Salute 2

第一章 シルフィ

 みゃあみゃあ、という鳴き声が港いっぱいに響いている。
 船を振り返るついでに見上げてみると、積荷に何を期待したのか、空にはたくさんの海鳥が飛んでいる。その、青い空に白い帆──自分たちが乗っていた船の帆だ──と鳥が映えるさまはとても綺麗だった。
 さて、とひとつ伸びをすると、ラムザは旅の同行者を探した。──探そうとしたのだが、しかし、探すはずの視線はつい横に逸れ、港に溢れる目に新しいものへと向かってしまう。
 見慣れぬ文字。反対に、見知っている文字。古い木箱に書かれているそれらは、海を行き来している交易品だ。
 馴染みのない香辛料の匂い。
 一風変わった(彼らから見れば自分達こそが変わっているのだろうけれども)服装の男女。
 ……そういえば、こちらの国では自分の言葉が通じるのだろうか? ふと気付き、ラムザは首を捻った。
 視線を渡らせる途中で目が合ってしまった人達には愛想笑いと手を振ることで対応しながら、もう一度ゆっくりと眺めてみる。
 字がまったく違うのだから、話す言葉も違うだろう。ということは、だ。
 そこでラムザははた、と動きを止めた。
 ──それはまずいんじゃないか?
 読めない。書けない。話せない。通じない。ということは──。
「ラムザさん!」
 誰でも行き着く考えを遮るかのように飛びついてきた少女のおかげで、ラムザは我に返った。セレスタ、と彼女の名前を呼んで振り返ると、己の背を突き飛ばした姿勢のままの少女と目が合う。
 少女は少し怒った顔のままで笑うと、素早く一方を指した。
「あっちの方でディリータさん……言い難いなあ。待ってるよ。もうすっかりおかんむり」
「ああ、それはまずい」
 セレスタという名の少女が指し示した方向には、石造りの建物があった。おそらくディリータは船を下りた後、まっすぐあの建物──下船後の手続きなどを行う施設に違いない──に向かったのだろう。
 様々な事由と適材適所といったことから、手続きなどは自分ではなく、几帳面な連れがやることが今ではすっかり多くなった。その間に自分は周囲を見物してまわって、いつのまにか逸れ(さらにその後合流した際に心配性でもある連れからみっちりと叱られ)るというのがこの旅におけるお定まりだ。
 どうも今日も早々にやらかしてしまったらしい。しかも、初めて訪れた国で、大陸で。
 セレスタにそう言ってひょいと肩を竦めると、彼女も同じような所作でおどけ、くるりとその場で回ってみせた。
「大丈夫よ、この辺は分かりやすいし。看板だって絵入りだからラムザさんだって迷うことないし。よその国の港は割と物騒だったけど、シルフィの港はどこものんびりしてるから。──あ」
 何かに気付いたか、少女は途中で言葉を止めた。彼女の視線を追い、ラムザもまた苦笑する。
 ──焦れたか、建物の入口でディリータが盛大な顰め面をして立っていた。
 
 

 時がそうしてまた動き出す。
 時を経て生まれた新たな希みのために。
 
 久しぶり、とか元気だったか、とかそういった一連のやり取りの後に続くのは、平易な言葉。ぎこちないやり取りの後に思い出したのは、飾らない距離感。
 初めて、そうして隣に並んだ。
 
 並んで──、歩き出して。
 今、がある。
 

 冠を自ら棄てた彼と再会したのは──、否、待ち伏せしたのは、イヴァリースとオルダリーアの国境街でのことだった。国境の向こう側、イヴァリースから歩いてくる幼馴染を見つけたとき、何かが解けるように自然に笑みが浮かんだ。
 久しぶり、と声をかけ。そして、かけられ。
 共に旅に出た。
 オルダリーアの広大な大地。故国と同じように内乱で荒れた地には魔物も多く、背中合わせで剣を構えたこともあった。
 地図と磁石で方角を照らし合わせ、街に入れば見物をし、酒場で話し込んだりもした。
 過ぎていった時間はそのままに、だが、その上で話し込んでいる自分と彼がいるということは、とても不思議だった。
 失ったものと傷はそのままに、だが、それらもどこかでは互いに乗り越えているのだと、そうして知った。
 長い年月が過ぎている。時代は次へと移ろっている。いつかは自分達も過去になる。否、既になりつつある。
 酒瓶を傾ける彼の横顔は穏やかで、だが、その目は曇っていなかった。……曇っていたならばこんなふうに剣一本で旅に出るなど考え付きもしなかったろう。王冠と錫杖を死の床まで抱き、城の最奥でその日までの時を消しただろう。
 そうして自分だって、彼に付き合ったりはしなかっただろう。
 この時間は楽しく、懐かしく、そして少し切ない。──そう書いて手紙を鳥に運ばせると、それでいいではないかと返事が来た。
 不思議な、不思議な、何かを埋めるような旅。また、新しく知るような。
 ここまでは送ると言った港で、まだ終わりにはしたくないと、不意にそう思った。
 来るか?と変わらない口調で言った友に、頷く。
 彼は、笑った。
 

 海の向こうに行ったことはない。
 何故、と問われれば自分でも首を傾げるしかないのだが、今まではその機会がなかったというだけのことかもしれない。
 身を潜めるように故国の周辺を彷徨ったりはしたが、海を越えるとなると手続きだ何だと厄介事が発生する。かつて共に戦った男は恋人を探すために海をも越えたというが、それにはかなりの困難が発生したことだろう。
 だが、海を越えたいとは思っていた。何があるのか、いつかは知りたいと、そんなふうに。
 何かがあるのか。それとも、何もないのか。
 海の向こうの国へ、イヴァリースの王が訪問しに行ったとはどこかの酒場で聞いた。いつのことだろう、もう十数年も昔のことだろうか。
 何かを得たのか。それとも、何もないのか。
 船が出てしまってから行き先を聞くと、前にも海を越えたことのある友は短くひとつの国の名を教えてくれた。それは、かつてイヴァリースの王が──すなわち彼が、友が訪れた国だった。
 風が吹く国、シルフィ。風と共にある国、シルフィ。
 名前は自分も知っていた。諸国を歩く旅人の噂話を小耳に挟み、御伽噺の国のようだと思ったこともあった。そう、それ故に「畏国の王が海向こうの国を訪問した」と聞いたとき、この国のことだろうかと思いもしたのだ。
 富める国だと聞いた。
 吹く風は豊穣を呼び、不思議な巨鳥は国と民とに絶対の安寧を約束するのだと。
 そう返すと、彼は思い出すように宙を見上げた。そうして珍しいことにしばらく言い淀んだ後、小さく溜息をついた。
 ──俺もそうだったが……まあ、見た方が早いな。
 案外お前の方が順応するのが上手かもしれん。……何かを隠したような笑みとともにそう言われてしまえば、楽しみにするほかなかったのだが──。
 

 
 ラムザは目を丸くした。
「……一体いつの間に「これ」を用意したんだ? というより、どうして俺達がお前の連れになる必要がある?」
「あ、そんな風に言う? 大体今から用意したんじゃ一週間は待たなきゃならないわよ。褒めてほしいくらいなのに、そんな態度でそんな言葉しか来ないなんてちょっと酷いな」
「別に急いでいるわけではないし、「これ」がなくても旅はできる。王都まで……そう……、半月もあれば」
「半月後じゃ冬が来るよ。いくらシルフィが南だからってね、寒いものは寒いのよ? 雪も少しだけど降るし、風は強くなるし」
「……お前は俺を脅しているのか?」
「脅してなんかないわよ。シルフィに来たらこれを堪能しなきゃってせっかく用意した、ただの好意。あと、「これ」だったらたとえば王都まで数日で行けますよって、これもただの好意」
 延々と続くディリータとセレスタ──船で乗り合わせて以来いまやすっかり意気投合した少女だ──の言い合いを背に、ラムザは目の前の「これ」をただただ見上げていた。
 港から少し通りを歩いたところにあるというとある店にセレスタは二人を案内した。どうやら気を利かせて移動の足を先に確保してくれたらしい、のだが。
 「これ」が、ディリータの言っていた「見た方が早い」ものか。
 ……もしくは、「見た方が早い」ものその一、か。
 ラムザの目から見た場合の「それ」は、傍で続いている賑やかな言い争いを何とも思っていないのか、実にのどかに羽づくろいをしていた。
 「それ」は鳥のように見えた。それも、巨大な。
 あまりに巨大すぎて、「それ」を鳥と解していいかラムザは迷った。むしろ、故国にもいたドラゴン──竜に似ている。だが、それよりもずっと大きい。
 そして、ずっと円らな瞳をしていた。
「……ならば、俺達がお前と一緒に行動する理由は? 言っておくが、俺達は王都に行くだなんて一言も言っていない」
「理由? 面白そうだから。王都でもどこでも、面白そうだって思うかぎりは着いて行こうかなって」
「お前な……」
 分かっている。背後できっと友はがっくりと項垂れている。三回りも四回りも年が離れた少女に良いように言い負かされてしまっているのだ。打ちのめされていると言った方が良いかもしれない。
 だが、ラムザはディリータの手助けをしようとは思わなかった。面白そうだし、それよりもこの生き物に興味があった。
 そっと手を伸ばすと、生き物はことりと首を傾げた。そうしてラムザの目を見つめ、何かを訊ねてくる。
 悲しくも、寂しくもなく、ころんとした瞳。
 苦しみも、痛みもなく、優しい瞳。
「あ、ほら。竜も認めちゃった」
 ラムザが伸べた手にその生き物は頬をすり寄せてくる。意外に柔らかい羽毛で覆われたその頬を撫でていると、セレスタが嬉しそうに言った。
「やっぱり竜なんだ? 鳥のようにも見えたけど」
「鳥だって言う人もいるらしいね。でも、どっちでもいいの。シルフィの人達にとってはこの翼竜は「良き友」だから。それで十分」
 言い争いの敗者となったディリータを放り、セレスタもラムザと同じように翼竜を撫でた。竜に久々に触ることができて嬉しいのか、少女はしまいにはぎゅう、とその首筋に抱きついた。
 良き友。少女は一度シルフィの言葉で言い、それから二人にも分かるように──とりわけこの国の言葉がまるで分からないラムザに向けて──「良き友、ね」と言い直した。
 きっと、シルフィでは名詞となっている言葉なのだろう。
 そう思いながらラムザはふとディリータを見た。急に静かになったから本格的に落ち込んだのかと思ったら、そうではなかった。
 ディリータは遠いまなざしで、竜と一緒にきらきら笑う少女を見ている。だが、やがて自分の視線に気付いたらしい。こちらを見やると、「やれやれ」とでも言いたげに目を瞑ってみせた。
 その、ほんの一瞬の遠いまなざし。
「……?」
 翼竜と旅程を巡って再び懲りない言い合いを始めた二人の元へ、店の主だろう男が近寄ってくる。やはりラムザが分からないこの国の言葉で主が二人に話しかけ、そうして諦めた風情のディリータが交渉に入るのを見届けながら、ラムザは親友の遠い視線の理由に思いを巡らせていた。