Salute

 アンブル伯が目通りを申し出ている、という言葉にディリータは顔を上げた。諾、とだけ告げ、流し読みしていた書状をそのままに、卓に置いてある別の書状と飛ばし文に目をやる。
 美辞麗句をたっぷり含んだ、回りくどい書状。それよりは幾分ましだが、己にとっては大した感動も起きないような内容の書状。そして、ただ事実だけを記した短い飛ばし文。
 送り主の性格がそれぞれによく表れている。さて、と音にならぬ呟き混じりにディリータは息を吐いた。
 ともあれ、自分は決断せねばならない。間もなく開かれるだろう扉の前に、アンブル伯ルークスと彼が連れて来るだろう人物とが佇むその前には。
 短い間に見極めねばならない。その人物が──十数年ぶりに再会する「彼」が持ち得る資質を。それ以上に心根を。意思を。
 十数年ぶり、という単語は、僅かにではあるがディリータをも驚かせるものだった。もうそんなに経ってしまったのかと思う一方で、まだそれほどしか経っていないのかとも思う。
 はたして、「彼」はこの十数年をどう過ごしたのか。十数年という時間をどう受け止めているのか。
 自分にとっては長くも、そしてけして短くもない時の長さだと思う。何かを為しえたと言い切るには今一歩時は足りず、何も為しえなかったと嘆くにはあまりにも長すぎる、時間。
 そういった時間を、その中で積み上げてきたものを託すに「彼」は足り得る人物か。
 血など何の意味もない。真にこの国を望み、玉座にて時を積み重ねるさだめを受け入れた者にこそ、冠を。
 地を見渡し、過去の中に未来を見出した者にこそ、錫杖を。
 彼はそれに足る人物か。また、彼はそれを望むか。
 三通の書状を前に、ディリータは執務室の扉を眺めた。人の気配が増えたその向こう側に既に彼はいる。
 見極める必要があった。

 扉が開く。
「──」
 開かれた扉の、その向こう側が光に満ち溢れているような気がして──無論、そのようなことはなく──オリナスは咄嗟に目を瞑った。誰かが笑った気配とともに空気が変わる。
 この扉の向こうに「彼」が。
 変化をもたらしたのが「彼」なのだということに思い至り、唾を飲み込む。瞑った目を意識して見開く。見ることを、向かい合うことを拒もうとする衝動を抑え込み、見開いた目にそうして力を入れる。
 ──「彼」だ。
 視線の先、見開いた己の目が結んだのはひとつの像。その像がまっすぐに自分を見ている。「彼」もまた、自分を見つめていた。否、見据えていた。
 今、この国を統べる者が、かつてこの国を治めていた王の子を。
「……」
 促され、オリナスは無意識に一歩を踏み出した。迷う心も逃げ出したいと願う思いも、今は扉の外に捨てて歩いていく。
 確実に一歩を。どこか非現実的な心持ちで一歩を。
 そう、非現実的だった。意識の端におぼろげに浮かんだ思考に内心で深く頷く。
 今、こうして彼の前に出て行こうとしていることも。自分が彼を見つめていることも。彼が自分を見据えていることも。
 無論、いつかは──そう、「いつかは」彼の前に立つつもりでいた。時を見て、機を窺い、場合によっては忍び込んででも、いつかは。だが、それは今ではなかったはずだ。こんなふうに突然相見えることになろうとは、思いもしなかった。
 機を窺い、時を狙う。ぶつけるべき言葉も、あるいは刃も十分に準備した上で。この国の高みに位置する者として、彼がふさわしいか。そして、この国に自分という存在は必要なのか……何ができるのか。己の中でまだ頼りなげに揺れている意識の芽を育てながら、機を待つつもりでいたのに。
 まだ何も準備できていない、と思う。そうして心は定まるどころか、集っては散っていく。
 もっとも、それは至極当然のことなのかもしれない、ともオリナスは思う。大体、王都に着いてから一日かそこらしか経っていない。
『オリナス殿ですね?』
 王都に辿り着いたその日の夜、酒場で夕餉を摂っていた自分に声をかけた男がいた。今、自分の斜め前を歩いている男がそうだ。
 空惚けようとした自分に緩く首を振り、男はまず自分の身元を明かした。
『私は、アンブル伯ルークス。ルークス・コリエル・リムルヴェール』
 聞き覚えのある名だった。
 現王、ディリータ・ハイラルの一の側近である彼は、自分の表情に何を見出したのか小さく頷いた。全体の雰囲気の割には多く皺を含んだ目元をそうして細める。まるで、懐かしむように。
『オリナス殿。王が──陛下がお待ちです。私の言葉を信じてくださるなら、共に城へ』
 それが、昨日のこと。自身を取り巻く世界はそうして再び一変した。
 室の奥、程よく光が差し込む位置に置かれている執務机の前で歩を止める。よく磨きこまれているのだろう、飴色をしたその机は王が使うには少し質素なようにも思えて、どこか不自然な気がした。
 だが、机は室によく馴染んでいた。華美ではないというだけで、質素でもあるが重厚でもある机は、室にも彼にもよく合っていた。
 これが、今のイヴァリース。
 そうしてまた無意識に逸らしかけた己が眼をオリナスは一方向に定める。目の前でどこか愉快げな表情で自分を見やっている男を、見つめる。
 彼が、今のイヴァリースを統べる男。彼こそが、自らの手で王冠を手にし、国を立て直した人物。
「……」
「陛下。お連れしました」
 アンブル伯の言葉に、彼は頷いた。軽くも重々しくもない、ごく自然な了承の所作だった。
 役目を終えたのだろう、アンブル伯が机の脇にその身を移す。移しながら彼は自分に素早く視線を走らせてきた。何かを促すような、まなざし。
 いつのまにか拳を作っていた右手を開き、オリナスはその手を自分の胸に当てた。
「……初めてお目にかかります、国王陛下。私の名は、オリナス・アトウッド。海を越えた北西の国・ロマンダより参りました」
「それは遠路はるばるようこそいらした」
 机上に肘をつき、組んだ手に顎を乗せたまま、畏国国王は口の端を持ち上げた。事の推移を見るかのような、見定めるかのような視線にオリナスは、く、と漏らしかけた吐息を堪える。
 ここで竦むわけにはいかない、と自分の心に言い聞かせる。
 この機を逃すわけにはいかない、と自らの中に燻っている矜持を信じるように。
「随分と苦難の旅のようだったとお見受けする。貴君のような者が供も連れずに単独で旅をされるとは」
「……」
 何気ない調子で放たされた国王の言葉に、しかしオリナスは沈黙した。逸らさぬと決めた意志と視線は既に揺らぎ、何かに縋るように机上へと移る。
 机上には、三通の書状。彼も訪問者の視線に気付いたのか、その中の一通を手に取る。最も豪奢なそれを。
 書状は、この室には不釣合いだった。
「……先日、とある諸侯から私のもとへ注意を喚起する書状が寄せられた」
 彼がちらりと視線を走らせる。自分の表情を読み取っているのだろうその眼光に、オリナスは顔が強張るのを感じた。
「差出人の代表は、パラント候。呂国の民である貴君はご存知ないかもしれないが?」
「……書状の内容を、お聞かせいただいてもよろしいでしょうか」
 国王──ディリータの言を遮り、オリナスは慎重に訊ねた。他者から数週間ぶりに聞くその名がどのような意味をもって国王に響いているのか。書状の差出主は何を書いたのか。
 もっとも、内容は聞かずとも分かっているが。
 絞り出すような声に国主は一瞬だけ表情を変えたが、何を語るわけでもなくすぐに例の表情に戻すと、書状を開いた。
「興味があるというなら聞かせよう。書状の差出主は見えるだろうか? そう、パラント候だ。そして、コンウィ伯」
「……」
「書状にはこうしたためられている……『陛下の御座を奪わんと、己の才覚も弁えない前王の遺児が幽閉先の呂国よりこの国に舞い戻った可能性がある。十分御身に注意されたし』。彼らが私のことを心配してくれる日が来ようとは、思いもしなかったのだがな」
 黙りこくったオリナスを前に、皮肉げな言葉と笑みとを落とし、ディリータが見せつけるように書状を机上に戻す。次いで、彼は別の書状を手にした。
 先の書状よりは、幾分簡素なそれ。
 彼が手にした書状を複雑な心情のまま見やっていたオリナスは、あることに気付き、小さく声を上げた。
 書状には覚えがあった。──紙に入れられた透かし紋章には、見覚えが。
「機を同じくしてもう一通、こちらは貴君とも縁の深いロマンダより書状が届いた。内容は人の問い合わせだ」
「……」
「『先の畏国王の遺児たる少年を、私怨ある貴族達が我が領から連れ出した。何か情報などあったら知らせてほしい。少年の名は、オリナス・アトカーシャ』」
 言葉を一度切り、室を沈黙が覆う。訓練か何かだろうか、どこか遠くで衛兵達の掛け声が聞こえる。
 オリナスは逸らしていた視線を彼に戻し、言葉を待った。彼もまた書状から目線を上げ、そうしてひとつの名を告げる。
「『今はオリナス・アトウッドと名乗っている』。──ルシュクレイの領主、ルシュ卿からの手紙に書かれている少年とは、君のことだな。オリナス殿」
「──はい」
 問われ、素直にオリナスは頷いた。もはや否定する意義などどこにも見出せない。
 そもそも、素性を偽ろうとは思っていなかった。ただ、自分が言い出すよりも前に彼が確認した、それだけの違いだ。
 二つの書状を基にして。
 自分を担ぎ上げようとし、手元から逃れたと知るや否や、保身の書状を王に送ったパラント候とコンウィ伯。王は、彼らからの手紙を信じるのだろうか。
 それとは事実を異にしたルシュ卿の手紙を信じるのだろうか。
 彼はそれらの書状から何を察し、こうして本当に現れた「障害物」をどう扱おうというのか。視線からは読み取れず、オリナスは唇を噛んだ。
 彼らが送った書状、それは彼らの視点から見た場合には確かに「正」となり得るものなのだろう。
 自分は前王の遺児で、望むまいと「御座を確かに狙う者」だった。そのままパラント候らの元で時を経れば「国王が注意を払う必要のある者」となっただろう。そうしてまた、パラント候らが自分を「連れ出した」というのも事実だった。本名も、今の名も。
 必要なことだけを切り取り、己の都合によって書状にしたためる。パラント候らの卑屈な感情に思うところは既になかったが、ルシュ卿が何を思って書状を送ったかは、懐かしさが邪魔をしてうまく飲み込めなかった。
 だが、いずれにせよ、そのどちらにも自分の意思は介在していない。その書状にしたためられた「少年」とは、人形。人形として生きていた頃の自分だ。
「三番目の手紙は、十日程前に届いた」
 先刻と同じように書状を元に戻し、脇に避けていた最後の一通を王は手にした。
 それは書状というには、あまりに体裁を整えていなかった。飛ばし文の類なのだろう、短い走り書きらしきものが記された紙片に彼が目を走らせる。
「ひとりで貴君が荒野を渡っている、と文には書かれている。ライオネルから飛んできた鳥がもたらした手紙だ。──覚えは?」
「……あります」
 荒野で行きあった二人連れの男を思い出し、オリナスはただ頷いた。荒野でそ知らぬふりをして自分を行かせた彼らは、その後彼のもとへ鳥を飛ばしたのだろう。
 パラントのように注意を喚起するためか。ルシュのように問い合わせをするためか。
 彼らは自分という人形にどのような役目を負わせようとしているのか。おそらくその後に続いている文章に、答はあるはずだ。
 彼が読み上げようとしている文章に、また別の役割が。
「やはりな」
 だが、王はただひとつ頷くと、手にしていた紙片をまた元のように折り畳んだ。そうして例に漏れず机上に戻すと、改めて腕を組む。
 ──続きは、ない?
 書状に続きはなかった。自分の予想が外れたことを知り、オリナスは意外に思った自らの心を隠せなかった。軽く見開いてしまった目で凝視すると、ゆったりと座った彼はやはりどこか面白そうに笑んだ。
 何かを隠すような、企むような、そんな瞳で。
 あるいは、試すような。
 そんな彼の仕儀に、やはり書状には何らかの文章が記されているのではないかと思考する。だが、先の二通と同様に彼ならば読むだろうという妙な確信がその思考をさらっていった。
 記されているのか、いないのか。おそらくは後者だろうと思うその推理に、彼が何かを言うわけがなかった。かわりに、それにしても、と切り出す。
「貴君が貴君であると、悟ることのできた者の何と少ないことか。貴君は、完全に市井にとけこんでいたのだな」
「……私は母には似ていないのだそうです」
「ほう」
 興味深げに彼は未熟な旅人の発言に相槌を打った。
 似ていない、と言ったのはパラントだった。気位が高く、野心をその嫣然たる笑みに巧みに織り交ぜていた彼女とは不思議なほどに似ていない、と事あるごとに言い放ち、勝手に溜息をついていた。
 無論、似ているかどうか自分には分かるはずもない。父王の顔はおろか、母の顔さえ思い出せない子はそのようなことを言われても戸惑うばかり。──故にこそ、自分は旅先で見抜かれなかった。ただ一度を除いて。
 かつて御座につきし家の末裔だとは誰も思わない。
 追われるようにして他国へ逃げ、そうして戻ってきた先の王子だとは、誰も。
 噂自体は街を飛び交っていた。夕食を摂るために入った酒場でも、当然のように「亡命先の呂国から前の王子が消えた」という話題は囁かれていた。
 だが、カウンターの隅でシチューをつついている若者こそがその王子なのだと気が付く者は、なく。
 ウォージリス沖に停泊していた船から身を投げ出し、そうしてアンブル伯に声をかけられるまでは、自分は一介の旅人にしかすぎなかった。
「確かに」
 相槌を打った姿勢のまま、王は笑う。
「そうだろうな。貴君のご母堂は、野心に燃える瞳をしていた」
「……」
 王に返す言葉を見つけられず、オリナスは黙した。覚えのない身では是とも否とも言い難いが、だが、それは確かにひとつの事実だったのだろうと思う。
 自分は知らない、過去。自分を取り囲む多くの者が語ろうとしなかった、真実。
 そんな中に父も母も、自分もかつてはいたのだ。そうして世と人の流れの狭間に父は死に、母は消えた。──少なくとも、そう聞いた。
 親はこの世を去り、子はすべてを失い、外へ。海を隔てた国で自分は育った。これから先も生きていくのだと、そう思っていた。凡庸な毎日に、こんな日々で自分はよいのだと、そう思っていた。願っても、いた。
 だが、思う。
「陛下」
 どこか震えた声だと思いながら、オリナスは眼前の男に呼びかけた。自らの唇が言葉を放った、そんな感覚すら追いつかない。
 事の推移を楽しむような、相変わらずの視線で王は──ディリータ・ハイラルはオリナスを見やった。
 もしもオリナスが今少し成長した思考と心眼を備えていれば、その視線が含む意味を捉えることができたかもしれない。だが、彼は未だ少年だった。故に確証もないまま、己の望みを口にした。
 望みは、けして少なくなかった。
 ロマンダの東、ルシュクレイの野でぼんやりと一生を送る──時には幼馴染にどやされながら──それもまた、望みだった。
 繰り返し読んで擦り切れてしまった数冊の書ではなく、書庫いっぱいの書を読みつくしたいとも願った。
 入れ替わり訪れる利己的な男達の、その舌を抜いてしまいたいとも。
 だが今、胸を突き抜け、言葉となって口から零れ出た望みはけしてそのようなものではなく。
 もしも、最後の文に己の役割が何も記されていなかったなら。
 傀儡としての役目が記されていなかったとしたら。
 ──もう、逃げなくても良い。
「私に、この国をください」
 単純ともいえるほど短い言葉が床に跳ね落ちる。長い間見て見ぬふりを貫いてきた己の中の望みを、少年は自らの耳で聞いた。
 そして、見た。
 やはり愉快げに細められた王の瞳の、その只中にきらめいた何かを。