PHANTOM PLUS GHOST

2. PLUNGE INTO THE UNKNOWN

「頭をぶつけるなよ」
 遅れまいと必死についてくる部下に素気なく声をかけ、ハーディンは闇に溶け込んだ階段へと足をかけた。
「は、はい」
 その闇の深さに誰かが唾を飲み、誰かが慌てたように応える。遥かなる闇をこらした目で見定めようとする者、光を求めて元来た道を振り返る者──それらの気配を背に確認し、彼は闇へと足をかけた。彼らにとっては初めて目の当たりにする圧倒的な──それでいて、ハーディンにとっては既に慣れ親しんだ闇へと。
 段を降りるただ一つの足音がしばらく響く。だが、それに続く足音はなかった。
 数段降り、ハーディンは入り口に戸惑い顔で立ち竦む新参者達を振り仰いだ。一人一人の顔を短く一瞥し、あくまで素気なさを装った口調で彼は彼らを促す。
「『決まり』さえ守れば何も恐れることはない……『決まり』さえ守ればな」
 それだけを告げ、ハーディンは闇にその身を浸していく。
 そして一瞬の無音。
 ややあって不揃いのそれが後を追いかけていった。

 確かに──。
 一人先にレアモンデの地下へと進むハーディンは、背後に聞こえる不揃いの足音に彼らの心中を察した。彼らは全く正しかった。
 初めて足を踏み入れた地で──しかも、かつて滅んだ街で──このように闇を歩く。それは彼らにとって、否、大抵の人間にとっては恐怖以外の何物でもない。そう考えることは然程難しいことではないのだ。
 事実、今まで此処を訪れた大半の者はこの闇に臆し、怯えた。中には雷に打たれたようにその場に立ち尽くし、ただの一歩をも動くことさえできぬ者もいたくらいだ。
 見知らぬ地を歩く恐怖。一瞬で滅び去った地を歩く恐怖。そして、潜在的な闇への恐怖。此処にはそれが確かにある。
 一段を降りるごとに足音は闇の中に重く落ち、陽の光を知らぬ空気は冷たく纏わりつく。そうした空気に入り混じり、燐光よりも淡い明るさで──故に彼らが気付くことはない──魂の破片がさまよい、そして唐突に消えていく。
 闇とは、ただの暗がりをいうのではない。
 ハーディンはそうも思う。
 幾年もの月日を澱のように降り積もらせ、そこに在るものすべてを己の中に吸い尽くし、無に帰さしめる。そうして生まれた暗がりこそが本当の意味での闇なのだ。
 ──そんな闇にももう慣れたのかもしれない。
 では自身は、と己に問うとそんな答が浮かび上がった。
 もうけして短くはない時を過ごし、数多の非日常を垣間見た。信じてすらいなかった「真実」に背を向け、伝説に消えた古の力に望みを抱いた。闇に立ち上る影を見、闇の中で死んだとされる者達の呻きを耳にした。
 そう、耳にしたのだ──! 確かに耳にしてしまった!
 そこまで考え、ハーディンは見る者もない闇の中で渋面をつくった。ふと振り返ってしまった過去がそんな顔をさせた。
 思い出したくない過去だ。耳障りな不揃いの足音も今は意識の外に置き、彼は心中でそう吐き捨てる。
 苦々しい思いを抱きながら膝を屈した過去ではない。絶望と悔恨に身を浸した過去でもない。そんなご大層なものではない──それは、もっと単純で間が抜けているといってもよいくらいのささやかな過去だ。
 単純であるが故に、その「過去」は己を身構えさせない。そうして、故に何かの弾みでそれは簡単に意識の端に上り、頭を抱えるほどのばつの悪さを与える。ちょうど今のように。
 きっとこの場に佇むのが自分ひとりだったら頭を抱えさえしただろう。上げかけた手を、ハーディンはそろりと降ろすかわりに壁を打つ。湿り気を帯びた壁から弾けた鈍い音が彼を現実に戻した。
 その音と呼応するかのように、頬を撫でる闇の気配がふと変わった。その──どこか慣れた気配がさらにハーディンを現実へと引き上げる。
 そこは闇の中だった。背後の光は既に遠ざかり、眼前はいうまでもなく闇である。その全くの闇の中でハーディンは部下達に静止するように言い、自身もまた歩を止めた。
「お前達はこの街を自在に歩くことができる」
 ハーディンは男達にそう告げた。──闇の中、足音もなく傍らに並んだ何者かの気配を感じながら。
「この街は魔を信じるお前達を拒絶したりはしないからな。魔を嘲弄する者はこの街に立ち入ることはできん」
 男達の中の誰かが息を呑み、誰かが息を吐いた。
「そう、自由に歩くことができる──ほんの僅かの例外を除いて」
「例外?」
 問われ、ハーディンは頷く。闇に慣れた目をこらし、一人一人の眼を捉え、最後に傍らの彼を見やる。無表情の気配で佇む彼にハーディンは喉から出かかった溜息を飲み込んでしまうと、残りを続けた。
「この先にある地下通路──、ここから先、足を踏み入れることは許されない。それが」
 瞬間、無数の蝋燭のあかりが闇に浮かぶ。
「それがここの『決まり』だ」
 ハーディン以外の訪問者達は、唐突な現象と声の出所に呆然とし、数瞬の後にある方向を凝視した。
 そこに平然と佇むはひとりの青年。
 彼らがそれぞれの拠り所として求める「奇跡」なる存在は、すべての視線を受け止め、にっと笑った。

 その笑みはハーディンに数年前を思い出させた。
 ──それは、暗い径だった。

 ハーディンは振り返ると、求めるものを探すかのように目を眇めた。
 求めるものと彼が今佇む場所は、既に遠く隔てられていた。求めるもの──外界の光はもはや豆粒の如く小さくなり、今まさに周囲の闇に飲み込まれようとしている。
 しばらくその光を眺めやり、ハーディンは再び闇へと足を向けた。手元のあかりが彼の周囲だけを寂しく照らしていたが、それはあまりにも頼りなかった。
「ここら辺は……崩れてないようだな」
 独りごち、あかりを床に向ける。壁が崩れたのか石片がそこら中に散らばってはいるが、通れないわけではない。見たかぎり、それはこの先も同じようだ。
 かつての大地震により、この街は殆どが廃墟になった。多くの住民が突然の災厄の犠牲となり、街は崩れ去った──その筈だった。
 少なくとも公式にはそう記述されている。だが、彼が今目の当たりにしている「街」は、伝え聞いたほどの崩壊をみてはいない。
 無論、場所によっては通れないほどに崩落した場所もある。隆起や沈降のために、ある場所は古代キルティア時代の姿を復活させ、またある場所は海面に没した。そして、確かに生者の姿はない──これは別の事由の結果に拠るが。
 だが。
「……魔とやらの力の賜物か、これも」
 自らに言い聞かせるように言葉を吐き、ハーディンは先を進んだ。
 人の欲望に呼応した末にこの街を崩壊せしめたのも、その贄として捧げられた数多の魂を己の内に取り込んだのも、すべては「魔」によるもの……数日前、ハーディンを酒場からこの場に連れてきた男は、驚く彼を前にしてそう言い、薄く笑ったのだった。
 男とは場末の酒場で出会った。何をきっかけとしたか、男は強かに酔った自分の隣に座を占め、魔の存在を打ち明けた。
 まやかしだ──。不可思議な存在を言い切る男にハーディンはそう言いかけたが、しかし酒に酔った喉を言葉は通り抜けはしなかった。先立って男が見せた秘術が彼から疑惑を奪い、絶望した心に欲望を与えてしまった、そのために。
 咄嗟にハーディンは男の冷たい手を取った。そうして数瞬の後、彼は己が見知らぬ街に立っていることに気がついたのだった……。
「……」
 辺りを見渡しながらハーディンはなおも闇を進む。そうして所々で足を止めては、伝え聞いた事柄を整理し、自分の内へと落とし込んでいく。
 それはひとつの儀式とでもいうようなものだった。
 男の話を信じないわけではない。彼が己の目の前で為した秘術は、まやかしでもなく手品でもなく確かに「本物」だった。そして、この街の荘厳な雰囲気もまた「本物」だと自分に訴えかけてくる。それでもなお、街を見て回るのは単に自分が「ついていけない」故だ。
 正面の扉を開き、室を見渡す。すぐ傍の壁に何かでひっかいた跡があったが、それが何であるのか、ハーディンには分からなかった。
 これも盟約の類なのだろうか、と推測してみる。或いは、遠い過去に誰かが付けた呪いの名残なのか。
 しばらくそれを眺めていたが、はめていた皮の手袋を外すと、素手でその跡に触れた。──瞬間、緑の火花が小さく弾ける。
 手を引き、ハーディンは浮かび上がった緑の紋様に見入った。そうして数瞬後、再び周囲を見回すと、右奥に先刻までは存在しなかった扉が出現していることに気がつく。
「……」
 この街も、あの男と同じように己に真実を見せる──。
『そんなものか?』
 簡単には理解できないと話した自分に、あの日、彼は小さく首を傾げてみせた。そうして、「まあひとつひとつ探るのも良いか」と語り、数語小さく呟いた後にやりと笑んだ。
 その笑みが何れの所以によるものなのか、まだ彼を知って間もなかった自分には分からなかった。故にただ曖昧に頷き、男の手をとり──そうしてこの場に。
「知っとかなきゃ、ならんからな」
 探ることはけして無意味ではないとハーディンは己に言い聞かせるように呟き、出現した扉の取っ手を掴んだ。

 瞬間。
 ──圧倒的な気配が薄く開けた扉から流れこんできた。
 
「……!」
 ハーディンは目を見開き、己の背後を振り返った。
 何もない。己が通ってきた通路には、蝋燭灯のみが何事もなかったように揺らめいているのみ。──扉を開けた瞬間に身を襲った波動の跡を伝えるものは何もなかった。
 立ち竦むように強張ってしまった足に力を入れ、ハーディンは再度、己の進む先を見据えた。蝋燭灯もない暗がりは、手にしたあかりを翳してみてもよく見えはしない。
 ──気のせい、か?
 ぽっかりと開いた闇を睨む。慣れてしまった周囲の音に耳をすます。ハーディンはしばらくそうしていたが、やがて緩く首を振った。
「どうやら、そのようだな……」
 浮かんだ考えを口に出し、彼は蝋燭灯を持ち替えた。
 何も変わらない。先刻と同様に、不気味に闇に沈んでいる──。そう、何も変わらずに。何事もなかったように。
 ならば、あれは気のせいだったのかもしれない。
 ひとつ頷き、先刻の体験をなかったものとして考えてしまうと──後に、それはそう思いたかったのだと気付いたのだが──、ハーディンは持ち替えたばかりの蝋燭灯を再び持ち替え、闇に翳した。
 そうして一歩を踏み出した、そのとき。
「………!!」
 ──嵐が再び吹き抜けた。
 五感を襲った不可思議な感覚にハーディンは呆然とその場に立ち尽くした──。


「ここから先へ足を踏み入れてはならない。それが『決まり』というものだ」
 突然出現した自分達の主に魂を奪われた風情の男達に、ハーディンは諭すように言った。その語尾には少しばかりの熱が込められていたが、男達が気付くはずは無論なかった。
 皆が皆、シドニーに見とれている。ここ最近の入信傾向からいって、それは大して珍しいことでもなかったが、それ故にハーディンはうんざりとした気分にさせられた。
 ──お前ら、少しは人の話を聞け!
 傍らに佇む友人は優雅に笑むばかりで、むしろこの状況を面白がっているようにも見える。そう、あの時と同じように、とても楽しげに。
「……」
 不意に過去を思い出し、ハーディンは溜息を漏らした。先刻──階段を下る際に思い出していた記憶と同じそれは、できれば二度と思い出したくない類のものであることは間違いない。
 ──言えるか、そんなこと。
 尚もうっとりと見とれている男達の存在などは外に置き、ハーディンは通路の先を見やった。かつて己が足を踏み入れようとした闇がそこには広がっている。
 そう、足を踏み入れることを拒まれた闇が、そこには。
 大きな誤解のもとに、立ち竦んだ場所が、そこには。
 その闇は、すべてを引き込みそうな具合でぽっかりと存在している。恨めしげに見やったハーディンは、シドニーが何時の間にか男達に訓示めいた科白を吐いていることに気がついた。
「──ハーディンも言ったが、この先は秘められた場所。豊潤な魔を得るために静謐を保たなければならない場所──分かるな?」
 はい、と陶然と男達が呟く。
 シドニーは満足げに頷くと、彼らに出口を指し示した。

 入ってはならない。──その理由は?

「凄い顔だな、ハーディン」
 不揃いな足音が徐々に遠ざかっていく。その足音を見送るように男達が去っていった方──つまり出口だ──を眺めていたハーディンは、呼びかけられたその声でふと我に返った。
 見やると、手を腰に当てた親友が「ふふん」とでも言いたげな表情で己を見上げている。彼がそうした表情で己を見上げ、そして、多少語尾を上げた調子で己の名を呼ぶときは、ろくなことがない。先にそのことに思いやり、うんざりした表情も隠さずにハーディンは溜息をついた。
「何がだ?」
「隠すこともなかろう? 若さゆえの過ちは誰にでもある」
「だから、何がだ」
 意味ありげに笑むシドニーに噛み付くように言い、ハーディンは渋面を作った。シドニーの言葉には無論、覚えがある。──だからといって、慌てて彼の言を肯定することもない。渋面で防御したその内で、ハーディンは己に言い聞かせた。
 言い聞かせたのだが。
「なるほど、確かにこの先は危険だな。お前が身を以て体験したのだから、間違いがない」
「……」
 あいつらは命拾いをしたな。
 シドニーはすまして言い、ハーディンの肩をひとつ叩いた。
「ハーディンが先だってこの街をつぶさに調査し、所々で我が身を犠牲にしたからこそ……」
「あああ、そういう誤解を招くようなことは言うな!」
 大体、犠牲になどなっていない! 人の話を聞け!
 芝居がかった友人の科白にハーディンは怒鳴った。だが、そんな様子に動じる風情のかけらもなく、シドニーは懐かしいな?と付け足す。
 ──それは、数年前。先刻思い出した過去のこと。
 あの日──地下通路に足を踏み入れた日、己を襲ったのは不可思議な波動ではなく、魔でもなく、それはひとつの声だった。
「あれは傑作だったな、ふふ……」
「……大体、誰があんなところでスピーチの練習なんぞしてると思うんだ!」
 怒鳴ったハーディンのその声の大きさに驚くように、蝋燭灯が揺れる。揺らめきの影の狭間に魔に染まった魂がひとつふたつ通り過ぎていった。
 だが、そんなことは無論、ハーディンにはどうでもいい。
「練習は隠れてするものだろう?」
「……シドニー」
 立ち竦まざるを得なかったほどの恐怖。地獄の──もしそんなものがあればだが──底からよみがえるような波動の真相は、この眼前の男が発した「スピーチ練習」とやらによるものだった。それを知ったときの己の衝撃といったら、しばらく悪夢に見たほどだ。
 ──目的を達するためには、人が必要だ。必要だろう?
 今と変わらぬ調子で、あの時シドニーは己に笑ってみせた。そうして「ここは立入禁止にすべきだな」と揶揄うように言ったのだ……。
 以来、基本的に自由に歩くことのできるレアモンデの中でもこの場は立入禁止である。だが、その理由を正確に知る者はいない……ハーディンを除いて。
「では、久々に「練習」に行くとするかな」
 シドニーはひとつ伸びをすると、ハーディンにそう告げた。どうやら本当にこの先に用があるらしい。スピーチの練習をするか否かは知るところではないが。
「……ああ行ってこい行ってこいもうどこにでもしばらく行って帰ってくるな俺を理不尽に振り回すな」
「つれないな。せっかくその場に立ち合わせてやろうと思ったのだが」
「いいから、とっとと行け!」
 怒鳴ると、シドニーはくつくつと笑って右手を挙げた。歩き出した彼の歩調に合わせ、蝋燭灯がひとつ、またひとつと灯っていく。
 ハーディンはしばらく入れ墨の刻まれたその背中を見送っていた。
 そうして、やがてその背が闇に紛れる頃、素に戻ったように息を吐く。
 ──本当に、何でこんなところに用があるんだか。
 シドニーは本当のことを話そうとはしない。おそらく、その必要がないと思っているのだろう──彼にはそんなところがある。
「まあ、知ったところでどうなるわけでもないからな」
 自分も戻ろうと、ハーディンは踵を返した。出口に向かうたびに、背後の蝋燭灯はひとつ、またひとつと消えていく。
 ──それにしても。
「進入禁止の札でもかけるかな……」
 今日みたいなことはもう二度と御免だ、と半ば本気で思いながら、ハーディンは光の世界に戻っていったのだった。