Salute 2

第七章 トルヴェール

 衛士に案内され、城の回廊を歩く。そっと見上げ、天井のつくりや柱の組み合わせ方、そして蜂蜜色の石壁を眺めやる。どれもすべてが記憶と変わらない。
 回廊を途中で右へ。現れる螺旋階段を登りきると、大きな広間へ──謁見の間だ──続く扉がひとつと、その扉で線対称となるように客人用の室がひとつずつ配置された階に出る。
 謁見の間の扉に立つ衛士と、ここまで案内をしてきた衛士が二言三言、言葉を交わす。やがて扉を警護していた衛士が了解したというように頷き、次いでこちらに向き直るのをディリータは神妙に待っていた。
 そして扉が開く。
 

 シルフィ王ルフィルは、十という年月を緩やかに迎えたらしい。穏やかな表情はそのままに、全身から発せられる王威は若々しく、そして変わらぬ柔らかさがあった。
「お久しぶりです、ディリータ様」
「お久しぶりです、ルフィル陛下。……私のことは、ただディリータ、とお呼び下さい」
「では私のこともルフィルと」
 玉座に座っていたルフィルはそう言うなり立ち上がった。そうしてディリータの傍らまで来ると微笑みをひらめかせる。
 衛士も立ち会う宰相も誰も驚きはしない。事の成り行きをただ見守るのがシルフィの流儀であり、王がこのように振舞うことに彼らは既に慣れているのだ。
「いつかまたお出で下さるだろうと思っていました。お会いできて嬉しいです」
「ええ、こちらこそ」
 ディリータは手袋を取ると、差し出されたルフィルの手を握った。王の手はごつごつとしていて、少しささくれ立っている。自ら竜を操って領地を見回ることも多いこの王の特徴だ。
 少しなりとも話をと望むルフィルに誘われ、ディリータは謁見の間を出た。ルフィルの足取りは階の奥へと進み、その歩みにディリータは己がどこへ連れて行かれるのか察した。
「話ならば謁見の間でもよかったのではないですか?」
「謁見の間は多くの人と接する場ですが、知人や友人といった人々とゆっくり話すには少し不向きです。そう思ったことは?」
「……ない、とは言えません」
 ルフィルの問いに答えながらディリータは屋内に慣れた目を眇めた。……降り注ぐ陽光が眩しい。
 ──空中庭園。
 ファミナの王城は、謁見の間の奥に小さいながら空中庭園が存在する。シルフィの用水技術を応用して引かれた二本の水路は中央にある池と繋がっており、池や水路沿いには種々の草花が植えられている。その一部は食用なのだと昔シルフィ王は語っていたが、一体それがどれなのかディリータは覚えていなかった。
 少しずつ目が慣れると懐かしい庭園の風景が見渡せるようになる。風防を考慮に入れて造られた庭園は、四方を囲む壁の色が蜂蜜色で明るいためか圧迫感はない。
 花の咲く池には卓がひとつと、椅子が数客。それも記憶どおりだった。
 どこか遠くで弦を奏でる音がする。儚く色の薄い冬の陽光を遮らないように、それに寄り添うように……音色はシルフィ王にも似て柔らかだった。
「……」
 その音にディリータは一瞬止まり、しかし思い直した。あの少女がこのような場所にいようはずもない。……おそらくは。
 首を傾げたルフィルに、ディリータはただ笑んで頭を振った。
 

 話題に上がるのは種々多様な事柄。
 以前の訪問から今までのことについて。畏国の国状やその経緯。退位した理由と次の「引き取り手」との関係。ディリータが語る事象にルフィルは時折問いを投げかけ、聞き入っていた。同様にディリータもまた、ルフィルの語るシルフィやシルフィ周辺のこの十年について聞き入り、幾つか議論を繰り広げもした。
 会話を妨げぬ程度に聞こえる楽の音は静かに、そして優しく。優しく吹き込む風と溶け合うように。
 ルフィルが最も聞き入ったのは、ディリータがラムザとともに旅をしたこの数月の話だった。
 故郷を出て友とふたりで──ルフィルにはラムザのことをただ旧い友とのみ話した──旅をする。行くあても特にない、思う方角へと向かう旅。不思議な、不思議な、何かを埋めるような旅。また、新しく知るような。
 話は行きつ戻りつ世間話のように進む。互いの興味の赴くままに話は尽きず、倦むこともなく。
 茶のかわりを自ら注ぎながら、やがてルフィルは満ち足りたというように嘆息した。
「大変興味深い話をありがとうございました。……ディリータ殿、あなたの旅はこの後どのようになるのか私には分かりませんが、幸多きことを心から願っています」
「ありがとうございます。後はどこへ向かうか……まだ決めかねていますが」
 半ば苦笑しながらディリータは応えた。
 決めかねているというのは少しく違う。決めることができるなら、その場合はまだ決まっていないというのが正しい。
 そう、この地に暮らす「彼女達」に会ってから、その先は決まる。
 旅は続くのか。それとも、断罪という形で終わりを迎えるのか。
 ……どちらへ足を向けるかを今考えることはない。まして、幸いがその先に在るかなど。
 あるはずはないのだ……。
 思考を遮るようにディリータは両の瞳を閉じた。水底に沈んでいく思考は、今この場には相応しくない。ただ時を消す……誰も知らぬただひとりの時にこそ相応しい。
 たとえば、春の夕刻にひとり佇んでいたように。
 たとえば、海の上の星月夜のように。
 そう思い為し、ゆっくりと目を開けたそのとき──、爪弾かれる弦の音はその調べを不意に変えた。
 聞こえてくるのは、耳に聞き慣れない……だが確かに己がかつて聞いた調べ。どこか懐かしい旋律を竪琴が紡ぎ、そうして。
 寄り添うのは、優しい歌声。
闇の夜に空を見上げてみれば
雲も月も星もなく吸い込まれそうな空
どこかに消えた彼らに届くように私は弦を爪弾こう
また再び会えますようにと歌おう
何もない闇の夜
私は闇に溶け込み やがて消えていく

耳を澄ませば 星の声
夜の静けさに囁き 私に語りかける
羅針盤達

星はめぐり 月はめぐり 私もめぐる
私のことを知っていてと遠い星たちに歌おう
私はここにいるよともう会えない人たちに歌おう

月に誘われ 星に導かれ 風に吹かれ
長い年月をそうして暮らしてきた私たちの
生きているあかしをともに歌おう──
「──」
 歌声と竪琴の妙なる和音。伸びやかで柔らかい声。
 調べは、内に何か熱い祈りが秘められているように円を描く。円を描き、だが、それはひとつに繋がらずに次の調べへと移っていく不思議な旋律のかたまりとなる。
 この声を己は知っている。誰が歌っているのかを知っている。そして、この歌を。
 ディリータは素早く庭園を見渡したが、彼女らしい人影はどこにも見当たらなかった。自分と王と、そして庭園の入口に衛士がひとり佇むのみ。
 だが。もう一度耳をすます。……そう、調べは幻などではない。
「陛──ルフィル殿。この歌は……?」
「……? ああ、これは」
 客人の問いかけをすぐに理解できなかったのか、ルフィルは一瞬戸惑う素振りをみせた。が、すぐに理解したというように鷹揚に頷くと、庭園への入口に視線を向ける。
「彼女は【トルヴェール】のひとりなのです。私の大事な、ね。……セレスティーナ、おいでなさい」
「トルヴェ……。──」
 ルフィルの視線を追いながらディリータは呟きかけ、そしてその言葉を呑み込んだ。
 入口には少女がひとり、立っていた。彼女──セレスタだ。
 衛士の影からひょこりと顔を出したという風情の彼女は、困ったように笑っていた。ディリータと目が合うと、その笑みが少し悪戯めいたものに変わる。だがそれも一瞬で、少女はやがて神妙な面持ちで歩き出した。
 それは、自分が知る彼女のような弾んだ歩き方ではなく。
 それは、自分が知る彼女のような表情でもなく。
 よく梳ったまっすぐな亜麻色の髪が風にさらさらと靡く。幾つかの小さな髪飾りは陽の光を受けて淡く輝き、すっきりと落ち着いた白緑色のドレスに映えていた。
 けして華美ではない。また、豪奢でもない。清楚で優美な──だがそれは、己が知る彼女とはまったく別の姿だった。
 手にしている竪琴だけが見慣れたものだった。
 やがて彼女は卓の傍まで歩み寄ると、優雅に一礼した。そうしてルフィルと短く視線を交わすと、ディリータへと向き直った。
「改めて紹介しましょう。彼女が先刻の歌い手……吟遊詩人ですが、我が国風に言うとトルヴェールです。名を、セレスティーナ・リル・ファミナ。セレスティーナ、こちらはイヴァリースからいらしたディリータ・ハイラル殿だ」
「ディリータ様。ようこそいらっしゃいました」
「……。……ありがとう」
 穏やかに笑む王とにこりと笑みをつくるトルヴェールのふたりに何と言って良いのか分からず、ディリータは長い沈黙の末にそう返し、片手で顔を覆った。
「……まったく王もお人が悪い。いえ、責めているのではなく、ただ……」
 海と空と陸。確かに謎めいたところのある少女とともに旅をした。滅びた国の歌を多く受け継ぎ、歌や竪琴も鍛えられている様子から、どこかにパトロンでもいるのかと思いもしていたが……。
 まさか。
「ただ、呆れておられるのですね。そうでしょう?」
「……ええ、まあ」
 ルフィルの問いにディリータは適当に頷いた。そうして改めてトルヴェールの少女を見やる。
 少女は表情を崩して笑みを見せると、片目を瞑った。
「隠していたわけではなかったのです。でも、話すきっかけも理由もなくてそのままきてしまいました」
「本当に?」
「……半分は本当で、半分は嘘といったところでしょうか。……ごめんなさい」
 王に促され着席したトルヴェールは、うろうろと視線を彷徨わせ、白状した。その科白にディリータはまた大きな溜息をつく。
 それに同調するようにルフィルもまた軽く溜息をついた。
「ディリータ殿やご友人の邪魔とはならぬよう申し付けたのですが、なかなかの跳ねっ返りですからご苦労も多かったでしょう。私からもお詫びいたします」
「いえ、ルフィル殿。それには及びません。ただ、……そう、ただ、しばらくの間、溜息をつく自分をどうかお見逃しいただきたい。……そして私はこのトルヴェール殿、いえ、トルヴェール嬢を何とお呼びすれば良いのでしょうか?」
 溜息に意味はもはやない。後から湯水のように湧いてくるから、する。それだけだ。
「セレスタとお呼び下さい。ディリータ、様。それから、できれば口調も前の方が」
「だそうですよ」
「……ではそのように」
 トルヴェールの返した答にルフィルが頷き、ディリータはげっそりとした気分で頷いた。何か、壮大な仕掛けにでも遭遇したような具合だ。
「でも」
 とトルヴェール……セレスタが切り出す。
「私などより、ディリータ様の方が余程大仕掛けだと思います。私はただのトルヴェール、ディリータ様は元陛下。王位を下りてすぐの方が旅に出ている……隣の人が以前は国王だったなんて思いもよらないでしょう?」
「気付かなければ誰も困らないだろう。……頼みがあるんだが」
 はい、と頷くセレスタにディリータは「口調を戻してくれ」と言った。どちらが「地」なのか分からないが、敬語を操る彼女にはどうにも慣れない。
「だそうですが、陛下。よろしいですか?」
「失礼にならない程度であれば」
 その言葉を待ってましたと言わんばかりに少女はルフィルを振り返り、ルフィルは先刻と同じような答を今度は彼女に与えた。こくり、と少女が頷く。
「やっぱり敬語は疲れちゃうわ。ありがとう、ディリータ、さん。おかげで助かっちゃった」
「……その格好で言われると、今度は別の違和感が生じるな」
「もう取り消しはなしだよ」
 口を尖らせて言うセレスタは確かに旅の道中でいつも見ていた彼女だ。服装や髪型はそのままであるため、物凄い違和感が生じてはいるが。
 そろりと視線を動かすと、ルフィルは彼女の様子にやはり頓着することなどなく、のんびりと茶を飲んでいる。その様子からセレスタの「地」はやはりこちらなのだとディリータは理解した。
 いずれにせよ、とそうして思う。
 こうして彼女に会えたのは、確かに僥倖だった。そう、これで彼女への問いを繰り出すことができる。「彼女達」へ繋がる問いを。
 だが、その前に。
「結局お前は何故鴎国からの船に乗り合わせていたんだ?」
 ふとディリータは浮かんだ問いを少女に発した。目の前に座るルフィルが使いとして寄越したのかとでも考えるのが妥当なような気もするが、彼女は「何処にでも着いていく」とシェイスの港でそう言い切っていた。
 茶器を口につけていたセレスタは忙しく瞬きをした。そうして一旦茶器を下ろすと、何故かルフィルと顔を見合わせ、口早に小声で何かを囁きあう。
 不思議なやり取りの後に、やがて、少女は言った。
「ディリータさん達と出会ったのは運が良かったとしか言いようがないかな。私はオルダリーアの王様に拝謁した帰りだったから」
「鴎国の国王に拝謁……」
「セレスティーナは今年で成年となりますから」
 少女の言葉を補うべく、ルフィルもまた茶器を下ろした。ゆったりと椅子に凭れると、笑みを浮かべたまま続ける。
「成年を迎えた王族の者はひとりで旅をする……シルフィの古いしきたりなのですが、このお転婆娘はそれを利用して鴎国まで行ったのですよ。本当はあなたがいる畏国に行きたかったと随分駄々をこねていましたが……ディリータ殿?」
「……王族?」
 ぴし、と耳には聞こえぬ音とともにディリータはルフィルの言葉に固まった。まるで魔法をかけられたみたいだが、そうでないことは分かっている。
 分かっているが、しかし。
 ──成年を迎えた王族の者……?
 海の上。星の夜。見張り台で少女は自分がルリア生まれだと、そう打ち明けてはいなかったか。ルリアが滅んで後シルフィに身を寄せ、ルリアの歌を思い出しながら育ったのではなかったのか。
「ディリータ、さん。……駄目だな。どうしても陛下って言いそうになっちゃう。……あれは本当のこと。船の見張り台で話した──ルリア生まれだってことも、歌を忘れちゃったってことも全部本当。でも話してないこともある。話さなくてもいいかなって思っていたことだけれど……」
 ディリータの疑念を察したセレスタの瞳は、彼女が繰り出す言葉よりも雄弁に、それが事実であることを語っていた。
 そして、彼女の言葉どおり何かを少し隠していたということも。
「ええ。確かに彼女はルリアの生まれです」
 ルフィルは途切れた科白をディリータに紡いだ。
「セレスティーナはルリア王国リル王家の末の姫として生まれました。そして過去に起きた内乱では、巻き込まれぬよう唯一人我が国へ送り出された彼女を私が預ったのです。……そのままルリアは滅びてしまい、私は行くあてのない彼女を養女として迎え入れた。彼女と私は家族……親子だと、そういうことです」
 セレスティーナ・リル・ファミナ。その名の意味するところは、ルリアの王家の者であり、シルフィの王族に連なる女性であるということだとルフィルは語り、義父の言にセレスタは付け足した。
 リルは竪琴であり、王家の象徴であり、国そのものだった。王家の者は幼い頃から竪琴に親しみ、歌い継がれる多くの歌を覚えたのだという。彼女の師は、父であるルリア王だった。
「……。……ではお前は」
「殿下なんて呼ぶ人はいないから止めてね、ディリータさん。義父がシルフィ王をやっているというだけで、私は一人前トルヴェールのそれ以上でもそれ以下でもないから……あれ」
 ディリータの先回りをして念を押した少女は不意にその言葉を止めた。振り返り、彼女の背にある入口を見やる。
 彼女の視線を追って、ルフィルも、そしてディリータも入口を見やった。
 衛士と長衣を纏った男が何か話をしている。長衣の男はもうひとり連れがいるらしく……その連れの姿にディリータはよく見覚えがあった。
 ひとりは友。そしてもうひとりは……。
 話が終わったのか、長衣の男と己が友は並んで歩いてくる。ルフィルが見ていることに気付いたのか、長衣の男は歩きながら軽く会釈した。
 友と目が合う。友は──ラムザは、まったく普段どおりという様子で笑っていたが、庭園の卓を囲む三人のひとりに気付いたのか、多少目を瞠った。
 ひとりは友。そしてもうひとりは……。
 次第に近付いてくる長衣の男。その風貌にディリータは確かに心当たりがあった。
 髪の色も、瞳の色も。少し目が切れ長なところも。そして何より雰囲気が。冷静かつ軽妙という不思議な天秤を持つあの雰囲気こそが。あまりにも覚えがあり過ぎた。
「ウィル」
 傍らの少女が男の名を呟く。そう、彼らの息子の名前はそんな名前だった。
 やがて占星術士の忘れ形見とラムザは、卓を囲む三人の前に揃って立った。静かなまなざし──真実を掴んだあの瞳と同じ色──を受け、ディリータは彼を見上げた。
 せめて逸らさぬように、真摯に見つめた。


 三つの役目。道。
 己が生まれ、そして育った国を──己自身の矜持こそを守るために選んだのは。
 力に溺れた悪しき者を退けるを選んだが故に、あるべき道に戻らなかった者。
 矜持と願い、守るべきものを手にしたが故に、己が道のみを見据えた者。
 顛末と真実を残すを選んだが故に、別の道を選ばなかった者。
 三つの役目。道。それぞれが果たしたさだめの上に時が降り積もっていく。緩やかに穏やかに事象はその波を変えていく。
 星は廻り、月は廻り、人も廻る。
 人はけして永続しない。いつかは老い、いつかは死んでいく。己のことを誰も知らなくなる日が必ず来る。真実を知る者も、そしてまた。
 時は風のように目には見えない。
 それでも確かに流れていくと知っているから、続いていくと知っているから、だから人は。

 何かに幸せを見出し、何のために今を生きるのかと悩み、何を残せるだろうかと願うのだ。

 父ゆずりの考えを素直に述べると、その人は目を瞠り言葉を失った。
 自分を見つめるその瞳がふと揺らぐ。けれどそれ以上揺らぎも潤みもしない瞳は、背負った役割を全うしたという色に染まり、そして強かった。
 その瞳が自分に問う。瞳で自分に問う。
 罪を突きつけよ、と。断罪せよ、と。許されることなどできはしないと瞳は語る。
 けれども。昔聞いた母の言葉を思い出す。
 許すも、許さないも。そんなものは自分達には存在しない。そういった怨嗟の念を遺すために彼は記したのではないのだから。母はそう言い、そして微笑んだ。
 同じ気持ちで今、その人を見る。その人と同じ空間に立っていると意識する。
 許すも、許さないもない。罪など初めから自分達の間には介在しないのだから。
 それよりも。切り出す言葉は、切なる願い。
 それよりも、多くの話を。二度と足を踏み入れることの叶わない故郷の話を。

 ──雫は頬を滑り、そして弾けた。

 宵闇に星がひとつ、ふたつ。金色をした爪月が船のように近くに横たわっている。
「……」
 外に面した露台に据えられてある椅子に腰掛け、ディリータはぼんやり夜空を眺めていた。
 頭は、心はもはや思考することを拒否している。喉や口はこれ以上語ることを拒絶している。……すなわち、それほど語ったということだ。
 おそらく一月分は口を使っただろうとディリータは思う。長衣の男……ウィルがラムザとともに現れてから夕餉を挟んで今の今まで、ディリータはひたすら話手に徹していた。否、徹する羽目になった。
 ウィルは──オーランとバルマウフラの息子は──己の前に立ち、予想していたどんな感情も見せずにひとつの願いを口にした。
 話を。
 二度と足を踏み入れることの叶わない故郷の話を。それこそが願いなのだと、彼は言った。罪など初めから自分達の間には介在しないのだからと。
 そうして。
 そうして……。
 知らず出てくる大きな溜息をそのまま吐き出す。一月では短い、少なくとも三月分は口を使ったに違いない。
 ──ウィルの好奇心は果てしなかった。
 何気なく語り出したディリータだったが、すぐに己の浅はかさを痛感する羽目になった。根掘り葉掘りといった調子でウィルは細部を聞き出し、その細部が見る間に膨らんでいく。数刻を費やして話すことができたのは、五十年戦争における北天騎士団の動向の一部だけだった。
『そりゃ、あのオーランのお子さんだもの』
 と、傍で聞いていたラムザはそう評したが、それはディリータにとって何の慰めにもなりはしなかった。……そもそも話が五十年戦争の、まして北天騎士団の動向などであれば、己が話してもラムザが話してもさして話す内容は変わらない。否、ラムザが話す方がむしろ適しているのではないか。
 気付いてしまった事実にディリータは悄然とし、しかしすぐに思い直した。──明日ウィルに話をする役目はラムザに押し付けよう、と。
 明日繰り広げられるだろうやり取りを想像しながらディリータは疲れた顔に笑みを浮かばせた。今ではすっかり口達者となった友人のことだ、きっとあれこれと言ってくるに違いない。そうしたら己は言えば良い。
 ──ならばふたりで話すことにしないか、と。
 夜空に瞬き始める初冬の星達。金色の爪月。
 己が知ることならば、望むならばそのすべてを伝えよう。そうディリータは思う。己が定めし二人の子の片割れ──ウィルが望むならば、すべてを語ろう。彼にはそうする権利があり、己が彼に黙する事項は何ひとつない。
 そうして願わくば、友も。ディリータは思う。
 ウィルが視線を時折ラムザに投げていたことに、ディリータは気付いていた。己に投げる視線と同じ色で、青年は己が友を見つめていた。
 だからこそ、己はひとつの案を友に繰り出す。
 知ることならばすべてを、望む者へ。己だけではない、友だけでもない、ふたりの今までの道行きを彼に語ろう──。
 背後で聞こえた扉を開く音に、ディリータはゆっくりと振り返った。眺めやると、窓扉をくぐってトルヴェールの少女が近付いて来る。
 庭園で見せたドレス姿とは異なり、今の彼女はもう少しくだけた格好をしていた。とはいっても旅装とはやはり違い、動きやすくはあっても緩やかなドレスを身に纏っている。
 両の三つ編みもやはり緩く。
「……セレスタか」
「衛士がさっき戻ってきて、宿のご主人に事情を伝えたと報告してくれたわ」
「ああ……すまないな」
「いえいえ、どういたしまして。それにしても……お疲れ様」
 ルフィルは話の流れからか、元々そう考えていたのか、ディリータとラムザに城への滞在を勧めた。ディリータが既に宿をとってあると告げると、彼の王はしばらく黙り込んだ後、宿へは衛士を遣わせるからどうか、と再度訊ねた。
 ──私やセレスティーナも歓迎しますし、何よりウィルの話し相手になっていただくなら城の方が良いと思うのです。
 ディリータとラムザはやはり一瞬考え込み、王の好意に素直に甘えることにした。……宿や酒場で話し込むよりは、城の方が環境は良いだろうとそう思ったからだ。
 セレスタの苦笑混じりの労いの言葉にディリータは曖昧に笑い、彼女に隣の椅子を勧めた。
「まあ、少し……いやかなり疲れはしたがな」
「でしょう。ウィルのあの好奇心と探究心はこの城でも一番だって言われてるくらいなの」
 だから城の風読み師は彼に教えることがもうなくなってしまったし、城にある書庫も彼の手によって目録が作られ始めているくらいなのだと少女は屈託なく笑う。
 結局、彼女は青年と幼なじみなのだと語った。
 既に青年から聞いたというラムザは、彼女の告白に驚かなかった。ラムザは会話の中から自分なりに彼女の正体を推測しながら旅を続けていたらしく、青年との話の流れで彼女について率直に尋ねたのだという。
 ルリアからファミナの城へ逃げたときのこと。王の養女となり──王位継承権は持たないが──、シルフィの民となったときのこと。避暑を兼ねて義父と遊びに行った村で出会った異国人のこと。似て非なる境遇ではあったけれど親しみを覚え、そんな自分に義父はしばらく彼らと暮らしてみてはどうかと勧めたということ。そして彼らから教わったたくさんの事柄。
 やがて彼女は歌うような口調で過去を語った。星空を見つめる目は懐かしさに染まっている。
 すっかり拙くなってしまった竪琴を彼らはいつも聞いてくれた。思い出した歌の欠けた詞をともに考えたりもした。──そうして彼らのために自分は星月夜の歌を彼らの言葉で。
「……本当はね。さっき陛下も仰っていたけれど、イヴァリースに行きたかった。行くつもりだったの。鴎国の国王陛下じゃなくて、私が会いたかったのは畏国の王様だった……ディリータさん、あなただよ」
「ウィルのかわりにか?」
 ディリータの返答にセレスタは笑って首を横に振った。
「それもあるけど……確かにウィルはどんなに望んでもイヴァリースへは行けないから。でもウィルはイヴァリースがどんな国か教えてくれたきっかけの人なだけ。ウィルと、彼のお母さんと、彼のお父さんが残した本でね」
 だが彼らのかわりではなく。少女は続ける。
「私が会いたかった。会って、お礼が言いたかった」
「セレスタ……?」
 す、と少女が立ち上がる。ディリータを数瞬見つめ、そうして彼女はゆっくりとシルフィ風の礼をした。それは、最も敬意を捧げる恩人への礼。
 ディリータは何が起きたのか分からなかった。今日という様々な出来事が起きた日の中で、彼女の辞儀もまた彼を驚きに満たした。
 そんなディリータに向き直り、セレスタは微笑む。その瞳に少し過去を宿しながら彼女は口を開いた。
「ありがとうございました、ディリータさん。……いえ、今だけは陛下とお呼びします。……陛下、貴方が私の拙く幼い歌を聞いてくださったから、私は歌うことを思い出せました。そう、貴方がかつてこの国を訪れたそのときに」
「──」
 ディリータは絶句した。そんなことは覚えていない。昔、幼い頃の彼女に会ったことなど、ひとつとて覚えてはいなかった。
 無論分かっているという風にセレスタは頷く。そうして、願いが叶ったというように晴れやかに笑う。
「あれは庭園で練習していたときで、ほんの一瞬の通りすがりだったの。ただ……私にとってシルフィに来て誰かに聞いてもらった初めてだった。そして、そう、竪琴も歌も殆ど思い出せなくてぼそぼそと歌う私の前で足を止めて、もっとゆっくりやったらいいって言ってくれたのがディリータ、さんだったんだよ」
「……そうか……。……記憶になくてすまない」
「気にしないで。ただ本当に、どうしてもお礼が言いたかっただけなんだから」
 彼女に当時の仔細を説明されてもディリータにはやはりその記憶はなかった。確かにこの国は過去に訪れたし、庭園を廻ったこともあった。王と話し込み、そして翼竜を借りて草原を飛んだこともあった。……そうした過去の中で紛れて消えた小さな記憶。
 彼女は事実を語っているのだろう。忘れてしまったのは、自分の方だ。あるいは、記憶にも刻ませなかったのかもしれない。いずれにせよ、随分な男だ。
「そうじゃないの。謝ってほしいわけじゃないから……あのときそういう風に言ってくれたから、今の私があるんだし」
 ディリータの思考を遮るようにセレスタは声を張り上げた。そうしていつかの見張り台のようにやはり背から竪琴を取り出し、ディリータに見えるように掲げてみせた。
「どうしても気になるようだったら……それじゃ、一曲お付き合い下さいますか?」
 トルヴェールとして成長した今の歌を。
 そう切り出した少女の顔をディリータは見上げた。元気で、朗らかで少し悪戯めいたところのある見慣れた表情にディリータはふと笑み、頷いた。
「……ならば、星月夜の歌を」
「はい」
 くしゃりと笑い、セレスタは再び椅子に座った。素早く調弦すると──彼女は確かに吟遊詩人だった──、空を見上げて弦を爪弾き始める。
 奏でられるのは、己がかつて聞いた調べ。どこか不思議で懐かしい旋律を竪琴が紡ぎ、そうして。
 寄り添うのは、優しい歌声。

 波の音。風の音。
 星の光。月の光。
 彼女の歌声は心というものに響く。──そう思いながらディリータは目を瞑った。
星の夜に空を見上げてみれば
散りばめられた色とりどりの数多の星々
儚さに見入られながら彼らのために私は弦を爪弾こう
慰めとなりますようにと歌おう
さんざめく星の夜
私は空に手を伸ばし やがて消えていく

耳を澄ませば 星の声
夜の静けさに囁き 私に語りかける
羅針盤達

星はめぐり 月はめぐり 私もめぐる
私のことを知っていてと遠い星たちに歌おう
私はここにいるよともう会えない人たちに歌おう

月に誘われ 星に導かれ 風に吹かれ
長い年月をそうして暮らしてきた私たちの
生きているあかしをともに歌おう──
 歌声と竪琴の和音が空に消えていく。その消えていく先を思い、ディリータはほうと息をついた。
 すべての余韻が消え、少女がゆっくりと竪琴を下ろす。ふと目が合い、二人はどちらともなく笑った。
 やがて何を思い出したのか、少女は竪琴の一箇所に手を滑らせた。竪琴の天辺に近いそこを覆っていた細工入りの木板が音もなく外れ、中から小さな紙片が転がり出る。その小さな紙きれを落ちぬように取ると、彼女はそれをディリータに差し出した。
 受け取り、予感とともに開く。それでもやはり手は震えた。
 懐かしい筆跡で綴られた字。──手紙の主は「彼女」だった。