Salute

 日雇いの仕事で得た糧で、古びた地図と僅かに狂いを帯びた磁石、必要最低限の衣類と食料、そして短剣を手に入れた。
 旅装にふさわしい革靴や外套は、高価で手を出せなかった。
 ぼろ布で拵えたらしい鞄に買い込んだ荷物を詰め込む。鞄は、衣類を買った店で店番の婆が「おまけだよ」とつけてくれた。
 小さく纏まってしまったそれを背負い、少年は街門を出た。
 誰にも見咎められぬよう、後ろは振り返らずに数週間を過ごした街を後にする。追尾の者の気配だけは常に注意しながら急ぎ早に、さりとて、他の旅行者には不審がられぬ程度には歩を緩め、先を進んだ。
 ──そうして、数日。
 門を出てしばらくは、自分と同じように次の街を目指す旅人や荷車が街道筋を埋めていた。だが、今や誰の人影も見えない。
「……」
 目の前に広がるのは、見慣れぬ形に広がる台地。
 常に同じ方向に風が吹くのだろう、偏った方向に傾いた木々。草が減り、固い土が露出した、人の歩く道。
 風に煽られながら、首元に巻いた長布で少年は口元を覆った。目を見開くことも困難なほどに風は強く吹き、耳障りな音を掠め残していく。
 一歩を踏み出す。そうして、また一歩。
 埃が入らぬように細めた目でどうにか歩く先を見定めながら、少年は足を前に出した。
 歩くことに飽き、空転し続ける思考を食い止めるきっかけをどこかに求めるように、風に向かって歩く。
 一歩、そうして一歩。
 この歩みの果てにあるものが、己の求める答であることを願って、今はただ。
 あるいは。
 歩みの果てにあるものが、死という名の忘却、忘却という名の自由であることを願って。
 今は、ただ。
 吹き付ける風に次第に思考を奪われながらそれだけを願い、少年は過去を──といってもさほど遠くはない、たった数週間前の出来事を──脳裏によみがえらせた。
 逃げるように歩を進めながら、手に入れた僅かばかりの荷物を背に感じながら。

 ──いつか追いかけてくるだろう「過去」から逃れられることができるようにと、それだけを願った。

 ──東の空に、海の星がきらめいていた。
 夜明け前。
 ウォージリスの港を目前に、停泊する船上で少年は──オリナスという名を持つひとりの少年は、夜明けの空を眺めていた。
 今は凪。ごく僅かに白んできた空はあくまで穏やかで、波は静かに寄せては返しを繰り返している。すべてを包み込むような朝の空気は清々しく、ゆっくりと世界を覚醒へと導こうとしていた。
 だが、今はまだ静寂の中に。
 夜明け前であることも手伝って、甲板に出ている船員は殆どいない。見張り台まで登ってしまえば、無論そこには見張り番が抜かりなく任務をはたしているだろうし、厨房に足を運べば、海の男達の胃袋を満たすべく料理人が朝の支度に駆け回っているに違いはなかったが。
 少年が佇む甲板に気配はほぼなく。
 無論、見張り台に登りたいわけでもなければ、厨房に潜り込んでつまみ食いなどをしたいわけでもない。誰かと話したいわけでも、勿論なかった。
「……」
 何も感じない心で、ただ空を眺める。
 心境は、むしろその真逆。誰とも会いたくないからこそ、こんな時間を選んで空と海とを眺める。
 そして、その先に──海のすぐ向こう側に見える「故国」を。
 靄の靡くその先、今は霞んで見える陸地の上空に瞬く海の星が、ゆっくりとその身を暁の色に浸していく。
 そのさまをぼんやりと眺めながら、オリナスは昨夜の会話を思い出した。


 彼らは、勿論誰でもよかったのだと思う。
 いや、思うのではない。そんなことは昔から──物心がついた頃から知っていたことだ。
 窓もない船室に灯された蝋燭の炎がゆらゆらと揺れる。炎の揺らめきはその場を占める男達の顔に微妙な陰影を落とし、普段の彼らとはまた違った印象をオリナスに与えた。
 けして広いとはいえない卓を、自分と囲むのは数人の男たち。
 見知った者もいれば、そうでない者もいる。自分が生まれた国の者もいれば、自分が育った国の者も。
 唯一共通しているのは、彼らの目的だった。彼らの目的──という名の野望を果たすためにこそ、自分という存在が在った。
 そのために生かされ、そのためにかつて去った故国を目指し、そのために今こうして船上の一室で彼らの言い分を聞く。それこそが自分が生かされている理由。
 親族も縁者も、生きる糧のすべてをなくした幼子がこうして生きてこられたのも彼らの野心があればこそ、だった。
 そして、その故の場。その故の今。
「……ですが」
 彼らを見渡し、オリナスは控えめに発言した。膠着と妄想の一途を辿っていた議論の話主達はあらぬ方向から声をかけられ、意外そうな顔で彼を見やった。
 礼を失してはいないが、彼らの表情は多くの侮りとほんの僅かな驚きの色で染まっている。おそらく「操り人形」が口を挟むなど思ってもみなかったのだろう。
「何でしょうか、オリナス様」
 居住まいをただし、そう問いかけた男──年に何度か、状況を「観察」すべくロマンダへとやって来た支援貴族のひとり──は口元に笑みを浮かべていた。だが、瞳は弧を描いてはいない。
 うすら笑いの慇懃さで言葉を促す男にちらりと視線を送り、オリナスは窺うような声色で己の想いを口にした。
 誰も聞かないだろうとは思いながら。
「……僕達……いえ、私達が持つ手勢はあまりにも少ないのです。それだけでは、何もできない。何もできないばかりか、再び国──イヴァリースを混乱に陥れるのではないかと」
 事実から少年が導き出した推論に、男達がそれぞれ眉を聳やかす。誰かが呆れたように大仰な溜息をつき、またある者は緩く首を振って拒絶の意を示す。
 それは全く、予想どおりの反応。
 そして、もう何度も目の当たりにした彼らの意思表示。
 先の言葉を彼らにオリナスが投げかけたのは、これが初めてというわけではない。もう幾度も投げかけ──そして同じ反応が返ってきた。ただの一度も彼らが心を動かされることなど、なかった。
 そうなのだろう、と全身を支配する諦観の感情でオリナスはやはり思う。自分の言葉など、誰も聞かない。亡命したという事実があろうとなかろうと、それは、自分が生まれついて持ってしまった立場の故に。
 それでも、と思うのは、はたして自分の若さのためか。それとも、この場から逃げ出してどこか遠くへ──育った国の片隅でも良いからひっそりと──などと思う自分の意思の弱さ故か。
「何を気弱な。貴方は畏国の正統な王の御子であらせられるのに」
 別の貴族が感情を帯びない口調で言う。
「……王の血を持っていさえすれば、何をしてもいいと? 落ち着き始めたイヴァリースの大地を戦野に戻し、私のような子を増やしてもいいと?」
「さすが、生まれついての王。オリナス様の優しい御心、慧眼には、このパラント、毎度のことながら感服です。ですが」
 オリナスの左に座を占めていた男──パラントは他の男達に目を走らせた。
 心得た、と正面に座る男が軽く頷き、パラントの言を引き継ぐ。先刻オリナスの発言を「許可」した男だ。
「パラント候と拙も同じ思いでおります。ですがオリナス様──いいえ、陛下。「あれ」こそが逆賊です。今、我が国の玉座にのうのうと居座り、血も通わぬ口ぶりで民に圧政を強いているあの男は王などではない。正しく「反逆者」と呼ばれるべき存在なのです」
「……コンウィ伯、誰が聞いているとも分かりません。そのような」
「誰がいるというのです、オリナス様? この場には貴方を主と仰ぐ者しかおりません。……それをお疑いになると仰せになられるか?」
 過激な物言いを諭そうとしたオリナスに、コンウィ伯は反駁した。老獪な視線で絡め取るように少年を見、さらに言葉を落とす。
 コンウィは失脚した男だった。
 飛ぶ鳥を落とす勢いでのし上がった若き英雄を蔑み、旧態を重んじ、己の力と与した勢力を過信したため、戦の終結を待たずして領の多くを失ったのだった。そして、その領主として新たに任ぜられたのが、南天騎士団の団長として高位に登り詰めたひとりの若者──ディリータ・ハイラルだったのである。
 ねっとりと纏わりつくような視線をコンウィから注がれ、オリナスはそれ以上記憶を手繰り寄せるのを止めにした。内心を悟られぬように表情を作り、座りなおす。
 ただ、自分が独力でひそかに調べた事実と、コンウィが叙情味たっぷりに語るそれは、ひとつの歴史の裏と表といっても過言ではない、と思う。
 コンウィの感情は、怨恨そして復讐。時が過ぎ、今の王の御世が輝くほどに恨みは深くなり、そしてそれは形を変えて自分に向けられたのだ。
 ここにいる男達は程度の差異こそあれ、ほぼそのような男達だった。そしてその周囲には乱世であることを望む人々がいる。ある意味においては、必然の事象。
「……」
「ええ、オリナス様がそのようにお考えになられるとは、一同思っておりません。民と国を憂い、臣の無礼を諭したそのお心を汲み取ることのできぬ拙の狭量さ、どうぞお許しくださいますよう」
「……」
「コンウィ伯の言、拙からもお許しいただけますよう。ですが、オリナス様」
 また別の男が流れるようにコンウィの言をさらに継いだ。
「何でしょう……カラバ卿」
 オリナスは、白いものが混じった長髪を上品に纏めた男の名を呼び、発言を促した。彼と背後に控えている従者は、オリナスや他の貴族とは出自が異なっている。そのため、髪の結い方も服装も、そしてその着こなし方にも一種独特の雰囲気があった。
 もっとも、彼が纏う雰囲気の方が自分は慣れている──彼の生国は自分の「故郷」でもあったから──オリナスはそう思う。かといって、彼自身が放つ気配を好むかといえば、それはけしてそうではなかったが。
「コンウィ伯の言葉には一理あります。そしてオリナス様、その優しいお心はぜひとも御座につかれてもお持ちいただきたいものですが、しかし時には心を殺しても為さねば為らぬことがあります」
 低く、淡々としたカラバの言をオリナスは黙して聞いた。幼い頃から繰り返し聞かされてきた言葉だ。
 故に、この先彼が言葉をどう繋げるかも既に分かっている。
「さもなければ、その御身につけいる輩が必ずや現れます。特に、ルシュ卿にはお心をゆめ悟られませぬよう」
「……ルシュ卿は私の育て親でもあります」
「ご無礼をお許しください。ですが、故にこそルシュは野心を抱きかねない。彼が貴方を利用しようとする前に、臣らが貴方を彼から自由にしてさしあげたのです」
「……」
 何かを言いかけ、しかしオリナスは諦めた。言葉は彼らに対して完全に空虚だった。
 別れの挨拶も告げなかったルシュ卿のことをそうして思い出してみる。あれから数ヶ月は過ぎているが、卿の厳めしい顔は今でも覚えている。そうして彼の娘、お転婆リュシィのことも。
 忘れられるわけがない。だが、それ故に自分は忘れるべきであり、目の前の彼らの諫言に乗らなければならなかった。
 去る必要があると、そう考えた。
「王の血筋、アトカーシャ家の為です。いえ、はっきり申しましょう、貴方の御命の為です」
「……分かりました。……私は、私の責務を果たさねばならない」
「そのとおりです」
 縫いとめるように見つめるカラバ卿の視線に追従するように、男達は深く頷く。視線の数々をオリナスは受け止め、そして流した。
 「故郷」を去り、知らない「故国」へ向かう船の最中で、自分の心を流して封じ込めた。



 ──封じ込めた、はずだった。
 ゆらりゆらりと揺れる波間を、見開いた目で見つめ、オリナスはぼんやりと思った。
 朝日が入り始めたのだろう、水の中に光が降り注ぐ。きらきらと乱反射するそれは美しく、空に瞬く星のようにも雲間から差す光のようにも思える。
 ゆらりゆらりとした感覚にその身を任せ、次第に体が冷えていくのを感じながら、ゆっくりと水底に沈んでいく。
 船上にいたはずが、気が付けば落ちていた。もしかすると、飛び込んだのかもしれない。だが、今となってはそんなことはどうでもよかった。
 封じ込めたはずの心があっさり表出し、見えぬ手で自分を押したのかもしれない。
 扱いにくい自分を不要と切り捨てた誰かが、現実の手で自分を押したのかもしれない。
 だが、それすらも今はどうでもよかった。こうしてゆっくりと美しいものを眺めながら水底に沈み、消えていく。誰にも利用されず、消えていく。そうできたらと思っていた望みが、今目の前にあるのだから。
 ──さよなら、ルシュ卿。さよなら、リュシィ。
 別れも告げなかったと、懐かしい人々を再び思いながら、目を閉じる。自分を導く水に身を任せ、きっと沈んでいくのだと信じ、そうして。
 そうして再び世界を見ることはないのだと、安堵して。

 見知らぬ故国の荒野を彷徨うことなど、想像すらせずに。