルの声。切羽詰まったメルの声とは真逆に、男の声は荒事に慣れているような声色だった。
「そいつは俺が運ぶ」
 そうして、また別の声。のっそりとした声に、それがいい、と先の男が笑う。
 瞬間、体が宙に浮いたような気がした。テランス、と自分を案じて名を呼ぶディオンの声も遠い。
 音が膨れる。目がぼやけて見えない。頭が重くて、状況が掴めない。
「兄さん達もついてきな。悪いようにはしない」
「……もしや」
 どこかのんびりとした風情の声に、ディオンの声が被る。唸り声を上げた彼に笑み含みで男が言うのを、テランスはどうにか聞き止めた。
「そうさ、ディオン・ルサージュ。俺はモスィ。――「岩鼠の根城」へご案内しよう」



 浮かんでいく。落ちていく。よく分からない感覚が全身を包み込む。
 天を見上げても、地を見つめても、辺りを見渡しても、すべて白。白の闇。探しものは見つからない。
 どれほど目を凝らしても。
 だから、走った。ひたすらに。
 探しものを、彼を、彼だけを、求めて。
 手を伸ばしても、何も掴めない。広がる虚空。届かない、断定するのは白闇の囁き。
 けれど、それでも。
 私は、僕は、自分は。
 あの光だけを求めて――。



 かすかな金属音。誰かの荒い呼吸。冷えた手。水の撥ねる音。
 流れ込む感覚。流れ出る感覚。痛い。苦しい。
「……ッ、グ、……アアァ!」
 自ら上げた叫び声に驚き、テランスは目を見開いた。左肩の突き刺さるような激しい痛みに抗うべく身を捩ろうとして、しかしそれは凄まじい力で封じられた。
「テランス。大丈夫だ」
 降ってきた愛しい声に、その姿を咄嗟に探す。だが、僅かに顔を動かすことさえも封じ込められ、テランスは何もない灰色の天井を見上げるしかなかった。
 熱い。痛い。……だが、こんなことで。
「ディ……」
「私は此処にいる、大丈夫。今からクリスタルの破片を取り除く。少し辛抱してくれ」
 意識して落ち着いた声を出しているのだろう、ディオンの言葉にテランスはまばたきで応えた。
「クリ、スタル……?」
「正しくは、クリスタルだったもの、だな。ただの石塊だが、毒が塗られているらしい」
 そう説明したディオンに続けて、知らない声が「エンケラドスの毒だ」と言った。
「蟹、だ。即効性があり、中枢神経に作用する。主に自白剤として使われるが、塗布量からすれば生け捕りにするつもりだったのだろう。……とはいえ、常人ならばとうに気がふれているぞ。死に至ってもおかしくはない」
「ディオン・ルサージュだけじゃなく、その親衛兵長も只者じゃないってことか。こいつはいい」
 また、別の声。しかし、からかうような響きのこの声にはうっすらと聞き覚えがあった。
 記憶がよみがえる。そうだ、あのとき。
「今は何も考えるな。大丈夫。辛かったら、私の手を握りしめろ」
 テランスの思考を先回りし、ディオンが遮った。痛みをやり過ごすためにつくっていた右の拳を開かれ、よく知った手が乗せられる。そのまま緩く手を握った彼に、テランスは上擦った声で「嫌です」と言った。
「手を離して、ください。きっと、傷つけ、る」
 耳に入る音は膨れたままで、視界が暗くなっていく。彼に自分の声は届くだろうか。伝わるだろうか。
「断る。……もう離さないと言っただろう」
 ぎゅ、と手に力が込められる。自らの内から何かが流れ出ていく感覚が止まる。
「感動的な展開だが、お喋りはそこまでだ。――やってくれ」
「はいよ。じゃあ、これを噛んでおけ」
 知らない声が口に突っ込んできた布を、テランスは噛み締めた。

§ §

 声がする。
「場所を移す気は? 此処で「対話」しろと?」
「そのつもりでいるが」
「俺は別に構わない。困るのはそちらさんだろう、ディオン・ルサージュ。そこに寝転がってる親衛兵長の目が覚めたらどうする」
「どうもしない。テランスだからな」
 空気が揺らぐ。きっと、彼は笑った。
「まだ毒は抜けちゃいない。俺からすりゃ、そちらさんの機密情報が親衛兵長から聞き放題だ。願ったり叶ったりだが、それでいいのか?」
「では問うが、貴公は何故それを気に留める?」
 凛とした彼の声。世界で一番好きな声だ。
 けれど、今、その声は自分に向けられていない。誰かと何かを話している。誰だろう。少し、悔しい。
「そりゃあ」
 彼の問いに、知らない誰かが返す。
「フェアじゃない。俺はそういうのは苦手だ」
「密偵部隊の生き残りが言うことか?」
 何の話だろうか。
「その台詞はそっくりそのまま返すぞ。ディオン・ルサージュ、ドミナントで騎士団長で皇子様なアンタがやってていいことじゃない」
 ああ、それは少し思う。
「すべて「元」だがな」
「今は?」
「……死者から生者へ戻る準備の最中といったところだ。――モスィ」
 彼が誰かの名前を呼んだ。自分以外の、名を。
 それも、少し嫌だった。
「貴公の気が咎めるのなら、「対話」は日を改めてもよいか?」
「ま、そのほうが俺としてもいいな。ほら、親衛兵長のお目覚めが近いぞ」
 誰かの気配が離れる。扉が開いて閉じる音。残ったのは、彼の気配だけ。
 また空気が揺らぐ。細く、長く息を吐く音。
「テランス」
 少しばかり湿った声で彼が自分を呼ぶ。ああ、そんな声を出させてはいけない……。
「そろそろ目を覚ませ。……「皇子様」の口づけがほしいか?」
 冗談のような言葉なのに、彼は苦しそうだった。そうさせているのは、たぶん自分だ。
 それが何故か嬉しい。そう、嬉しい。
 でも、やっぱり。彼には、君には。
 ふわふわとした世界は心地よくて、でも、この白闇には君がいない。手を伸ばせば、走れば、別のところへ、君のもとへ行けるだろうか。
 いや、必ず辿り着いてみせる。離れない。そう心に決めた。
 光が閃く。降り注ぐその光に、導かれる。光ではない、あれは君だ。
 ――跳べ。跳んで、その手を掴め。
 最後に聞いたのは、自分の内なる声だった。




 力を込め、やっとの思いでテランスは目を開けた。未だ視界はぼやけていたが、すぐ傍で此方を覗き込んでいたディオンが目を瞠ったのは分かった。
「……おはよう、テランス」
 大きく深呼吸した後にそう言った彼に、テランスは辛うじて頷いた。
 ――何を言おうか。
 うまく回らない頭で考える。ディオンは自分の言葉を待っていて、それはきっとなんでもよいのだろう。謝罪でも、感謝でも、反省でも。
 すべて伝えたい。伝えなければ。そう思うのに、言葉が出てこない。
「痛むか? 水は?」
 何も言わないテランスに、ディオンが訊ねる。それらの言葉に首を横に振ると、視界は斜めに歪んだ。
「大丈夫、です。こんなのは、もう」
 なんともないのです、とテランスは起き上がろうとしたが、ディオンがそれを制した。怪我を負った左とは反対の右肩を軽く押され、呆気なくテランスは寝台へ転がる。馬鹿な、と思ってディオンを見上げると、彼は目を細めて小さく溜息をついた。
「嘘をつくな、テランス。相当に辛いはずだ」
「嘘では」
「では、痩せ我慢と言い換えよう。……此処の医者の見立てでは数日は安静にしているように、とのことだった。「蟹」の毒素が抜け、傷がある程度癒えるまでにはそれくらいの時間はかかるらしい。受けた毒については覚えているか?」
 ディオンに問われ、テランスは記憶の襞を探った。
 毒。蟹。左肩の傷。呪いの叫び。クリスタルであったもの。
「……自白の作用があると」
 答えたテランスに、ディオンは頷いた。
「そうだ。テランス、私はお前が彼奴らに何を言おうが構わない。それが機密事項であっても、苦し紛れの虚偽だとしても。だが――」
 投げ出されたテランスの右手を握り、ディオンは言葉を切った。
「だが……?」
「お前はその後苦しむ。私を危険に晒すような真似をしてしまった、と」
「……」
 ディオンの言葉は真実だった。言い返せるはずもなく、テランスは唇を噛んだ。
「悔いて、苦しんで、挙句の果てに身を引かなければなどと見当違いのことを考えるかもしれない。杞憂であればよいが、お前には「前科」があるから」
「前科」
「愛の言葉を告げたその次の瞬間、傍を離れるとお前は言ってのけたな。自らの不明を恥じ、不敬だったと早口で謝罪して、今そうしているように唇を噛んでいた」
 ディオンが語る過去にテランスも思いを馳せた。自分を庇い、深手を負ったディオン。目覚めない彼を前にして、閉じ込めていた心のかけらを零したあの日、あのとき。
 勿論、覚えている。忘れられるはずがない。驚きに満ちた表情、逃げる前に掴まれた手から伝わった熱、問い返した震える声。怯んだ自分を射竦めたまなざしがやわらかく緩み、嬉しい、と彼は呟いた。
「そう、嬉しかったのだ。だが、あの瞬間はお前が消えてしまうことのほうが恐ろしかった。……己のことを大いに棚に上げているとお前は思うだろうが」
「……そう、だね」
 短く返したテランスからディオンは僅かに目線を外したが、すぐに元に戻した。
「ディオン」
 彼の名を呼ぶ自分の声が反響して聞こえる。もしかすると、彼には聞き取りにくいかもしれない、そう思いながらもテランスは続けた。
「……そのこと、はもういいんだ。貴方が……君がそのときどきに選び、迷い、望んだものがあった。心底望まないものも、あったのだろう。その取捨選択が、ときに僕にはひどく苦しかったけれど……。……でも」
「でも?」
 握った手にディオンが力を込める。
 ――想いは、伝わるだろうか。
「でも、すべてがあって今があるから」
 テランスはそう告げ、判然としない視界を追いやるようにまばたきを繰り返した。
「今、の先に未来がある。その未来に、君もいる……そう思えるようになったから」
 彼が選んだ、選ぼうとした道。決意。願い。望み。それらを隠れ蓑にしてしまった彼自身の本当のこころ。
 自分が伝えたかった、伝わらなかった想い。後悔。祈り。現実を見て見ぬふりをして、逃してしまった翼。
 すべて、すべて。
「……テランス」
 触れていた手が離れる。何かよくないことを言っただろうか、とテランスが思った矢先、再び伸べられたディオンの手がテランスの頬を撫でた。
 少しばかり引っかかりながら、彼の手が頬を行き来する。
 滑らかに、とはいかないのは仕方がない。自分の顔は彼みたいに美しくはなく、今回の騒ぎで汚れてもいるだろう。本当はあまり触れてほしくないのだが、と思う一方で、彼にそうされるのは嬉しい気持ちもある。相反する感情に苦笑したテランスだったが、彼が口にした次の言葉で思考が止まった。
「泣くな」
「……え?」
 数拍を置いてテランスはそれだけを返した。ひた、と此方を見つめながら親指でディオンが頬を撫でる。増していく引っかかりと彼の言葉に、テランスはぼやけ続ける視界の原因を知った。
「ディオン、これは」
 泣くなんて、そんなつもりはなかった。自分が泣いていたなんて、思ってもみなかった。気付かなかったんだ。君を苦しめたかったわけじゃない。言葉を繰り出そうとしたテランスを、しかしディオンは遮った。
「私は」
 少し硬い声が降った。
「私は、お前を離さないと誓った。……私に未来があるとしても、そんなものはないのだと何者かに断ぜられても、それでも離さないし、離せない。引きずってでも連れて行く」
 頬を撫でるディオンの手が止まる。見つめてくる彼の瞳こそ潤んでいるような気がして、テランスは無事な右手を彼へと伸ばした。
「勿論、何処へでも、何処までも共に」
 テランスがディオンの頬に触れると、彼はその手に寄り添うようにそっと頭を傾けた。
「でも、ディオン?」
「何だ?」
 此方の負担にならぬように加減しているのだろう、小首を傾げたような状態で訊き返したディオンにテランスは言った。
「誓いを、立てたから? ……その言葉こそを守るために?」
 何を言っているのか、とテランスは自分自身に思ったが、言葉は脳内を巡るよりも先に出てしまう。毒のせいか、弱ってしまった心のせいか、それとも。
 彼の想いの先を疑うなんて、なかったのに。
「……心の底からの願いだ、テランス。言葉にするとどうにも安っぽくなってしまうかもしれないが、私の心を水底まで暴いたお前ならば分かるだろう?」
 ぶつけられた言葉に怒ることもなく、ディオンが確認の響きでテランスに問う。
「分かる。……分かっている、けれど」
 まばたきをしてテランスは涙の粒を弾き飛ばした。歪むことも滲むこともなくなった視界にディオンを収め、安堵する。けれど、と途中で切った言葉を繰り返した。
「……僕は欲深いから。君の言葉を、声をたくさん聞きたい。願い、望み、苦しみ、恐怖、不安……。僕が知っているものも、知らないことも。今までのことも、これからのことも」
「そう、だな」
 テランスの訴えにディオンは微笑み、ゆっくりとその身を傾がせた。いつものように額を合わせる前に、「私も」とテランスの耳元で囁く。
「お前の望みを、心を、もっと聞きたい。分かっているようで、そうではないから」
「うん」
「私を、お前の傍に寄せろ」
「……うん」
 額を合わせ、祈るように目を閉じる。右手で彼の身を引き寄せて、口づけた。
 声を聞く旅に、果てはない。ふと、テランスはそんなことを思った。
 彼の心の声を聞き、自分の心の声を渡す儀式。それは螺旋のように繋がって、空の高みへ、海の水底へ。
 互いが互いのままなら、何物にも遮られずにとこしえに続く。――そう、予感した。

§ §

 三日後。
 謎の医者が告げた静養期間が過ぎるまで「岩鼠の根城」への「滞在」を決め込んだディオンに、テランスが取り付くしまはまるでなかった。
 嘘でも痩せ我慢でもなく、もう大丈夫ですと何度訴えてみても「駄目だ」の一点張りで応じない。テランスにとっては居心地も気分もよいとはいえないこの場を、ディオンは妙に気に入ったようだった。
 実はひそかに連絡を取っていたというメルも、それほど多くの情報は持ち得ていなかったコールも、ディオン同様に「岩鼠」に信を置いたようだった。何故、と戸惑うのは自分ばかりか、とテランスがひそかに溜息をついたのは数回では事足りない。
 それこそ、ディオンに問い質したい思いに駆られた。
 確かに、旧ウォールードとヴェルダーマルクの結託は風の大陸側にとっては脅威だ。故に、その反対勢力となる「岩鼠」と繋がるのは安直ではあるが悪くない考えだと思う。その母体となっているのが旧ウォールードの密偵部隊というところには注意を払う必要があるが。
 しかし、どうもそういった戦略的な要素で話が進んでいるようには見えなかった。
 テランスが寝台を離れた頃、気にしても仕方なさそうですよ、と肩を竦めてそう言ったのはコールだった。話題の主であるディオンはその場にいなかったので、その言葉の真偽は定かではない。だが、「気にするな」と言われても、いや、それだからこそ気になってしまうのが実のところで。
 ディオンに関する様々な事柄について、自分が狭量であることは自覚している。故に、コールの話の後から増した心の靄をどうやり過ごそうかとテランスが頭を捻り始めたそのとき、「岩鼠」の首領であるモスィを伴ってディオンが戻ってきた。
「待たせたな」
 礼をとったテランスに、ディオンが頷く。そのまま目線を僅かにモスィへとディオンが向けたので、テランスは不承不承にモスィにも略礼をとった。
 まあ座れ、とモスィに促され、ディオンがソファの端に座った。常のようにテランスはその背後に立とうとしたが、ディオンが向けてきたまなざしに少し固まる。
「お前も座れ、テランス」
「ですが」
「未だ本調子ではないと私は見ている。それに……」
「……それに?」
 不自然に沈黙したディオンに問いを返したテランスだったが、彼は応じなかった。緩くかぶりを振り、モスィに向かって「よいだろうか?」と伺いを立てた。
「ちっとも構わん。むしろ、面白い」
 どこかカンタンを思わせるような笑みをモスィは浮かべ、残った一人掛けのソファに収まった。脇に据えられた机にはメルが陣取り、紙と羽根ペンを手にしている。これから始まる「対話」の内容を書き留めていくのだろう。
 ほら、とディオンに促され、テランスは困惑しつつも彼の横に座を占めた。
「さて。話を始めようか、ディオン・ルサージュ」
「その前に」
 パン、と叩いた両手を擦り合わせて言ったモスィをディオンが片手で制した。相手を見据えるその瞳に陰りはない。
「まずは礼を言う。我々を匿い、この者――テランスの命を救ったことについて、謝意を表したい」
 落ち着いた声色でディオンがそう言うと、モスィはニヤリと笑んだ。
「気にするな、と言いたいところだが、貸しにさせてもらう。しっかり払ってくれ」
「承知した」
 ディオンの首肯を視線の端で認め、テランスは予想通りの展開に内心で深い溜息をついた。義に厚く、実直な彼はそうするだろうと思っていた。相手がかつての敵であっても、自身の判断で認めた者ならば尚更だ。
「まあ、窮地を救われたのは俺達も同じだ。ディオン・ルサージュ、アンタ達が派手にやらかしたおかげでウォールードとヴェルダーマルクは相当びびってやがる。不協和音も聞こえ始めたし、うまく叩けば形勢逆転に持ち込めるだろう」
 ソファに凭れ、モスィが言う。
「貸しは貸しだが、そちらさんに何か物資を援助してくれって意味じゃない。そんなのは俺達に「自由」を齎さんからな。与えられることに慣れるのは危険だ」
「そうだな。……しかし」
 モスィの言葉にディオンが相槌を打った。
「背に腹は代えられぬ状況下なれば、最低限の支援は勝手ながらさせてもらう。そうでないと、寝覚めが悪いからな。貴公には此方での指揮を任せたいが、よいか」
「……俺はそちらさんの「上」と話ができれば、それでいいんだが。アンタの話だと、風側はそのまま俺達に付くってことになるんだぞ?」
 モスィの疑念はもっともだった。ディオンの申し出は、モスィの予想よりも数歩も踏み込んだものだったのだろう。彼の踏み込みに危うさを感じ、テランスはディオンに懸命に視線を送った。
 しかし、ディオンはテランスの目配せを無視すると、モスィに悠然と笑んでみせた。
「そうなるのかもしれぬな。すべては今後の貴公次第でもあるが、今このときの風としての判断は余が……私が責を負う。疑うも信じるも、これもまた貴公の心次第だ」
 そう言って決定権を委ねたディオンに、モスィが虚を突かれたような表情で彼を見た。次いで、天井を見上げ、床を見つめ、腕を組み、口汚い言葉を混ぜ込んで何事かを呟く。
 そうして最後にまた天井を睨みつけたまま深呼吸をしたモスィは、「信じてみるか」とディオンに向けて言った。
 ――ああ、またひとり籠絡してくれたな。
 状況を考えるとこの流れは喜ばしいが、テランスの内心は複雑だった。こと、ディオンには他者を魅了してしまう特技――自分から言わせれば悪癖にもなり得るのだが――がある。その行き着く先が聖竜騎士団であったことは今も疑いようがない。
 そして、その「特技」を垣間見せた彼はといえば、モスィの選択に満足げに微笑んだ。
「ひとつ、確認していいか」
 バリバリと頭を掻いてそう言ったモスィは、何故かテランスを親指で指し示した。
「他のヤツの考えはいいのか、ディオン・ルサージュ? 分かりやすく言えば、親衛兵長はアンタの判断を飲み込もうとして失敗し続けているようだぞ。――なあ、親衛兵長?」
 突然に話を振られたテランスは、揶揄を多く含んだモスィのまなざしを跳ね返した。おっと、と笑うモスィを睨み、微笑むディオンを見やり、数拍の間の後に口を開いた。
「すべては我が君の御心のままに。……と言いたいところですが、モスィ殿」
「何だよ、地獄から這って出てきたみたいなその声は?」
「テランス、落ち着け」
 わざとらしく怯える素振りのモスィと、笑い声で言うディオン。
 双方に対してそれぞれ文句を言いたい気分だったが、テランスはモスィに視線を置いた。
「この方の御名を呼ぶのは、控えていただきたい」
 テランスがそう言うと、モスィは「はあ?」と頓狂な声を出した。隣に座るディオンも斜めに傾いでしまったらしい。草臥れたソファが軋む音を立てる。
「……俺が「ディオン・ルサージュ」と呼ぶのが気に入らないと?」
「はい」
 テランスは頷いた。そう、まったくもって気に入らない。
「じゃあ、「ディオン」」
「もっと駄目です」
 モスィの言葉をテランスは被せるようにして遮った。テランス、と横でディオンが袖を引いてくるが、応じている場合ではない。
「じゃあ……、「殿下」?」
「それは断る。余、いや、私は既にその地位にはない」
 割り込んできたディオンと凄んでいるテランスを見比べて何を思ったか、モスィは喉で笑った。
「面白いって言われたことはないか? アンタ達」
「……特には」
 テランスの答をモスィは信じるつもりはないようだった。ああ面白い、とひとりごちて立ち上がる。
 そうして、彼はディオンに向かって「ルサージュ卿」と呼んだ。
「俺達は――「岩鼠」は、当座はアンタに信を置いて動く。ただし、信用に値するのは、ルサージュ卿、アンタ個人だ」
 風の大陸そのものに信は未だ置けない、とモスィは言う。それは当然の考えだとテランスは思った。手を組んだこともあるダルメキアを含め、はっきりと敵同士だったザンブレクや他国とすぐに絆を深めるなどといったことは早々起きないだろうし、この「対話」自体が無意味だったと思う日が来てもおかしくはない。
 それを分かったうえでモスィはディオン・ルサージュという男を信じることにしたのだろう。――よりによって、敵国の象徴だった者を。
「よいだろう」
 立ったままで見下ろしてくるモスィにディオンが返す。彼が立ち上がるのに合わせてテランスも立ち、今度こそ背後に回った。
「そのうち、アンタのところへ「草」を寄越す。うまいこと扱ってくれ。ああ、それと」
 モスィは隠しを探ると、取り出した何かをディオンに向かって放り投げた。
「……ブローチ?」
 左手で掴んだそれをディオンが見つめる。見えるようにしたのだろう、テランスも傾けられたそれを覗き込んだ。
「いわゆる「信頼の証」ってやつだ。風のほうにもあるんだろう?」
 鼠の意匠が象られたブローチを指し、モスィが気楽な調子で訊いてきた。その問いに頷いたディオンに、モスィはさらに問う。
「アンタのは?」
 重ねられた問いに、ふむ、と考え込むような素振りをディオンが見せる。顎に手指を当て、彼はテランスに振り返った。
「見せるだけなら、よろしいのでは?」
「そうだな」
 テランスの助言を聞いたディオンが留め具を取り出して自分の手のひらに乗せた。
「バハムートじゃないのか?」
 留め具――「止まり木の鳥」を眺めたモスィは、不思議そうな顔つきでディオンを見やった。余程意外だったらしい。
 そんなモスィに、ディオンが笑む。
「今の私を想ってつくられたものだ。この身から去ったバハムートではなく、今から続く未来の私を想い描き、そして願いを込めてつくられた。大切な、宝だ」
 それ故に、これは。
 凛とした声でディオンは言った。
「誰にも渡さないと決めている。貴公にも、私と共に在る最愛にも」
 それは、彼の決意。死ではなく、彼は生きる道を選び取ろうとしている。
 嬉しい、とテランスは自分の心に囁いた。

§ §

 翌日、湿った北風に追いやられるようにしてストーンヒルを出た。
「本当に、よろしいので?」
「問題ない」
 この先の随伴を断られたがために渋い顔をしたコールに、旅装のディオンが笑う。
「まだまだ危険ですよ。「蟹」もいますし」
 コールを援護すべく続けたメルが、テランスをちらりと見やった。何か進言を、と目配せをされても、テランスはそれに応じるつもりはなかった。
「二人だけで立ち寄りたい場所があるのだ」
 それだけを告げ、ディオンはチョコボに騎乗した。行くぞ、と声をかけられたテランスもまた騎乗する。
「……それでは、また隠れ家で」
 説得を断念したコールとメルに見送られ、二人は風吹く平原を渡り始めた。