Salute

序章

 もはや、点ほどにも小さくなってしまったシルエットを、彼はそれでも見つめていた。
 けして短いとはいえぬ時間を傍で過ごし、そうして今この地を離れていった人物をじっと見送っていた。
「……大丈夫ですよ」
 同じように傍らで見送っていた男に声をかけられ、彼はただの景色となってしまった眼前の光景から視線を動かす。声をかけてきた相手を見上げ、小さく頷く。
「国境まではホッシュとエリアルが護衛につくそうですし、あの方はおひとりでも十分強い。旅慣れてもおられます」
「ええ」
 思っていたことをそのまま指摘され、彼はそっと目を伏せた。
 分かっている。「彼」が強いことは。今の自分は、知っている。「彼」の強さの源はどこにあったのかということは。
 心配なのではなかった。心配ではなく、自分が今「彼」に抱いている感情は──玉座を降りたディリータ・ハイラルという男の、見えなくなった背に思うのは──、寂寥感。そして、責任の念。
 後継者として、これから先の未来、この国を守らねばならないという──その重圧。
 王は去っていった。自分という新たな後継者を指名して、去った。
 荒廃した国を長い時間を費やして立て直した王は、野に戻っていった。
 後に残ったのは、「彼」が作り上げた国と、その国を支える人々と後継者。「彼」はひとりでこの国を去った。
 次代へ踏み出せるようにすべてを準備して、そうして。
「ルークス様」
 最後にもう一度、「彼」の去っていった方向を眺めやると、彼は踵を返した。付き従う傍らの男に声をかけると、はい、と渋みのある声で返事が寄せられる。
 門番が敬礼を返すその横を通り過ぎ、中庭を抜ける。
「リュシィから……ロマンダ国ルシュクレイ領領主・リュシェンカ殿から何か知らせはありましたか?」
「本日昼過ぎにはこちらに到着される由、先程使いが」
 そう、と小さく頷き、彼は陽を振り仰いだ。
 振り仰いだ先、陽は未だ南に差し掛かってはいない。陽からもたらされる光は、僅かに朝の香を含んでいた。
 ──ならば、幼馴染が到着するまでにはあと数刻といったところか。
「彼女が到着したならば、お待ちいただくように手配をお願いします。そう遅くならないうちに私も行きますから」
「分かりました」
 ディリータ・ハイラルの一の側近であった男に指示を出すと、彼は歩を止めた。中庭の中央、四方に伸びる小道をそれぞれ眺め渡し、最後に男に向き直る。
「……若輩の身ではありますが、ルークス様。私が独り立ちできるまでの間──、宜しくお願いします」
 彼の言にルークスはにわかに目を見張った。だが、まっすぐなまなざしに何かを理解したのか、見開いた目はすぐに柔和に細められる。年輪を刻んだ皺を目元に浮かばせ、ルークスは頷いた。
「拝命しました。ならば、陛下。ひとつだけご注進を。宜しいでしょうか?」
「……何でしょうか?」
「貴方はもう私の臣下ではない。私が貴方の臣下なのです。その旨、お忘れなきよう」
 ──勿論、他の者についても同じことです。
 続けられたルークスの言葉に彼もまた目を見張った。自分の物言いの未熟さに羞恥を感じ、そして、ルークスの言には真意を読み取り、若き王は顔を赤らめた。
 もはや、少年時代ではない。次代を担う者としての資質を事ある毎に見定められ、その一方で庇護され続けた頃の自分ではない。ましてや、生国を遠く離れ、大人達の思惑に不安に揺れていた無力な子供でもないのだ。
 この国をひとつに束ねた王は、去っていった。王冠という名の次代を自分に託し、ひとりの剣士として戻っていった。
 故に、今。そしてこれから先。
「アンブル伯ルークス・コリエル・リムルヴェール。前王からの貴殿の忠誠を、私にも向けるよう」
「御意」
 得心の表情で頷いたルークスに、王は──オリナス・アトカーシャは、深く頷いた。


 今からこの先、見定める必要がある。
 このディリータ・ハイラルに挿げ替わる存在として、お前がはたして相応しいか。
 国を束ねる者として、どれほどの力量を持っているのか。
 ──そうして「守る者」となれるか、否か。

 初めて会った頃の声が、未だ耳に残っている。
 窓もないこの部屋には陽の光が射し込むことは当然のようになく、室内は扉の外よりもたらされた夕陽の残光のみによってその輪郭が描き出されていた。
 小さな書棚。古ぼけた卓と椅子。卓の上には禿びた蝋燭。
 一歩足を踏み入れ、扉を閉める。鍵を締めるでもなく、扉の向こう側とこちら側を閉ざす音が小さくその場に響いた。
 蝋燭に火を点し、暗闇に沈んだ部屋を照らし出す。自分がこの場を去るちょうどその頃には蝋燭も尽きる頃合だろう。そんなことを思いながら椅子を引き寄せ、書棚に手を伸ばす。
 取り出したのは、一冊の書だった。
 誰の目にも届かない、こんな隠された場所にある書ゆえに、読まれた形跡は数度。「彼」しか開くことのなかっただろう書を抱え、注意深く頁を繰った。
 伝説や恋物語や戯曲ではない。戦略書でも、地誌でもない。書かれてあるのは、事実と真実の数々。だが然程古いことでもない。
 真実を探求した者が纏め、この国をひとつに束ねた者が信念のために葬り去った書。
 「彼」はこの書を葬り去った。葬ったと見せかけてこの室で──王城の隠された一室で──守り継ぐと心に定めた。
 真実を知る者は去り、隠された書の前には残った者。やがて真実を知る者が死に絶えたとしても、この書が生き残るようにと。
 数週間前、この室に自分を招きいれた「彼」はそう静かに言い、その声色のままの瞳で自分を見据えた。
 「彼」の手の中に在った書は、今、自分の手の中に。彼らが駆け抜け、自分の母も存在したあの時代が、今、手の中に。
 薄紙を挟んで、扉紙が現れる。そこに書かれてある名に、彼は目を落とした。

── Orlan Durai

 守る者として未来を託された若者は、そうして己の知らぬ時代を知った。

登場人物一覧

オリナス・アトウッド
アトカーシャ家最後の嫡子。獅子戦争時に亡命、幼少期をロマンダで過ごす
ディリータ・ハイラル
畏国現国王。平民出の王であり、「英雄王」と呼ばれる
ルークス・C・リムルヴェール
ディリータ・ハイラルの即位当時からの側近。アンブル伯
キーナ・リュシェンカ・ルシュ
オリナスの幼馴染。ロマンダ東部・ルシュクレイの領主の娘
パラント侯ジェロール
畏国貴族。旧体制に与し、領の多くを失った。オリナスを王位に就けようと画策
コンウィ伯キャスパー
畏国貴族。旧体制に与し、領の多くを失った。オリナスを王位に就けようと画策
カラバ卿
呂国貴族。パラント、コンウィらと共に畏国と呂国の実権を握るべく暗躍
ウォレス・エリアル
ライオネル聖印騎士団団長
コリン・ホッシュ
ライオネル聖印騎士団副団長。街道筋でオリナスに出会う
ムスタディオ・ブナンザ
機工都市ゴーグに住まう機工師。街道筋でオリナスに出会う
オーラン・デュライ
デュライ白書著者。白書の内容を異端とした教会によって火刑に処された
ラムザ・ベオルブ
異端者