Salute

 唇を噛み締めたまま踵を返した家臣を、ディリータ・ハイラルはただ眺めた。
 家臣の歩を止めることなく、玉座の間を守る衛兵が速やかに扉を開き、そして閉める。扉の向こう、力無い足音は数歩ほど彼の耳にも届いたが、すぐにそれは聞こえなくなった。
 全く何の実りもない、意味もない謁見だった。二度と思いおこすこともないだろう先刻の「忠言」を一度だけ心中で反芻し、ディリータはそう結論付ける。幾度となく持ち込まれた過去のそれと同じ場所に放り込み、そうして蓋をした。
 一体、何度言えば分かるのか。口の端のみで笑み、思う。
 一体、何年自分に仕えているのか。もっとも、仕えてこその科白であることは彼も理解している。それは、当然だ。
 だが、理解したところで「それらの忠言」を受け入れることはないとディリータは確信していた。何に誓願をしたわけでもなく、ただ自然にそう感じている。
「……みな、陛下の御為を思えばこそですから」
「ルークス、お前も同じことを言うのか? ……言いかねんな」
 視線を転じ、ディリータは傍らに立つ臣を見やった。たじろいでしまった感情を際で踏み留めたのか、ルークス──ルークス・コリエル・リムルヴェールもまた主君を見つめ、重々しく頷いた。
「ご理解いただければ、幸いです。お世継ぎの問題は国の存亡に関わることであれば」
 どこか覚悟を決めたようにルークスは視線を下げると、低い声でディリータに告げた。
「……まあな」
 やはり聞き慣れた臣下の言に、気のない調子でディリータは短く言葉を返す。それすらももはや何度となく交わされた会話で、今更新鮮味の欠片もない。
 故に臣の多くは既に説得を諦め、故に主は己の考えを改めるつもりはなかった。それでも時折、こうして思い出したように周辺が騒ぎ出しては、同じ結末を迎える。
「……」
 玉座の背凭れに身を預け、視界の先の天井を眺める。見慣れた紋様をひとつひとつ無意識裏に端から端へと追っていく。
 ──慣れてしまったな。
 心に浮かんだ言葉をそのまま滑らせ、ディリータは瞬いた。
 玉座から見える風景にも、臣下のこうした発言にも、自らをめぐる多くの事柄に自分は慣れてしまった。無表情を装うこともなくなり、それでも貼り付いた仮面をそのままにして日々を過ごしている。
 自分の築いた国で、ようやく、淡々と。
 臣の忠言は実にその証だった。常と等しくしまいこんだはずのそれを戯れに思考に混ぜ、ディリータは過去を思う。
 血で血を洗った長の戦の後を。
 転がり落ちた冠を頂いたディリータ・ハイラルという男を前にして、ほぼすべての貴族が自らの身の振り方を当時真剣に考えたに違いなかった。──すなわち、王を称するにはあまりにも危うい存在にそれでも与するか。あるいは横の繋がりを求めて、「王」に刃を向ける者となるのか。
 彼らが右往左往するさまを、新王たる彼はただじっと見定めていた。賢明にも膝を折り、忠誠を誓った者に対しては厚く遇し、そうでない者には理由を付けて追捕した。そうして玉座にひとり座り、時を待った。
 戦に荒れた国に吹くのは、冬雨の風。夏照の陽。
 両手指に足りるほどの時を経ても地は緩やかにしか癒えず、民の声のかわりに聞こえるのは地の下を蠢く者達が交わす背信の囁き。
 故に、傷付き荒れ果てた地を癒す前にやるべきことがあった。
 自らの足元を固め、転覆を狙う輩に付け入る隙を与えない。──多少地や人が癒えようとも、再び戦となればそれらはすべて無駄となる、その故に。
 泣くのは己でもなく、玉座を狙う輩でもなく、未だ姿の見えぬ名もなき者達。かつて己と同じ立場だった無力な者達こそが戦となれば真っ先に犠牲となる。
 とはいえ、刃を向ける輩の素性に興味はなかった。この玉座を狙う者がその地位に足る者であれば、おそらく敗れたとしても自分は臍を噛んだりはしないだろう。──いれば、の話ではあるが。もっとも、そんな者が仮にいたとしても、その者はこの国を戦の只中に置くなどということを是と判断したりはしない。「第三の存在」を見過ごし、戦を仕掛けるなどといった、愚かなことは。
 第三の存在。
 先の戦において、手を汚さず蠢いた者。人でありながら人ならぬ力に手を伸ばした存在。俗に囁き、闇に媚び、力を欲した存在──教会は今もその姿を保ったまま、この国に在り続けている。
 ──故に、傷つき荒れ果てた地を癒すその前に、己にはやるべきことがあった。
 歴史の闇を見た者として、国が闇に覆われぬよう手を尽くすが残された者の役目と、墓標に誓った。
 豊かさに想いを馳せるのはそれからでも、よかった。
 己の過去を振り返るのはそれからでも良いと心に置いた。
「……故にこそか」
「陛下?」
 独白が耳に届いたのだろう、聞き返したルークスにディリータは緩やかに首を振った。
 臣の忠言は実にその証だった。不安定に揺れながらも、それでも日々を同じように過ごせるようになった頃から彼らが口にし始めた言葉こそ、その証左といえた。
 今、という時は永続しない。故に人は「未来」へ目を向ける。自身の未来を思い、家族や領地の未来を思い、そうして国の未来を思い……その末に彼らは自分に目を向けた。
 だが、彼らのその想いに応えるつもりは、やはりない。とはいえ、忠諫のそのたびに揚げ足を取り、理を唱えて彼らの言を封じてみても、理由を求められれば返す言葉もないのだった。
 ──世継ぎを。
 そう望む彼らの言葉は常にただ遠い。もはや妃を娶る気はなく、子を為す気も同様にない。跡継ぎを自分の血縁に求める気が、そもそもないのだ。
 おそらく、臣の多くは「誤解」したはずだ。
 ──王は、亡くなった妃のことが忘れられず、新しい妃を望もうとされない。
 ──王は、ご自分の血筋にやはり疑問を抱かれている。故に結婚を望まれない。
 ──王のお相手を何れかに求めるとしても、それは臣の力関係を崩す因子となる。それを良しとはお考えではないのだろう。
 まことしやかに囁かれるそれらの推言は当然ディリータの耳にも入っていたが、彼は是とも否とも答を返したことがなかった。推言は事実、是でもあれば否でもあったが、想いは別のところにあった──その故に。
 ──望む者がこの国を治めればよい。
 玉座に座り、見慣れた風景を眺めながら、これまで幾度となく呟いた言葉を口内で唱える。
 血など何の意味もない。それは既に自分が証明してみせた。王に連なる一族ではなく、ましてや貴いといわれる貴族ですらなく、平民の出。人は自分を英雄ともてはやすが、その呼び名を得た所以は、他に呼びようがなかったからだ。そして、そんな呼び名にも、ましてや血などにも、国を治める力などはありはしない。
 真にこの国を望み、玉座にて時を積み重ねる定めを受け入れた者にこそ、冠を。
 地を見渡し、過去の中に未来を見出した者にこそ、錫杖を。
「機を求むべきなのかもしれんな……」
 ──臣達の思惑や想いとは別に、己にとっても時期というものが来たのかもしれない。
 再び独り言めいた言葉を落とし、思考を纏める端緒とする。去っていったはずの足音を扉向こうにそうして聞き、視線だけをディリータは動かした。