PHANTOM PLUS GHOST

7. MODERATE WIND

 ざわめきの中、アシュレイはふと足を止めた。

 何の変哲もない午後、何の変哲もない花屋だった。
 例によって魔に関する調査のため、とある小さな街に滞留していたアシュレイは、その日、市に出かけた。
 古の文献を求め、街を訪れる。そうして求める知識が得られるか、または何者かに感づかれるか──或いはその両方か。おおよそ二週間ほどひとつの街に住み、そうして新たな知識を求め、次の街へと向かうそんな毎日。
 レアモンデとグレイランドの事件に関わり、アシュレイの環境は一変した。何らかの組織に所属するのを当然としていた日々は既に遠く、放浪の身となって久しい。今となっては追われるのにも慣れ、また、魔という不可思議の存在を背負うのにもすっかり慣れてしまった。
 この街に住まう多くの者に紛れ込みながら、アシュレイは市場通りを歩く。大抵の街がそうであるように、この街の市も活気があるのだろう、けして広いとはいえない路地の両脇を固めるようにびっしりと露店が並んでいる。
 間もなく夏が来ることを告げるように、伸びる影は短い。陽を照り返す白い路地に目を眇めたアシュレイは、やがて目当ての店に辿り着いた。
 看板を確かめ、軒先に並ぶ品を見る。ちょうど出ていた店員を呼び止めると、品のひとつを指差し、見立ててくれるよう頼む。
「これが映えるように……あとは任せるが」
「分かりました。少々お待ちください」
 アシュレイの指差した品を取り、店員は中へと入っていく。アシュレイはその作業を暫くの間見やっていたが、やがて再度自らの足元に目線を落とした。
 短く濃い影。すべてが脈打つように輝きだす、季節。
 夏が来ようとしている。
「お待たせしました」
「……ありがとう」
 大して待ちもしないうちに店員は再び現れ、アシュレイに品を渡した。代金を受け取り、小さく会釈する。
 見送られ、アシュレイは歩き出した。そうして手にしたそれをごく間近で見、次いで香りを吸い込んだ。
 夏雲を連想させるような、白。
 吹き渡る風を想像させるような、清冽な香り。
 ──自分を占める、慕わしいそれ。
 亡き妻の誕生日のために買った花束を胸に抱え、アシュレイは帰途についた。

 家──といっても仮住まいだが──に戻ると、書類を散らした室を横切り、アシュレイは窓を開けた。
 高台に建つフラットからは街がよく見える。濃青の空の下、先刻まで彼自身もいた目抜き通りをはじめとして、街は白く乾いたように輝いていた。
 やがて室に入り込み始めた風にアシュレイは目を細めると、卓に置いた花束を手に取った。戸棚に備え付けてあった花器を取り、流しへと向かう。
 ──今日は、誕生日。
 断片となっていた記憶が寄り添うようにひとつのものとなったあの日、繰り返しの光景しか見ることのできなかったアシュレイは、封じ込められていたすべての記憶を取り戻した。
 封じ込められていた間に脳裏を占めていた光景──繰り返しの、夏の光景──が悔恨の色に満ちていたのに比して、解放されたそれは、様々な面を彼の中によみがえらせた。
 思い出はけしてひとつではなく、ひとつの色に塗られているのでもない、と改めて教えるように。
 乾いた湖に沁みるように、記憶は彼の中に沁み込んでいった。楽しさに彩られた日々も、幸せだとかみしめた日々も、そして狂いそうなほどに悲しみに沈んだ日々も──アシュレイはすべてを受け止め、認めたのだった。
 そうして、今日は。
 多少埃を被った風情の花器を洗い、彼は慎重に花を入れた。軽く形を整え、花器を開け放った窓辺に置いた。
「誕生日、おめでとう」
 小さく呟く。吹き込む風がそよ、と緩やかに花を揺らすのを眺めながら。
 本当ならば妻と子の眠る墓に赴き、花束と言葉を捧げるべきなのかもしれない。だが、この街は彼女の眠る墓地からはあまりに遠かった。
 もっとも、たとえ近くとも行くことは叶わないだろうとアシュレイは思う。己を追い回す連中にとっては、縁の深い場所は罠を仕掛ける格好の場所となりうる。訪れることはできない。
 だが。
 花から目を離し、アシュレイは再び外の光景を眺めた。穏やかな、清々しい夏の空。静かな夏の午後。
 墓を訪れずとも、自分の内に彼女達は確かにいる。それを感じるからこそ、アシュレイは王都から遠く離れたこの街で、妻の誕生日を迎えた。
 彼女の好きだった花を飾り、夏空に向かって思いきり窓を開け放つ。あの日、光となった彼女と我が子が還っていった空にも似た、濃青の空を眺める。それが彼の祝福だった。
 彼女がこの世に生を受けたことを感謝する日。彼女という存在が己の中に刻み込まれたことを感謝する日。
 そんな日には空を眺めると、彼はいつしか己の内に決めていた。
 ──おめでとう。
 空に向かって口元のみで呟く。
 そうして彼は傍らの花を見やった。


 夏の小風に吹かれ、花は微笑むように揺れていた。

<終>

あとがき

「オバケ」をテーマにしたのですが、あんまりオバケ色は強くないような…?と書いた当時から首を捻ってしまった次第です。とは言うものの、クリブレの人達も(少しですが)書けたし、クイックシルバーとシドニーの話も書けたしで楽しかったなあとそんなふうに思い出すのでした。ちなみに、ジョシュアの話はオバケなんてないさ〜な歌が元ネタでした。殆ど歌そのままです!

2005.03.21 / 2017.08.30