Salute 2

第五章 藍方石

 草原の合間に小さな村。少し離れたところに風車。
 点在するそれらを眺め行き、陽も傾きかけた頃に見かけた村へと竜を向ける。
 村や街には必ずあるという竜繋ぎの店に竜を預け、宿を探す。
 手足の汚れを落としたら酒場へ。
 初めは慣れなかった調味料や香辛料の味付けも馴染んでしまえば、どれも温かく美味いもの。
 朗らかでさっぱりとした人々が集い、酒を酌み交わす。無論、連れの少女の歌には皆喜び、しまいには一緒に歌いだした。
 よく干された掛布を何枚も掛けて眠る。そして朝。
 再び竜は舞い上がり、見る間に村は小さくなっていく。
 時折休みながら竜は南へ、南へ。

 
「着いたねーっ」
 晴れた空と揃いの笑顔で歓声を上げたセレスタを一度見やり、ディリータはこの都で最も高い尖塔──王城の塔を見上げた。
 尖塔は都の、城の象徴。晩秋……もはや初冬の薄い陽光を浴びて尖塔は淡く輝いている。
「これは綺麗だ」
 並んだラムザも感動したのか、ほうと長い溜息をついた。きらきらと優しく輝く様子が眩しいのか、少し目を細めている。
 シルフィの王都、ファミナ。幻想でも空想でもない富める国の、その王都の入口ともいえる通りに彼らは立っていた。
 港からこの王都まで僅か三日で運んでくれた竜達は既に近くの店に置いてきた。故に三人ともそれぞれに小さな荷を持ち、通りに出たのだが。
 懐かしそうに尖塔を見る少女が背筋を伸ばすように思いきり伸びをし、それから脱力する。さすがに疲れたのかとディリータは他方を見やったが、彼女に疲れの色はまったく見えなかった。
「竜の旅は癖になるね。何といってもあっという間だし、爽快だし……歩く旅も悪くないけれど、これに慣れると後が大変だな」
「もうちょっと早い時期だったらね、本当に歩いてもいいんだけど。シルフィは村が小さいし、離れたところにぽつんぽつん、て感じだから冬になっちゃうと難儀するの。──ね、やっぱり竜で来た方が良かったでしょう?」
 ラムザと会話をしていたセレスタが急に振り返り、問いかける。その笑みにどこか凄みを感じ、気圧されたディリータはとりあえず曖昧に頷いてみせた。
 補うべくラムザが少女に声をかける。「楽しかったよ」と手袋を取った片手を差し出し、少女もそれに応えて握手を交わした。それに倣い、ディリータも同じように片手を差し出す。
「楽しかった。礼を言う」
「……こちらこそ!」
 少女は両手でディリータの手を掴むと、めいっぱい握り、そして走り去った。

 
 都の外れとはいえ、通りには大勢の人が行き交っている。通りの左右にはやはりどこの都や街でも同じといった具合に旅支度の店がずらりと軒を並べている。もっとも、店構えは似ていても、売られているものの中には竜の装具や騎乗中の防寒具といった独特のものもあるから、すべてがすべて同じというわけではない。
 ディリータとラムザの二人は、どちらからともなく通りを歩き出していた。
 ファミナの構造についてディリータが記憶を元に語り、ラムザが相槌を打つ。城を中心に放射上に通りが伸びているため、王城はどの通りからもよく見えるのだと続けると、ラムザは笑った。
「便利だな。目印になる」
「迷うからな、お前は」
「そのとおり。それに……」
「シルフィに教会はないからな」
「そのとおり、だね」
 戦を前提とした城を作るため、故郷──畏国では城と街は離して造るのが基本だった。街の中心に大抵あったのは、人の心の寄る辺として存在していた教会だ。
 教会は──無論、グレバドスの教えなぞも──この国にはない。
「……まあ、お前の場合は教会であっても堂々と来るような奴だからな……。……ここでは自然の精霊に祈るから特段そういった祈祷の場もないし、あったとしても街の中心には置かん」
「なるほどね」
 少し早めの昼をとろうというのか、数人の男達が匙と皿を象った看板の店に入っていく。他方では、親子らしき二人連れが屋台の準備を始めていた。
 ディリータは再び尖塔を見上げた。尖塔と陽の重なり具合で時刻が分かる仕組みを持つこの都は、石畳に通りごとの時刻盤が埋められている。見渡してみると、数歩先にその盤はあった。
「これも面白い仕組みだな。途中の村や街でも珍しいものはたくさん見たけれど、技術的にもこの国はイヴァリースやオルダリーアよりもずっと発達しているね。そしてそれが行き渡っている」
「この国は風と生きる国だからな。……『風はただ心地よいというわけではなく、この地に生きる者に厳しさを与えている。だからこそ、長く穏やかで在るようにと土地を愛し、知恵を身につける』のだと……前にそう聞いたことがある」
 ラムザの言を受け、ディリータはそう語った。かつてこの国を訪れた折に聞いたシルフィ王の言葉は、忘れたことはない。
 ──あの頃は、もう来ることなどないと思っていたが。
 水の匂いがしない風に身を任せることも、空に近いところに佇むことももうないと、そう感じていたが。
 再び竜に乗り、こうして王都までやって来た。王冠は外し、隣には旧い友がいる。それこそ、隣に並んで旅をすることなどもうけしてないと……そんな未来があるなどあり得ないと、そう思っていた友がいる。
 ──不思議なものだ。本当に。
 通りと交差する幾本目かの路を渡ってさらに進んでいくと、やがて通りの並びから看板が減り、人の行き交いも緩やかなものになっていく。どうやら住宅街に入ったらしい。
 人と荷車の路を分けるために据えられた石に座り、老人が煙草をくゆらせている。見上げれば、風が吹いても落ちぬようしっかりと窓枠に固定された鉢に冬花が咲いていた。
「さて、と……。じゃあ僕もそろそろ行くか」
「……。ここでもやるのか?」
「勿論」
 ふと立ち止まったラムザの宣言に、ディリータは半ば諦念めいた口調で返した。
 一体いつ言い出すのかと、思いもしていたが……。
 旅の道中、立ち寄った街や村を「探検」することがこの友の何よりの楽しみだった。知っている街や村ならいざ知らず、まったく足を踏み入れたことのないところでも地図なしで歩き回ろうとする。地図があると余計に迷うから、とは彼の言だ。
 昔はそれほど物見高い方でもなかったはずだが、と以前呟いたときには「世の中を知らなかったからね」と返された。ベオルブの名を捨て畏国を駆け巡っているうちに、街中の細い路地にこそ情報が詰まっていると気付いたのだと……故に、「探検」して歩くのが癖のようにも義務のようにもなっていたのだと、彼はそうもっともらしく続けたのだが、今となっては癖でもなく義務でもなく、ただ趣味であり習慣なのだとディリータは解釈した。
 ディリータとて立ち寄った村などを歩き見ることはけして嫌いではない。……だが、ラムザがする「探検」のように細い路地に唐突に入ったり、怪しい店を目指して突き進んだり、直感のみで歩いた結果行き止まりになって塀をよじ登ったり、自身の状況も鑑みず教会に足を踏み入れたり──これは少しく違うかもしれないが──ともかくそこまでするかというと……さすがにそれは疲れを覚える。
 初めのうちは「探検」に付き合ったディリータだったが、やがて顎を出した。付き合いきれなくなった、とそうして言うと、ラムザはあっさり「ひとりの方が身軽だからね。じゃあ後で宿で会おう」と笑って手を振りながら歩き出した……。
 ラムザはまったく言葉の分からないこのシルフィの街や村でも同じように歩き回っていた。だが、そのいずれもがこじんまりとしたものだったが故にディリータは特に何も言わなかったし、彼もまた、賑わっている路地を一往復する程度で「探検」を終わらせていた。
 しかし、このファミナは異国の者が「探検」するには巨大過ぎる。
「大丈夫だと思うよ。少し見たところだと入り組んでる路もあるようだけど、角の家には通りの名前も入ってるし。ま、読めないけどね。君が心配してくれるのは嬉しいけど……そうだな、それじゃあそこの酒場に三刻後。それでどうかな?」
「あそこの酒場……」
 ぐるりと見渡したラムザが一方を指差す。住宅街と都の中心街の境──看板が通りに出始めることで区別がつく──まで既に歩いてきたらしく、店の看板には酒器と麦の穂と酒器から流れ出るように星が幾つか描かれていた。
 扉の上に大きく書かれた店の名は「ラクタ・ボージョ」と読める。教えると、ラムザは呪文を詠唱するようにその言葉を口に馴染ませた。
「ラクタ・ボージョ、ラクタ・ボージョ……。この通りの名前は何というのだっけ?」
「……ヴェント通りだ。三刻後に辿り着けなかったら、とにかく通りの名前と店の名前を組み合わせて通りすがりの誰かに連れて来て貰え」
「諦めたね、ディリータ。いいよ、了解」
 ヴェント通りのラクタ・ボージョ、とラムザは看板を見上げて笑いながら呟き、そうしていつものように手をひらひらと振ってひとりで歩き出した。
 歩いていた通りと直角に交差する路地へとラムザが歩いていく。ディリータはその後ろ姿をしばらく見送ったが、曲がりくねった路地が友の姿を隠してしまうと深々と溜息をついた。
「……酒場ではなく、宿にすれば良かったか」
 そうすればもしラムザが一晩中迷いっぱなしになっても、自分は気にせず眠りに就ける。下手な剣士や魔術師より凄腕で、並の元国王より余程要領の良い者の心配など、するだけ無駄だ。
 しかし、もはや決まったものは変えられない道理で。
「とりあえずは腹ごしらえだな……」
 空虚な気分だと訴える胃袋を満たすべく、ひとりになったディリータは「ラクタ・ボージョ」の扉を開けたのだった。

 現れた異国人に「おや」とした表情をした店の主人に昼食を出してもらい、それを平らげて小銭で支払って店を出ると、陽は前に見たときより半刻ほど進んでいた。
 再び通りを歩き出す。今夜の宿を求めるべきかと頭の隅で考えているため、畢竟、目は通りに掛かる宿屋の看板を探す。
 だが──。
 現実的な悩みの他方には、ふたつの思考すべき題目があった。
 ひとつは、とディリータは考える。常ならばどこかに凭れてでもしてゆっくりと思案するのだが、と思いながらしかし足は止まらない。
 シルフィ王に会うべきか、否か。……ここまで来て何をとも思うが、ここに行き着くまで結論が出なかったというのが本当のところだ。否、常に結論を先送りにしていたという方が正しいだろう。
 会いたいという素直な気持ちはある。以前訪問した際、遠国の王に対してシルフィ王は政務の合間を縫って様々なものを見せ、話してくれた。飾らない態度と穏やかな笑み、そして細やかな心遣いは彼の言葉同様、今もけして忘れることはない。故郷から遠く離れた国で受けた優しさに当時の自分は確かに戸惑ったけれども、その実は有難かったのだ。
 王の健在は立ち寄った何れの村や街でも聞こえたし、事実、出発前まで畏国にも暗報は入っていない。……だが、何も王都に着いたばかりの今日でなくとも、とも思う。
 否、別の日であったとしても、だ。
 王でない自分が城に行ったとして、果たしてシルフィ王は面会を許すだろうかと考え──、馬鹿な考えだとディリータは過ぎった思考を破り捨てた。
 正式な謁見手順さえ踏めば、あのシルフィ王は応じるだろう。多少日数は要するかもしれないが、別に先を急ぐ旅ではない。翼竜を使って辿り着いた分、旅程は余っているほどだ。
 そして。少しディリータは笑う。
 王位を捨て野に下った自分を卑屈めいて考えることなど、ありはしない……。
 シルフィ王の前で、自分はまったくの旅人として在ればいい。求められれば今の畏国の状況を話したりもするが──先日スィークが運んできた文には、国や周囲の人間の近況が三人の手によって縷々細かに綴られていた──、国のために何かを求めに来たわけでもなければ、前王として振る舞いに来たわけでもない。会う、会って幾らかの話をする、ただそれだけだ。
 寝台を象った鉄枠の看板が目に止まる。宿屋の印であるその建物に入り、短いやり取りで手続きを済ませてしまうと、ディリータは再び歩き出した。
 少しずつ城は近付いて来る。そうではない、自分が城へ向かって歩いているのだ。
 城の門を守る衛士達は、謁見に申し出る者達の受付も行っている。いまだ陽も高く、待ち合わせの時間には程遠く、他にすべきこともない。それならば、とディリータは城へ向かうことにした。
 城はその仔細が窺えようかというほどにまで近くに見えている。輝きを放っていた尖塔の石造りの其処彼処で虹色めいた色が煌いている。石そのものが複雑な色模様を持っているため、そのように見えるらしい。
 王都ファミナの王城は慎ましく、けして華美なものではない。威圧感も感じなければ、荘厳といったような言葉も当てはまらない。王の居城として適度な機能は備えているが、よその国の王城と比べると華奢で素朴な部類となるだろう。
 シルフィの民は、それ故にこの城を愛し、王を愛し、国を愛するのだという。言い方は違えど、道中の酒場でそのように話を聞かせてもらったのは一度や二度ではなかった。
 王城前の広場は民に開放され、決められた日には市が立って賑わう。件の衛士達ものんびりと行き交う街の人々と挨拶を交わしたり、世間話に興じたりもしていた。初めて見たときにはにわかに驚いたディリータだったが、それがシルフィのごく普通の光景なのだと広場をともに歩いたシルフィ王ルフィルは語っていた。
 民が王に抱く感情は、親しみ。そして畏敬。
 王が民に抱く感情は、親しみ。そして感謝。
 両者が友であり、仲間であることを見守るのが翼竜の使命。
 通りに居並ぶ店の多くは大きな出窓を持ち、そこに店で扱う品々を並べている。茶器や花瓶といった硝子細工の店、時計盤を製作するらしい工房、なめした皮で作られたと思しき丈夫そうな靴を置く店、淡い色合いの織物を飾っている店、銀細工の店に装飾品や宝石といった類を扱う店……どうやらこの通りは職人街となっているようだった。
 その中のひとつ、とある店の前でディリータはふと足を止めた。
「……」
 店の出窓には、幾つかの楽器が並べられていた。吟遊詩人が持つような弦琴もあれば、それを大幅に変形させた不可思議な楽器もある。隅の方には横笛や葦笛などもあったが、少女が持っていたあの竪琴は見かけなかった。
 もうひとつは、とそうしてディリータは考える。……それは、あの少女についてだ。
 眺めている男をどう思ったか、出窓の埃を落としていた店の主らしい人物と窓越しに目が合う。「用かい?」と人懐っこい目で語る彼に、後手で手を振ってディリータは離れた。
 王都に辿り着くなり、走り去った少女セレスタ。ラムザと違って、彼女との付き合いはあれで終わりとなるだろう。この広い都で偶然行き会うこともないかぎり、彼女と会うことはもうない。あるいは、探したりしなければ。
 いつか終わると思っていた少女との旅だったが、これほど唐突に終わるとは思っていなかったと、今更ながらにディリータは思う。故にか、彼女がいなくなって落ち着いたという想いの隅には妙な空虚感が存在していた。
 呆気なく去った少女には、訊きたいこともあった。訊くべきか否か、結論を先に送っている間にシルフィの旅は終わってしまった。今はまだその時ではないと自身に言い聞かせていたのかもしれない。単に臆病だったのかもしれないし、疑問は疑問のままで良いとかつての自分が囁いたのかもしれない。
 胸に転がり込んだ問い。予感にも願いにも似た推測。
 星月夜の歌と白書の一節。どこか似ていたふたつの印象。
 ──星はめぐり 月はめぐり 私もめぐる
 ──私のことを知っていてと遠い星たちに歌おう
 ──私はここにいるよともう会えない人たちに歌おう
 最後にもう一度歌った彼女のおかげで耳に残った旋律をそっと転がしてみる。
 彼女が歌った星月夜の歌。彼女が忘れ、そうして何者かと詞を新しく継ぎ足してできた星と月の歌。海向こう──イヴァリースの言葉でも歌うことのできる歌。
 今では諳んじることすらできる一節。公には既に失われた「白書」の冒頭に記された、三つの問いかけ。
 ──人間は何に幸福を見いだすのだろうか?
 ──何のために今を生きるのだろうか?
 ──そして、何を残せるだろうか……?
 果たして彼女は……少女は、己が知る者を知っているのか。「彼女達」のためにこそ、少女はあの歌を歌い、抜け落ちた記憶を埋めるべく詞を継ぎ足したのか。
 過ぎったまま消えなかった「彼女達」の足跡を知る手がかりと少女はなるのだろうか。いっそ知らなければそれで良しだが、もし知っていた場合……そのとき自分はどうすべきか。思考は続く。
 旧い知り合いである「彼女」と、その息子。「彼女」と己が殺した白書の書き手の間に生まれた子。
「……」
 その子に会うことになれば。……否、会うことが叶うならば。
 それは、ひとつの契機。
 ディリータは数月前の記憶を掘り起こしていた。そう、あれはルザリアの城の隠れ小部屋に初めて他者を入れた日のことだ。
 己の退位と後継者について、ディリータはそこでオリナスに話した。唐突な宣言にオリナスは呆然と困惑のない交ぜになった顔でディリータを凝視したが、やがて事情を呑み込むと彼なりに腹を据えたのか、瞳には強い意志が浮かんだ。
 国を束ねる者として、どれほどのものなのか。そうして「守る者」となれるか、否か──。己が出した命題をオリナスは片時も忘れることはなかったらしい。あの日──初めて面会した十年ほど前──の仔細は述懐色に染まろうとも、これだけはいつも胸の中に在ったのだと彼は言った。
 守るべきものは、一度壊れかけた国。
 守るべきものは、民。民こそが豊穣に潤うことを。
 そして。
 隠れ小部屋に置いてあった一冊の書をディリータはオリナスに託した。表紙をめくり、驚愕に染まった瞳の色がやがて理解へと変わっていく。
 クレメンス公会議でオーラン・デュライの為した書。世俗の腕として己が断罪した彼のこの書こそ、その中にある記述こそが真実なのだと、ディリータはオリナスに確かに語った。確かに、認めた。
 ……あの占星術士はそこまで考えていなかったのかもしれない。発表したという史実が残れば後は未来に託せるとそう思い為し、それこそを狙い、書が灰と化すことなど正確に予測していただろう。無論、己の身の行く先についても……彼自身の未来は潰えるのだということについても。
 だが、書は残った。否、残した。
 書は、壊れかけた国には無意味なもの。だが、やがて訪れる未来には──今を生きるすべての者が時の前に沈黙したときには──この書こそが生きる。真実を知る者は去り、隠された書の前には残った者。真実を知る者がすべて死に絶えたとしても、この書が生き残るように。
 だからこそ。そう。
 ──いつか己が断罪される日が来るように。
 利を優先し、真実を為した者を見殺しにしたのは、消えぬ己が罪。
 地位や野心に固執し、闇に走った者を見限ったのは……。
 どれだけ国を立て直そうと、民を潤そうと、それはけして消えることはない。そして、冠を下ろしたとて忘れることはけしてない。
 守るべきは、事実と真実。
 やがて意を決めたオリナスが両手に書を大事そうに抱き、自分を見やった。童顔に浮かぶ決意にディリータは心のどこかが少しずつ解けていくのを感じていた。
 いつか、書は開かれる時が来るだろう。望む者の手によって。
 傷つき、荒れ果てた野が在ったことを人々が忘れようとも。
 国が闇に覆われぬよう手を尽くすのが残された者の役目と、誓った者の名は消え去ろうとも。
 ──それよりも大切なものがある。己にも、そして守り手となる彼……オリナスにも。他者のために高みを目指したわけではなかった。
 闇の中で誓ったオリナスにディリータは「頼む」と呟くように言った。それですべてを理解したのだろう、次代の守り手は己が差し出した手を握り、何度も頷いた。
 ……そんなやり取りの後、オリナスは書を抱えたまま長年の疑問であったらしい言葉を口に発した。
 曰く、玉座を得る者として己を──亡命した前王朝の王子を──傍に置いたのは何故かと。
 それは抱いて当然の疑問だった。そして、答は既にディリータの中に在った。
 己が定めし二人の子。──己を殺す権利のある二人の子の、オリナスはそのひとりだった。それ故に、守り手として彼が己の前に現れたのは、まさしく僥倖であり試練であり賭けでもあった。定めし二人の子の、その片方に次代を託し得るということはそういうことだった。
 そうして、他方は。異端者として己が焼いたオーラン・デュライの息子は。
 シルフィに移り住んだはずの彼らのその後をディリータは掴んでいなかった。把握しておく必要もなかったし、また、万一通じていると教会に探られようものなら双方にとって危ういことになる。故に、かつて訪れた際も探すような真似はしなかった。
 もし無事に育っているならば、子供は青年の域に差し掛かる頃だろうか。頭の中で年齢を足し引きしてみると、やはりその数字は二十と少しとなった。
 会うことが叶うならば。……その先はどうなるのか、推測の中の未来を読むことはできなかった。
 憎悪の念でぶつかってくるならば、己は甘んじてそれを受けよう。むしろそれこそを願っているのかもしれない。己は既に只人であり、仇として殺されるには何の支障もない。
 国は己の手を離れ、書も未来に向けて長い眠りに就き始めた。そう、すべての支度が整ったからこそ己は王位を下りたのだから。
 ……こんな考えをラムザあたりが聞いたら顔を顰めるかもしれないが。
 だが、そういうことだ。ディリータは思う。ベスラで親子を引き離し、公会議で教会の世俗の腕となった時から──無論、他にも多くあるが──己は罪を背負った。故にこそ、己が定めし二人の子への覚悟はある。
 贖罪などではなく、断罪への覚悟。
 許しを請うことはできない。そのようなことをしたとて、誰も救われたりはしない。己も同じだ。許される気などない。
 だが。だからこそ。
 通りが途切れ、広場が目の前に広がる。穏やかな昼下がりの陽光を楽しもうと、多くの者が据えられた石席に座ったり、芝生に寝転んだりしながら寛いでいる。その光景にディリータは細く目を眇めた。
 だからこそ──そう、もし再び会えたならば。少女にも。「彼女達」にも。
 ふたつめの思考にも終止符を打ち、ディリータは広場を横切ると衛士の詰所へと向かった。朝には多くの謁見希望者で行列ができるほどの詰所だが、今は閑散としている。
 暇そうにしていた衛士に声をかけ、用紙を受け取る。名前と出身、目的、希望日時を書き込む欄がある簡素な紙切れに目を通していると、頭上から衛士の声が降ってきた。
「何かこちらで確認できる印のようなものはありますか? 紋章や徽章、それから王より贈られたものなどあれば拝見させていただきます。それと、王への意見書などがあればあわせて」
 印があるからといって特に面会日時が優先されるわけではないが参考までに、と衛士は人懐こい笑みを浮かべて続けた。口慣れたその科白を彼は毎日何十回も言っているのだろう。
 衛士の言葉に、ディリータは手にしていた紙片を受付台へ置くと、懐を探った。手袋をはめた指が硬い何かに当たり、透き通った音を小さく立てる。
 懐から取り出すと、ディリータは握った拳を緩く開いた。
 手の中にあるのは、革紐で括ったふたつの石。
 ひとつは、遥か昔、己が野心を満たすべく神殿騎士団に潜入した折に──神殿騎士として叙任された折に──守り石として授かった星青玉。古より「運命を物語る石」と呼ばれるこの石は、青の中に放射状に白い筋が入っている。そのさまを星に準えて星青玉という名が付いたのだろう。
 そしてもうひとつは、蒼穹にも碧海にも例えられる青く透き通った石。幼子の爪ほどの藍方石は、シルフィ王からかつて自分に「友情の印」として贈られたものだった。
 ──ならば、それを。
 革紐からは外さずに、ディリータは藍方石をよく見えるように受付台に置いた。使い込まれた木製の台にふたつの青い石がころんと転がる。
「ありがとうございま──」
 衛士は石を凝視し、次いでディリータを凝視した。先刻までののほほんとした雰囲気をにわかに変え、彼は背後を振り返ると同僚に声をかけた。
 同じように新しくやって来た衛士も石を凝視し、何かを考え込むかのように天井を見上げ、次いでディリータを凝視した。そうしてまた石を凝視し、やがて二番目の彼はディリータが再び手にしていようとしていた紙を掠め取った。
 衛士は顔を見合わせ、頷きあう。次の瞬間、彼らは呆気にとられているディリータに略式の敬礼を揃ってとった。
「結構です。──お待ちしていました、ディリータ・ハイラル様」