幕間
「……」
窓もない室に蝋燭の炎が揺れる。
読みかけた書を一旦閉じ、オリナスは視界の端にふと入った別の書を手にとった。しっくりと手に馴染む皮の表紙で覆われたそれは分厚く、ひと抱えもある。かすかな灯火に照らしてみても、表書きなどはない。
だが。
鍵もない書をめくってみる。先頭の頁にもやはり書き手を示すような手がかりは何もない。だが、次の頁をめくり──それでオリナスには「筆者」が誰なのか、正確に悟った。
──彼だ。
間違うはずもない、けして。間近で見続けてきた──見慣れた筆跡であるが故に。
本文はまず日付が記され、それから数行走り書きのような具合でその日のことが記されている。それは、日記というよりは日誌に近いものだった。
何故こんなところに、と思いながらしかし、自分も同じようなものかとオリナスは卓を見やった。蝋燭に近いところにも一冊の書がある。ここへ来る際に自分が持ち込んだそれは、やはり日々を書き連ねたもの。
もっとも、彼のそれよりはいま少し時事を詳細に記してはいたが。
日記──この城に来てからつけはじめたものだ──をこの隠れ小部屋に持ってきたのは、昨日までの自分を振り返らないためだった。そのためにはこんな密室に封印してしまうのが最善とそう思ったがためだった。
この室を初めて訪れた際、差し出された一冊の書のように。
今日からの自分は、昨日までの自分の続き。それでも昨日までの自分とは確実に違うところにいる。もはや少年時代ではない。そう思ったがために。
彼の「日記」の書きはじめには一枚の紙が挟み込まれていた。書の書き始めと比べると、つい最近書かれたものらしい。書の書き始めの筆跡はそれでも若干若く、挟み込まれている紙片の筆跡はより親しいものだった。
書き込みは短い。宛名もなければ、無論時候の挨拶などあるわけもなかった。
──読むも読まぬも、お前次第。大したことは書いていないが。
「……」
オリナスは目を細め、小さく息をついた。自分が持ち込んだ日記と彼のそれとを見比べ、そうして改めて一冊を手に取る。──隠された書でもなく、自分の日記でもなく、彼のそれを。
最初の日付は、今から二十数年前。彼が即位した年の双子月。
今の自分よりも若かった頃の彼が、そこにはいた。
……陽の届かぬところに陰謀はあった。光であると誰もが信じるところこそ闇だった。
裏切り。離反。契約。荒野。静まった嵐。消え去った禍つもの。
信頼と疑念。矜持という名の仮面。
降り積もり始めた時間。隠した事実と隠された真実。戦に荒れたのは野ばかりではなく、人の心も。
公会議。
青い空の白い処刑台。硫黄の匂いと積まれた薪。
見透かすような、期待するような視線を王に向ける輩。絹で織られた白沙の法衣を着込み、口の端を吊り上げて男達が嘲笑う。
気付かれないように張り巡らした罠。張り巡らされた奸計。
見えぬ糸を監視すべき対象へ徐々に巻きつける。内なる者達と手をくみ、排除していった。少しずつ、緩やかに。
そうして世は次第に平らかに。
傷つき、荒れた地がようやく癒え始める。春に花が咲き、秋に豊穣の光が帯となって地に広がり始める。
過去を嘆くよりも、明日という名の未来を楽しみに人の流れが動いていく。日々を同じように過ごすことに慣れていく。
安寧を願う。その果てに未来を、見つめ始める。
淡々と事実が綴られていく。
その行間にそっとこめられているのは、いまや疑いようもない願い。
「……」
彼の日記はそのままに、オリナスは自分のそれを開いた。
彼のそれと自分のそれの日付を見比べる。いや、自分がつけていた冊子には、その日付はなかった。日記をつけ始めたのは、この少し後だった──そのためだろう。
──オリナス・アトカーシャ。
彼の日記に初めて自分の名が登場していた。短く、素っ気無く、三通の書状の到着とともに。
また眺め進めていく。
そこから先は、自分もまたよく知っている事実の数々。舞台の袖口から見つめるような、そんな感覚で追いかけていた出来事の数々が、別の視点で。
玉座という名の高みから見た出来事の数々。あるいは、その真裏から見たそれ。
二冊の日記を平行させると、その違いがよく分かる。自分の視点、彼の視点……その違い。意味合い。
やがて見つけた懐かしい名と、その後に続く短い注釈にオリナスは思わず笑みを零した。
見やれば、日付は記憶を辿るまでもなくあの日のもの。そうだろうと確信を込め見やった日付は、己の記憶どおりのものだった。
忘れるわけがない。あの日はよく晴れていて、あまりにも突然で、懐かしく、そして驚きに満ちていた。
彼にも苦手なものがあるのだ、と知ってしまった……納得してしまった、そんな日だった。自分にとっての決着がついた日でも、あった。
日記には短くこう記されていた。
──呂国ルシュクレイ領領主ルシュ卿の娘・キーナ・リュシェンカ・ルシュ嬢来訪。……賑やかなことだ。
それだけが。