PHANTOM PLUS GHOST

5. STATIONARY MY FRIEND

 足を踏み入れると、蝋燭灯が灯った。
 闇を照らすには十分ではない灯は、僅かな空気の流れに乗って四方に影と光を振りまく。
 その揺らめくさまを見渡していた彼は、己の視界の端に煌めく何かを見つけ、目を凝らした。だが、それが何であるのかは特定できず、引き寄せられるままに声も発さずに歩を寄せる。
「……」
 そうしてやはり無言のままに石床に落ちたそれを拾い上げる。それは、銀色に光る一振りの短剣だった。
 短剣に、彼は見覚えがあった。そして、その短剣の持ち主にも覚えがあった。
 主を失った短剣を手にしたまま、彼は再度室を見渡す。何処からか入り込む生ぬるい風が四方に影と光を散らしていくその先に、銀色に煌めく何かが同じように落ちている。
 やはり、彼は──シドニーはそれを拾った。
 そうして、抱きしめるように二振りの短剣を抱えた。

 ──ひとりの友に、ひとふりの短剣。

 室を出、真暗闇に戻る。だが、扉を閉めたシドニーが目線を上げる頃には、地下通路にも灯が灯っていた。
 さらに地下奥を目指し、彼は歩き始める。
 二振りの剣は、先刻の室に置いてきた。落ちていたその場所にそれぞれ戻した。持っていくこともできたが、そうする気にはならなかった。
 歩を進めるたびに眼前の蝋燭灯が灯っていく。灯によって俄かに明るくなった通路には何者の姿も認められず、魂の咆哮さえもない。嘆きも悲しみもないそこには、喪失だけが薄く漂っていた。
 ──もうすぐ多くの場所が、こんなふうになるのだろう。
 すべての蝋燭灯が灯った通路を抜け、次の室をも通過する。幼い時分に戯れに張ってみた罠を避け、さらに先へと。
 他の何処よりも早く失われた空間となったこの場所には、静寂のみが転がっている。怨念めいた叫びも、軋む街の悲鳴も──街の大部分を覆っているそのようなものは──、この場にはなかった。
 もうすぐ。多くの場所が。こんなふうに。
 苦しげな叫びも、忌々しい呪詛もない、空っぽな空間に。
 ──なってほしい。
 次第に静寂に慣れていく心を認めつつ、シドニーは己の願いを心の何処かに転がした。
 己が守るまでもなく、あの男が願うまでもなく、もうじきに街の命は途絶える。それが、自己の手に寄るものか、他者の侵入の果てにあるものなのか。それについては未来を予見できぬこの身には分かるはずもないけれども。
 街の命は──魔は、終わりのない眠りにもうじきつくだろう。
 黙々と歩きながら、考えは次々に転がっていく。常日頃考えているようで、しかし確実に忌避し、それ故に終わりの見えない不毛な思考と隠れた願い。それは次々と生まれ、彼自身の心を満たしていく。
 己がすべてを終わらせたいと願っているのと同じように、この街もそれを願っている。否、街が願っているそれに己が共鳴しただけのことなのかもしれない。
 己が魔という液体の「いれもの」であるのと同じように、この街もまたメレンカンプの時代から魔を内包していた。「彼女」がこの世から消え去り、不遇を託つことになった後も、「彼女」の言葉を忠実に守り、願いを遂行してきた──二十五年前までは。
 古の時より長い年月をかけ徐々に薄れていた魔が、あの災厄の後突然濃厚なものに変容したことによって、街は軋み始めた。「彼女」──メレンカンプの願いを頑なに守ってきた街はそのままに、彼女が為したその力が壊れ始めてしまった、そのために。
 すなわち、強大な力を人間が──自分とあの男が──欲し、その欲の赴くままに封印を解き放ったために。そして、そのために数多の魂を必要としたために。結果、魔はメレンカンプの呪縛から逃れ、本来の奔放な性質を取り戻してしまった。
 己が魔を操ることのできるようになった頃から、街はひたすら自分に訴えかけた。もう眠りの世界に連れて行ってはくれないか、と時には地を震わせて。
 だが、自分がそれを聞き届けることはなく、聞かぬふりで魔を増幅させ、操った。そうして己も待ったのだ。
 今、時は来たれり。シドニーは思う。
 街はもう間もなくに眠りにつく。魔は縋る相手もないままに露と消え果てる。それを確かに見届ける──それこそが自分に残された只一つの仕事だ。
 そうして街が願ったように、己もまた永遠の世界の中に。
 思考を帰結させ、最後に浮かんだ願いを彼は呟いた。誰にも聞き届けられることはなく、言葉は冷えた通路に落ちていく。
 多くの通路を通り、階段を降り、角を曲がる。何れもが見覚えのある、しかし長い間目にすることのなかった風景だ。そして、ここ数日巡った他の場所と同じように、もう見ることもなくなるだろう風景。
 街全体に結ばれた印を今一度確かめるため、数日前からシドニーは街の其処彼処を巡って歩いている。そのどの風景もが彼の中では慕わしいものであったが、ここは特別だった。
 幼い頃から──そう、己の「弟」と同じような年頃からこの場にはよく訪れていた。おそらく、目を閉じたとしても先に進むことは容易だろう。
 見覚えのある、しかし己が懐かしく思う過去とはもはや違う光景の中をシドニーは進む。
 灯りによって俄かに明るくなった通路には何者の姿もなく、寄り添う魂の影もなく。まったくの空虚ばかりの中を──過去にはなく、現在には色濃く漂う喪失の気配の中を──シドニーはただ進んだ。
 か細い声で囁く「友」に会うために。

 喪失の場を進んでいく。
 もはや何人も通ることのない通路を迷わずに辿っていく。
 喪失の先に未だ佇む小さき友に会うために。

 ──最後の扉を開いた途端、「彼女」と目があった。
「──」
 突然のことに、シドニーは思わず息を呑んだ。
 その強い視線に足が止まり、勢いあまって上体を崩す。そうして視界を遮った己の金色の髪のすぐ向こうに、彼女は立っていた。
 彼女がこの室にいることは知っていた。僅かに──本当にごく僅かに──漏れるその気配を察していたために。故にこそ、ここに来たのだ。
 ──だが。
 自分が足を踏み入れぬために、立ち止まってしまったために、未だ暗い室にぽっかりと光る、人形の瞳。何処からかの光を跳ね返し、薄青色に染まったそれには何の感情も浮かんではいない。
 偶然その場にいたのだろう、虚をつかれたように無表情で見上げる彼女の気配は、あまりにも薄かった。扉近くに──すぐ傍に佇んでいることなど、まるで気付かせぬほどに。
 ここは、喪失が満ちる場所。消えゆく魔とともに、すべてが朽ち果てていく場所。
 その只中に彼女は佇み、そのためにかりそめの命はすべてを忘れようとしている。空っぽの瞳に浮かぶ色は、侵入者への警戒であり、忘却であった。幼い頃に時をともに過ごした者への友愛の色はそこにはない。
 ──彼女は自分を忘れてしまった。
 内心、彼は呻いた。
 分かっていたはずだ、と思う一方で地下に淀む空気がシドニーの内を冷やしていく。
 魔を媒介に己と「彼ら」の契約は成り立つ。その力が薄まれば、彼らの力が弱まると同時に、その意識も静かに崩れていく。かりそめの心を失い、魔をすなる者への忠誠を失い、そうして暴走が始まるのだ。
 それは、このレアモンデで起きつつある事態。強固な願いによって引き出された現実の過程にあるもの。
 目の前の彼女は、この場を埋める「喪失」ではなく、その道を歩もうとしている。永久の安寧ではなく、一時の快楽に無意識にその身を染めようとしている。──「幼馴染」として、それはあまりにも悲しい現実だった。
 そして、寂しかった。
「……!」
 「敵」への呪文詠唱を始めた彼女の両腕を咄嗟に掴む。つくりものの腕を掴まれ憤慨したのか、怒りの色をこめて睨み付けた彼女を、彼はじっと見据えた。
 常の作った表情を今は闇に置き、素の顔で見つめた。
 ──つくりものの手を、にせものの手で握った幼い頃。
 シドニーの歩を合図として、室に灯りが灯る。揺れる光に、ガラス玉が煌いた。
 彼女はまだ己が誰なのか分かっていない。もう記憶は失われてしまったのかもしれなかった。
 魔がこの街から消えるよりも早く。
 自分が眠りの道を歩み始めるよりも早く。
 ……それは、あまりにも寂しかった。目の前の光景が寂しい、とシドニーは素直に認めた。
 故に。
「……クァトゥール」
 かつて自分がつけた名で、彼は人形である少女をそっと呼んだ。


 ──ともだちがほしかった。
 無論、幼い自分はそんなことを考えて行動したわけじゃない。
 この街でいつもひとり。それが辛かったから、四方を歩いてまわった。それだけだった。
 街はすべてが自分に優しかった。
 しかし、街には誰もいなかった。
 悲しい魂は多くあれど、それらは自分に話しかけたりはしない。
 さまよえる魔物はあれど、それらは遊んでくれはしない。
 街をさまよった。自分以外の自分を求めて。出口を求めて。
 そうした果てに。
 見つけたのは、地下通路とその先にあったひとつの扉だった。

「クァトゥ」
 動きを止めた人形に、彼はもう一度呼びかけた。願わくば、自分の声がせめて聞こえることを。そう祈りながら。
 だが、人形はつくられた表情に浮かんだ怒りの色を消そうとはしなかった。掴まれた手を振り解こうともがき、苛ただしげに彼を睨む。
 忘れてしまったのだろうか。あんなに、一緒だったのに?
 落胆の溜息を抑え、シドニーはその場に屈んだ。そうして目線を少女にあわせ、空色の瞳を覗き込む。
「クァトゥ」
 名前をもう一度。古に使われた言語で「四」を意味するその名前は、己が四番目に「見つけた」友達だから。
 ウーヌ。ドゥオ。トレス。クァトゥール。クィンクェ……その他にも。この地下通路で見つけた多くの「小さな友人」たち。
 だが、もはやいずれもが空虚に消え、彼らが手にしていた剣は地に落ちた。そうして最後に残ったのは、目の前にいるクァトゥ。地下通路の最奥、最後の扉の向こうにいた彼女だけが、この場に残るただひとつの「生命」。
 誰も知らない、己だけの友。
 今となっては、彼女だけが幼い頃からの己の友。
「……クァトゥール。「僕」だ。覚えているだろう?」
 長い間使わなかった人称を自らに用い、彼は、彼女を見つめた。


 「そこ」へは、長い地下階段を下りなければならなかった。
 雨の日や風の日……そうでなくても手足が痛む日には、階段を下りることなど到底かなわなかった。
 階段を下りることができるような日でも、その所作にはひどく注意を要したものだ。
 段差は子供の足には合わず、偽の足は重い。長く歩くことはできなかった。
 幾度階段から転げ落ちたことだろう。もう覚えてなどいないが。こんな地下通路では助ける者など無論あるわけもないから、そんな時には歯を食いしばり、もがきながら起き上がった。
 そうした瞬間に決まって感じたのは、彼らの──小さな友の視線。
 扉の向こう側で己が来るのを待っていた彼らは、思わぬ転落事故に心配そうな視線を己に投げかけていた。扉に詰め寄り、友がぼろぼろになりながらも自分達のところへ来るのを祈るように待っていた。
 彼らはいつも自分を待っていた。待ってくれていた。
 ──だいじょうぶ?
 ──だいじょうぶ。
 セプテムの無言の問いかけに、苦笑いで小さな己は頷いた。
 クァトゥが埃を掃い、強く打った右肩を無言で撫ぜてくれたのが、とても嬉しかった──。

 常と同じように点いた灯りに、空色の瞳が儚く煌めく。
「……。……?」
 何かを探すまなざし。静かに薄く漂う記憶と、目の前のそれとを重ねあわせようとする、表情。
 少女の動きが止まった。
「そう。覚えているだろう? 「僕」のことを。名前を」
 そうしてシドニーは小さく自らの名を少女に囁いた。瞬間、少女の面が理解色に染まる。
 シドニー。
 シドニー。わたしたちの、小さな友達。
 声を発することのできない人形は、唇の動きのみでそう彼を呼んだ。その無言の呼びかけにシドニーはゆっくり頷く。
「クァトゥ。……長い間会いに来てやれなくてすまなかった」
 子供と呼ばれる時代が過ぎ、己の意思でこの街から外に出た頃から──公爵の片腕となって暗躍するようになってから──シドニーがこの場を訪れることはなくなった。人間の世界は目まぐるしく、大人達の思惑に流されぬようにするには、子供時代の甘い感情は切り捨てなければならなかった。そして、そんな世界に染まった己を彼らに見せたくなかったのだ。
 同じ季節はどれほど巡ったのだろうか。
 掴んだ腕をシドニーが解くと、少女はつくりものの手で無言のままシドニーの頬を撫でた。遠い昔、よく転んだ人間の子供にそうしたように。
 彼女が手を、腕を動かすたびに、蝋燭灯の光を弾くようにきらきらと銀の光が煌めく。手に結ばれた彼女の命脈をそっと撫ぜ、彼は彼女を抱き上げた。
 初めて会ったときは同じような年恰好だった。髪の色も同じ、肌の色も同じ。違うのは、彼女──彼らが魂の入り込んだ人形で、自分は魂の抜けかけた人間だったということくらいだ。
 それから同じ季節が幾重にも。少女は変わらず、同じ姿で。
 弱まった魔に促されるように仲間が朽ち果てても、変わらず同じ姿で。
「そういえば、短剣は?」
 手近な木箱に腰掛け、シドニーは両手の空いているクァトゥに問うた。クィックシルバーは短剣をその手に帯びているのが常であるのに、少女の手に今、それはなかった。
 彼の問いに彼女は小首を傾げ、室の一端を指し示す。
「?」
 シドニーは目を凝らした。そうして見ると、灯りの光も満足に届かぬ床に何かが落ちているのが分かった。
「──ああ、落としたんだな」
 こくり。少女が頷く。
 おそらく何かの拍子で少女は短剣を取り落としたのだろう。そして、それは彼女の手の届かないところに行ってしまった。──糸に縛られてしまった人形にはけして届かぬ場所に転がり込んでしまったのだ。
 シドニーは薄く目を瞑ると、己の中に魔を呼び込んだ。小さく呪を呟き、その音に魔の力を乗せる。
 やがて部屋の端で短剣は音もなく浮かび上がった。そのまま宙をふよふよと漂い、短い旅程を少女の手元で終える。
 少女は短剣を握ると、シドニーを見上げた。やはり唇だけで感謝の言葉を告げる彼女に、彼はいや、と首を振った。
「本当にクァトゥだけなんだな……」
 そうして思わず漏れる独白。
 室を見回してみると、気配が告げるとおり、他に何者かの姿もありはしない。蝋燭灯が揺らめき、その揺らめきの果てにある影は己と人形のふたつのみ。
 クァトゥの室は、地下通路の中でも最奥の一室だった。他の室もすべて見回り、そうしてこの室に最後に辿り着いたのだった。
 だが、他の室には何人の姿もなかった。ただ、無造作に散らばる短剣があったのみ。そのひとつひとつをシドニーは手に取り、そうして元に戻した。
「君も、もうじきそういう運命になるんだろう」
 じっと見つめる少女の頭を撫でると、少女はくすぐったげに頬を緩ませた。その姿にシドニーもひそりと笑む。
 すべてが失われる頃、きっとこのかりそめの命も人形という器から離れる。そうして魂は何処かをさまよい、魔に染まった人形の体は永遠に消えて失せる。
 他の友達と同じように。
 自分と同じように。
「……」
 そして、願うことはただひとつ。
 シドニーはその問いを思考の片隅に追いやると、解けかけているクァトゥのリボンに手を伸ばした。
「結ぶから、動くなよ」
 義手の爪が人形の髪に絡まぬよう注意を払いながら、シドニーは水色のリボンを解いた。ベルベッド地のそれはもう大分古く、ところどころが擦り切れ傷んでいる。
 リボンの端についた赤黒い沁みに目をとめ、彼はそれを撫ぜた。そんな彼の手元を少女もまた見つめる。
「ほら、動くな」
 人形を前に向かせ、ついでに髪も解いた。「友達」のひとりに昔教わった要領で髪を撫でつけ、三つに分け、あっという間に編み上げていく。
 ──ハーディンが見たら、目を見張るだろう。
 自分のことを不器用だと思いこんでいるらしい親友の姿を思い浮かべ、シドニーは笑った。こんなふうに器用に髪を編むことができるなどと、思いつきもしないだろうから。まして、「人形」と戯れるなど、絶対思いもよらないだろう。
 もっとも、髪結いなどは今の自分達に役立つことではない。それ故にけして暴かれることのない秘密のひとつとなりえるのだ。
 自らの本当の願いと同じように。
「できた」
 最後に水色のリボンを後ろで結び、シドニーはじっとしていた少女に声をかけた。瞬間、少女は振り向き小さく口を動かした。彼女が何と言ったのか、聞かずとも彼には分かった。
 アリガトウ、と。遠い昔に「寂しい」と呟いたときと同じぎこちなさで、少女は言葉を自分に伝えたのだ。
 シドニーはその謝辞には応えず、やはり曖昧に笑もうとして失敗した。笑むかわりに数瞬の間、灯りに煌めく空色の瞳をじっと覗き込み──彼は膝の上の友を抱きしめた。
 何も言わず抱きしめた。
 そうして、祈るように、囁くように願いを呟く。
「さまようことなく、いつかどこかに辿り着いて──」
 声は何故か震えた。
 剥きだしの背中に、血の通わぬ手。人形の手は彼の抱える逆聖印に辿り着き、彼女はそれを無言で撫ぜた。
 わかっているから、とそのつくりものの手が伝える。
 私もそうだから、と。
「──真なる環のなかで、眠りたい──」
 囁いた祈りに呼応するように、蝋燭灯がじじ、と揺れた。

 もういいでしょう?と街が揺れる。
 まだだ、と自分が応える。
 そう、まだ。今はまだ時ではない。
 歪んだ円を真円に戻すには。
 分かたれた契約をひとつに戻し、託すには。
 或いは、打ち壊すには。
 そのために無視してきた街の願い。己の願い。
 それが叶うときはもうすぐに。

「……外の光を見に、来るか?」
 木箱に腰掛けたままの少女に、立ち上がったシドニーは問うた。
 どれくらいの時が流れたものか、時を告げるすべが何もないこの空間ではそれすらも分からない。幻の蝋燭灯はけして蝋を減らすことなく灯り続ける。蝋の長さで時を計ることもできなかった。
 手元の短剣をいじっていた少女は、シドニーの言葉に顔を上げた。彼の言葉の真意が何処にあるのか探るような目つきで、じっと彼を見る。
 そんな少女をシドニーはただ見返した。再度促すでもなく、その逆でもなく、ただ見つめる。
 外の光を。外の世界を。もう長い間浴びていない陽の光を。
 人形の姿となり、そのために地下に留め置かれた彼女にとって、それがどれほどの願いであるか──シドニーは知っていた。そして、それがけして叶うことのない願いであることも分かっていた。
 彼女達の命をこの世に留めるのは、闇に伸びる銀の糸。それを断ち切り何処かへ去ることは、許されることではなかった。
 糸が切れた瞬間、人形から魂は抜け、再びさまよう。それを恐れたからこそ、彼女達はこの地に留まり、そうして消え去った。
 クァトゥは頷かないだろう。分かっていたが、シドニーは最後の友達に問いを投げかけた。
「頷くなら連れて行く。陽の光を浴びるのも悪くない」
「……」
 久々に陽の光を。そう、あの災厄のあった二十五年前から見ることのなかった陽を。最後に、光を。
 己で己の糸を断ち切り、そうしてすべてを終わらせる。もしもクァトゥがそれを望むなら──街が終わるよりも早く、己が朽ちるよりも早く眠りにと望むなら──叶えたいとシドニーは思った。
 それとも、この場ですべてが終わるのを待つか。それはそれで良い選択だと、シドニーはまた、思う。
 いずれにせよ、この小さな友人と会うことはもうない。
 二度と。
「……どうする?」
 蝋燭灯が揺らめくなか、予想と違わず、彼女は小さく首を横に振った。



 蝋燭灯がひとつ、またひとつと消えていく。
 今は大きくなった自分の友人が去っていくのを彼女はじっと見送っていた。
 ──自分の大切な友達。自分達の大切な弟。
 初めて会ったときのことを、蘇った記憶の中から思い出しながら、人形である少女は室の隅の木箱を開けた。
 木箱の中には秘石がひとつ。それを短剣に取り付け、彼女は短剣を木箱にしまった。
 あれからどれだけ時が流れたのだろう。
 あれからどれだけ彼は流れたのだろう。
 暗闇に佇み続けるしかすべがない人形には、時の流れは意味がなく、世の流れは分からない。ただ分かるのは、彼が吐露した心は己の願いと一致していたということだった。
 彼の願いは変わらなかったということだった。
 故に、彼は闇を離れた。
「──……」
 先刻、彼と腰を下ろした木箱に再び腰掛け、彼女は通路の先を眺めた。
 ひとつひとつの灯りが消えていき、暗闇は濃く深くなっていく。その闇毎に彼は陽の世界へと近付いていく。
 そして、永遠の眠りの世界へ。
 ──そのときを、待っているから。
 やがて訪れた真なる暗闇に人形は呟き、そうして短い眠りへと旅立った。