#06 五日目

 朝、身支度をしている途中のディオンのもとへ従卒がやって来た。
 折り目正しく入室許可を求める従卒に、ディオンは「少し待て」と制した。姿見の前で髪や衣服に乱れがないか軽く確認する。正規軍の軍団長との協議のほかには訓練の予定も入っていないため、今日はチェインメイルなしで過ごすつもりだった。
 姿見に顔を近づけると、目の下にうっすらと隈ができていた。情けないが、寝不足の結果が出てしまっている。見苦しくないよう従卒に整えてもらうか、とディオンは諦めの息をついた。
「入れ」
 ディオンの許可を得た従卒は、静かに扉を開けると「おはようございます、ディオン様」と一礼をした。ディオンもそれに応じたが、従卒が押すワゴンに目を留めて眉根を寄せた。
 テーブルワゴンの上には、ディオンのものと思しき朝餉が置かれていた。小さめの厚手鍋、カラフェとグラスと深皿、果物が積まれたボウル。
「余はもう出る。食事は要らぬ」
 そう言ったディオンの横を通り過ぎ、従卒は手にしていたテーブルクロスを調度品のテーブルにかけた。次いで、ランチョンマットを置き、手際よく食事の支度を整える。
「そうは参りません。ここ数日、ディオン様は碌に食事も摂られておりません。このまま窶れてしまわれたなら、私がテランス様にお叱りを受けます」
「……其方はよくやっている。テランスには余が口添えをするから、気にするでない」
 意識して笑みを浮かべてディオンは言ったが、従卒は首を横に振った。椅子を指し示して座るように促すそのさまは、初日で緊張していた者と同一人物には思えなかった。思うところもあったのだろう。あるいは、誰かから指図を受けたのかもしれない。そう、誰かから。
 ディオンは折れることにした。降参の意を告げ、引かれた椅子に座る。
「料理長と相談しました。いつものお食事は、今のディオン様には少し負荷がかかるだろうと。……ポリッジはお好きなほうとお聞きしましたが」
「嫌いではないな。栄養価も高いし、手っ取り早い」
 ディオンの返答に、従卒は「それは、よかったです」と呟いた。鍋の蓋を開けると湯気が上るのがディオンの位置からも見えた。普段とは少し異なる甘い香りが漂ってくる。
 支度を整えた従卒がランチョンマットの上に皿やグラス、カトラリーを配していく。深皿に入っているポリッジの上には、ナッツと何かの果物を焼いたようなものが乗っていて、ディオンの興味を引いた。
「蜂蜜をペアーにかけて焼いたのだそうです。シナモンはお好みで、ということでしたので、御入用でしたらそちらの小瓶をお使いください。……私は料理に疎いのですが、料理長は自信がおありのようでしたから、お口に合うかと」
「……まったく」
 ディオンは苦笑した。料理長に信は置いているが、己の好みを熟知しているかといえば、そこまでではないと思う。これは明らかに「誰かの指図」だ。
 カラフェからグラスに水が注がれる。果物は、と従卒に問われたディオンは、フィグをチョイスした。

§  §

「総括すると、上々の仕上がりということでよいか?」
 今朝方送られてきた合同演習の報告書に目を通したディオンは、向かい合わせに座る皇国正規軍の軍団長に問うた。
「そうですね。後は、翌月の小演習で確認してみましょう。今回在留した部隊の動きも確認する必要があります」
 軍団長の言葉に、ディオンは頷いた。
 正規軍の本部には来客用の庭園がある。「今日は天気もよいですから」と軍団長は午後の庭園にディオンを案内した。随所に正規軍と聖竜騎士団の親衛兵を配し、しかし彼らからは聞こえぬ四阿で協議を進めた。
 時折、風がそよぐ。書類が吹き飛ばないようにとペーパーウェイトを持参してきた軍団長の用意周到さに、ディオンは笑おうとした。
 だが、次の瞬間、視界が明暗を繰り返した。光の束と、深い闇の底。引き上げられ、突き落とされる。その繰り返しが両手指に足りぬほどに続いた。
「……ッ」
 ぐら、と僅かに傾ぎそうになった上体を戻し、追い払うように緩くかぶりを振る。その様子を心配そうに見ていた軍団長にディオンが目線をやると、彼は深々と溜息をついた。
「ディオン様……貴方というお方は」
「……大事ない、少し目が眩んだだけだ。次は?」
 ペーパーウェイトを持ち上げて別の報告書に手を伸ばそうとしたディオンの手を、軍団長は掴んだ。何事かと驚くディオンに、今度は軍団長が首を横に振る。
 まったく、とそうして彼は続けた。
「神童と謳われても奢ることなく、努力を重ねられてきた。謂れのない様々な感情や悪意に差別……私自身も貴方にある一定の憂慮を持っていますが、そうしたものにも拘泥せずにひたむきに前を見ておられる。求められるまま戦いを重ね、我々を守り続けてきた」
「それが余の責務だからな」
 初陣においては直属の「上司」だった軍団長の語りに、ディオンは返した。
「ザンブレクの、バハムートのドミナントとして、当然の行ないをしているまで。余はそれでも運がよい」
「現状でもそのように……真にお思いですか?」
「ああ」
 即答したディオンを、軍団長は見据えた。声を潜めてディオンに真意を問う。
「誰しもが貴方の加護を当たり前と享受しているのに?」
「勿論。我が翼で皇国の民を守るのは、限りない誉れだ」
「一部の人間は、貴方の存在を煙たがっているのに?」
「誰にでもそのような存在はいるであろう?」
「……神皇后の意図をご存じなのに? 貴方を貶めようと数多の罠を張っている」
「彼女の術中には既に嵌ったからな、今更だ」
 廃太子となった経緯を思い出し、ディオンは肩を竦めた。
「思うところがなかったかといえば嘘になる。だが、そのおかげで余は多くの「仲間」を手に入れた」
「仲間、ですか。しかし、彼らは貴方に何も齎さない。貴方にとってみれば、足手まといにもなり得るでしょう。それを知っていて、何故?」
 厳しい声音で問いを重ねていく軍団長は、ディオンを本気で追い詰める気のようだった。如何に躱すか、それともある程度の真意は告げるべきか思案しようとしたディオンだったが、徐に立ち上がって上空を見つめた。
 感じたのは、黒い殺気。咄嗟にペーパーウェイトを掴み、急降下してくる「それ」へと目掛けて投げつけた。
「グ……ッ!」
 ペーパーウェイトの直撃を受け、黒は降下を諦めたらしい。正規軍本部の屋根に下りると、此方を――ディオンを睨みつけた。
 黒光りの鎧を纏った男。手には鋼の槍を持ち、顔はヘルムで覆われている。
「何者だ!」
 軍団長の誰何を無視し、男は踵を返した。再び高く跳んで屋根を越えていった男を、数名の親衛兵が慌てて追う。
「上からの襲撃があるとは……」
「警告、か」
 呟きを聞き咎めた軍団長が見つめてくる。もしや、と言いかけた彼を片手で制すると、ディオンは神皇宮のある方向を見やった。
「何処までが本気なのか分からぬが、城にいられると邪魔なのであろう。……戦が迫っているというのに」
 侵入者の主を想定する。確信している、とも言うべきか。あの者――売国奴の笑みを思い出して寒気を覚えた己に、ディオンは心の内で苦笑した。宮中における闘争は肌身に合わない、とそうして思う。「彼女」を野放しにするつもりはないが、この城はもはや己が居場所ではなかった。
「そう、ですな」
 力なく首肯した軍団長にディオンは笑み、風に飛びそうになった書類を手で押さえた。

§  §

 軍団長との協議が終わり、ディオンは聖竜騎士団本部に向かった。協議の結果を幹部と共有し、兵站や練兵の計画を練り直すことに決めた。軍団長とも話したが、後は演習部隊の帰還を待ってからでよい。
「――ですので、すみやかにお帰りください」
「酷い言いようだな」
 夕刻、執務室の扉を指した首席参謀に、ディオンは憮然とした。笑みをつくるのも、なんだか疲れてしまっていた。
「しかし、今日午前の演習報告が届いていない。ある程度目を通したいのだが」
「主だった演習は終わっております。問題ないかと」
「だが……」
「よいですか」
 独りになることに気が重いディオンは言い募ったが、それを首席参謀は退けた。
「お顔の色が優れません。いつもの覇気が僅かに削がれている。毅然としている御姿は流石ですが、内情を知っていると此方が気を揉むのです」
「……」
 他の幹部ではなかなか言い辛いだろうことも指摘する首席参謀は、黙り込んだディオンを見据えて再度「よいですか」と言った。
「率直に申し上げましょう。我々だけでは力不足なのです。団長を支えきれない」
「……それは、余がみなに迷惑をかけているということか? 振り回していると」
「そういうことではございません。我等は団長に忠誠を誓っています。それは、団長ご自身の言動やお考えに触れたからこそ。そして、その翼を少しでも支えようと日々鍛錬に励んでおります。聖竜騎士団が精鋭揃いなのは、団長が一番ご存じでしょう?」
 ディオンは頷いた。首席参謀も頷き返し、続ける。
「しかしながら、団長へ向けられる矛先の数々を我等だけでは打ち払えないのです。今回の件で痛感しましたし、また、良い機会でもありました」
「良い機会?」
 呟いたディオンに、ええ、と首席参謀。
「親衛兵長の不在時に「有事」が起きたならどうなるか。そういった意味で、此方側も貴重な「訓練」となったのですよ。勿論、今回の件は未だ収束していませんから、まだ油断はできません。謎の襲撃もございましたし」
 黒鎧を纏いし者の正体は結局分からなかった。追いかけた親衛兵らは見事に撒かれてしまったが、それは仕方がないとディオンは考えていた。あの者はかなりの技量を有している。何処ぞの貴族の私兵か、あるいは――。
「団長」
 思考に沈みかけたディオンを首席参謀が引き上げる。
「我等は、親衛兵長に団長を託していたのです。ですが、少し寄りかかりすぎていたのも事実。……団長は、ご自身が親衛兵長に甘えすぎている、そうお思いですか?」
「……。ああ」
 首席参謀の問いは、ディオンにとって真実だった。何日か前にそのようなことを考えた。昨日か、一昨日か、その前か。記憶は既におぼろだが、心の奥底でずっと抱えている靄なのかもしれなかった。
 テランスを利用する己は、あまりにも矮小で軟弱だ。ドミナントとしてけして許されない。人であれば許されただろうか。否、それでも許されはしないだろう。
 やはり、己は道を誤った。そうして、彼だけではなく多くの者を惑わせている。
「此方からはそうは見えないのですが、団長は聞く耳を持たれないでしょうね」
 短い答しか返さないディオンに首席参謀は苦笑し、机上に散らされた書類を束ねた。ペントレイに置いていた羽根ペンを片付け、インク壺に蓋をする。
「……其方」
「まあ、団長より、親衛兵長のほうが……いえ、これ以上は申しません。どうか、お休みを。明日は休息日ですから、寝坊されても構いません」
 首席参謀は扉を見やった。ディオンに相対し、深々と礼をとる。
「そういったわけにはいかない、演習の報告は随時入ってくるだろう。……だが、そうだな。今日は有難く休ませてもらおうか」
 綺麗に片付けられてしまった机に目をやり、ディオンは席を立った。首席参謀が扉を開き、ディオンは部屋の外に出た。執務室の主であるディオンが不在であれば、首席参謀といえども在室は許されない。共に出てきた彼に、ディオンは何気なさを装って訊ねた。
「あれは「自由」だろうか。何か、抱えているものはないだろうか」
 衛士に背を向け、小声で言ったディオンの何が面白かったのか、首席参謀は笑った。
「誰しも抱えているものはあります。ですが、彼は相当自由ですよ」
 そして、と首席参謀は続けた。
「そして、彼は団長が想像している以上に策士です。お気を付けなさいませ」
「気を付ける、とは?」
 ディオンは首を傾げた。確かに、テランスは頭の回転も速く、己の行動を妨げることなど殆どない。あるとすれば、己の意思と彼の判断が衝突するときくらいだろうか。大抵、それは彼の判断に理があり、公私問わずに懇々と諭されることもある。……時々、それを無視する己もいるが、そのときには彼はまた別の選択肢を設定するのだ。
 そういった意味合いでは、策士かもしれないが――。
「若干、狭量のきらいがありますから」
 指摘され、ディオンは不意に耳が熱くなるのを感じた。示しがつかないと、渋面をつくろうとした矢先に首席参謀が溜息をつく。
「先にも申しました。そのようなお顔は親衛兵長だけにお見せください。後は……そうですね、帰還の際にしっかりと労う。それが何よりだと私は思いますよ」

§  §

 その夜、ディオンは備忘録を記した。空白になってしまった昨日の欄にも何か記そうかと思ったが、止めた。後に見返した際に困るかもしれないが、書きたいとはやはり思えなかった。本日のことだけ留め書き、軍団長や首席参謀に言われたことも簡単に記載した。簡単に、とはいっても、常よりも随分長くなってしまったが。
 備忘録の冊子を端に寄せ、便箋を前に置く。昨日の朝に書いた一行だけの手紙をどうしようかとこれもまた迷ったが、そのままにすることにした。もとより、渡すかどうかも決めていないし、渡した結果に仔細を訊かれることがあれば、あのときの正直な心情を伝えればよい。ともすれば、誤解を招く言葉かもしれない。彼を深く傷つけるだろう。怒り、別離を招くかもしれない。それでも、書かずにはいられなかったのだ。
 ――其方の幸福を、私は齎せているだろうか。
 靄のなかでずっと考えている。己と出会ってから今まで、彼はひたすらに尽くしてくれている。思慕の念からなのですと彼の激白を聞いたし、それは真実なのだと思う。だが、本当にそれでよいのだろうか。
 ディオンはかぶりを振った。彼の――テランスの心は彼にしか分からない。此処で思い悩んでもすべては推測にしかない。
 それよりも、今日の想いを――。
 羽根ペンにインクを浸し、彼の名を丁寧に書いた。少し迷った後に一連の出来事を掻い摘んで記す。結果、顔を覗かせた臆病な己を詫び、本心も書く。これからも、と願いを込めて結び、今日の日付と己の名を記した。
 インク吸いの紙を当てた後、ディオンは己が書いた彼の名をそっと撫でた。心が僅かに落ち着く。
 日数分の封筒を用意し、それぞれに便箋を入れる。蝋をクリスタルの炎で溶かし、その上に聖竜騎士団の紋章印を押して封をした。
 ――己と彼だけの印があればよいのに。
 非現実的なことだと頭では理解しながらも、そう思わずにはいられなかった。

§  §

 真夜鐘が鳴り始めたことに気付き、ディオンは顔を上げた。あの後、隠し持ちこんだ書類をソファで眺め読んでいるうちにうたた寝をしてしまっていたらしい。手にしていたはずの書類が床に散乱していた。
 しまった、と思いながら起き上がり、書類を拾っていく。寝起きのためか蓄積した疲労のためか、頭が鈍く痛んだ。やはり首席参謀の言う通り、もう床に入ってしまったほうがよさそうだった。
 そう思い、クリスタルランプを消そうとディオンが手をかざしたとき、聞き慣れた打音がした。
「……何?」
 ディオンは咄嗟に扉を見た。入室許可を求める声はなく、音自体も扉からは遠いところで聞こえた。
 次は鎧戸を下ろした窓を。しかし、此処も違うようだった。打音は別の場所で鳴っている。居間を見渡し、書斎にも足を踏み入れたが、いずれも空振りに終わった。
「もしや……」
 ひとつ心当たりが生じ、ディオンは寝室へと向かった。応じるように、再び打音がする。『これってまるで暗号みたいだね』と彼が笑ったのを思い出しながら、寝室の隠し扉の鍵を開けた。
 すると、そこには。
「……テランス……?」
 独特の強弱が付いた打音で扉を叩く唯一の名を、ディオンは呆然と呟いた。ほとんど吐息のみに近いそれをテランスは拾い、大きく頷く。
「テランス、ディオン様のもとにただいま帰参いたしました」
 薄暗いなかで聖竜騎士団の敬礼をし、テランスが姿勢を正す。だが、次の瞬間にはテランスはディオンに腕を伸ばしていた。呆けたままのディオンを腕の中に収め、そのまま抱きしめる。
「不敬なことこの上ないですが、どうかお許しください」
「許すも何も、……どうして、此処に」
 ディオンは混乱していた。何故、誰が、彼は、己は。衝動のままに腕を彼の背に回してよいのか惑いながら、息を吸う。テランスの汗と、土埃と、チョコボ特有の匂いがした。
 身動きができないほど抱きしめられていて、視界もそれほど動かせない。だが、普段はきっちりと整えられている髪が酷い有様になっているのに気付き、ディオンは片手を動かして彼の髪を撫でつけた。
「テランス……其方……」
 混乱の淵からディオンが這い上がる前に、テランスはその身をディオンから離した。ディオンの頬に口づけ、再び礼をとる。
「我が君、ディオン様。後程……半刻後に「報告」に上がります」
 ですから、とテランスはディオンに言った。
 ――クリスタルランプを扉近くに置いてください。


 新たに灯した蝋燭の火が、ゆらりと揺れる。
 遅い、とディオンは居間をぐるぐると歩き回りながら思った。テランスの到着が遅い、という意味合いではない。時の流れがやけにゆっくりになっているような気がする。
 テランスの言いつけ通り、クリスタルランプは扉近くに置いた。成程、こうすればディオンがまだ就寝前だということが階下の衛士にも伝わる。そうすれば、夜分遅くの面会も衛士は驚きつつも許容するだろう。「重要な報告で参じました」とテランスは言うだろうし、衛士はその言葉を信じる。テランスが夜半に「任務の報告」でやって来るのは珍しくはない。――報告にかこつけて呼び出してしまうのは、大抵の場合は己なのだが。
 合同演習の件だろう、とは思う。テランスの建前上の「報告」の中身のことだ。だが、本来の帰還は三日後、いや、既に日を跨いだから二日後のはずだった。演習場までは行軍で一日半、単騎で駆けても途中でチョコボを乗り潰してしまうだろうから、どうやっても半日以上はかかりそうなもの。となると、早朝には演習場を出てきたということになる。
 ――いったい、誰が情報を流したのやら。
 ディオンは壁に寄りかかって仰向いた。
 今回の騒動に関して、別段誰にも口止めはしていない。故に、演習報告で送られてきたストラスに誰かが「告げ口」をしたのだろう。何と伝えたかは勿論分からないが、ああしてテランスは血相を変えて帰参した。隠し扉で相対したときの彼の表情は鬼神のようだったが、己の姿を見て瞬時に安堵の色を垣間見せた。
 彼の帰参報告を聞くのは、問題がない。問題はその後だ。一連の騒動と己がとった行動について、果たして彼は許してくれるだろうか。
 ――分からない。
 コツン、と壁に後頭部をぶつけ、ディオンは書斎へ向かった。文机の引き出しに入れておいた手紙を取り出す。裏返して封を見たが、数枚の封筒は封蝋の印がずれている。存外に難しいものだなと思いながら居間に戻り、テーブルの上に置いた。テランスの不興を買ったとしても、これらは必ず渡そうと決めた。
 彼が己の所業に白旗を揚げたとしても、引き止められない。――それでも。
 先を思いやってディオンが自嘲の笑みを浮かべたそのとき、例の打音が鳴った。テランスと己だけの暗号。その音の後にテランスが名前を告げ、入室の許可を求めた。
 数拍を置いて、ディオンは「諾」と答えた。本当は扉まで駆け寄りたかったが、何故か体が言うことを聞いてくれなかった。
 そうしている間に音もなく扉は開き、閉じられる。敬礼の後にテランスはディオンに向かって歩み寄り、数歩前で歩を止めた。敬礼を繰り返そうとしたテランスを片手で止め、ディオンは口を開いた。此処からは、少しばかりの茶番劇だ。
「早の帰参、ご苦労であった。……演習で何かあったのか?」
「いえ、何も。二隊に分かれての大規模演習も、散開訓練も無事終了いたしました。課題は山積しましたが、解消にそう時間はかからないでしょう」
 ディオンの問いに、テランスは「公」の口調で答えた。
「そうか。都度の報告は届いていたが、それならばよい。仔細は本隊の帰着を待って聞くことに――」
「ディオン」
 言葉を遮り、テランスが一気にディオンへと歩を詰める。あ、と思う間もなく、ディオンはテランスに抱きしめられた。
「ディオン、君の「報告」を」
 硬い声音でテランスがディオンの耳元に囁く。いつもの優しさも甘さもなかったが、ディオンは背に雷撃を受けたようなしびれをおぼえた。耳の下を舐められると、しびれはいや増した。
「誰、が……?」
 その前に「犯人」の正体を知っておきたくて問うたディオンを、テランスは無視した。報告を、と再度囁き、今度は喉仏に口づけられた。
 ――食われる。
 己を抱きしめているのは確かにテランスのはずなのに、ディオンは純粋な恐れを感じた。否、幸福も度が過ぎると恐怖に変わるのかもしれない。
「余……私のほうも、別に何事も」
 身を離してまっすぐに見つめてくるテランスから視線を逸らし、ディオンは嘘をついた。すぐにばれるだろうと己自身でも分かる嘘が、何故か口をついて出る。事実を、想いを伝えるべきだと分かっているのに、心の何処かがそれを拒んだ。弱さを、これ以上知られたくなかった。
 まるで悪手だと分かっているのに、身も心も竦んでいた。
「嘘を言うと、本気で怒りますよ? ……本当のことを教えて、ディオン」
 声音に、哀願が加わる。
 テランスの左手が、逃げるディオンの頬に触れてそのまま正面を向かせた。視線が交錯する。愛憎入り混じったテランスのまなざしにどうすることもできなくて、ディオンは額をテランスのそれに擦り寄せた。
 ふ、と息を吐いたのはどちらだっただろうか。
「……其方がいなくて、辛かった」
 ディオンは、それだけをようやくテランスに告げた。だが、それがすべてだった。他の諸々の出来事やぶつけようのない感情を集積すると、それだけが残って。
 本当は、このままではいけないのに。寄りかかっていては、甘えていては、利用しては。人ではない身なのに。只の器でしかないのに。
 けれど、許されるのであれば。
「貴方は……君というひとは、本当に」
 テランスが深々と溜息をつく。片手で強く引き寄せられ、ディオンはテランスの熱に喘いだ。
「本当、に?」
「本当に、僕を虜にして止まない。……愛しても?」
 テランスの懇願に、ディオンは両手をようやく彼の背に回せた。