――時は遡る。
ディオンの朝の身支度の手伝いを終えたテランスが珍しく大きな溜息をついたので、ディオンはくつりと笑んだ。
ふたりきりのときだけだ、こうしてテランスが自らの負の感情を表に出すのは。しかも、分かりやすい形で。
半ば「公」であるこの時においては、珍しいことかもしれないが。
「往生際が悪いぞ、テランス? 離れ難いか?」
カフスの位置を確認しながらディオンはテランスに言った。見ると、テランスは叱られた子犬のような目で此方を見ている。だが、そのなかには芯の強さも見えた。
「勿論、それはそうですが。……何故、私が貴方のお傍を離れてまで演習に」
「それは、其方が親衛兵長だからであろうが」
ディオンが言うと、テランスは言葉に詰まったようだった。眉根を寄せ、それから、自身に言い聞かせるように再び溜息。ふるふるとかぶりを振って、切り替えを図る彼に、ディオンは近寄った。
「本当は私も行きたかったのだが……というより、行くべきなのだが、な」
ザンブレクの皇国正規軍およびディオンが先年に設立した聖竜騎士団、さらにその内部に設置してある親衛兵隊の合同演習が明日から始まる。テランスは聖竜騎士団および親衛兵隊の代表として兵を率いる役目を帯びていた。幹部総意の推挙に押される形で任命したのだが、少し失敗したかもしれない、とディオンは思う。時期をずらし、己が総指揮を執る形のほうがよかったのではないか。
だが、演習の時期をずらすことは難しかった。ウォールードとの戦を間近に迎えようとしている今、後ろに倒すわけにはいかない。かといって、ディオンが今この場を離れるわけにもいかなかった。
「神皇猊下への定例の拝謁がございましょう」
「……ああ」
目元を無理に和ませてテランスが言う。それに頷き、ディオンは「儘ならぬ」と呟いた。
神皇への「拝謁」は、ディオンにとって複雑な想いを齎す。
軍事に携わる上層部として、軍備の報告。
バハムートのドミナントとして、己自身の状態の報告。
政治そのものには関わらない(関われない、ともいうのだが)身としては、拝謁の際で告げる言葉はそれだけだ。今回の場合は、これから行われる軍事演習の概要を説明するくらいで、ディオン自身のことはといえば「至って問題ありません」で終わるのではないだろうか。本当は、腕が少しく痛むのだが。
賜る言葉は何だろうか。飛竜草の登場はあるのだろうか。
……戦況を考えると、今回の拝謁では何もないのだろう。
ほんのごく僅かな期待と、圧倒的な諦念のほかに、最近は己が内に醜い感情を抱くようになった。神皇后の存在がそうだ。彼女――売国奴の権勢は次第に強大になっている。日和見な連中が多いがために移ろいやすい宮廷の権力抗争を忌々しいことに利用し、侵略を試みているのだ。
今はまだ、とディオンは思う。頼りなくはあるが元老院も機能し、父である神皇も血の気の多い神皇后の「意見」をいなしてはいる。星詠みによる神託もそれほどぶれてはいない。あの女が星詠みを利用するなどという、考えたくもない最悪の展開には未だ至っていない。
諦念を抱いている場合ではない、と己の考えを叱咤する。彼女の動向を注視すべく間者を放ってはいるが、此方側にも「草」はいるのだろう。聖竜騎士団を取り巻く様々な利害関係者は勿論、騎士団内部にも存在しているかもしれない。
――己が不甲斐ないから。
「眉間に皺が寄っていますよ、ディオン様」
「……何だと?」
思考を中断させるように声をかけてきたテランスが、整えたばかりのディオンの襟元を直す。そのまま額を合わせてきた彼に、ディオンは肩の力が抜けるのを感じた。
「何かあったら、必ずお知らせください。何をおいても馳せ参じます」
「何もないさ。其方こそ、正規軍の軍隊長達に揚げ足をとられぬように」
常のように軽く口づけを交わし、二人は無理やりに微笑んだ。
合同演習に向かう面々の前に立ち、ディオンは激励の言葉を述べた。正規軍とは本拠地が違うため、現地で合流することになっている。
代表としてテランスが出立の挨拶をした。型通りの挨拶ではあったが、芯の通った声は耳に心地よい。最後に敬礼をしたテランスと、それに続いた団員達にディオンは頷いてみせ、それで出立式は終了となった。
§ §
「ウォールードの動静は?」
「正規軍と此方の情報は一致しております。兵站に怪しげな動きはありますが、今すぐ何か起きるという状況ではないかと」
「そうか」
昼食会という名を借りた聖竜騎士団の幹部会合にてディオンの問いに答えたのは、首席参謀だった。元は正規軍の諜報部に所属していたが、聖竜騎士団の設立に際してディオンが直接口説いて引き抜いた人員の内のひとりだ。諜報の手腕も見事だが、整然とした思考と年の功による老練さ(といっても不惑を越えたあたりだ)を買って参謀に配した。本人も正規軍での出世は特段望んでいなかったようで、「転職先」で意欲を見せてくれていた。
己に忠誠を誓うと同時に崇拝気味の者が増えてきてしまった騎士団内において、幹部達には抑え役に回ってもらうことも多い。鷹揚に構えきれずに突っ走る傾向がある我が身についても然り。情けないことだが、彼らにはかなり助けられているとディオンは思う。
若いうちはそれで良いのですよ、と前に笑ったのは、テランスと共に演習に向かった第二部隊の部隊長だ。「それが」の誤りだろうが、と厳めしい顔で「ツッコミ」とやらを複数の幹部が同時に入れた。
幸いなことに、上層部の人材には恵まれた。後は、目立たない程度に権勢を拡大していきたいところだが、軍資金が若干不足しているのが難点だ。
話題もその方向に入り、事務次官がディオンに話を振った。
「殿下――失礼いたしました、団長には明日の昼餐にお出でになるお偉方の御説得をお願いいたします」
「相分かった、吉報を待つがよい」
茶目っ気を出してディオンが片目を瞑ってみせると、事務次官は大きな溜息をついた。他の幹部達も何故か目を逸らし、幾人かはぶつぶつと何かを呟く。
「? 何か妙なことでも?」
彼らの不自然なそぶりにディオンは首を傾げた。やはり、こういう場合は威厳を押し出すべきだっただろうか。
「……そうではありません。ただ……」
「そういう御姿を見せるから、崇拝者が増えるのです。親衛兵長にだけお見せなさい」
言葉を濁した事務次官に続けたのは、首席参謀だった。はっきりとした彼の物言いに、ディオンは僅かに仰向いた。
特に何も伝えてはいないが、ディオンとテランスの間柄を彼らは皆知っている。
見逃している、といった雰囲気ではなかった。どちらかというと「見守られている」に近い。精神安定剤としての役割をテランスに期待しているふしもあって、それはそれで何とも言えない心持ちになるディオンだった。
……見逃しているといえば、神皇后はそうなのだろうが、とふとディオンは思った。むしろ、好都合とでも思っているかもしれない。
「……演習の結果次第では配置の異動も有り得るが、何か意見はあるか?」
やや強引に話題を変えたディオンに呼応して、幹部達はそれぞれに発言した。その意見を首席参謀が上手に擦り合わせ、ひとつに纏めていく。その様子に満足しながら、ディオンは流れを見守った。
§ §
昼食会の後は騎士団本部での書類仕事に追われたが、テランスの不在に備えて事前に片付けていたものも多かったので、自宮に戻ったのは夕刻前だった。
テランスが配した従卒は緊張した様子で、ぎこちなくディオンの世話をした。初対面ではなかったはずだが、と右手と右足が同時に出そうな勢いの従卒にディオンは少し笑った。しかし、特にしてほしいこともすべきこともなかったので、軽めの夕餉を自室でとった後には下がらせた。
従卒が置いていったクリスタルランプの淡い光をぼんやりと見つめながら、ディオンは書斎の文机に向かった。文字を書くにはもう少し光源がほしいと思ったが、調整のために呼び出すのは忍びないというより、面倒だった。見えぬわけでもなし、と己に言い聞かせて引き出しから革表紙の冊子を取り出して鍵を開ける。羽根ペンとインクも用意し、ディオンは今日の出来事を簡単に綴っていった。
日記、というほどのものではない。ディオンはそう思う。どちらかというと備忘録のように記すことのほうが多いが、これはこれで読み返すと結構役に立つのだった。記憶のみを頼りにすると、様々な齟齬が己自身のなかにすら生じることもある。そういったときにこの備忘録は役に立った。――時々、噴きあがる内なる想いを書きつけることもあるから、テランスも含めて誰にも見せられないが。
こうした時間を持つことを勧めたのは、既にこの国を去った恩師だった。
抱えきれないものは吐き出せばよろしいのです、と恩師は言っていた。自らが得た「何か」を誰かに伝えたいのとは違う、自分自身の心の整理のために有効な手立てなのだと。
そのときのディオンは、恩師の言葉に疑問を持った。書く、という行為は己が心により一層刻み付けるものなのではないか、そう思ったのだ。そして、形として残してしまうのは、万が一にでも他者に読まれてしまうという危うさもあった。それが「味方」ならまだしも、「敵」の手に渡ってしまうのは極めて危険だった。
その疑問をそのまま伝えると、確かにそうですな、と恩師は頷いた。しかし、何故かそれでも備忘録をつけることを恩師は勧めた。今となっては、その理由も分かるのだが。
羽根ペンが少しばかり震える。書類に署名するくらいなら造作もないが、文章を流麗に綴るのが徐々に難しくなってきている。備忘録に記す文字は小さい。利き手自体は今のところは問題なく動くが、腕にできた白い沁みが細かな字を書くのに邪魔になるとは思わなかった。恩師はそうなる未来も見越していたのだろう。
合同軍事演習の出立式。昼食会の軍議で決定した案件と保留案件。明日の予定も記した後にインク吸いの紙を当て、冊子を閉じる。否、閉じようとしたが、ディオンは余白に短く今の感情を記した。
「初日だぞ?」
書いた言葉に己で苦笑し、それで今度こそ冊子を閉じる。引き出しを再び開けて冊子をしまうと、今度は専用の便箋を取り出した。聖竜騎士団の紋章が透かし文様に入っている特注品だ。――自身の紋章は廃されたので、今はこれを使っている。
何を書こうか、と腕を組んでディオンは考え込んだ。今はこの場にいない「彼」に宛てて何か書いてみたい、そう思った。カードの類を贈ったことはあるが、手紙という形はそういえばなかったのではないだろうか。面白いかもしれない。
興が乗り、羽根ペンにインクを浸す。備忘録に記すよりも少し大きな文字で、心の思うままにディオンは文章を綴り、そうして夜は更けていった。