PHANTOM PLUS GHOST

 見上げてみると、青とも赤ともいえる色に染まった空。
 ひとりきりで見上げた空。
 ふたりで見上げた、壁。

6. PHANTASMAL MY FRIEND

 ジョシュアは戸口からあたりをきょろきょろと見回すと、最後にもう一度室内を振り返った。
 ──だれも、いない。
 先刻まではいた「大人たち」の姿は、今は何故かなく、部屋はがらんとしていた。
「……」
 ためしに開いてみた扉から体をすり抜けさせ、外に出る。
 扉を離すと、ぎい、という音が寂しげな鳴き声となって小さく響く。だが、小さく響いたはずのその音も、今のジョシュアには大きく聞こえ、幼子は慌てて両手で扉を抑えた。
 そうしてゆっくりと音を立てぬように閉めていく。完全に閉めてしまってから再度聞き耳を立ててみる。やはり誰も戻っていないことを確認すると、彼はまず空を見上げた。
 空は、青とも赤とも黄ともいえぬ、透き通った冬の色。
 その色をジョシュアは、きれい、とただ思った。
 きれいで、静か。すこし前まで外を走り回っていた人たちの姿もなければ、遠くから聞こえた恐ろしげな叫び声もない。空には何もなく、夕暮れの薄闇に包まれた街は自分以外、誰もいなかった。
 もう一度振り返り、背伸びをしてみる。窓からつい先刻までいた室を覗くと、やはり、誰もいなかった。
 自分と同じ髪の色の男の人は、「散歩につきあえ」と黒髪の女の人と一緒についさっき出て行った。彼と友達らしい「ハーディン」は自分に「動くんじゃないぞ」と言って違う部屋に行ってしまった。
 しばらく経っても誰も戻ってこないことを確かめると、ジョシュアはその場を離れた。小さいがポーチ状になっている階段を降り、右と左を交互に見やる。
 ──どちらに行こう。
 逃げるつもりなどはなかった。ただちょっと自分も「おさんぽ」をしてみたかっただけ。
 純粋な好奇心の赴くままに、ジョシュアは右へと歩き出した。きょろきょろと辺りを見回しながら、苔がそこかしこに生している石畳を歩いていく。
 古びた看板。道ばたの石ころ。扉のない家。閉ざされた格子扉。
 誰もいない街。
 はじめの角を曲がろうと石畳から視線を上げた幼子の視界に、人影が入ったのはその時だった。

 もしもオバケに出会ったら?
 それが、子どものオバケだったら?

「……?」
 とくん、とジョシュアの胸が鳴った。
 誰もいない──そう「大人たち」は言っていた──はずの場所に人が通ったのを、確かに自分は見た。しかも、さっきけたたましい音を立てて通っていったような兵士たちではなく、小さな──そう、自分と同じくらいの年頃の子どもが。
「……」
 行きかけた方向とは逆の方向に、ジョシュアは歩き出した。歩くというより半ば駆け足になってしまったのもそのままに、ジョシュアは子どもが去っていった角を慌てて曲がる。
 子どもはいた。だが、さっきと同じように、次の角をちょうど曲がっていこうとしている。
 ──ちょっと、待って!
 無音の言葉を乾いた唇にのせ、ジョシュアは走った。
 この街にはすっかりいない人々の、さらにいない子どもがひとり。自分以外の子どもがひとり。
 それを認めたとたん、幼子の胸は高鳴った。
 友だちになれそうな子が近くにいたことに驚きもしたし、また、とても嬉しくもあったのだ。
 子どもが曲がった街角を、ジョシュアはぱたぱたと足音をたてながら曲がった。そうしてさらに子どもを追いかけようとして──その足を止めた。
 目の前に、子どもがいる。自分と同じくらいの背格好の男の子だ。
 その子は、目の前に立ちはだかる壁を見上げていた。どこか思いつめたような瞳で、けして自力では越えることのできなそうな壁を見つめていた。
 ──その先に、何かがあるのかな。
 ジョシュアは、茶色の髪を持った男の子を角から見つめ、小首を傾げた。
 ──え?
 そうしてじっと様子を見守っていたジョシュアは、ふとあることに気がついた。
 ──ほんとに、ほんと?
 目を見張り、男の子をよくよく見つめる。
 何かを待つように壁を見上げる少年──その体の先にあるはずの──本当なら見えないはずの、壁や道が、見えた。
 少年の体は、透けていた。

 もしもオバケに出会ったら。
 それが、子どものオバケだったら。
 ──握手をしてから、おやつをたべよう?

 ──うわあ。
 目を丸くしたまま、ジョシュアはやはり口元だけで言葉をつくり、もう一度よく見ようと角からその身を伸ばした。
 透明な体を持った男の子が、すぐ目の前にいる。
 ただ、じっと壁を見上げている。
 それが何故なのかは分かるわけもなく、ジョシュアは一歩を踏み出した。瞬間、蹴ってしまった足元の小石が夕暮れの街に乾いた音を響かせる。
 ジョシュアの見守る前、男の子ははっと我に返ったように辺りを見回した。
 右をゆっくり、そして同じくらい左をゆっくり。
 最後にジョシュアに気付いたのか、男の子は多少びっくりしたような顔になると、とことことジョシュアのもとに歩み寄り、にっこりと笑顔を返した。
【こんにちは】
 やはり音にならない声で、男の子はジョシュアに声をかけた。突然の挨拶に戸惑い、ジョシュアは口をぱくぱくさせていたが、やがて唇だけで挨拶を返した。
 ──透けてる。ということは。やっぱり、この子は。
 間近で見ると、やはり男の子の体は透けていた。体ばかりではなく、身につけた衣類──時期はずれの半袖と半ズボン──も同じように透けて、向こう側の道が見える。
 そうして差し出されたのは、透けた右手。
 差し出され、思わず、ジョシュアはその手を取った。自分の手で緩く男の子の手を握り、そうして彼と視線をあわせる。
 ぽかぽかと暖かい笑顔の男の子は、ジョシュアの手をその透明な手で握った。
 ──こんにち、は。
【こんにちは。はじめまして?】
 声も出せぬ自分の様子に気を取られるでもなく、彼は握ったジョシュアの手を軽く振った。ちょうど、仲良しになった友だちにするように。
 彼は、マーゴという名前だと教えてくれた。
 ──マーゴは、こんなところでなにをしているの?
 手を握ったまま、ジョシュアは首を傾げた。やはり声は音とはならなかったが、マーゴには分かるらしく、彼は少し困ったような顔でジョシュアの手を離した。
 そうして、壁の上を指差す。
【あそこのね】
 ──あそこ?
 ジョシュアはマーゴが指を指した方向──古びた壁の上──を見上げた。見上げたが、そこには何もなく、誰がいるわけでもない。
 なにがあるの?とジョシュアはマーゴを振り返った。
【ううん、何もないよ。でも、さっきあの壁をこえて行っちゃったのに、ぼくはおいかけれなかったんだ】
 ──だれがあっちに行っちゃったの?
【ぼくのおとうさん】
 壁を見上げたまま、マーゴはぽつんと呟いた。
 ──迷子なの?
【ちがうよ。……ううん、そうなのかなあ】
 問いかけるジョシュアに、やはり壁を見上げマーゴは答えた。そうして何かを諦めたようにジョシュアを見やる。
 向けられた笑顔は先刻と同じ暖かなそれだったが、少しばかり寂しさが滲んでいた。
「……」
 おとうさん。ぼくはここだよ。
 壁を見上げたマーゴの瞳は、確かに彼の思いを語っていた。そして、今のマーゴの瞳は、少しばかりの悲しみと寂しさと、多くの諦めに満ちていて、同じ境遇であるジョシュアは胸をきゅうと掴まれたような気持ちになった。
 でも。
 ぼくはここだよ。
 マーゴの心の叫びは、もっと深くて。まなざしは悲しくて。
 透けてしまった体もそのままに、マーゴは父を追いかけているのだろうか。その「おとうさん」は今もこの街にいるのだろうか。そうしていなくなった子どもを捜しているのだろうか。
 ──誰もいない、この街で?
 それとも、マーゴがそうであるように、父親も既にこの世にいないのかもしれない。
【おとうさん】
 ──……。
 もう一度壁を見上げ、その先に行ってしまった父をマーゴは呼んだ。小さな幻のその呟きに、ジョシュアはふと思い出したように服の隠しを探る。
 思い出したのは、先刻の会話。黒髪の女の人が言った言葉。
 服の隠しに入れていた目当てのものを取り出すと、ジョシュアはマーゴの名を呼んだ。そうして振り返った彼に、手に握ったものを差し出す。
『もし、オバケが子どもだったなら……』
 キャロは自分の小さかった頃をそう語ってくれた。それを思い出しながら、ジョシュアはマーゴに無理やり笑いかける。
 ──これ、もらったの。あげる。
 取り出したのは、ハーディンからもらったキャンデー。
【いいの?】
 ──うん。
『もし、オバケが子どもだったなら、きっとそのオバケも寂しがりで自分のところに出てくるんだって……そう小さい頃は思っていたわね。慰めてほしいって出てくるんだって……だから、一緒に』
 握手をしてから、おやつをたべよう──。
 驚いたように小首を傾げるマーゴに、ジョシュアは深く頷いた。自分の分のキャンデーも取り出し、一足先に口に含む。ブドウの優しい香りが鼻をくすぐった。
 ──おともだちになったから。
【……ありがと】
 泣き笑いのような顔で、マーゴが包みを開く。同じようにキャンデーをマーゴが口に含むと、白色だったキャンデーは透けた体の中で見えなくなった。
 ──ね、いつかみつけてもらえるよ、きっと。
【……うん。ぼくも、ほんとはそう思ってる】
 ジョシュアはぽんぽん、とマーゴの背を叩いた。

 夕暮れ色の空の下、遠くで、自分を呼ぶ声がする。
 きょろりとジョシュアは辺りを見回し、同じように見回したマーゴと視線をかわした。
 どうしよう、と目で問いかけると、友だちは深く頷いた。そうして自分の背を声のするほうへ押し出す。
 ──マーゴは、どうするの?
 遠くで、自分を探す声。その声に応えたいと思いながらジョシュアは友だちに目で問いかけた。
【ぼくは、またさがしにいくよ】
 キャンデーをありがとう。マーゴはにっこり笑うと、もう一度ジョシュアの背を押した。
 ──うん。
 ジョシュアもまた笑った。振り返り、たっ、と走り出した幻の友だちに手を振った。
 耳をすませば、夕暮れ色の空の下、遠くで自分を呼ぶ声。
 
 ──さあ、帰ろう。
 自分を呼ぶ声のもとへ、幼子は無人の街を駆けていった。