Salute 2

第四章 風花

風は目に見えない
それは仕方がないけれど
大きな風車の羽根を回すから
風は確かにそこにある

時も目には見えない
それは仕方がないけれど
それでも確かに流れていくと知っているから
人は未来に何かを残そうとする

続いていくと知っているから
伝える何かを求め そして繋いでいく
 街はもう見えない。振り返って目を凝らしてみても、船や港、海も草原の向こうに消えていた。
 かわりに眼下に広がるのは草原。見渡すかぎり続く草原はところどころで大きな丘になり、それが幾重にも重なって妙なる色合いをみせている。
 空の高みにも慣れ、ラムザは翼竜から身を乗り出すようにして光景を眺め始めていた。無論、両手はしっかりと鞍を掴んでいる。
 吹く風に上手に乗って竜は飛んでいるから、全身にあたる風は思ったよりも強くない。時折薄い雲に陰る陽の光も暖かく、至って快適な空の旅だ。
 同乗した少女も後はもう竜に任せたといった風情で、前の鞍で思うままに歌を歌っている。その柔らかく伸びやかな声は風景と同じように後ろへ後ろへと流れて掻き消えていくが、少女はそんなことはお構いなしという風に楽しそうに歌う。
 竜がその歌にあわせるように翼を動かすのが、また面白い。竜の耳にも聞き覚えのあるくらい有名な歌なのか、それとも少女の歌につられてか……歌としなやかな翼の動きはよく合っていた。
 瞬く間に流れていく歌の詞にラムザは何度か耳をすませたが、ラムザは意味を掴み取ることはできなかった。何と言っているのだろうとそうして首を傾げ、それから彼女から以前聞いた話を思い出し納得した。
 少女はシルフィに住まう者だと。シルフィの民なのだと。
 この歌はおそらくシルフィの歌なのだ。どのような歌かはそれこそ言葉が分からないから分からないが、故に竜は分かって自分は分からない。ただそれだけのことだ。
 オルダリーアからシルフィへ向かう船で乗り合わせた少女セレスタは、船の酒場ではもっぱらオルダリーアの歌を歌っていた。時折イヴァリースの歌も歌う彼女に自分も友人も少しく驚きはしたし、また、その場に居合わせた多くのオルダリーアの者達もやんやの喝采を贈っていた。そうして、多くの者はこの少女が吟遊詩人にはなれぬことを残念がったし──吟遊詩人の担い手は男と相場が決まっている──、流暢に鴎国語を話す彼女は鴎国あるいは畏国の民なのだろうと殆どの者は思い込んでいたはずだ。
 だが、シルフィの港シェイスが見えてきた時。
 ──懐かしの故郷シルフィに帰ってきたよー!
 甲板の縁から身を乗り出して彼女は歓喜し、下船準備に船室に降りようとするディリータの両手を掴んで(ディリータを巻き込むようにして)踊っていた。その時のディリータの仏頂面といったら……即座に土産話に決まりだなと思ったわけなのだが。
 彼女はシルフィの民。流暢に海向こうの言葉を話していたけれど、彼女の心は風吹く国で育った。
 そうして当たり前にシルフィの言葉を話し、竜に装具を取り付け、竜を操る。地図は軽く見ただけで後は頭に入っているのだろう、旅慣れた顔で。
 彼女はシルフィの民。……だが、彼女の年で多くの知識を得、供もつけずに旅をし、自在に操れる竜──友は気付いていたか分からないが、彼女を見て店にいた竜は「主人を待っていた」というような顔で彼女を見た──を持ち、物怖じもしないある種天真爛漫、ある種豪胆な性格というのは……庶民の環境で育てられて得られるものかというと、そうではないようにラムザには思える。
 もっとも、シルフィは富める国だという。イヴァリースやオルダリーアよりもずっと豊かに人々が暮らしているのなら、あるいはそれもあり得ない話ではないが……。
 ラムザは違う歌を歌い始めたセレスタの背を見た。いつもの服装に若草色の外套を着込んだその上に、両のお下げが綿花のようにぽんぽんと跳ねている。
 次に、少し離れたところで竜を操っているディリータをラムザは見やった。彼はかつて王としてこの国を訪れ、そのときに言葉を学び、竜の操り方を知った。
 彼は今この光景をどう捉えているだろう。内心では少女と同じように懐かしさに弾んだりもしているのだろうか。まあ、大方はゆっくりと風景を眺めながらかつての記憶を呼び起こすかどうか迷いながら、結局は抗う気持ちを諦めて懐かしいと感じ入っているのだろうけれども。
 そして、離れた国を考えるのかもしれない。王ではなく、一介の畏国の民として。
「それはいいことだけどね……。……ところで」
 誰も聞かぬ独り言を口にし、ラムザはちょうど歌い終えた少女の背に語りかけた。ちゃんと聞こえたのだろう、セレスタは「何?」と無邪気に振り返ってきた。
 手綱を器用にまとめた片手だけで鞍を掴んでいる。見たところディリータも両手で手綱を持ち、無論自分もまだ鞍から手を離せないでいるから……やはりセレスタはかなり竜に乗り込んでいるのだろう。
「ラムザさん?」
「ああ、ごめん。セレスタの竜の操り方に見とれていたんだ。──セレスタ。君、昔ディリータに会ったことがあるだろう?」
 間をおかずラムザはそう切り出した。
「──」
 ラムザの褒め言葉に笑おうとしたセレスタの表情がそのまま固まる。固まったまま、彼女のお下げ髪だけが緩やかな風に靡く。
 やがて少女はゆっくり瞬きを数度すると、息を呑んだ。じっとラムザを見つめ、やがて小さく訊ねた。
「……どうして分かったの?」
 肯定を踏まえた疑問。
 にっこりと少女に笑いかけ、ラムザは「勘かな」とおどけた。実際、本当に勘以外の何物でもない。……ただ、その勘を信じてじっくりと周囲を見回してみると、見えてくる事象が色々出てくることがある。それだけだ。
 様々な教養を持つ少女。
 昔この地を訪れた友。
「僕のことはすぐに「ラムザさん」って呼んでくれたけど、ディリータのことは同じように呼ぶのに今でも苦労しているようだからね。ディリータはたぶん「友達扱いされている」と、まあ辟易しながらも誤解しているんだろう。……君のことはまだ気付いてもいないし、思い出していないんだよ。それか、覚えていないか」
 たぶん後者だろう。ラムザは続けなかったが、少女には分かったようだった。無言のまま、続きを、と促す。
「彼が君を覚えていないのは、勿論君のせいじゃない。それは……彼が前にシルフィを訪れた時分が、最も王として重責を担っていた頃だからだ。当時、彼は国のことで頭がいっぱいで、戦争で荒れ果ててしまった国をどうしようか、どうしたら守れるのか、そればかり考えていた。……それよりも前、僕らの国は二つの勢力が内乱を起こした。それは、もうどうしようもない状態までいきそうになって、でも、なんとか収まった。収めたのは、彼だ」
 話をすればするほど長くなりそうで、ラムザはそこで一旦区切った。セレスタはもう一度ゆっくり瞬きをし、真顔でラムザを見据えた。
「あなたもですね」
 今度はラムザが目を瞠る番だった。
「よく知ってるね。僕は大したことはしていないけど」
「昔お世話になった人に教えてもらいました」
 ただ短く話す少女にラムザは「そうか」と頷く。少女も頷き、二人は顔を見合わせて笑った。
 きっと少女は自分や友が思っているよりも本当に多くのことを知っているのだろう。それらを──自国の知恵も異国の歴史や事実までも──抱え、智慧に昇華し、今にあるのだろう。故にこれ以上「昔話」を語る必要はない。
 語るべきは、彼女自身の「昔」に纏わる事柄。
「彼は、その答になるものがないかと海まで渡ったんだ。もうそのときにはだいぶ国も落ち着いてきて……でも落ち着いただけだった。こんな風に靡く草原も麦畑も……イヴァリースにも少しはあったけれど、殆どが酷い有様だった。王権が落ち着かないと天気まで落ち着かないのか、と誰かが言っていたけれど、天気が良くて作物がとれても、王の目を盗んで勝手に税の徴収があちらこちらで跳ね上がっていたのでは意味がないよね。……まあ、彼がこの国に来た理由はもうここらで置こう。君はディリータのことを何て呼んだんだい?」
「ディリータ陛下、とそうお呼びするように教わりました。……教わったの、でもいいのかな?」
「それでいいと思うよ。城でもね」
 そう言って片目を瞑ってみせると、セレスタは道化て大きく頷いた。そうして今度は彼女が少し遠い視線になって続ける。
「シルフィの王、ルフィル陛下が私達にとっては「陛下」だから、他の国の王様も「陛下」ではお二人がお困りになる、と侍従長が皆を集めてそう教えてくれたんです。だからイヴァリースの国王陛下には「ディリータ陛下」とお呼びしなさい、と。……城にいた者達の多くは他国のお客様の訪問に慣れっこだったけど、私は城に来てまだ間もなかったから慣れなくて、何度も練習したかな……」
 敬語が入り混じるのは城に関することになると無意識にそうなってしまうからだろう。苦労しながら常のくだけた言葉遣いに戻そうとするセレスタは案外不器用で可愛かった。
 ──ディリータ陛下。ようこそいらっしゃいました。
 かけることができるとすればただそれだけの言葉。本当に、ただそれだけだけれども。
「でも練習した甲斐あって、実際ディリータ陛下……当時、がいらっしゃったときにはちゃんと言えたの。顔を上げてにっこり笑って言えたし、……まあ、それに応えてももらえた。少し驚いたような顔で、素気なく片手を挙げてね」
 その光景は容易に思い浮かべられる。あくまで素気なさを気取るのが、否、気取ってしまうのがディリータというものだ。
 怜悧に見えるディリータの本質が激情型であり不器用であることを知るには、少なからずの付き合いを要する。仮面の上の怜悧に引き寄せられても、それだけでは彼を知ったことにはならない。──もっとも、今となってはその仮面も王冠と共になく、怜悧を通り越した冷酷さはすっかり影を潜めた。
 降り積もった歳月で、彼は少しずつ変わった。歳月が、そして周囲が彼を変えたのだろう。少しずつ、少しずつ。
 アグリアスの昔馴染から──先の女王の近衛騎士を経て彼の側近になったのらしい──時折来る文には、大抵彼のことが綴られてあった。短い文章ではあったが、それを読むたびに彼の置かれている立場や彼が目指すものに思いを馳せたりもした。苦労性だと溜息をついたこともあった。
 ……いずれにせよ、そうして今がある。
「思い出してほしいわけじゃない。通りすがりだったから、覚えてないに決まってるし、そんなことに期待はしてないの」
 振り切るような強さと明るさで少女が言う。シルフィの乾いた風のようなさっぱりとした物言いだ。
「でもなんだかやっぱり実際に再会してみると、うっかり陛下って付けちゃいそうになるし、話し込んでみれば「さん」付けが消えそうになるし……あんなに話しやすい人だと思わなかったし」
「なるほどね」
 ラムザは笑った。結局、セレスタにとっては(過去のやり取りはどうであれ)今のディリータは「友達扱い」なのだ。ディリータの考えのそのままで良かったらしい。
 風の向きが少し変わる。元の姿勢に戻り、竜を細かく操る少女の背にラムザはもうひとつ問いかけた。
「それで、シルフィの国王から君は使いとして出されたのかい? 僕はともかく……、そう、ディリータを出迎えるために」
 それならば半ば強引にこれらの竜に乗せたのも、「何処にでも着いていく」と言いながら行き先を王都に定めてしまったのも納得がいく。
 だが、セレスタはラムザの言葉に、遠くに見える山脈を見ながらしばし考え込んだ。そうして今度は頭だけ振り返り、「そうじゃないわ」と否定した。
「いつか会いたいと思っていたのは本当。でも……そうだな、「ありがとう」っていつか言うために、今は一緒に旅してる」
 晴れ渡った空と山をどこか遠いまなざしで見たまま、呟くように少女はそう言った。