終章
既視感のある乾いた地が門の外に広がっていた。
聞こえるのはかつて聞いた異国の言葉。それに混じって聞こえる、聞き慣れた言葉。
行き交う人の流れに乗り、ディリータは街の外に向かって歩き出した。ここまで護衛と称して付き従ってくれた二人の騎士の視線を背に感じてはいたが、振り返るつもりはなかった。
腰には馴染んだ剣。しばらくぶりに着込んだ質素な旅装はやはり親しく。
そして、頭上にもはや王冠はない。
物売りの引き止める声に手を挙げて断り、辻占の妙なる声にも言葉を交わさない。何処か浮かれている、気が急いている──そんな自分に苦笑しながら、彼は国境街の外を目指した。
自国ではない、他国を。
門に近づくにつれ人の流れは緩やかになり、己と同じようにしっかりとした旅装に身を固めた者のみが通りを占め始める。居並ぶ店々も道具屋や武器屋といった実用的なものとなり、それらの店前の看板には売り文句ではなく、品書きだけが素っ気無く記されていた。
外へと続く雰囲気。人の集まる場所を離れ、旅人となっていく雰囲気。
その際たる象徴である門──検問所を抜ける。手形をもらい、意味もなく安堵する。そうしてそのまま歩き出そうとし、ディリータはしかしその歩を止めた。
視線を感じる。音にはならないが、己を呼び止める確かな声が聞こえる。
驚きはしたが、不思議には思わなかった。誰と迷う必要もなかった。
向けられた視線の元をディリータは止めた足のまま、見やった。門の影に佇む彼を見つけるのに、そう時間はかからなかった。
かすかな笑みを浮かべ、彼が片手を挙げる。
それに応えてみせ、歩を寄せながらディリータは思わず苦笑した。嬉しさや懐かしさといった感情よりも、呆れが先に来てしまったかもしれない。
何故こんなところに。そうも思う。だが、いかにも彼らしい。彼らしくて、嬉しい。
彼の前に立ち、ディリータは立ち止まった。時を経た分だけ風貌も雰囲気も変えた彼と、改めて向き直る。
無論、彼の目には自分も同じように映っているだろう。それだけの時が、流れた。
やがて口を開く。そして、彼もまた。
「久しぶりだな、ラムザ」
「久しぶり、……ディリータ」
時はそうして動き出す。
時を経て生まれた新たな希みのために。
並んでオルダリーアの地を渡り始めた。
久しぶりとか、元気だったかとか。そういった一連のやり取りの後に続くのは、平易な言葉。
「どうして見計らったようにいるのだか」
厭味めいた言葉で軽口を叩く。軽口以外のこれといった特徴もなく、別段答がほしいわけでもなかった。だが、そんなディリータの言葉にラムザは笑って肩を竦める。
「それはもちろん、独自の情報網があるからね」
「……情報網、ね」
それもそうなのだろう。自然な顔とおどけた口調で返してよこしたラムザの横顔をちらりと眺めやり、ディリータは思う。
イヴァリースでも彼は自分よりもよほど駆け巡っていた。数日前に入った情報と、直接彼が飛ばして寄越した鳥とがまるで別の場所から発信されていた、そんなこともあった。おそらく、国を離れた今でもそれはあまり変わらずに、多くの場所で多くの知己を得ているに違いない。
そうして得た多くの仲間。そのつながり。
つながりの中に、長い間自分は存在しなかった。これからもいないのかもしれない。惜しむつもりはないが、二人の間にある不思議な間がその証左のような気がして、少しおかしい。
ごく自然に言葉を交わすのに、彼がどう思っているかなど手に取るように分かるのに、会話も行動も何処かぎこちなく。
それこそが、流れた時間の証。
だが、長い時を経たにも関わらず、自分は彼を、彼は自分をすぐに認識した。僅かな驚きだけでいつもと同じように──最後に別れたあの日と変わらずに視線を、言葉を交わした。
それこそが、かつて共に過ごした時間の証。
失われずに済んだ、つながり。
ラムザが投げて寄越した磁石で、ディリータは方角を確認した。街から離れたこの地は、幾筋にも分かれている街道の分岐点。自分はもう好きなところへ行ける。
書き込みを入れた地図と使い込んだ磁石、腰には馴染んだ剣。そして、隣には何故か古い友。
「それにしても随分と思い切ったものだね」
立ち止まって広げた地図を覗き込みながら、世間話のようにラムザは言った。隠すつもりも気取るつもりもなく、地図に目を落としたままディリータは口を開く。
「後悔がないといえば、嘘になるな。……あの国は俺が作った国だ」
一本の道を選び取り、指先でその行く末を追う。
「うん」
指先で追うよりも早く、目指す先を彼が指差す。オルダリーアの南東、海の向こうへと続く港。
「だが、この先守るすべがないならば立ち去るのもよいだろう?」
反対に問い返し、ディリータは港にしるしを付けた。港を目指すに選び取るべきは、一番右の街道。
答は言葉では返ってこなかった。しかし、変わらぬ雰囲気こそが己が問いへの彼の答。時がどれだけ経ったとしても、それは分かる。
うそぶいてみても、結局は分かる。垣間見れば、やはり彼は微笑っていた。
かつて、彼は人知れず故郷を救った。あの国に住まうすべての者を救い、自らは闇に消えた。何があったかなどは詳らかにせず、見知った多くのものを胸に抱えて追われるようにして国を去った。
詳らかにしたのは、別の人物。彼がおそらくは語り、また多くの者が断片的に知り得る事実を集約し、纏めたのはひとりの男。
真実を見た者が、見ることができなかった者へ。そして、知ることすらなかった者達へ。
戦いの行方。教会の奸計。異形の者。神秘の聖石。仲間達のその後。戦の真実。
顛末を書き残す者などいない。そう見据えた瞳で思いを定め、すべてを書に残したのは別の人物だった。
そうして、自分は。
緩やかな沈黙の中で続く思考に、ディリータは改めてラムザを見やる。彼がまだ名を偽っていた剣士であった頃、そして自分が教会の手先となって闇に蠢いていた頃──そんな時代に問いかけられたひとつの科白を思い出す。
──何故、違う道を選んだ?
あの時、呟くように願うように、戸惑うように叫ぶように問いかけてきた彼に、返すべき言葉は実はなかった。理由という名のその答は、長い時を経てようやく形となった。
それは、あの頃自分が望んでいたものとは、おそらく少し違う。だが、後悔はない。
顛末と真実を残すを選んだが故に、別の道を選ばなかった者。
肉親を救い、悪しき者を退ける道を選んだが故に、在るべき道に戻らなかった者。
矜持と願い、守るべきものを手にしたが故に、己が道のみを見据えた者。
「そろそろ頃合いだとは考えていた。丁度良く現れてくれて助かったな」
守って時を過ごす。緩やかに流れ始めた時の中で、小さな波乱を見ながら時を消していく。時が降り積もっていく。確実に減っていくのは己の時間。
人はけして永続しない。いつかは老い、いつかは死んでいく。それ故に人は自分の中の何かを血という形で子孫に残していくのだろうが……そのつもりはなかった。
守り手として「彼」が自分の前に現れたのは、まさしく僥倖だった。次代を託し得るに足る人物が現れたことは。己が定めし二人の子の、その片方に出会えたことは。長の月日を経て邂逅したのは。
「僕は「彼」に会ったことはないからね……。でも君自身が選んで、そして時間をかけて育て上げた。そうするだけのことはあるんだろうと、そう思った」
「ああ」
己の考えを正確に汲み取ったラムザに、ディリータはさっぱりとした顔で頷いた。
若き王となった彼は、今頃少しばかり右往左往しながらも日々を淡々と過ごしていることだろう。
「平凡な男だがな。だが、それでいい」
「なるほど」
あるいは──、そう、たとえば景気よく幼馴染に怒鳴りつけられながら。
連想した果てに、かつて言葉を交わしたロマンダの地方領主の娘を思い出し、ディリータは苦笑した。
遠慮というには程遠い性格と勝気な瞳の持ち主である彼女は、自分とは入れ違いに王都入りすると聞いた。ルークスなどは「また絶妙な間合いですね」と言い、自分はその感想を無視し、「彼」は困ったように笑った。
互いに少し苦手なのだ。会わずに済むならば、それに越したことはない。もっとも、今はというだけで、またいつの日か会うこともあるかもしれないが。
そして。
そんな彼らにすべてを託して、次代に譲り渡して、自分は野へ。
「……で、何処までついてくるつもりだ?」
「さあ。実はあまり考えてない。港までは送るよ。その先のことは──気分次第かな」
一緒に海を渡るのも、面白い。
海の向こうに行ったことはないのだとラムザは言い、付け足すように「家族に怒られないうちには帰るけどね」と笑った。
「気分次第か。……まあ、それもいい」
「なに、聞こえない」
風に紛れてよく聞き取れなかったのだろう、訊き返した彼の声もまた、風に乗って流れていく。
背中を押すように吹く故郷からの風が、見知らぬ土地へと吹き渡っていくように。
昨日という過去の先が今日に、今日という現在の先が未来へと流れていくように。自分や彼や……多くの人の交わりが生み出した今という現実が次に引き継がれていったように。
風は見えないけれど流れていく。確かにそこにあると知っている。
そして、時もまた。いつか歴史という形になるだろう、今もまた。
ディリータは磁石をラムザに投げ返した。広げた地図もしまい、空を見上げて目を細める。
「では、行くか」
「そうだね」
時はそうしてまた動き出す。
時を経て生まれた新たな希みのために。
昔願った希みのかわりに。
久しぶりとか、元気だったかとか。そういった一連のやり取りの後に続くのは、平易な言葉。ぎこちないやり取りの後に思い出したのは、飾らない距離感。
そうして初めて隣に並ぶ。
並んで──、歩き出した。
<終>