Salute

6

 誰もいなければ、きっと己は天を仰いでいただろう。

「話なら伺うが?」
「……!」
 心地よい葉ずれの音ともに、木漏れ日は柔らかく煌めく。
 どこか上辺だけを撫でていくような初秋の風に、熱っぽさを失った陽光。それらが生み出した木漏れ日の下で、ディリータは見下ろすように眼前の少女を眺めやっていた。
 少女の域を未だ脱していないだろう、異国の女を。
 見下ろした自分とは対照的に、少女は自分を見上げてきた。見上げ──そうして睨みつけているとしか言いようのない視線を送りつけてくる。そこに、遠慮や畏怖といった文字は全く見当たらない。
 どこまでも勝気で、どこまでも強気。自分が何者であるか知っているにも関わらず、だ。
 ──なるほど、確かにオリナスも引きつるわけだな……。
 適当にあしらいながら、つい先日のことをディリータは脳裏に浮かばせた。
 目の前の彼女──ロマンダ国ルシュクレイ領領主ルシュ卿の娘、キーナ・リュシェンカ・ルシュ……オリナスが言うところの「幼馴染のリュシィ」──がこの地を訪れると知った時、書状を読み上げていたオリナスは、珍しく顔を引きつらせていた。突然いなくなったが故の不義理でもあるのかと問えば、返ってきたのは複雑な応え。
『そんなことは……あるかもしれません』
『……何だ、それは』
 別れも言わず──否、許可も得ず、ルシュクレイの地を立ち去ったことは、申し訳なくもあり心残りでもあったが、しかし後ろめたい気持ちは何ひとつないのだとオリナスは言い切った。手紙も落ち着いてから出した、と。
 それでもその後に続いたのは、逆接の接続詞。
『しかし、そんなことはきっとリュシィ……いいえ、キーナ・リュシェンカ姫には関係がないことでしょう』
 無論、彼女が呂国国王の名代という任を帯びていたとしても、と結び、従者の身分ながら長い溜息をついてしまったオリナスに、ディリータと丁度その場にいたルークスは顔を見合わせた。何をそんなに怯えることがあるのかと、訝しんだものだが。
 今なら、分かる。
「先刻の挨拶の折、貴女は何か言いかけて止めた。私に何か話があるのだとそう思っていたのだが?」
「ないとは申しません」
 鎌をかけるつもりで訊ねたディリータに、リュシェンカはその瞳のまま切り返した。彼女の後ろでは、付き従ってきたのだろうロマンダの従臣達があたふたと慌てふためいている。
 何を言い出すのだ、というような気配と、何も言わないでくださいというような気配。
 共通しているのは、悲鳴じみているところだ。
 形式だけの謁見も終わり、臣達は皆一様に安堵していたのだろう。二、三の別の任の後、姫に付き従ってあてがわれた部屋へ向かおうとし──そうして中庭に佇む己を見つけてしまった。さらに悪いことに、考える暇も与えずに彼らの主が己に向かって歩き出した。そう、いっそ驚くほどの勢いで。
 故に、こんなところで二回目の「挨拶」が繰り広げられることになってしまった。全く、自分や脇のルークスはともかく、彼女の従臣たちには気の毒というほかない。
 その様子自体は少し愉快でもあり、しかしそれ故にディリータは彼らに同情した。彼らと、今この場には居合わせていない彼女の幼馴染に。
 どこまでも強気で勝気。だが、莫迦ではない。それ故に彼女の扱いは難しい、そんなところだろうか。
 何よりもその、直截な瞳。
「では、伺おうか」
 木に凭れ、促すような視線をディリータは送った。
 未だ落ち着かぬ風情の異国の貴族たちには下がるよう指示し、遠くで見守っている衛兵にはいつぞやのように視線を送る。
「もっとも、貴女が真に用あるは、私ではないかもしれないが」
「……。イヴァリース国王、ディリータ・ハイラル。貴方は何を考えているの?」
 誰かが息を呑み、下がりかけた誰かがぎょっとして振り返る。
「ほう?」
「このような平易な口をきくご無礼をお許しください。……でも、国王陛下は慣習を重んじない方と聞いたわ。そして、形式よりもその中身を大事にする方だと」
 ──場合に依るが。
 彼女の放った言葉への答は口中に留め、ディリータは無言を貫いた。揚げ足のような真似事をして展開をこじらせる相手としては、彼女は不適といえるだろう。それに、彼女の言葉には是も非もなかった。
 問い自体は酷く曖昧で、それ故に応える価値も怪しいものだったが……。
「……」
「貴方ほどの地位であれば」
 沈黙を是ととったのか、非ととったのか、表情も変えずにリュシェンカが言葉を継ぐ。機を窺うのみで予め用意していたものなのか、言葉は問いの形を取って彼女の口から流れるように紡がれた。
「たとえ自らの直系を欲さずとも有力貴族の嫡子と養子縁組をすればよかったのではないの? それで後継者問題は解決すると、そう呂国では考えられていたわ。それなのに何故なのか。何か作為あってのことか。──噂話の域を過ぎぬことではあるけれど、皆話していることよ」
 それなのに「ひょっこり」現れた前王の遺児にして、呂国の預かり人を従卒に仕立てたのは、何故。無論、その裏にある思惑などは皆察しているのだ。
 その問いは結局、ひとりに帰結する。木に凭れたまま目を伏せ、ディリータは彼女の問いのひとつひとつを連結させていった。おそらくは彼女自身無意識に──あるいは意識しすぎて故意に──口に出すのを避けているだろう人物が、連結させた問いの先にはいる。この場にはいない人物だ。それ故に彼女は苛立っているのだろうが。
 彼女にとって彼は、やはりそれほどの人物だったということだろう。それは、姉としての感情か、あるいは妹としての感情か、彼の言うように「幼馴染」故のことか、または別のものか。……当座自分にとってはどうでもよいことではあるが。
 呂国での出来事をオリナスから詳らかに聞いているわけではなかった。はじめの頃に幾つかの質問をしたのみで、後は彼が思い出したように語るそれを耳にするのみ。そう、目の前の少女のことも。
 問いは続く。
 我が国で保護していた者をこの国に留めておくのはいかなる意図があってのことか。それがもし、我が国に対する抗いのしるしであれば、こちらにも考えるところがある。また、自らの後継者としてその任を負わせるというのであったとしても──。
「なるほど、一従卒として良いようにこき使っているようにしか見えない。そう仰られるか?」
「──」
 紡がれ続ける問いを遮り、先回りした言葉を落とすと、怯んだような視線がやはり投げつけられる。少女の頬にさっと朱が走ったのは、光の加減で頬紅が色濃く見えたためではない。
 その様子に、ディリータは小さく笑った。少女のような物言いは久々に聞いたと、そうして彼は思う。そう、久々に聞いて、久々にこんな感覚を味わった。
 率直さが好ましいと思う一方で、ほのかな苦手意識を。
 見上げる目は、己の問いに対して「否」の色を持っていなかった。どころか、その色にはどこか怒りめいた色まで含んでいる。歪んだ事実から成り立つ素朴な怒りだ。
「……ええ。そう見えるわ」
「それは困った」
 やがて押し殺すように呟いたリュシェンカにディリータは大仰に肩を竦めてみせた。
「異国の姫君である貴女に、我が国の一従卒の心配までしていただけるとは何と光栄なことだろう」
「貴方はそうやって!」
「ですが、姫君。私からもひとつ、貴女へ問いを発したい」
 組んだ腕のまま、ちらりと垣間見る。激しかけた少女の感情はそれだけで行き場を失い、己にぶつかる寸前で宙に浮いた。
 ──そうやって。その先に続けられるだろう言葉は常に自分には痛い。それが分かる故に。
 そして、純粋な確認のために。
「……何かしら」
「貴女がそうやって疑念を私にぶつけるのは、「何故」か。それをお教えいただきたいものだな。──言い換えてしまえば、貴女はいかなる立場を以て「それ」を口にするのか」
「──」
 その瞳は大きく見開かれた。
 彼女の怒りは、己達がいる世界とは違う場所から成り立つ事実によって生まれている。同じ事実を、全く違う光によって照らし出して生まれた別の事実から。
 無論、彼女の場合はそれが当たり前の「見方」だっただけのこと。ごく自然に囁き続けられる事実の数々だったのだろう。
 だが、それを知り得たからといって多くの者は怒りを、疑念を抱いたりはしない。不信感や警戒、下卑た噂話に惑わされはしても、彼女のように我がことの痛みのように感じたりはしないものだ。
 少なくとも、彼女の年頃で「国」の痛みをも我がことのように感じ得るのは──ごく限られた者だけ。もっとも、この場合は彼女の生国であり、彼の「故郷」でもある呂国には、とりたててこれといった益も不利益もありはしないが。
「名代としてのそれならば、先刻の挨拶の折に述べられればよろしかろう。あるいは、夕刻に予定しているささやかなる夕宴の際にでも。勿論、こうして話を促したのは私だが」
 だが、もし本当に彼女の言がすべて「国としてのもの」ならば、彼女は致命的な失策を犯した。あるいは、故意に己の意見を「国のもの」としていわば私化したものならば、それ以上に。
 あり得ない。それ故に無意味な仮定だ。そして、それに比べれば真に彼女が犯した失策など僅かに過ぎる。だが、さりとて看過するわけにもいかない。
 自分も随分と世話焼きになったものだ、と苦く笑う。つまり、それほど年を取ったということだ。
「それとも、貴女個人の問いやご意見ならば、国の威光を借りるのは避けるのが賢明というものだろう。──莫迦に見えるぞ」
「──莫迦で悪かったわねッ!」
「リュシェンカ様ッ」
 おそらく立ち去る機会を奪われていたのだろう、辞去を命じられたはずの呂国の貴族達が主の怒鳴り声に目を覚ましたような悲鳴を上げた。そうしてその巨体からは考えられぬような速さで、覆いかぶさるように次々と少女の前に進み出る。
 あまりの素早さに、ディリータは思わず呆気に取られた。同じような調子でリュシェンカは見開いたままだった瞳を呆れの色で埋め尽くし、また、自分達でも彼らでもない第三の存在たるルークスもまた、同様の雰囲気を発していた。
「陛下、リュシェンカ姫のご無礼、平にお許しください!」
「姫君には悪気などひとつもないのでございます! ただ、ただ、幼馴染でもあられたオリナ」
「……そこをお退き、セイル卿、クレーヴ卿! 貴方達にしゃしゃり出てもらう必要はないわ。私はこの男と──畏国国王と話をしているのよ。私の言葉は私が決めるわ。貴方達が決めることではないの!」
「ですが!」
 さらに異を唱えようとする二人にリュシェンカは鋭い一瞥を投げた。低い調子で何事かを呟き、それだけで遥か年長の二人を退ける。そうして彼女は再びディリータをまっすぐ見据えた。
 ──本当に賑やかで、気が強い。そして若い。
 内の膜が張ったような感覚にディリータは耳を軽く叩いた。
「本当なら」
 今度こそ臣が下がったことを見届け、リュシェンカが目の前の王に言葉を落とす。
「本来なら? ああ、私は貴女の問いにはまだ答えていないが」
「そう。でも、その前に私の答を要するというのであれば、答えるわ。……国は……ロマンダは関係がない。イヴァリースにも。……言い換えが必要ならば、最初からすべて問い直しましょうか」
「いや、それには及ばない」
 落とされた言葉は低く、細く、だが芯があった。逸らすまいと向けた視線は強く、ディリータは無言のまま組み替えた足に目を落とす。
 何にも関係のない、ひとりとして問う。何の迷いもなくそう言いきれてしまうのは、彼女が若いためか。それともそういう資質の持ち主故か。
 風とともに、足元に伸びた木の葉の影がさわさわと揺れる。この城で見慣れてしまった紋様のようには見慣れぬうちに、影は次の紋様を描き出しては消えていく。
 ディリータは瞼を伏せ、息を吐いた。いずれも自分がもはや手放してしまったものだ。あるいは、元々持ち得なかったものだ。だが、それを理由に彼女の観点から物事を語る必要はどこにもない。それを思い、知るからこそただ静かに息を吐く。
「……」
 矢継ぎ早に飛ばされた問いの数々を思い起こし、そうして答を浮かべてみる。ひとつひとつの問いには確かに答が存在するが、しかしそれは必ずしも彼女の望む答ではないし、ましてや己やあの少年にとっても適切な解とはなり得なかった。
 ──養子縁組の線は考えないわけではなかったが、結局適した者がいなかった。
 ──畏国にて少年を留めているわけではなく、少年が自ら残っている、ただそれだけのことだ。もし帰国を望んだならば、こちらは留め立てすることなく路銀を握らせて送り返しただろう。それだけのことで、国は介さぬこと。もっとも、そちらの国がこれ幸いと口を挟んできたならば事態はもう少し拗れてしまっただろうが。
 ──自分の後継者と成りえるか否かは、彼次第。今は、見定める時。己にとっても、彼にとっても。そして己に仕える多くの家臣、国に住まう多くの民にとっても。
 ひとつひとつの答を、おそらく彼女は繋ぎ合わせることはできないだろう。
 推測の上に成り立つ、それは単なる事実。故に、彼女は名代という形をとってまで異国の地へやってきたのだろうから。
「オリナスは……小さなときからそんなこと……イヴァリースに戻って王位に就こうだなんて考えたことなかったわ。カラバ卿やパラント候が年に何度か、様子を探りに父の目を盗んで幽閉先に来たときだって逃げ回っていたくらいだったのに」
 春の夕べには、監視の目を盗んでひとりで野へ。
 夏の昼下がりには、川辺でじっと水の流れを見ていた。
 秋の夜は、書庫で過ごし。
 冬の朝には、どうやって逃げようか困っていた……。
 いずれも最後には誰かに見つかり──その時々はちょうど訪れていた自分だったりもしたが──、彼らの前に引き出された。はじめは日常の雑談めいていた会話が、年を経るごとに次第に媚びた色を帯び始め、そうしてそれは然程時をおかずに、謀略へと。
 カラバやパラントでなく、保護者であり後見人であるルシュ卿が訪れたときも同じように逃げ回り、最後には見つかった。利用価値を見定められ続けた──。
 先刻までの勢いを潜め、彼女は思い出すように語った。唇が震え、面差しに影が走る。
「男らしくない、不甲斐ないと、逃げるオリナスによく言ったの。逃げて何になるの? 本が好きで、読んでいられれば他に何にもいらないなんて、そんなのは嘘よって怒鳴ったけど……。でも、それも本当の気持ちだって知っていたわ」
「……」
 書を読み、どこか諦めた気持ちで、それでも穏やかに過ごす。
 それが彼の願いだったはず。夢で、希みだったはず。
 それなのに、何故?
 何が彼をその反対側へ──玉座に最も近い場所へ連れていった?
「……残念ながら私に答えるすべはないな。知りたいのならば、直接聞くとよろしいだろう」
「……分かっているわ。貴方にそれを聞こうとは、思っていない」
 でも、とそうして彼女が続ける。
「貴方が是と言わなければ──いいえ、言うはずがないと誰もが思っていたわ。……それなのに、貴方はオリナスを傍に置いた。それは、何故?」
「……」
 風に木の葉がざわめく。涼やかな中に暖かさを含んだ陽射しは少しく陰り、佇む人の影も淡く長く伸び始めていた。
 ディリータは落としていた視線を上げた。そうして彼女や、脇に無言で佇む己が臣の視線を掠め、そのまま空を見上げる。
 もはや夏の空ではなかった。ゆっくりと、しかし確実に季節が巡っているその証左に、空は高く、雲は薄い。
 春の空ではない。冬の空でもない。ただの秋のはじめの空。未だに何かが痛むような、どこかが軋むような、そんな感覚には自分を巻き込まないただの空だ。
「……そうだな」
「?」
 空には何もない。記憶を辿るようなよすがもない。──多分、あの感情もまたこんな記憶のない空の下で生まれた。
 いつのまにか、己の中の深いところに、滑り込むようにして落ち着いてしまった想いがあった。
「私がさだめた二人の子供の片方。それがオリナス・アトウッド……オリナス・アトカーシャという存在だった。それ故に、とでも言おうか」
「……どういうこと?」
 傾げた首のままに問いを重ねたリュシェンカを眺めやり、しかしディリータはそれ以上言葉を発さなかった。「会話」は終了だ、と言わんばかりの視線で彼女を眺め、そうして別の科白を投げる。
 続きは誰にも言うつもりはない。少なくとも、今はまだ。
「私の答は、貴女にとってはさしたる意味も持たないものだ。それよりも、オリナスに彼の真意を質した方が賢明とも思うがな」
「言われなくても……。失礼するわ」
「ああ、ひとりで歩かれない方が良い、リュシェンカ殿。ルークス、お前はこの姫君を案内するように」
 ひとりは憤慨の瞳で、もうひとりは拝命の瞳で己の言を受け取る。それを確認しながらディリータはその場を離れた。
 逃げるようだな、と口の端に苦笑を浮かばせながら。

 事実、ディリータは逃げたのだった。

「……」
 別の日記に、同じ日付。
 栞がわりに挟み込んであった手紙を取り出し、一瞬だけ眺める。
 そうしてオリナスは、自らの日記に再び視線を落とした。