ディオンの奇襲を返り討ちにしたテランスは、眠りの海に再び揺蕩っている彼を眺めてそっと笑んだ。
一度目の嵐のような交わりで気をやったときとは違い、今のディオンは穏やかな顔で眠っていた。心が解けたのだろう、あどけないといっても過言ではなかった。……本人が聞いたらきっと機嫌を損ねるから、これは自分だけの秘密だけれども。
触れても起きないだろうと当たりをつけ、テランスはディオンの髪に触れた。行為で汗ばんだせいなのか、自分の不在時に手入れを怠ったか、髪の滑りはあまりよくない。あれだけ寝乱れたから、寝癖もすごいことになっているだろうと思う。しかし、それを整えるのはとても楽しみだった。
テランスの腕を枕にして、眠るディオン。あまりにも愛しくて、涙が出そうになる。
そして、テランスも自身の心がようやく解けていくのを感じた。――やはり、最初のあれはそれぞれが抱え持っていた感情が爆発して、結果としてすべてが性急だった。飛び交った会話は単語ばかりだったために嚙み合わないようにも思えたが、不思議と通じていたように思う。後できちんと話し合わなければと思うが、少なくともディオンの悲痛な心の叫びは確かに聞いた。
彼の言葉の数々を、彼が置かれている境遇を、自分は受け止めきれているだろうか。テランスは思う。只人では計り知れぬほどの重責や悪意に、羨望と卑下、蔑視に畏怖。……そうして、蔑ろにする挙句に駒としてしか見ない実の親。自分だったらとうの昔に折れているが、ディオンは敢然と立ち向かっている。……裏を返せば、そのすべしか知らない。
そんな彼が、高みへ向かう最中に譫言で嘆いた。孤独への恐怖。願いへの恐怖。怖い、嫌だ、私は只の器で――、それでも。
続きを聞く前に極まった彼はそのまま気をやってしまったから、すべてを聞けたわけではない。痛いほどに抱きしめてきた彼の腕から力が抜け、敷布の上にぱたりと落ちた。
常日頃見せる端然とした姿は何処にもなく、すべて取り払った末に表出したこころ。傷だらけのそれを、いつか癒せるだろうか。
テランスはまばたきをし、ディオンを見つめる。別の次元にある彼を現世に引き留めるのは、自分だと決意していた。混乱のままに告げてしまった自分の想いを、深手を負っていた彼が受け止めてくれたときから。――違う、初めて出会ったその瞬間から。
「ずっと君だけだ。……愛してるよ、ディオン」
彼を守ることができるならば、何でもする。何にだって、なれる。グエリゴール神に啖呵を一方的に切ったこともあって、それを思い出すと畏れ多いことをしたものだとも思ったけれど、取り消す気はさらさらなかった。
「……テランス?」
テランスのささやかな告白がディオンの意識を浮上させたらしい。拙い口調で言ったディオンに、テランスは「此処に」といつもの返事をした。ついでに、ディオンを抱きしめ直す。
「苦しい」
「ごめん」
すぐに文句が返ってきて、テランスは笑いながら少しばかり身を離した。ふたりの視線がしっかりと合うくらいに離れると、ディオンがじっとテランスを見つめた。
ああ、これは。テランスは思った。よくない兆候だと分かっているから、片手をディオンの頬に置く。そのうち、ディオンは視線を逸らすだろう。
「私のほうこそ、すまなかった。……幻滅しただろう?」
テランスの予想通りに俯きそうになったディオンだったが、顔を固定されてしまっていることに気が付いたらしい。テランス、と咎めの響きを帯びたディオンの声色は、テランスにはちっとも怖くなかった。
「幻滅? 何に?」
「……その、最中に色々と口走ってしまったことや、私……「余」の弱さについて」
テランスの問いに、ディオンは辿々しい口ぶりで答えた。消え入りそうな語尾はそれでも聞こえて、テランスはゆっくりとまばたきをした。
「僕は嬉しかったよ。……君は嘘をつくことが多いから、本心を聞けるのは貴重なんだ」
上手とはあまりいえないが、とかく自分の恋人は嘘をつきたがる。それでも、自分以外の誰かに心の奥底を見せることは殆どなくて――、故に彼は孤独にも近しい状態を自ら作り上げていた。
テランスは複雑な心境にあった。
ディオンの呼吸が楽になるのであれば、心が休まるのであれば、「味方」は多いほうがよいのではないか。自分だけではなくて、他の者にも心を許せるような環境を作り出したほうがよいのではないか。聖竜騎士団はある意味その一環のようなものだが、彼らはディオンに忠誠を尽くしはしても、隣に立つことはないだろう。見上げるのみだ。
そして、この理性に真っ向から対抗してくるのが自らの本心だった。彼の心を、強いところも、弱く儚いところも、丸ごと独占していたいと思ってしまう。現実にはそんなことは起こり得なくて、彼の想う先のひとつに自分が含まれているというだけだ。……それでも、少しは彼の心に安寧を齎せている、そう思っている。否、願うような心持ちでいる。
先刻、最中に彼は多くの問いを繰り出していた。自らに刻み込むように、言い聞かせるように、問いの形で自分に縋った。
寄りかかってはいないか。甘えていないか。負担ではないか。迷惑に思っていないか。……其方を利用しているだけではないのか。
その問いの数々は、テランスの脳髄に衝撃を与えた。ディオンがそう考えてしまう状況を作ったのは、まさしく自分だ。彼に頼られることに自分が喜びを覚えている間に、彼は自らの律し方を模索していたのだろう。そう考えてしまう必要はまるでないのに。
自分は、厳しい世界で彼が思うままに羽ばたけるよう動いているだけだ。それでもまったくの力不足で、彼の足を引っ張っているふしも強いけれども。
だからというべきか、ディオンの問いに即答ができなかった。問い自体の答は間違いなく「否」だが、笑って一蹴することは彼の苦悩を奥底からは理解していないのと同義だ。抱きしめたなら、深く口づけたなら、ひとつになったなら、あるいは。そういった想いも脳裏を掠めたが、それもあまり意味を成さないと思った。
咄嗟に額を合わせると、逃げを謀ったディオンが動きを止めた。ふたりだけの、幼い頃からの内緒のまじない。息を呑んだ拍子に、彼の瞳から涙が零れ落ちる。それがあまりにも綺麗で、哀しくて、苦しかったから、吸い取った。
『君を、愛している。……この言葉の意味は分かる?』
問うた自分に、彼はまばたきを数度繰り返した。涙の粒が散っていく。
暫しの沈黙の後に、頷きが返る。その数拍は、短くも永遠に思えた。
『愛してるんだ、本当に。すべて、丸ごと』
『テランス……』
この告白が彼に届いてほしいと願う。安っぽい言葉かもしれない、彼の望むものではないかもしれない、けれど、ありったけの想いを伝えたかった。解き放ちたかった。彼が居る場所が、自分の世界なのだと。すぐ傍に在ることが望みなのだと。
そう告げて、落ち着かせて――、それから再び愛した。
しかし、と回想を終えたテランスは内心で苦笑した。未だディオンの心は揺れている。……いや、ようやく揺れているところを見せたというべきかもしれない。心を解いて、曝け出して、そうしてようやく。
「正直に言うね。いつも必死で君を追いかけている。でも、そのことを苦痛に思ったことは一度もない」
「だが……」
反論しようとしたディオンの唇に人差し指を一瞬当てる。そうしてテランスは続けた。
「そして、君の傍を離れたいと思ったのは、一度きりだ。さて、それはいつのことだったでしょう?」
「……。……其方が私に、初めて「愛」を告げたとき」
間を置いて答えたディオンに、テランスは笑んだ。「正解」と囁いて、彼を引き寄せた。頬に置いた手を腰に回す。
「あれが最初で最後。離れたいなんて二度と思わない。だから……、君の心をできるかぎり僕に届けてほしい」
「……よいのか?」
「僕から幸せを取り上げないで」
テランスはそう言ってディオンの額に口づけた。
それから、テランスはディオンに少し問いただされた。
演習を切り上げて帰参した理由は呑み込もう、だが、此方の状況を伝えたのは――、即ち「犯人」は誰だ、と。
潤んだままの瞳で睨むものだから、その愛らしさにテランスは頬が緩んでしまうのを隠せなかった。咎めるように彼に名前を呼ばれるが、つい笑んでしまう。
「内緒。……ねえ、ディオン?」
「何だ」
薄く開いてしまっている寝室の扉から光が射し込んでいる。クリスタルランプの光ではない。鎧戸の隙間から覗くそれは、間もなく朝が来ることを告げていた。
不貞腐れたようにぶっきらぼうに答えたディオンに、テランスは諭した。
「そういった顔は、僕以外には見せないでね」
結局、理性より本心を優先させてしまったなと思いつつも、テランスは言を翻すつもりはなかった。ディオンの心の奥を知るのは、自分だけでよい。
――なのに。
「ああ……、それは首席参謀にも言われたな」
「えええ?」
何の悪気もなく言ったディオンの爆弾発言に、テランスは目を剥いたのだった。