#10 女神の微笑み

 訪れる人も絶えたのだろう。御堂の女神像には、細い蜘蛛の糸が伝っていた。
 慎重にその糸を外し、薄く積もった埃も手の届く範囲で払う。その足元に侍るドラゴンも同様に。専用の掃除用具など持ち合わせているわけもなく、自分の行ないは単なる自己満足にしかすぎない。
 台座の縁が欠けている。何かあったのだろうか、とも思ったが、様々なことが――何もかもがあったのだろうとも思う。
 そうして、テランスはグエリゴールの女神像を仰ぎ見た。かつての信仰の対象を。
「テランス」
 長椅子に座ったディオンが声をかける。はい、と答え、テランスは振り返った。女神像を間近で眺めていたテランスとは違い、ディオンは御堂の入り口近くに座を占めていた。
「グエリゴールは、今のお前の目にどのように映った?」
「……というと?」
 近付くつもりはないようで、ディオンは緩く首を横に振った。「詮なきこと言ったな」と彼は言い、テランスの向こうにあるグエリゴールを一瞬だけ見やった。
「グエリゴールは今も現世に留まっているのか、否か」
 神とならんとしたアルテマ。かのものの消滅により、世界は「人がつくる世」になった。その認識が隅々まで広がっているとは未だ言い難いが、広がったときに信仰とはどのような存在になるのだろうか。自らが信じるものとは切り離して祈り続けるのか、変わるのか。ディオンが付け足した言葉をテランスは聞いた。
「……昔の僕は、毎朝毎夜に教えられた通りに祈りを捧げていた。それだけじゃなくて、何か気になることがあったときには「お祈り」していたかな」
「確かにそうだったな。学校に入った頃のお前は、折り目正しく祈っていた」
 ディオンに、テランスは頷く。傍らの女神像をもう一度仰ぎ、それからディオンのほうへ歩み寄った。
「けれど、時が経つにつれてグエリゴールへの信仰心は薄くなっていった。失ったわけじゃない。ただ、宗旨替えをしてしまったから」
 じっとディオンを見つめて微笑んでみせる。流石にディオンもその意味は掴んだようで、苦笑して応じた。
 でも、とテランスはディオンに手を伸ばした。差し出した手をディオンが取る。ディオンの手のひらに唇を寄せ、そのまま彼の額に当てた。
「……君をグエリゴール神のように崇めたのは、短い間だったと思う」
 グエリゴールよりディオンに信仰を置いたとき、心は高揚した。気高く、美しいその在り様に心が動かされた。バハムートに顕現しようとする姿は「ただ見守るだけのグエリゴール」よりも余程守られているようで、思わず「かみさま」と呟いたのを覚えている。会って間もない頃の話だ。
 だが、次第にそれは違うのではないかと思うようになった。幼少時にグエリゴールの女神像への祈りを教えられたのと同じように、ディオンに祈りを捧げるのは――「彼」という存在を遠いところに置き、ときに無視し、此方からの身勝手な祈りだけを押し付けることではないのかと思ったのだ。確かに、彼はドミナントという存在であって人ではないけれど、誰よりも「人」である彼を自分は知っていたが故に、そう思った。
 生真面目なところがあって、真摯で、少し短気で、自らの立ち位置を分かりすぎていて、望むものは少ないのにそれすらも得られず、しかし挫けずにまっすぐに前を見ている。……多少斜めを向いてもよかったのでは、と思ったのはずっと後になってからだが、そのときの自分は意地にも似た彼の矜持を尊重した。優しさも厳しさも、粘り強いところも、そうかと思えば飽きっぽいところも、負けず嫌いなところも、実は悪戯好きなところも、寂しがりなところも。
 笑顔も、ときには涙も、彼は自分には見せてくれた。秘密も共有した。そうしているうちに、グエリゴールに向ける信仰心をディオンに対してはそのまま当てはめられなくなった。崇め、称え、敬う。そうではなくて、もっと別の衝動が大波となって押し寄せた。「恋」とか「愛」とか、単語としては知っていたそれらの言葉が自分の心に渦を巻いた。多くの自問自答をしている間にも時は流れ、彼のことを「神様」とは見ることはもはやできずに、一個の人間としてただ愛しく思った。そして、このような想いを他者に感じることはこの先も絶対にないと直感した。彼だけだ、と。
 だが、それを――自らの想いを彼に伝えるつもりはなかったのだ、本当に。窪みに溜まった水が溢れないように、必死で心の内の堤防を築き上げていた。ほんの少しでも彼が自由であれるように、傷つかないようにとそればかりを願っていた。彼の心を縛り付ける存在にはなりたくない、そう考えていた。
 それなのに、ある日、心に豪雨が襲った。
 よりにもよって、自分なぞを庇って生死の境目を彷徨うほどの大怪我を負ってしまった彼を見つめているうちに、堤防が綻び始めた。久々にグエリゴールに祈ったように思う。
 彼がその命を落としませんように。琥珀色の瞳が再び世界を映しますように。笑顔を見せて。声を聞かせて。いや、自分のことなどどうでもいい、何なら代わりにこの命を差し出してもいい。もしかしたら、彼は少し悲しむかもしれないけれど、それでも。彼がこの世を去ってしまうくらいなら、自分が。ザンブレクの民ならば肌身離さず持つグエリゴールのペンダントを握り、ひたすらに願った。
 ――それで、よいのですか?
 幾日か過ぎ、彼の容態がほんの少し落ち着き始めた頃、包帯やガーゼといった消耗品を補充し、氷嚢を作っているときだった。抑揚に欠けた声が聞こえた、ような気がした。
『……誰か、私に声をかけましたか?』
『? いや?』
 その場に居合わせた軍医が薬を調合しながら首を横に振る。だとすれば、空耳か。それにしては妙にはっきりと聞こえたが、とテランスは思いながら用意した医療用品を籠に入れて天幕の外に出た。医務室として使っている天幕と、ディオン専用の天幕は隣になっている。というより、この緊急事態でそう配置された。戦況は未だ動いている以上、医務室をディオン専用にはできない。しかし、この戦における「最強兵器」の命は何物にも代えがたい。その折衷案で隣に配置された。
 ディオンの天幕前に控えていた警護兵に頷き、入室する旨を中で待機していた衛生兵に伝える。すぐに衛生兵が出てきて、テランスは彼と入れ替わりで天幕に入った。
 そのとき。
 ――あなたの命をうばうのは、あまりにもたやすいのです。
 また、声が聞こえた。
 昏睡の闇に落ちたままのディオンの声ではなかった。先程と同じ抑揚のない声だが、やはり聞き馴染みはなかった。誰が、いったい何を。そう、この声は何を自分に語りかけている?
 思わず落としそうになった籠を卓に置き、テランスは辺りを見回した。簡素な寝台で眠っているディオンのほかには誰もいない。天幕の外からも話し声は聞こえてこなかった。
 ――あなたの喉元を、わたしに侍る竜が食らえばおしまいになるのですよ。
『!』
 空耳ではない。「誰か」が自分に「何か」を告げている。まさか、と思い、テランスは首にかけていたペンダントを引っ張り出した。
 ――そう。よくわかりましたね。
 ペンダントに変わったところはなかったが、聞こえる声は明瞭になった。
『おしまい、とはどういうことですか。僕の……私の命で、ディオン様は助かるのですか』
 ペンダントトップのグエリゴールに、テランスは問いかけた。誰かの目に留まれば、ついに頭がおかしくなったかと思われたことだろう。だが、そんなことは本当にどうでもよかった。彼の救命のすべがあるのならば、そして、もしそれが自分の命で成し遂げられるのならば。
 だが、女神はテランスの縋るような言葉を否定した。
 ――そのようなことは、ありません。ひとの命は、不可逆なのですから。そして、贄となるを望んだとて、それは叶わないのです。
『そ、んな』
 ――あなたのかわりは、どこにもいない。「彼」には――バハムートには「次」がいますが、あなたの命に、次はない。おしまいになってしまうのは、あなただけです。
 テランスにとって、女神の言葉は呪いのようだった。自分の代わりはいない、それは分かり切っている。彼に自分の命を捧げたくとも、それは叶わない夢想だ。それでも、と思って懇願したのに無情にも願いは打ち砕かれた。
 それよりも、怒りが込み上げてきた。ペンダントトップを持つ手が震える。
『バハムートは、替えがきくというのですか』
 ――そう。憑代を失うだけです。「次」が育つまでには時を要しますが、待てばよいだけのこと。
 押し殺した声で訊いたテランスに、女神は言い放った。女神にとっては、それが当たり前のことなのだろう。自らを守る存在は、この世界が変わらない限り受け継がれていく。憑代――ドミナント――の死など、悲しみの対象にもならないのだ。
『次、ということは、ディオンは? ディオンは、どうなって』
 ――どうもしません。おしまいになるだけです。命が潰えるのを待つとしましょう。
『グエリゴール!』
 怒りのあまり、テランスは叫んだ。待つ、とは何だ。彼の死を望んでいるのか。非情な女神が言う言葉は確定の未来なのか。そんな。そんなことが。
 逆上した心のまま、テランスはペンダントを地面に叩きつけようとしたが、その前に女神が言った。
 ――さて。はじめの問いにもどりましょう。それで、よいのですか?
『それで、って。何が……』
 女神はそれきり何も答えなかった。宣託のようでいて、内心を問うてきたようで、一方的に話しかけてきただけだった。
 ペンダントトップをテランスは暫し見つめていたが、やがてその場にへたり込んだ。女神の言葉が頭のなかをぐるぐると回る。彼が、ディオンが、命を終える?
 死ぬ、というのか?
 自分のなかの何かが崩れ始めた。たぶん、必死で築き上げてきた「堤防」だろう。豪雨の後に、女神は嵐を置いて去っていった。もう耐えきれない。
『嫌だ』
 一言、そう呟いてしまえば、堤防は決壊してしまった。
 眠り続けるディオンのもとへ這っていき、投げ出された彼の手にテランスは触れた。人としてのぬくもりを辛うじて保っている事実に、涙が零れる。
『嫌だ、そんなの。あんまりだ。何故、どうして』
 ささやかにしか過ぎないこのぬくもりも冷えてしまうのか。冷えて、その先は。
 命が尽きて、彼はどうなってしまうのか。
 戦場に在る者として、覚悟はしていた。だが、それはあくまで自分の死であって、彼の死ではなかった。しかし、意識したことはある――「人」としての死も。「ドミナント」として石砂と化す未来も。……あまりにも恐ろしくて考えるのを途中で止めてしまったが。
『グエリゴールの言葉なんて、信じない。嘘だ。おしまいだなんて、そんなのは』
 ねえ、とテランスはディオンに呼びかけた。彼のことをしっかり見つめたいのに、できない。すべてがぼやけて、ぐちゃぐちゃになりそうだった。
『ディオン、答えて。嘘だって言って、笑って……』
 自分が何を言っているのかさえ、もう分からない。女神が施した呪いを解く方法はないのか。あるのか。なかったとしても、否、なかったとしたら。
 彼の手に触れられるのも、こうして間近で見ていられるのも、もうないのだ。最後なのかもしれない。
 ――それで、よいのですか。
 女神の抑揚なき声が耳に木霊した。テランスはかぶりを振った。そんなわけはない。決壊した堤防から水が溢れて止まない。ディオンの手を両手で握り、祈るように自分の額に当てた。
 お願いだ、と呟く。生きて。この世界を望んで。ほかに望みがあるなら、なんでも叶えてみせる。君のためなら、僕は何にだってなれる。これが正しいかなんて、どうでもいい。だって、僕は。
 君のことを。君だけを――。
「……何を考えていた?」
 不意に黙り込んでしまったのを不思議に思ったか、ディオンが緩く笑む。いえ、とテランスは咄嗟にそう答えたが、迷い込みそうになった過去から抜け出るのは簡単ではなかった。あのときの感情が鮮明に蘇る。苦しみ、悲しみ、嘆き、怒り、祈り、そして。
「グエリゴールに喧嘩を売ったときのことを、思い出していました」
 苦し紛れにテランスがそう答えると、ディオンは「女神は喧嘩を買ったのか?」と笑みを深めて訊いてきた。その笑みはテランスの内心の揺れを察しているのだろう、何処までも優しかった。
「買ったのでしょうか? 躱された感もありましたが……ねえ、ディオン」
「どうした」
 あのとき、溢れた水に流されるようにぶつけた想いは、別の川辺に立っていた彼に届いた。届いて、しまった。それを思い出し、テランスは口を開いた。
「君を、愛している」
 ぐちゃぐちゃのままで、上手な口説き文句にもならなくて、たどたどしい単語だけで伝えたあのときの想いは、今も変わらない。まさか、この想いを彼が受け入れるとは思ってもみなかったが、今は彼が自分に寄せる想いの強さも知っている。分かっている。
 そして。
 今では、自分もまっすぐに伝えられる。彼に、この言葉を捧げられる。あのときのように、逃げたりはしない。
「……失われることのない、魔法の言葉だな」
 ふ、と息をついたディオンが女神像を見やる。テランスはその視線を追った。神と名の付いていたものはこれからどうなるのだろう。人の世に残るのだろうか。それとも、時の砂の中に埋もれ、やがて消えてしまうのか。
「魔法は、届いた?」
「勿論。……ただ、この魔法には欠点がある」
 女神像から視線を転じ、ディオンがテランスを見つめる。冗談か悪戯か、どちらかを思いついたときのような表情を垣間見せたが、それは一瞬のことだった。
「欠点?」
 テランスが問うと、ディオンは頷いた。俯きかけ、何かに気付いたのか、顔を上げた彼をテランスはただじっと見守った。ほんの少しだけ、彼の瞳が揺れている。
「私の魔法は届いているか?」
「……どういうこと?」
 ディオンの問いを、テランスはすぐには咀嚼できなかった。いったい何を言い出すのだろう、テランスがそう思うのをはじめから分かっていたのか、ディオンが言葉を継ぎ足す。努めて目を逸らさぬようにしていたのだろうが、このとき、彼の視線は自分からついに逸れた。
「互いに言葉を告げてこそ、それが相手の心に沁みてこそ、この魔法は成立する。……今、私はお前を愛せているだろうか」
「……ディオン」
 溜息混じりにその問いを一蹴してしまうことは簡単だった。何を馬鹿なことを、と抱きしめて囁くことも簡単だろう。だが、とテランスは思う。それでは何の解決にもならない。ふとした瞬間に浮かんだ不安だが、その不安は彼の心に根付いているものなのだと思う。「愛」というものを、どう扱ってよいか分からずに彼は時々困惑する。いつもは此方が焦ってしまう程に押し切るのに、今はきっと「そういうとき」なのだろう。――罪の意識と同じように、彼の心に影を落とし続ける毒の一片。あるいは、絵本の破かれた一頁。
 テランスは床に膝をついた。長椅子に座っているディオンがゆっくりと視線を元に戻す。今度はテランスがディオンを見上げる番だった。彼が逃げないように、しかし、怯えさせないように、緩く両手を握る。まなざしで抑え込んだまま、両の手のひらと手首にテランスが口づけると、ディオンはぴくりと唇を震わせた。
「テラ、ンス」
「離さない、と言ったね。ストーンヒルで僕がやられてしまったときに、引きずってでも連れていく、と。……あの言葉は、僕にとってとんでもない殺し文句だった」
 分かるかい?と噛んで含めるような口調で問うたテランスに、ディオンは数拍の後に頷いた。
「僕が君に想いを伝えてしまったとき、君がどう感じたのか。どうして僕を引き留め、受け入れてくれたのか。目の前から僕が消えてしまうのが恐ろしかったと語った君の、そのときの瞳がどんなに美しかったか。鏡があったなら、見せたかった」
「……」
「知っていた。分かっていた。大丈夫、君の想いは伝わっている。僕の心を捉えてやまない。僕に向ける、君の心は届いている……それは、ずっと昔からかけられている魔法。そう、……そうなんだけど」
「……けれど?」
 言葉を切ったテランスをディオンがうっすらと不安げに見つめる。
「この旅で、君は僕に心を預けてくれた。止まり木だと、必要だと、そう言ってくれた」
 今までと同じようで、少し変わった関係。
 自らを戒めるばかりだった彼が、その心を解くことを望んだ。自らを、許した。
 そうして、彼は世界を見て――。
「初めてかもしれない。自由になった心で僕を見てくれた。心を、寄せてくれた」
 交わした多くの言葉。誓い。約束。
 それは、足りていたようで、実はまるで足りていなかった。彼が気付いた、自分達を隔てていた心の隙間。埋めたい、と二人で願った。
「愛されているよ、僕は。いつも、泣き出したくなりそうなくらい幸せなのを、君は知ってる?」
 その問いに、ディオンは首を横に振った。そうして、しばらくの後に「ならば、お前は分かっているだろうか」と、反対に問う。
「お前が私に向ける瞳の色を。愛しいとそう告げている――その瞳の色にどれだけ救われたことか」
 苦しいときも、涙が零れそうになったときも。怒りに震えたときも、虚しさを感じたときも。
 握られた手をくるりと返し、今度はディオンがテランスの両手を握った。先のやり取りをなぞるように、テランスの両掌に唇を寄せ、手首を吸う。
「……じゃあ、魔法は成立?」
「とこしえに、そうでありたい」
 微笑んだディオンに、テランスは頷いた。永遠の愛を誓う場所といわれる左手の薬指に互いに口づけ、額を擦り合わせる。
「果たして、グエリゴールは笑っているだろうか」
 ほんの少しの距離で互いを見つめる。言葉遊びの風情で言ってきたディオンの頬を撫で、テランスは笑う。グエリゴールが笑もうと怒りに狂おうと、もう関係ない。自分の幸いは、彼が齎す。彼の幸いの多くを、自分は見届け、守り抜く。
「どうだろうね?」
 笑いながらテランスは言った。そうして、ディオンに口づけようとしたそのとき。
 ――それで、よいのです。
 頭の中で、声が聞こえた。あの、抑揚の少ない声。
「あ……?」
「テランス……?」
 口づけを待つ姿勢だったディオンが問う。し、とその唇に人差し指をそっと当てて、テランスは耳をすませる。
 ――心を表さなければ、はじまりはないのですから。
 うっすらとしか聞こえなかったが、テランスにはそのように聞こえた。今も結局は持っているペンダントの女神が、あるいは、この御堂の女神が饒舌にも口を挟んできたのだろうか。
「はじまり、か」
 女神の言葉を繰り返したテランスをディオンが見つめる。小首を傾げた彼は、自らの唇に当てられていたテランスの指をぺろりと舐めた。
「ディ……!」
「グエリゴールに気をとられたお前が悪い」
 ふふ、とディオンは笑うと、テランスの耳朶を噛んだ。妬かせるな、と次の行動に出ようとしたディオンをやんわり止めて、テランスは「グエリゴールは」と彼に告げた。
「微笑んでいたよ、たぶんね」
 ディオンの頬に口づけ、テランスは立ち上がった。少し不服そうなディオンに手を差し伸べて、「行こう」と促す。ディオンは何事かを考えていたようだったが、やがてテランスの手を取った。
「今の君の姿は、女神にも見せたくない」
「その言葉、そのまま返すぞ」
 情欲を瞳の奥にちらりと見せて口の端を上げたディオンが、女神像を振り返る。特に祈るわけでもなく御堂を出ていった彼と同じように、テランスも一瞬だけ女神像を見やり、背を向けた。
 ――さようなら、いとしき人の子らよ。
 別れの言葉がテランスに優しい響きで届く。その声に、「ありがとう」と心の内で返し、テランスは朽ちた御堂を出た。