Salute

 そうして言葉は落とされた。
 傍らに佇む側近が息を詰める。窺うように走った彼の視線には取り合わず、ディリータはただ目の前の少年を眺めていた。
 長年──生まれ落ちたその時から──頭のどこかで常に燻り続けてきただろう「望み」をついに口にした少年は、放心したように立ち尽くしていた。
 私に、この国を。
 物言いは稚拙だったが、それ故に簡潔でもあった。悪くない言い方だ、とディリータは思う。
 もっとも、「ください」という言い回しには少年の気弱さが出ている。出ているがしかし、それは少年の気弱さを表すと同時に、ひとつの事実をも指し示していた。
 それは。
「貴君が、この国を治めると?」
 あるいは少年が無意識に認めた事実を当座は横に置き、ディリータは彼に失笑してみせた。瞬間、長旅で削げた少年の頬が羞恥に染まる。
 それでも少年は自らの言を取り消そうとはしなかった。ひとつ頷き、言葉を探す。
「私には、多くの望みがありました」
 どこか懐かしむような口調だった。
 それを聞きながらディリータは少年の背後に視線を走らせた。扉近くで事の成り行きを見守っていた衛兵たちは既に剣の柄に手をかけている。その必要はない、と緩く頷き、そうして少年に視線を戻した。
 望み。
 それを口にさせるくらいの余裕は、あったほうがいい。
「どれもこれもささやかで、それ故に自分には遠いもの。……ですが、何人にも左右されない、自分の道を歩むことができるならば……」
「できるならば?」
 問い返され、少年がたじろぐ。言葉の中に──心の中に迷いが在ることを見透かされたと気が付いたのだろう。
 仮定形の上に成り立つ望みなど、己にとっては弱い。国にとってもそれは然り。「もし」という形で他者に依存するような願いなど、いずれは脆く崩れ去る。そう、自分の望みが雪の向こうにあっさりと消えていった、あの日のように……。
「……いいえ。歩みたい、とそう願っている。そうすると望みは自然とひとつに集約された」
 短くはない沈黙の末に、弱々しいながらもそうして少年ははっきりと己を見据え、言葉を継いだ。
 多くのささやかな望みをすべてひとつに。
 それが、玉座。
 ディリータは緩く笑んだ。少年の絞り出すような感情はどこか懐かしく、それでいて──否、だからこそ、既視感のような痛みをもたらした、その故に。
 苦く、そしてほんの僅かに甘みを帯びた痛み。少年と同じ年頃の自分。その頃の想い。あるいは、願い。
 他者に利用されずに生きたいと、苛烈なまでに願った頃の自分。
 立場はまるで違えども、願うものは結局同じ。……彼が似ているのは自分ではなく、「彼女」かもしれないが。
 だが、「彼女」と自分もまた似ていた。
 述懐を今は胸に収め、ディリータは軽く目を伏せた。気付かれぬよう細く息を吐き、そうして再び少年を見据える。
「そう思うのなら、何故貴君は諸侯の下を離れた? 私を倒すため諸侯と手を組み、簒奪を為し得た後に彼奴らを葬ればそれで済むだろう。あとは自分で好きなようにすればよい」
 事実、パラントらはその準備を進めていた。形式ばかりの書状を彼らは自分に送りつけてきたが、それは保身のためにすぎない。飼い慣らそうとした元王子が行方をくらませたりしなければ、彼らは当然の顔をして「正統な」王位を主張しただろう。
 だが、彼は彼らの下を去った。
 未来の裏切りを是とせず、ひとりで自分の下を訪れた。ディリータ・ハイラルという王を。
「……ええ。そんな方法もあったでしょう」
 ディリータの問いに少年の顔が苦みばしる。何を思い出したのか、低く唸るように認めると、彼は「でも」と繋げた。
「彼らに理はない。私を担いで王位の正当性を宣ったとしても──その先に待っているのは、戦でしかない」
「だろうな」
「彼らは戦や好しと考えていました。けれど、私は自分を流れる血にそこまでの価値があるとは思えなかった。……戦を起こせば、落ち着いたというこの国は再び混乱の戦野に戻る」
「……」
 少年──オリナスはたどたどしく説明した。
 落ち着いたということは、新王の御世がうまく機能し始めているということ。民の多くがそれを望んでいるからこそ、果たされる現実なのだということ。
 失ったものを再び手に入れた瞬間、人は無常の喜びを得る。だが、それをさらに失うことには──おそらく多くの者が耐えられないだろう。ようやく手に入れた「日常」という名の幸福を奪おうとする輩を……つまりは自分を、きっと人々は恨む。
 パラントらにとって、そんなことはどうでもよいことだったに違いない。気にするなと根拠のない慰めを施すかもしれないし、また別の浅慮で民や自分を愚弄したのかもしれない。いずれにせよ、彼らは気にも留めないだろう。
 失敗したとしても、彼らは傷つくことはない。切り捨てるだけだ。ちょうど今しがたの書状のように。
 そして民が恨むのは、旗頭。彼らではなくオリナス・アトカーシャという名と血を持った少年だけなのだから。
 望みは無論、いくつもあった。それらを集めればあるいは王冠という形をとることも知っていた。
 だが、それが他者の呪詛と恨みと絶望のもとに成り立つものなのだとしたら、そんなものはいらない──小心者なのだ、と少年は結んだ。
 ましてや、今の王に自分が成り代わる必然性は、本当はどこにもなく。積み上げたものを戦によって無に帰さしめる必要も意味もなく。
 何の力も持たぬ自分が王位に就くことも、再び荒野と化した大地を見渡すのも──自分にとっての希みなどではなく。
「……」
 話し終えた少年はしばらくこちらに視線をあわせていたが、やがて逸らした。返ってこない反応に考えの甘さを痛感したのか、外した視線を床に落とす。
 確かに、とディリータは思う。
 少年の考えは小さく、狭かった。浅かった。だが、その思考の辿り着いた先は、己が求めるものとそう大した違いはないということもまた、事実だ。
 血など何の意味もない。少年にとっても、勿論自分にとっても。
 国を望み、時を積み重ねるさだめを受け入れた者にこそ、冠を。
 地を見渡し、過去の中に未来を見出した者にこそ、錫杖を。
 少年の視線は細かく彷徨っている。自分にとっては見慣れてしまった紋様をおそらくは彼も追っているのだろう。
 言うべきことはすべて言ったと思いながら?
 あるいは、もはや先は途絶えたと思いながら?
 傍らを見やり、展開を見守っていた己が側近にディリータは視線を送った。ルークスは複雑そうな顔で佇んでいたが、問うようなそれを送り返した。
 処遇を問うまなざし。
 まさか、と思いつつもルークスは正確に予想しているのだろう。長いこと仕えてきた彼のことだ。
 その予想を──そして少年は思ってもみないだろう推測を──裏切る気はディリータにはなかった。組んでいた腕を解くと、席を立つ。動いた視線を背に感じながら、彼は窓辺に立った。
 推測を裏切ってしまうつもりはない。いや、そんな余裕はどこにもないといったほうがより正確か。血を継いでいくつもりのない人間にとって、これは数少ない好機というべきなのだろう。確実に。
 そして、彼というところにも。
 窓の外にも見慣れた景色が広がっている。この季節に咲く中庭の花々も、対称的に並ぶ木々の色も、いずれの時代にか工匠の手によって作られた彫刻の数々も、いつのまにか見慣れてしまった。もっとも、花や木の名前などひとつも知らぬし、庭に下りて彫刻を眺めたことなど一度もないが。
「貴君の話は、貴君にばかり都合が良いな」
「……」
 返答はなく、ただ沈黙が落ちる。それでも、どんな顔をして己の背に二人が視線を投げかけているのか、それは見ずとも分かった。
 ひとりは自分自身に恥じ入るように。そしてもうひとりは、事の成り行きを見守るように。
 そんな視線だ。
「だが、面白い」
「……!」
 落胆を含んだ片方のそれが、言葉の後に跳ねた。
 窓に埋め込んだ硝子越しに後ろを眺めやれば、少年は一歩を踏み出し、目を丸くしている。その面に浮かんでいるのは、未だ歓喜でも期待でもない。
 ディリータは見えぬように苦笑した。やはり、彼は誰かしらと似ているようで、その実、似ていない。そこが面白くもあった。
 彼という存在が、現れた。朧ではあるが己が定めし二人の子のうち、片方が現れた。それは己にとっての僥倖。
 見極めていかなければならない。未だ分からぬ彼の部分については。そうして──、継ぐに足る人物であるか否かについては。
 その瞳に宿る、精一杯の矜持は本物か。
 彼の理と己の理とは交差するか。
 見極めなければならない。ディリータは再び思う。だが、気が変わったのも事実だった。何もこんな短い時の間に決めずともよいのだ。己にも彼にも、国という名の周囲にもまだ時間は等しく横たわっている。
 それで、決めた。振り返り、少年を見やる。目は何故か自然に細まった。
「オリナス・アトウッド。今からこの先、見定める必要がある。このディリータ・ハイラルに挿げ替わる存在として、貴君がはたして相応しいか」
 誰かが息を呑む。それははたして、彼か。ルークスか。自分か。
「国を束ねる者として、どれほどの力量を持っているのか。そうして「守る者」となれるか、否か。あいにく、私は……俺は貴君をよく知らない。それ故だ」
 状況を飲み込もうとしている分だけ硬直してしまった少年から視線を外し、ディリータは己の側近にひとつ頷いてみせた。返ってきたのは同じような首肯。
 短い時の間に決めずともよいのだ。己にも彼にも、国という名の周囲にもまだ時間は等しく横たわっている。つまりは、そういうことだ。
 少年の気付かぬうちに視線を戻し、言葉を繋げる。賭けのような科白を。
「……ルークスも年を取ってきた。そろそろ従者の真似事をさせるより、政務に専念してもらわなければと思っていたところだ。貴君には彼の後任となっていただきたい。……意味は、分かるな?」
「──は、はい」
 不意をつかれたように一瞬ひるみ、しかしそれでも少年は頷いた。蜂蜜色の髪が持ち主の動きにあわせて光を跳ねる。
 誰かに似ているようで、その実、誰にも似ていないその瞳の中に光が宿る。
 ディリータは無言で彼の意を問うた。もう分かりきっている答を聞くため、待った。
 光が跳ねる。時が繋がる。もしかすると、未来に続くかもしれない、時が。
「拝命いたしました──!」


 そうして時代が、世代が、坂を転がるように。
 あるいは、緩やかに。