PHANTOM PLUS GHOST

3. CALLING

 恐怖を支配せよ。
 そんなこと、出来るのなら誰だってやっている。

 サマンサの顔色は、やはり酷く悪かった。
「変な空気でも吸い込んだか? 顔色が悪い」
「……大丈夫よ。少し眩暈がしただけだわ」
 白いというよりも最早青い面をニーチに向け、サマンサは呟いた。
「陽が落ちかけて寒くなってきたし」
 そうして彼女は傾きつつある陽に視線を走らせる。なるほど、彼女の言うように冬の陽は既に暮れかけ、束の間に暖められた外気はその熱を失っていた。
 色薄く、しかしそれでも鮮やかに輝く夕陽。その中に在っても同僚の顔色は悪い。昼日中の短い会話のときよりも、ずっと。
 それきり黙りこくってしまったサマンサから視線を逸らし、ニーチは小さく息を吐いた。
 ──作戦は夜を迎えようとしていた。
 早朝より始まったレアモンデ制圧及びシドニー捕縛の作戦は、未だ終わってはいない。制圧は地上に留まり、シドニーの捜索は大方の想像を──或いは団長のそれさえ裏切り、難を極めている。
 レアモンデは小さい街だ。だが、その小ささに反して彼の街は長い年月を味方に、複雑に入り組んでいる。その複雑さを知悉しているシドニーを捕らえることは楽な作業ではない。それは最初から分かっていたことだ。
 予想外だったのは、彼が召喚したモンスターの量。シドニー自身にも制御できぬほどに呼ばれたモンスターは、多くの同胞を殺し、作戦に少なからずの影響を与えたのだった。
 そうして夜が来ようとしている。──魔物がその力を増す夜が。
 闇が少しずつ迫るごとに、外気もまた変容していっているのをニーチは察していた。昼には俄かに薄められた魔の気配が少しずつ濃くなっている。
 おそらく、傍らの同僚はさらにそれを敏感に察しているのだろう。だが、それでもなお頑なに自らの不調を否定するのは、彼女の矜持がそうさせているのだろうし、「釣り合う」自分でありたいと願う彼女の想いがそれを支えている故だ。
 もっとも、それはなかなか簡単なことではないのだが。今は彼女の隣にいない「彼」に考えを巡らし、ニーチは、ふむ、と大仰に呟いた。
「まあ……まだ冬だしね。正直、私も寒いよ」
 彼女の言葉に、サマンサは緩慢に視線を上げた。その瞳がほんの僅か揺らぐ。
「それに……怖くないといえば、まあね。嘘になる」
「ロメオは恐怖を支配せよと」
 揺らいだ瞳のまま、サマンサはニーチを咎めた。だが、ニーチは首を振る。
「団長の言うことはもっともだ。でも」
 ニーチはそこで言葉を切った。そうしてじっと自分を見つめる──否、見据えるというべき風情で佇む──サマンサを見下ろし、口の中で言葉を繰り返した。
 ──もっともだ。でも、誰にでも出来ることではない。
 自分は多分、それなりに出来るだろうとニーチは考えていた。今こうしても薄気味悪いくらいにしか考えていないし、万が一強大な敵に出会ってしまったならば逃げることを念頭に置けばいい。──といっても、まず大抵の人間やモンスターであれば勝つ自身はあるから、恐れるならば、シドニーが特別に召喚した魔物くらいだ。
 そして、もしそんな敵に出会い、逃げることもかなわなかったら。
 ──その時は覚悟を決めるのみ。
 だが、それはあくまで自分自身にとっての方法であり、隣に佇む同僚には向かない。彼女の剣の腕はなかなかのものだが、それで恐怖を克服できるかというものでもないのだ。
 見据える視線を受け流していたニーチは、数回瞬きをしてみせた。それを合図ととったのか、サマンサは続きを促す。
「でも?」
「支配するってのは、じっと耐えていればそうなるってもんでもないだろう?」
 今のあんたのように。
 続けなかったニーチの言葉は、無言の内にサマンサへと伝わった。瞬間、理解に染まったまなざしが鋭さを増す。
「怒るなよ。少なくとも、そうやって耐えるのなんかは私は苦手なんだから」
 ニーチはその視線を笑みでかわした。そうは見えない、となおも胡乱げに見やる友人から視線を離し、夕光に輝く大聖堂を見上げた。
「……。じゃあ、ニーチはどうして平然としていられるのよ」
「耐えるんじゃなくて、やり過ごす。それだけ」
 問いを繰り出した彼女に、視線は送らずニーチは応えた。
 そう。恐怖を支配するなんてそんなことは、誰だって出来るのならやっている。対峙しただけで恐怖を退けることができるならば、なおのこと。
 できないなら、他の方法を考えてその場を切り抜けるしかない。
 そんなことを考えながらニーチは目を細めた。大聖堂は様々な色彩の光を飛ばし、華やかに輝いている。
 闇にすべてが消えるその直前の、最後の光芒。その姿が再び光に照らし出されるその時まで、この街は闇と魔に染まる。
 時間はもうあまりなかった。
「……」
 ニーチは視線を戻した。今はもう不安げな表情を隠そうとしないサマンサの、その剥きだしの肩を叩く。そうして彼女は本心──団長への疑念──を半ば無視するような言葉を繰り出した。
「団長の傍を離れないようにすれば、まあ大丈夫じゃないか?」
 少し、不安だけど。だが、そうした本心は口にしない。
「……守られたいわけじゃない」
 繰り出した提案に返された答はニーチの想像どおりのものだった。故にニーチは、サマンサの答に深く頷くと悪戯めいた笑みを見せる。
「なら、これしかないな」
「何?」
「サマンサ、あんたにぴったりなのは、ずばり「大声で絶叫する!」ことだな。うん、それがいい」
「──は?」
 サマンサは頓狂な声をあげた。人が真面目に聞こうとしているのに、一体何を言い出すのだろう──彼女の心境を文字にするとこんなところだろうか、とニーチは思った。
 だが、笑いはしない。笑えば説得力はたちまち霧消し、サマンサは二度と真剣にこのことについて聞こうとしないだろうから。
「ティーガーが言うには、怖い時に大声を上げることはいいことなんだそうだ。恐怖の解消に繋がるらしい。それが男には容易にできないから辛いなんて言ってたけどね」
 街中の遊技場にあるお化け屋敷や、トロッコを利用したいわゆる「絶叫系」の乗り物の類を真に楽しめるのは、簡単に叫ぶことのできる女だけだ──。げっそりとしながらそう語ったティーガーに当時の自分は悪態をついたものだが、きゃあきゃあ叫びながらいくつもの乗り物に乗っていたのが目の前の同僚だったことを思うと、それは彼女の中でひとつの結論に十分なり得た。
 叫ぶ。それがきっとサマンサにはふさわしい。
「なんか釈然としないわね……。だってそんなことしたらモンスターにも気付かれるでしょう?」
「足が竦んだままモンスターに出会うよりは、大声で助けを求めながら突進した方があんたらしい……いや、生き残る確率は高いと思うけどね? きっと誰かが助けに来てくれるだろうし」
 そこまで話し、「気配」を感じたニーチは一歩引いた。
「ま、やってみる価値はあるさ」
「何がかね?」
 斥候兵から報告を受けていた騎士団団長が、やがてその姿を現した。いえ、と曖昧にニーチは返答すると、その身を翻す。
 己の提案は、彼が戻ってきたからにはやはり「不要」のものだった。

「──でも」
 団長自らより依頼を受けたサマンサの警護を終え、再びティーガーに合流する道すがら、ニーチは思わず呟いた。
 ──不要だったとしても、もしサマンサが得意の絶叫を披露したならば、どうだろう。
 かつて仲間内で訪れた遊技場での一件を思い出す。すると、己の問いに対する答はひとつしかなかった。
「きっと」
 階段を駆け降り、古びた木箱を踏み越える。
 ──きっと、それは最強の武器になっただろう。
 どんな魔物の咆哮よりも、それは余程恐ろしく、耳にした者すべての聴力を確実に落とす力を持つ。そうしてそんな時にがむしゃらに彼女が剣を振るえば、もう怖い者なし間違いない。
 彼女はそれに気付いていないが、自分は知っている。否、騎士団の者ならば、事実として知り得ていること。
「まったく、残念だ」
 ティーガーと同じように叫べぬニーチは低く笑い、やがて見えてきた己の相棒に武器を掲げてみせた。